ニケの確認
「…本当に私で良いんですか?」
「え?」
不思議そうな声をしてルーはこちらを見る。クシャクシャとした茶色の癖毛に老人のようなメガネの彼はスマートとは言い難い姿をしている。しかし、その血統は尊いもので本来はニケのような身分のものが妻になれる人でない。
「何がいいんだい?」
彼は考え事をしていたようでニケが言った言葉を聞いていなかったようだ。それが彼の性格であり、高貴な血筋を引きながらニケのようなものと対等に喋る要因となったものだ。ニケは彼のそんな性格にため息を付き、会話をうち切ろうとした。
「だから、何がいいんだい?」
彼は相変わらず尋ねてくる。大きな眼鏡をかけた彼は昔からマイペースであり、その眼鏡故に女にも縁がなく本人も対してそれを気にすることなく二十年を過ごしてきた。そして男装して研究所にやってきたニケに初めて恋心を抱いた。最初は無愛想だった彼がなれ合っていく内に次第に愛しく思い始めたのもニケも同じだった。結婚しようと二人で決めて、彼は一族から身を引き、研究に没頭し、そして目標を達成した。そしてようやく正式にプロポーズして引き受けたニケだったが…
「何でもありません。気にしないでください」
「いいや、何を言ったのか言うまでここから動かない!」
そう言ってルーは本当に街道の真ん中で立ち止まった。周りには人がたくさん歩いているのに。本当に子どもみたい、と口の中で呟いた。
こんな子どもみたいな性格だから彼は頑固にニケとの約束を守ろうとやってきたのではないだろうか。本当にこの結婚は彼のためになっているのか。
「ニケ、僕たちは言ったよね。何でも話し合おうって」
彼のレンズで拡大された瞳は真剣だ。ニケはこの瞳は既に知っていた。何があっても譲らないと言う目だ。何気ない一言が大事になってしまってと焦る。ぎゅっと自分の黒髪を掴んだニケは小さく言った。
「…本当に私で良いんですか?」
「え?」
再び彼は不思議そうな声を上げた。彼のことを考えたらもう引き返した方がいいかも知れない…
「どういう意味?」
ルーはニケの細い腕を掴もうとしたが手に持った荷物が重くてそれが出来ないようだった。ニケは唇を噛みしめて繰り返す。
「本当に私と結婚してしまって良いんですか? そうしたらもうあなたは一族に戻れなくなってしまいます。私はどうなっても構いません。けれどあなたがもし…」
最後まで言いきれずにニケは俯いた。
「ニケ…」
途端、ピーンとおでこを弾かれた。
「いったい!」
突然のことに後退ってルーを見た。彼は真剣な瞳のままこちらを見ている。
「馬鹿。僕はニケが嫌って言うまでニケから離れないって言ったこと覚えている? これは何回も考えて出た結論だからこれが一番僕にとっていい道だって証明できる。まあ、離れてと言っても僕はニケから離れられない」
彼はそう言って、ニケの手を掴み歩き出した。研究者特有のせっぱ詰まった走りに、同じく研究者であるものの追いつけたことのないニケは焦った。今日は久しぶりのスカートを引っ張り出してきておしゃれをしたのでそうそう簡単に動けない。もうスカートなんて履かないと思いながらも必死に声をかける。
「あ、ま、待って…、ルー!」
その言葉にようやく止まって彼はこちらを見る。
「ルー、ごめんね…」
彼は手に持った荷物を見定め、地面に置いてニケを抱きしめた。
「大丈夫。ニケが僕の覚悟を分かってくれたら…」
香水も何も付いていない彼からはなぜかいい匂いがする。ニケはぎゅっと背中に腕を回す。もっともっと彼を感じたい…。その意味を理解したときニケは一人で赤くなった。
「――道ばたで」
「――ありゃ、国立研究所の学者さんだろ」
「――へえ、案外熱々な」
はっと顔を上げて周りを見渡すと、人々は立ち止まり、こちらを見物しているではないか。そして、彼が身につけている衣服、それはもろに研究服であった。
もぞもぞとルーを突っつく。
「…ニケ?」
「あ、あのね、続きは家の中でやりませんか?」
人の視線が痛いので…。彼はじっとニケの顔を見ていたが頷いた。
「そうだね」
ニケはほっとして彼の腕から離れた。彼が持っていた荷物の半分を取り上げる。
「わ、私が半分持ちます」
「別にいいのに」
その言葉を無視してニケはぼんやりとしているルーを引っ張って、新しい新居となる家にようやくたどり着いた。扉を閉めてようやくため息を付く。
「もう…」
彼らの反応で国立研究所の評判が分かるようだった。国の科学の最高峰を担う研究所であり、研究者達は誰もが自分たちとはほど遠い。自分が中にはいるまでは同じ事を思っていた。
しかし、中に入ってみると尊敬の意味での程遠さではなく、変人として他とは変わっているというという認識に移ってきた。そしてその代表がルーである。入った当初は高貴な血を引く、あこがれの研究者として慕っていたが、そのフィルターを除いてみると、彼は頭のいいただの変人である。まあ、そういうところを好きになってしまったのだから私も変人の一人よねとため息を付く。
「買い物も終わらせたし、お腹も一杯だし、今日は何をしましょうか」
たぶん、ルーは新しくはまっている研究で夜を過ごすだろうと思いながら言った。手取りの遅いルーに代わってニケは野菜をしまいながらいると、ルーは言いにくいように口を開いた。
「…さっき言ったこと」
「もう、私もあなたと結婚することに迷いはなくなりました。将来何があってもすべてあなたのせいに出来るのだったらもうくよくよする必要もないですから」
「…そうじゃなくて」
ルーの珍しくはっきりしない言葉にニケは彼の顔を見る。不思議そうな顔でルーを見る彼女に繰り返す。
「さっきの続き…」
「へ?」
ニケは思わず手を止めてその意味を考える。さっき言ったことの意味とは。道で通行人に見られて思わず口走ってしまったことを思い出す。頭に血が上る。
「な、なんでそんなこと!」
「もう、家の中でしょう? ニケが気にしていた人たちはもういないのだから…。それともまだダメかな?」
見ると、ルーの方も青白い顔がわずかに赤い。
「僕たちもう夫婦になるんだし、そんなことももう許されるんじゃないかな。…ニケがいいと言ってくれたらだけれど」
「そんなこと…」
ニケはぎゅっと目をつぶって、また開いた。確かにそう言う事への覚悟はあった。キスさえまだしていないって人に言ったらびっくりされた。
さっきの抱きしめられることだってようやく慣れてきたとこだもの。それでも、こうして確認を取らずにスマートにやってくれたらいいのに。でも、それがルーだから。ニケは真っ赤になってルーに近づいた。
「わ、私はかまいません。あなたが何をしてもあなたの恋人ですもの」
まっすぐ彼の顔を見られず俯きながら言った。その時、温かい腕が身体を包む。そして俯いている顔に手を添えられ、視線が合う。いよいよだと身を固くしたニケの唇に温かいものが触れた。柔らかいその感触はニケの固い唇をほぐしていく。
「…!」
思わず目を開けたニケは本当にルーとキスしていることに驚き、思わず顔を引き離した。
「…どうしたの?」
ルーは目をぱちくりさせた。ニケは顔から火が出そうだった。
「わ、私こういうこと初めてで…」
「初めて? もしかしてファーストキス?」
驚いたようにルーは私を見る。あこがれの研究室に入りたくて勉強漬けでこういうものを体験したことなかった。しかし、驚くことにルーは微笑んだ。
「じゃあ、僕が初めての人って事だ。ものすごく嬉しい。ニケってこんなに可愛いからいろんな人から告白されているかと思った」
そして彼はまた唇を合わせてきた。今度はいろんな角度から唇を刺激するように。免疫のないニケはすぐに逆上せてしまう。それでも唇が離れた瞬間尋ねてみる。
「…ルーはすごくキスがうまいですけれど、経験はあるんですか?」
すると、甘い、チーズのようにとろけていたルーの顔が嫌そうに引きつった。
「昔、ごっこ遊びで姉貴にやられた」
ルーの家族。国の最高地位に君臨する彼らは遠目から見ても優美であった。ニケは彼の美しい姉を思いだした。あの容姿から吐かれる言葉遣いには呆気にとられたのだが、その優しさに私は一気に好きになったのだった。思わずクスクス笑ってしまったニケにルーはムッとしたようだ。
「姉貴の顔を思い出してしまっただろう」
「いいじゃない。ルーのお姉さまに私もまた会いた…」
その唇に再びキスされる。触れるようなキスから次第に味わうようなキスに代わっていく。その時、唇にぬめりとしたものを感じた。
「…!」
それはニケの口をこじ開け中に入っていく。
「…んっ…」
思わず、自分の口から甘い声が漏れる。慌てて口を閉じようとしたがルーはますます唇を貪るようにキスを続ける。呼吸をしていないせいか肺の空気が底をつきている。ニケは死にものぐるいでルーから離れた。
顔を真っ赤にして息継ぎするニケを放心した顔で見ていたルーは呟いた。
「ニケ、君が欲しい…」
ニケは自分の部屋に備え付けられた浴槽に浸っていた。先ほどの告白を受けて、成り行きで頷き、湯を浴びるため別々の浴槽へと向かったのだが…。
「もう…!」
パシャンと頬を叩く。先ほどからずっと顔の火照りが取れない。恋人として将来の夫として共に寝ることは当たり前だがその覚悟が未だについていなかった。
「私ったら…」
男の子で通用した身体は細い。その身体の隅々まで洗ってもそんなに時間はかからなかった。研究所では皆極力無駄な時間を使いたくなかったからそのくせが出てしまったのだ。ぼんやりしていると先ほどのキスが思い浮かんでくる。熱くてすべてがとろけてきそうで…。それが嫌かと問われたらとんでもないと首を振るだろう。それならどうしてこの後のことに躊躇してしまうのか。
『ニケがいいのなら、僕は寝室で待つ。ダメならそれで来ないでもいいんだ。僕はニケが大切だから。ニケを待ちたい』
ため息を付きニケは身体を湯に沈める。しかし、これ以上風呂場にいるのも限界だ。ニケは覚悟を決めて立ち上がった。
日はやがて沈む。二人の新居は海辺に建てられたおかげで太陽が海におぼれるところがよく見えた。衣擦れの音を立てないようにニケは進む。心臓の鼓動を抑えて、そっと木の香りのする扉を開ける。大きなガラスがはめられた窓からは最後の光を放つ太陽が部屋を柔らかな色に染めていた。そしてその太陽を背負って彼は立っていた。
「ニケ…?」
ルーはガウンをまとっていた。しかし、それが彼のイメージを変えたわけではない。少し眉間にしわを寄せたようにしているルーの顔からはメガネがなかった。それだけなのに彼の端正な顔が明らかになる。思ってみればあんな優雅な一族の一員である彼が美しくないはずがない。鼻筋がたち琥珀の瞳を燃え立たせて立つ彼を見れば誰だって恋に落ちそうだった。ニケはぎゅっと自分の夜着を握りしめ、歩み寄った。
「遅いからもう来ないと思った」
あまり目が見えないのかおぼつかなげに手を伸ばしてニケを抱きしめた。そっと目を伏せルーの背中に手を伸ばす。栗色の睫が光をはじき返すのに見とれていたニケはルーと思わず目が合ってしまったことに驚いた。
「…?」
驚いた意味を問われる前にとニケは慌てて言う。
「あ、あの、ルーはこういうこと初めてなんですか?」
「こういう事って?」
「あー…」
言いにくい、ものすごく言いにくい。それでも尻窄みになりながら言う。
「あ、う…、その恋人と一緒にベッドですることです…」
そう言った後で自分は何てバカなことを聞いたのだろうと頭を抱えてしまう。そんなニケにくすっとルーは笑い、彼女の豊かな黒髪を撫でた。
「そうだな、初めてと言ったら初めてだし、違うと言ったら違う」
「え…」
ニケは驚いた顔でルーを見た。そんな彼女に意地悪く笑う。
「ニケは僕が初めての方と慣れている方、どっちが良かった?」
そんな表情もメガネがないせいかなぜか色っぽく見えてしまい、ニケは言い返せなくなってしまった。
「うんとね、ニケは僕の家がどうだか知っているでしょう。…教育係はね夜のことも教えるんだ。だからニケが言った恋人がベッドの上で何をやるかは知っているし、だけれど僕は恋人と一緒にやったことはない。そう言う意味ではニケが初めてなんだ」
真っ赤になって応えられないニケのホッペに口づける。彼女の長い睫が瞳をかくし、影を作る。
「…ねえ、ニケ?」
「…ん」
「今度、二人でニケのご両親の所に挨拶に行こう」
吐息に隠れて彼は真面目に言うが、それさえもニケにとってはくすぐったい。ルー自身それを分かってやっているようだ。
お酒を飲んだみたいにふわふわする気分の中、ニケは呟いた。
「…そうね。父さん、喜ぶわ。ルーが書いた論文を見て感動していたもの」
ニケが学院に入る動機となった父親、彼は自分を犠牲にしてまでもニケに勉学を推奨した素晴らしい人間であった。
と、覆い被さるようなルーが固まっていることに気づいた。
「あの、ルー? どうしたの?」
私何か言ったかしら? 確かに、まだ心の準備はできていないけれど、このままでも恥ずかしい…
もんもんとした考えに更に顔を赤らめるニケと対照的に、ルーの顔色がさーっとひいていく。
「…ニケ、今度の論文の提出日っていつだっけ?」
「明日だけれど、もう提出したんじゃないの?」
無言で答えないルーにニケは水をかけられたように我に返った。
「まさかだけど…」
終わらせてないの?
恐ろしくて聞けない言葉をニケの顔に読みとり、ルーは無言でうなずいた。
「ここ数日、ニケがずっと隣にいてもんもんとしていたから研究も手に着かなかったんだ」
「なんてこと!」
論文を提出しなければ、彼であってもくびだ。ニケは素早く頭の中で、一瞬の愛と将来を天秤に掛けた。学者としても最近名をはせるようになったニケの思考は明確に状況を判断した。
こうしちゃおれないと、ニケはさっと起きあがり、半分ずれかかった衣服を整え、情けない恋人に向き直った。きりっと向き直った表情はもはや、女の艶めかしさはなく、少年のようなりりしさだ。ニケは研究者にふさわしい、きっぱりとした口振りで宣言した。
「論文を書き終わるまで全部後回しです!」
「けれどニケ、後半分もあるんだ…。今補給させて」
その言葉はニケの眉をつり上げただけだった。絶句した彼女は庭の芋虫よりも小さくなった遠慮なく恋人をきった。
「半分もあるんですか! 徹夜しても間に合わないかもしれないじゃないですか! くびですよ!」
すっかり、しょげた恋人を書簡に追い立て、眠気も甘い気分もすっきり吹き飛ぶ苦い目覚まし茶をなみなみとついだ。徹夜が多い研究者愛用のお茶である。
きびきびと動くニケをみて、ルーもようやく頭が覚醒してきたようだ。大きなめがねをかけ、顔を潜めた彼はかっこよくも何でもない、ただの変人研究者に戻った。あからさまに肩を落として羽ペンをとった恋人を見て、ニケは少しだけ眉を和らげた。
「…一人でやれとは言っていませんよ。私もできるだけお手伝いします」
「本当!」
ルーはたちまち顔をほころばせた。愛しい彼女がそばにいてくれるのも嬉しいが、彼女の理路整然とした思考があれば論文を書くのがどんなに楽だろうか。早く終わったら、その分だけ彼女との時間が増えるのだ。
「ニケ、終わったら必ずね」
まるで、おやつを待ちわびる子供のように言ったルーをねめつけ、ニケは少し顔を赤らめたが頷いた。
「終わったらですよ」
「よし!」
一気にペンを滑らせ始めた恋人に苦笑しながら、それでもうれしくないはずがない。彼には私が必要で、私には彼が必要。これから彼に引け目を持って確認しなくてもきっと大丈夫だろう。ニケはふっと笑って自分もペンを動かし始めた。
むしろ、ルー姉の話が書きたくなりました。