第7章 海の怪獣 ~その3~
「イゾルデさん、いきなり攻撃するのは控えてくれませんか?」
「先ほどから思案しているようだが、いいだろう。ワタル殿の指示に従おう」
「お願いします」
ワタルは疑念を抱いたように、イゾルデも違和感を覚えたようだ。
幻想的な深海の中で、長閑なやりとりが出来ることに。
「そうじゃ。わしに攻撃する意思はない」
何者かの声が、ワタルの脳に直接響いた。
ちらとイゾルデを見遣るが、表情は硬いものの落ち着き払っている。
ワタルだけに届く声。
それはもちろん右手の甲に刻まれた紋章の力だった。
「では、何をしに出てきた!?」
出し抜けに大声を発したワタルに、イゾルデは何事かと強張った顔を向ける。
それでも邪魔するようなことはせず、イゾルデは黙って成り行きを見守ることにした。
白い魔法使いにしか踏み込めない領域があるのだ。
これがアイギスだったら、あれこれ口出ししただろう。
イゾルデを選んで正解なのである。
「おお! やっと、わしの言葉が通じる人間がやってきたか!」
たくさんある足でクラ―ケン(仮)は歓迎の意を表した。
待ち侘びた人物が、やっと現れたのだ。
「取り敢えず、孤島にいる人間たちを引き取ってもらえんか?」
クラ―ケン(仮)の要請は意外なものだった。
現在はクラ―ケン(仮)が水先案内を務め、ブリガンディーンはその後ろについて航行中だった。
船長以下、船員たちを説得するのにワタルはえらく骨が折れたものの、事情を呑み込むと率先して協力するようになった。
「あの化け物と話が出来るとはねえ」
船長は顎をさすりながら、ワタルの事をまじまじと凝視する。
自分の息子と同じくらいの年齢だというのが、正直信じられない。
クラ―ケン(仮)の説明によると、嵐によって難破した船から大勢の乗組員を助け出し、近くの島に避難させたそうだ。
さすがにクラ―ケン(仮)といえど、その島からアルバート港湾都市までは乗組員を運べない。
そこで救助を呼びに行くものの、出会う船という船が引き返すか攻撃してくるのでは、どうしようのなかった。
そもそも言葉も通じないためどうして良いのかわからず、途方に暮れていたのである。
「なかなか、良い奴じゃないか」
船長はクラ―ケン(仮)に対する認識を改めた。
「恥ずかしい話だが、わしは一族の争いに破れてな」
話し相手がいるのが嬉しいのか、クラ―ケン(仮)は饒舌(といってもどこが口なのか知らないが)に語り始める。
「他にもいるのか……」
まさかの発言にワタルは顔が引きつった。
ただ、こうして会話が成立するということは、クラ―ケン(仮)は人間並みか、それ以上の知能を有しているはずだ。
人間3人集まれば派閥争いが起きるというように、何体(杯?)も存在するなら揉め事が起きるのも自然なことである。
「うむ。それで最近、一族の者が誰もいないこの海域にやってきたのじゃ」
「なかなか気宇壮大な話だな」
この寸法同士で喧嘩したら、周辺被害は如何ほどになるか、ワタルには想像もつかない。
あまり楽しそうな光景ではないのだけは確かだった。
「はっはっは。わしら一族は、なるべく陸の者に迷惑をかけないように生活しておる。安心するがよい」
おおらかに笑っているように思うが、さすがにイカの表情は見抜けない。
「あの島だ。わしは近寄らん方がいいな」
分を弁えたクラ―ケン(仮)は、島から少し離れた沖合に留まる。
「待っててくれ。アルバート港湾都市に連れて行くからな」
経緯を全て説明しないと、ワタルがマリウスから引き受けた依頼は終了とはならない。
通訳できるのはワタルだけなのだから、ワタルが橋渡し役をする必要があった。
満員でぎゅうぎゅう詰めとなったブリガンディーンであったが、クラ―ケン(仮)に船尾を押してもらい、かなりの速度でアルバート港湾都市に到着した。
当初の予定では5日かかるところを、半分の日数で帰港できたが、ここから長くなってしまうのである。
クラ―ケン(仮)の異様を目撃した多くの人々は恐慌をきたし、一時、アルバート港湾都市はそうぜんとなった。
クラ―ケン(仮)に助けられた難破船やブリガンディーンの乗組員たちが必死に説き伏せ、どうにかアルバート港湾都市は落ち着きを取り戻したのである。
「そうですか。むしろ礼を言わなければなりませんね」
いち早く冷静さを取り戻し、全ての経緯を正確に捉えたマリウスは会見を望んだ。
総督としての責務があった。
あまり人が寄りつかない海岸にクラ―ケン(仮)を呼び出し、そこで両者の話し合いの場が持たれた。
ワタルにとって非常に根の詰る役目が始まった瞬間でもある。
「船が沈没したのは、嵐のせいです」
「どこの海からやってきたのか、総督が聞いている」
「魚や海老を食べるのは許可して欲しい」
……などなど通訳をし、相当に神経を使う羽目になったのだ。
うっかり間違ったことを伝えてしまえば、戦争になりかねなかった。
ワタルの苦労が報われ、マリウスとクラ―ケン(仮)はどうにか意思の疎通を図れたらしい。
ゆっくりとではあるが、着実に互いの要求をすり合わせていく。
「一番の問題は漁場に関してですね」
海図を眺めて、マリウスは頭を悩ました。
漁業は貿易と並んでアルバート港湾都市の重要な産業である。
その漁場とクラ―ケン(仮)の餌場が一部重複しているのだ。
「ワタルよ。あの海図はちと古いぞ。それに、ところどころ間違っておる」
「そのデカイ図体で、よく見えるなあ」
「突っ込むところは、そこではないと思うがの。取り敢えず、わしの足に乗るように伝えてくれ」
にょろにょろと、クラ―ケン(仮)は足を2本伸ばした。
「マリウスさん、その足に乗ってください」
まずはワタルが手本として、白くて肉厚なクラ―ケン(仮)の足に乗る。
その様子を見てマリウスも及び腰ではあるが、意を決して自分の身を預けた。
自分の足に乗った2人を高い位置まで持ち上げると、クラ―ケン(仮)は海岸の砂浜に海図を描き始める。
「こ、これは凄い……」
いまだ知らぬ未開の海域が詳細に記されていることに、マリウスの目が輝く。
新航路の開拓も視野に入ってくる。
クラ―ケン(仮)が描いた海図を、マリウスは瞼に焼き付けようと必死だった。
「わしは、ここをねぐらにしておる」
砂浜の海図にクラ―ケン(仮)は、ぐるっと丸を刻んだ。
アルバート港湾都市から見ると、北西の海域に当たる位置だった。
「いいでしょう。そこは侵入禁止の海域に指定します」
即決でマリウスは応じる。
貿易相手である西方の島は思いの外遠く、西や南に漁場を広げれば十分以上の漁獲量を見込めると計算が働いたのだ。
逆に南の大陸は考えていた以上に距離がない。
アルバート港湾都市から一気に海路で渡航できそうだった。
もし、この航路が開拓できれば経済的効果は計り知れない。
さらにアルバート港湾都市を発展させるだろう。
クラ―ケン(仮)との交渉で、マリウスがびた一文たりとも損することはなかった。
これまでの漁場が一部閉鎖するくらい、安いものだ。
そのうえでユーフェミアに貸しを作っておけば、許可も下りやすいに違いない。
まさに白い魔法使い様々だった。
マリウスは1人ほくそ笑む。
もちろん北海帝国軍ならびに南のザクセン族を追い払い、平穏を取り戻してからの話ではあるが。
「ただ船が通るだけなら、別に構わんがの」
魚類がいなくなったり、攻撃されるのがクラ―ケン(仮)としては困るだけだ。
「わしらは陸の争いに関与はせん。だが海の事となると話は別じゃ。北海帝国軍の海軍に、わしらの仲間が多く殺されてしまった」
それで戦うか逃げるかで、一族は争いを始めてしまったのである。
「陸も海も、あまり変わらないのか」
争いが絶えないという点において同じということが、ワタルは淋しく感じられた。
「かなり損害を与えておいたから、ここまで攻めてくることはないはずじゃ。だが、もし現れたら、わしも一緒に戦おう」
結局、一族は故郷を追われる羽目になったのだ。
他の一族の者は逃げることを選択したが自分は違う。
クラ―ケン(仮)は最後まで戦う覚悟だった。
「それは頼もしいですね」
これでマリウスは海岸における防御線の構築が、かなり楽になったのである。
その後も細部を煮詰めたり、実際に生じた不都合な部分を改善したりと話し合いは続けられ、気付けば2週間もの日数を消化していた。




