第1章 王都脱出 ~その3~
「イゾルデさん、戦う必要はないですよ」
ワタルはイゾルデだけに聞こえるよう、小声で囁いた。
脱出方法については事前に伝えてある。
王宮にある巨大な鏡。
そこへ紋章を持つワタルと、ワタルの体に触れている者が飛び込めば、ティンタジェル城外のある場所に瞬間移動する仕組みとなっていた。
瞬間移動先を知らないのが残念だったが、そこは変な場所に出るようなヘマをバギンズがしないことを祈るしかない。
難点はユーフェミアがこのことを知らされていないという点だった。
はたして、初対面の人間の言う事を信じてくれるだろうか?
それが心配の種ではある。
「逃げ出す相談は終わったか」
ジークフリートの余裕から発せられた言葉に、ワタルはビクッと顔が強張った。
まさに逃げ出す算段を相談していたからだ。
「よく逃げ出すとわかったな」
ワタルは肩を竦め、おどけて応えつつも目顔でイゾルデに合図をだす。
2人は左右に別れ、ジークフリートを挟み込むべく回り込む。
「イゾルデさん!」
「ワタル殿!」
2人は全身に緊張を湛えているのに対し、
「くるか?」
ジークフリートは薄氷色の瞳に喜色を滲ませた。
挟み撃ちという危機的状況を楽しんでいるように見える。
竜殺しの力を持ち、宝剣バルムンクを携えている自分に死角などない。
ジークフリートはバルムンクを泰然と構えた。
「今だ!」
だがジークフリートの予想に反して、ワタルとイゾルデは攻撃を仕掛けずにユーフェミアのもとへ駆け寄る。
防御の構えを取るのを待っていたのだ。
受け身の姿勢を取れば、ジークフリートはすぐさま手を出せないと判断を下したのである。
まずはユーフェミアに接近することが最優先だった。
「大丈夫ですか、ユーフェミア王女?」
優しく微笑みながら、イゾルデはユーフェミアに語りかける。
ワタルはジークフリートの方に向き直り警戒していた。
「イゾルデ、よくぞ来てくださいました……」
とても心細かったのだろう。
瞳に涙を浮かべたユーフェミアはイゾルデの胸に飛び込んだ。
まだ14歳の少女には過酷すぎる状況といえよう。
しかし安心するのは時期尚早だった。
「この王宮のどこかに、秘密の抜け道があるのだな?」
むうと唸ったワタルを見て、ジークフリートの薄氷色の瞳が妖しく輝く。
勘の鋭いものなら気付くだろうが、こうも容易く看破するとは尋常ではなかった。
「ユーフェミア王女、ゆっくりと鏡の方へと御進みください」
イゾルデはそっとユーフェミアに耳打ちしたあと、ワタルの隣に並び愛用の細剣を構えた。
このまま黙って見逃してくれるほど、ジークフリートは甘い相手ではない。
それが2人の共通した認識である。
ワタルとイゾルデは互いに目配せをし、腹をくくった。
「今度こそ、やる気になったか」
ワタルが印を結ぶのを見て、ジークフリートは不敵な笑みを浮かべた。
「こちらの準備が終わるまで待つとは、ずいぶんと余裕だな」
印を結ぶワタルの双眸に闘志が宿る。
イゾルデに支援魔法をかけている間、ジークフリートは手出ししてこなかったのだ。
その舐めた態度がイラッとくるし、ジークフリートはイケメンである。
これは意地でも一泡吹かせる必要があった。
「……後悔するなよ?」
イゾルデに対する支援を終えた後も、ワタルは印を結ぶ手を止めない。
準備を終えたイゾルデが前へ踏み出し、ジークフリートに斬りかかる。
女だてらに騎士に叙勲されるほどの剣技が支援魔法と相まって、イゾルデはこれまでにない自分の強さに手ごたえを感じていた。
今ならどんな相手でも勝てる!
しかし、それはイゾルデの単なる思い込みに過ぎなかった。
イゾルデの激しい斬撃を、ジークフリートは易々と捌いてしまう。
「噂には聞いていたが、まさかこれほどとは……」
その剣の冴えにイゾルデが愕然となった。
絶望にも似た感覚がイゾルデの心臓を鷲掴みにするが、手を休めずに攻撃を加え続ける。
こうして時間を稼げば、ワタルがユーフェミアを連れて逃げ出すはずだ。
「いざとなれば自分を置き去りにして、ユーフェミア王女と脱出して欲しい」
事前にイゾルデはワタルにそう告げてあった。
ユーフェミアさえ無事であれば、それでいい。
だからこそ折れそうになる心を必死で奮い立たせ、果敢に剣を振るえるのである。
しかし残念なことに、その願いはワタルには届かない。
何故ならワタルにイゾルデを見殺しにするという選択肢は、最初から絶対に存在しないからだ。
3人揃って脱出する。
そのために印を結び続け、魔法を放つタイミングを窺っていた。
そして待ちくたびれた、その機会がやってきたのだ。
イゾルデの死にもの狂いの気迫に押され、ジークフリートが一度流れを切ろうと間合いを空けた瞬間である。
「大地の震動!」
タイミング的にも位置的にも、これ以上は望めないほどの精密さでワタルは魔法を放った。
ジークフリートの足の裏が接している大理石の床を中心にして震動が起こり、次第にその揺れが大きくなっていく。
「イゾルデさん!」
自分の名を呼ぶ声がイゾルデの耳朶を打つ。
肩ごしに振り向けば、ワタルとユーフェミアが鏡の前で自分のことを待っていた。
咄嗟にイゾルデは大理石の床を蹴る。
鎧はかなりの重量があったが、イゾルデ本人は身軽なうえにワタルの支援魔法で身体能力が大きく向上しているため、揺れる床を跳ぶようにして駆け抜けることができた。
ビキビキと嫌な音を立てて大理石の床は裂けていき、ジークフリートの足元から陥没していく。
「これでは追うのは無理か」
さしもの竜殺しも、この状況下では踏ん張りをきかせ全身の平衡を保ちながら、じっと魔法の効果が切れるのを待つしかなかった。
いっそ床が完全に崩落して下層に落ちた方が、すぐに動けるのかもしれない。
そういう意味では、ワタルの戦法は見事に嵌った。
完全にジークフリートの動きを封じているのだから。
「貴公、名を何という!?」
ジークフリートの薄氷色の瞳がワタルを見据えていた。
「ワタル。魔法騎士ワタルだ!」
ワタルはその視線を受け止め、大きく息を吸い溌剌と応じると、あとはもう一瞥もくれずイゾルデと、「失礼します」
一礼をしてユーフェミアの手を取り、尻込みもせずに鏡に飛び込んだ。
通り抜ける瞬間、鏡は発光しバギンズの仕掛けが正常に発動したことを示した。
3人の姿が王宮から消えると同時に床の揺れが収まる。
「ワタルか……」
ふっと息を吐き、ジークフリートは口中で呟いた。
つかつかとワタルたちが脱出に使用した鏡に歩いていき、バルムンクを振り下ろす。
派手な音を立てて、鏡は枠ごと粉々に砕け散った。
「ジークフリートともあろう者が、ユーフェミアを取り逃したか」
くつくつと喉を鳴らしながら王宮に入ってきた偉丈夫は、北海帝国の将軍グイスガルドだ。
今回の遠征における最高司令官に任命されていた。
「見ていたのか」
薄氷色の瞳が射るような視線をグイスガルドに送る。
剣の腕と宝剣バルムンクの強さを見込まれ、北海帝国に剣客として招かれたジークフリートは、将軍のグイスガルドであっても対等の立場で接していた。
「そう睨むな。王宮に着いたら地震が起きたのだ。どうしようもあるまい?」
「あれは地震ではない。ワタルとかいう子供の魔法だ」
「なんだと!?」
魔法と耳にした途端、グイスガルドの態度が豹変する。
「どうかしたのか、グイスガルド?」
あまりの狼狽ぶりに、ジークフリートは訝しんだ。
ブリストル島の出身ではないため、アルビオン王国と北海帝国の事情に疎くグイスガルドが一体何を怖れているのか皆目見当がつかなかった。
「まさか『白い魔法使い』ではあるまいな……」
グイスガルドは震えた声を発する。
白き国が滅亡の危機に瀕したとき、何処からともなく白い魔法使いが現れ、救世主となると……。
伝承にはそのような言い伝えが残されているのだ。
そのことをジークフリートに報せると、
「『白い魔法使い』に『白鳥の騎士』か。このジークフリート、腕が鳴るわ。必ずバルムンクの錆にしてくれようぞ!」
薄氷色の瞳に冷やかな光を湛えて、ジークフリートは豪語した。
その台詞がグイスガルドの心に平静を呼び戻したのだ。
この男は竜殺し、生ける伝説が自分の目の前にもいる。
「はたして、竜殺しのジークフリートに敵う者がいるかな?」
グイスガルドはにやりと笑いながら訊ねた。
「時には全力で戦える敵に出会ってみたいものだ」
先ほどの戦いでジークフリートは持てる力の一端を見せたに過ぎない。
竜殺しのジークフリートと宝剣バルムンクの真の実力は、あの程度ではないのだ。