第1章 王都脱出 ~その2~
「しんどいわ、タルイし」
それがワタルの口癖だった。
もちろんこんなことを公の場で、例えば自分の教室なんかで口走ったりはしない。
ただでさえ中二病のワタルは肩身が狭いというのに、こんなことを言ったらどうなるか?
想像しただけで気持ちが沈む。
学校という偏狭な世界は周囲から逸脱する者を排除する傾向にあるし、1人で生きていける環境ではないのだ。
あくまで誰にも聞かれない場での、あるいは胸の裡だけの口癖だった。
くだらない学校行事や級友たちの遊びの誘いに対し、
「しんどいわ、タルイし」
ワタルは常にそう思っていた。
だが今は口癖を発している場合でも、思っている場合でもない。
――王女を探し出してティンタジェル城から脱出する。
それがワタルに課せられた目下の使命だからだ。
これぞ異世界の醍醐味!
まさに魔法騎士ワタルに相応しい使命ではないか!!
石畳の上を全力疾走で駆け抜けるも、ワタルは気持ちが高揚しているため疲労を感じない。
目指すは王女の待つ王宮。
バギンズに教えてもらったので、位置は大体把握できている。
ただトントン拍子で物事が進むほど、どうやらこの世界は甘くなかった。
すでに城内に北海帝国軍、つまりは敵の侵入をかなり許してしまったようなのだ。
王宮へ向かう道すがら、ワタルは幾度か敵兵に遭遇する破目になった。
アルビオン王国の兵士は白い甲冑が標準装備であるし、北海帝国に兵士は防寒用に毛皮を巻きつけた鎧が主流なため、敵味方の区別はすぐにつく。
そのことを知ったのは、白い甲冑を着用した女性が荒くれ者に襲われていたときである。
こういうときは、女性を助けるのが定石だった。
いや、ワタルが心情的にそうしたかったのだ。
「魔法の矢!」
ワタルは宙空に右手で見えない模様を描き、魔法の矢を顕現させる。
この世界における魔法は、印を結ぶ術式で発動する方式なのはマビノギオンに記してあったのだ。
魔法の矢は狙い違わず、荒くれ者に命中した。
威力自体は大したことはないのだが、伏兵から思わぬ攻撃を受けた荒くれ者は目に見えて動揺し、この場に留まるか逃げ出すのか、ほんのわずかな間ではあるものの逡巡してしまう。
しかし剣を打ち合っている最中では、そのわずかな間が命取りとなる。
次の瞬間、荒くれ者の首が宙を舞っていた。
「誰か知らないが助かった。私はイゾルデだ。礼を言わしてくれ」
白い甲冑を着込んだその女性、イゾルデがこちらに顔を向ける。
相当な美人だったためワタルは、はっと息を呑んだ。
褐色の肌と銀色の髪に白い甲冑がよく映え、顔立ちだけではなく姿勢や所作が凛としていて美しい。
間違いなくイゾルデは年上だが、ワタルにはない大人としての余裕が感じられ、それがまた良かった。
完璧に一目惚れしたワタルは、ついつい見蕩れてしまい、棒立ちとなってしまう。
「……どうかしたか?」
よほどワタルは無遠慮な視線を投げかけていたに違いない。
イゾルデが怪訝な面持ちで首を傾げていた。
「あ、いや、ごめん。なんか、カッコイイなあと思って……」
しどろもどろな口ぶりで、やっとワタルが絞り出した台詞がこれである。
女性に言う言葉か!
「しんどいわ、タルイし」
そう言って上辺だけの、差し障りのない人付き合いに終始してきた結果といえよう。
ワタルは無性に情けなくなった。
「カッコイイ、か。そんなことを言われたのは、始めてだな……」
女性ながらも剣の腕が認められたイゾルデは、国王から叙勲を授かった騎士である。
されど男社会の騎士団の中では肩身が狭いどころか、露骨な嫌がらせを受けることもしょっちゅうだった。
鎧の中に手を突っ込まれるなど、日常茶飯事だ。
そんな差別の中で生きてきたイゾルデにとって、ワタルの言葉は素直に嬉しかった。
やや照れたように、はにかんだような笑みを浮かべる。
その表情にワタルの胸はドキリと撥ねた。
「ところで、そなたは何者で、どうしてここにいる?」
だがイゾルデはすぐに真顔になり、ワタルに訊ねた。
その声で呆けている場合ではないと、ワタルは目を覚ます。
「えっと、ワタル。自分はワタルといいます。バギンズって人から王女のことを任されて、それで……」
王宮へ向かっていたのだ。
イゾルデに心を奪われて、すっかり失念していた。
思春期の少年にはありがちな事である。
「バギンズ? 聞かぬ名だが……。力を貸してくれると言うのなら、お言葉に甘えよう。ワタル殿、私が案内する」
「助かります」
ワタルもイゾルデも互いの申し出をありがたく受けた。
イゾルデからすれば魔法使いの同行は心強かったし、ワタルはやはりティンタジェル城の設計図が頭に入っておらず、案内してくれる人がいればそれに越したことはないのだ。
もっともワタルの場合はイゾルデと一緒にいたい、というのが一番の動機であることは疑いようもなかった。
2人はティンタジェル城の王宮目指して、行く先々で道を塞ぐ北海帝国の兵士達を退けながら進んだ。
戦闘を行う度にイゾルデが前線で剣を振るい、ワタルが後衛で魔法を放つという連携が急速に確立していった。
「魔法の援護があるだけで、これほど楽に戦えるのか……」
イゾルデは感嘆の吐息を漏らす。
ワタルは魔法の矢のような、相手を直接攻撃する魔法は極力使わず、支援魔法を優先する戦術を採用していた。
例えば体が身軽になり素早く動けるようになったり、剣の切れ味が鋭くなったり、鎧の強度が増したり……。
まずはそういった効果のある魔法を、ワタルは率先してイゾルデにかけるのである。
その判断の正しさは、複数の敵兵に囲まれても難なく切り抜けられたことが証明していた。
イゾルデの剣技が卓越していたことと合せて、相乗効果を生んだのである。
おかげで2人はさほど苦労することなく王宮に到着した。
「ユーフェミア王女!」
王宮に踏み込んだ途端に、イゾルデは血相を変えて叫ぶ。
今まさに、1人の剣士がユーフェミアに剣を振り下ろそうとしていたのだ。
イゾルデの声で、その剣士は身を翻し薄氷色の瞳でこちらをじろりと見遣る。
「ほお。城内の兵士はあらかた片付けたと思っていたが、まだ生き残りがいたか」
不敵な笑みを浮かべた剣士は一歩、また一歩とこちらへ迫る。
ワタルは異様な圧力を受け、思わず後ずさってしまった。
「な、何者なんだ?」
王宮に辿り着くまでに戦ってきた北海帝国の兵士とは明らかに格が違うのを、ワタルは嫌でも認めさせられてしまう。
それぐらい目の前の剣士は圧倒的な存在感を放っていた。
――この敵とは戦ってはいけない!
ワタルの生物としての直感が、そう囁いていた。
「竜殺しのジークフリート……」
圧迫感に抗うようにイゾルデは声を絞り出す。
ここでジークフリートに気圧されでは、ユーフェミアを助け出すことができない。
アルビオン王国の騎士として、命に代えてもそれだけは避けなければならなかった。