傘少女 -SAMURAI・Girl-
僕のクラスに凄く変な女子が居る。変というより、もう怪しいと言ってもいいかもしれない。
どこが奇怪かというと、彼女はいつも『傘』を持ち歩いているのだ。ごく普通で灰色一色という地味な色合いの九十センチほどの長さがある雨傘だ。屋内外問わず、晴れの日も風の日も曇りでも絶対に傘を手放さない。
それは何故か。彼女が相当に用心深い性格だからだと言うだろうか。よし、仮にそうだったとしよう。
不思議なのは、彼女は雨の日は明るい水色の雨傘を片手で差して、もう片手で例の地味カラーな雨傘を持っているのだ。これでもうおかしいのはお分りだろうが、万が一水色傘が壊れるのに備えているのだと乱暴だが説明できなくもない。
だが、これは僕以外のヒトは知らないことだが、ある日突然にわか雨が降ったときだ。雨宿りしていた僕はたまたま彼女を見かけた。傘持ってるからいいなぁと思っていると、彼女はカバンからなんと折り畳み式携帯傘を取り出して、当然のようにそれを差して帰っていったのだ。これはどうあっても説明出来ない。傘を手に持っているのにわざわざカバンから取り出すのが不自然だ。
そんな彼女の傘は『開かずの傘』として不思議がられており、みんな慣れてしまって誰も気に留めなくなっても彼女はその傘を常時携帯し続けるのである。
‐§‐
その日。僕は高校の授業を受け終えて、型遅れのウォークマンで音楽を聴きながら帰路に就いていた。帰りに商店街に寄って買い物をして帰るのが僕の習慣だ。と、何だか進行方向が騒がしい。普段よりも人が多い気もする。
まあそんな日もあるかと全く気にせずに僕は精肉店を目指す。歩いていると怒声が聞こえた。この寂れた商店街で乱闘騒ぎでもあるのだろうか。そんなことを思っていると不意に人混みを抜けた。
何故だろうと思いつつもそのまま進行方向にある人混みに再び突っ込もうとしたとき突然肩を掴まれて強引にイヤホンを耳から引き抜かれた。擦れてかなり痛い。
何だと思って見てみると恐い顔したニーヤンが僕を睨んでいた。その向こうには気の弱そうな人がなりふり構わずというふうに人混みを割って走り去っていくのが見えた。その服はところどころ破れたりしてボロボロになっている。
ふむ。
どうやら僕は乱闘の現場に乱入してしまったようだ。
男が僕の胸ぐらを掴んで非常に聞き取りにくい何事かを言う。僕がどうしようか対処に迷っていると傍らに人影が歩み出た。
「放しなさい。あなた、これ以上調子に乗ってると痛い目を見るわよ」
凛とした声で臆する事無く男に言い放つ。その凛々しい横顔を盗み見た僕は……いや、ホント驚いた。それは、例の傘少女だった。
男がまた聞き取りにくい何事かを叫んで、彼女をど突いた。……いや、ど突こうとした。彼女は男の手を取り、鮮やかにクルリと男の身体ごとぶん回して投げたのだ。
当然男に掴まれている僕も、驚いた男が反射的に手に力を込めるもんだから一緒になって振り回される。
すっ転んだ僕をはねとばして、男が怒りに眉を逆立てて彼女に掴み掛かるが彼女は容易く身を捻ってそれを躱し、ついでのように男の手を引いて転ばせる。やがて男は彼女に勝てないことを悟ったのか、逃げ去った。
僕は茫然として、それを冷ややかに見送る彼女を見た。見事な手並みだ。
と、彼女が僕のほうを向いて手を差し伸べてきた。それで僕は自分が座り込んでいることに気付く。慌てて彼女に手を借りて立ち上がった。
「ありがとう」
「いえ、当然のことよ。災難だったわね、あんなのに絡まれて」
同情の言葉を送られて、僕は苦笑する。僕は単に手を貸してくれたことに礼を言っただけのつもりだったのだが、彼女は助けた礼だと受け取ったらしい。まあこの際どちらでも問題はないか。
そして僕は彼女に今の数分で湧きだした諸々の尋ねる。
「ところでさ、何で助けてくれたの? 普通あの状況見て見ぬふりか、精々警察呼ぶくらいだと思うんだけど」
僕の野次馬根性丸出しな言葉に、彼女は両手を腰に当て呆れたように答えた。もちろん片手には例の傘が握られている。
「見て見ぬふりなんて出来るわけないでしょう。警察呼ぶにしたって、あなたが暴行を受けるまでには絶対に間に合わないわ。私はああいうの、許せないタチなの」
どうやら彼女は正義感が非常に強いらしい。普段学校では無口な彼女の一面を見て、僕は内心で彼女の評価を跳ね上げた。彼女はとてもいい人だ。
僕はもう一つの疑問も片付けようと質問する。
「じゃあさ、……なんであんなに強いの?」
「……驚いた? 私があの男を投げたりしたの」
彼女は肩を竦めて僕に返した。僕はややあってから正直に頷く。驚いたと言えばこの上なく驚いた。柔道の応用だったから小柄な彼女が男を投げれるのも理解できなくはない。でもそれだけの技術と身のこなしを習得していることが意外だったのかもしれない。
彼女は小さく笑って答えてくれた。
「私のお祖父ちゃんがね、一緒に住んでるんだけど私に武術の稽古付けるのよ。結局はスポーツだし護身術にもなると思って続けてるんだけど、気付いたら私、ひどく逞しくなってて」
呆れたような軽い溜め息。彼女なりに稽古は楽しんでやっているらしい。どう返していいかよく分からなかったので僕も一応笑って返しておいた。
と、周囲の野次馬が居なくなった頃僕はやっと思い出した。
「そうだ、肉」
「肉?」
じゃね、ありがとう、と彼女に告げて僕はやや早足で去った。ヤマダ精肉店に用があるのだった。
その日、僕は挽肉五百グラム買って家に帰った。
‐§‐
翌日の朝、僕は登校中でバスに乗っていた。珍しく乗客が少なくて僕は座席に与れた。どころか立っている客も少ない。
変だなあと思っているとバス前部から怒声が聞こえた。バスのなかで乱闘はないだろうと思って見てみると、バスジャックだった。んなアホな。
「バスを止めるな! 詳しい要求はあとで伝えてやるからよ」
なんだそれは。学校通り過ぎちゃうじゃないか。
どうやら今朝の占いで最下位なのが利いたらしい。当たったというのかな。
ナイフ男がなにか吠えていると、よく通る凛とした声が響いた。
「あなた、馬鹿げた真似はやめなさい」
見れば、どうやらバスの最後部座席に座っていたらしい傘少女が。今日も忘れずに傘をお持ちだ。
っていうかこれはどういう偶然なんだろう。
「なんだ、お前? 黙って座ってろ!」
「お断わりするわ。学校に遅刻しちゃうもの。それと……得物を持っているくらいで意気がらないことね」
彼女は穏やかな笑みを浮かべて言う。ナイフ男は激昂して彼女に襲い掛かろうとした。
確かに護身術には凶器を持った者に対応するための技術もあったはずだが、こんな狭いところではろくな動きは出来ないだろう。どうするつもりだろうか。
彼女は口を不機嫌そうに引き結び、持つ傘に手を遣った。
そしてすらりと柄を引き抜いた。狭いバスのなか、煌めくのは白銀の刃。
……えっと、僕は現状についていけない。ここで少し整理しよう。
まず、僕はバスのちょうど真ん中らへんに座っている。右手側、即ちバスの前部にナイフを持ったバスジャック犯が。傘少女の挑発に乗り激昂している。
そして左手側、即ちバスの後部には傘少女。彼女は傘の布部分を左手に、先程引き抜いた柄の部分を右手に持っている。傘の持ち手は当然ぐりんと曲がっていて、彼女の手の甲を守るようになっている。
そして、その先は何故だろう。白銀に煌めく鉄製の身と鋭利な刃、やや反りが入った『それ』はどう見ても時代劇なんかでお馴染みの刀と言うものに見えた。
僕は目を擦り軽く揉む。疲れてるのかなぁ。そして今ある現実を正しく捉えるために再び目を開いた。
やっぱり彼女の手にあるのは、刀だ。しかも傘に偽装した仕込み刀。
「さっさとナイフを捨てなさい。腕一本喪うことになるわよ」
なんか物騒なコト言ってる彼女は、日本には銃刀法というモノがあることを知っているのか。ついでに腕一本斬り落とすのは正当防衛が適用されるのだろうか。
バスジャック男は自分より凶悪な武器を堂々と構える少女に恐れをなして逃げ出した。走るバスの開いている車窓にダイブ、飛び込み前転の要領で狭い窓を見事にくぐり抜けた。高速で流れる地面で受け身、なんどかバウンドしたあとに元気に走り去った。あれなら運が良ければ火傷や打ち身程度の軽傷かもしれない。
僕があの男は超人か超一流のスタントマンだと予測を立てたあと、それどころではないことに気付いた。
彼女は、と見回してみると仕込み刀は傘に戻しておりすでに普段の傘少女に戻っていた。傘少女はバスの運転手に交渉して学校前まで戻ってもらおうとしているところだった。運転手が頷き、僕の体が通路側に引っ張られる感覚。どうやら交渉は成功したらしい。
何事もなかったような冷静な顔でもとの座席に戻ろうとしていた彼女が僕に気付いた。僕は愛想笑いで片手を上げる。彼女は平然と進路を変更し、僕の隣に腰掛けた。小柄な彼女には十分なスペースはあるけれど一応僕は窓に寄る。
「あなた、またこんなことに巻き込まれて災難ね。もしかしてあなたは疫病神なの?」
「まさか、僕は普段平和平凡なごく普通の生活を送ってるよ」
僕は苦笑で返す。彼女は傘を上品に左手で持ち、右手をその上に添えていた。
僕はその傘を見ながら彼女に問い掛けた。
「それってさ、仕込み刀だよね。なんでそんなもの持ってんの?」
彼女は見られてたことに今更気付いたふうに顔を歪めた。罰の悪い顔で傘を持ち上げて示す。
「これ、私のお父さんが造ったの。お父さん製鉄業やってるんだけど、なんか勝手に創っちゃったんだって。お父さんはなんか『子供の頃の夢だ』とか言ってるけど、犯罪だし」
内緒、と右手を持ち上げて人差し指を唇に添えた。その彼女は抜群に可愛かった。けれど僕は苦笑して彼女を諫める。
「無理しない方がいいよ。誰に吹き込まれたの?」
僕の言葉に彼女は俯いてくぅ、と唸った。次に顔を上げたときは後悔の形に口を歪めている。
「……お母さんに。お母さんは全面的にお父さんの味方だから。……バレたときは、こうやって可愛く誤魔化せって」
言いながらもう一度唇に指をやった。手を下ろした彼女は僕になんで一発でヤラセだって解ったのかと問うてきた。僕は迷った末に正直に答えた。
「普段の行動と違いすぎて不自然だし、それに顔が真っ赤」
彼女は頬をもっと真っ赤に染めて、唇を歪めつつ顔を背けた。
と、バスが停まった。学校に到着したらしい。彼女は飛ぶように下車してまさしく脱兎のごとき勢いで校舎に駆けていった。ひどいなあ。
僕は時間を確認して、まだ教室に行くだけの余裕があることを確認、安堵して下車しようとした。料金は先払いだし僕は定期だ。
と、バスの座席を埋める不幸な乗客の一人が僕に声を掛けた。
「さっきの女の子、カバンをこっちに置いたの忘れて君の隣に座ったみたいで、この通り忘れてったんだ。届けてあげてよ」
彼の手には黒い学生鞄。僕はその大学生風の好青年に礼を言いカバンを受け取った。やれやれと思いつつ下車して校門をくぐり校舎に向かう。幸い彼女とはクラスが同じだ。
さて、学校に入ればさすがにもう事件に巻き込まれたりしないだろう、と僕は思うでもなく感じていた。
ところが今日という長い日はまだ終わらなかったのである。
‐§‐
僕は教室に入り、傘少女の姿を探す。幸い彼女の姿は簡単に見つかった。窓際である彼女の席に身を縮めて座っていたからだ。当然傘を両手に持っている。僕は彼女のところまで歩いていき、声を掛けた。
「忘れ物。もうこんなの忘れないでね」
僕の声にビクリと肩を竦め、彼女は恐る恐る顔を上げてカバンを受け取った。消え入りそうな声で礼を言ってくる。僕は彼女の過剰な反応を訝しく思い、直球で訊ねた。
「どうしたの、その過剰な反応は何?」
彼女は顔を伏せたまま不機嫌そうに言う。
「だ、だって……。似合わなくて変だ、って……」
「ごめん、もう少し解りやすく」
今にも消え入りそうな声で呟く彼女に僕は間断入れず突っ込んだ。状況が解らないのは失礼だし。
彼女は少しイラついたようだが蚊の鳴くような声で言い直した。
「私、今日初めて誤魔化しのやつ他人に見せたのに、それが似合わなくて変だ、って言われて、あの格好見たのあなただけだからなんか私みっともなくて」
読点ばかりな上解りにくい説明ではあったが、ニュアンスはまあ解った。彼女が言いたいのは要するに、僕に変なトコロを見られて僕に見せる顔がない的な解釈でいいのだろうと思う。そいで、その変なトコロというのが例の『可愛く誤魔化せ』のポーズを指しているのだろう。
参ってしまう。どう慰めろというのだろうか。
だがひとつ誤解があるようなので取り敢えずそれは正さなければならない。僕の体裁に関わる。
「あのさ、僕が似合わなくて変だ、と言ったと思ってるみたいだけどそれは大いなる誤解だよ」
え? とでも言いたげな表情で顔を上げた。僕は仕方なく、ともすれば口説いてると思われかねない恥ずかしい台詞を捲し立てた。
「確かに普段の行動と違ってるとは言ったけどそれは新鮮だ的な称賛と受け取ってほしいかな。ぶっちゃけあの仕草は魔性の女になれるくらい似合ってたよ」
「……え?」
ふぅ、と僕は一人で息を吐いて内心で額を拭う。あー恥ずかしい。
だがしかし、いくら僕でも『女の子を貶した男』にはなりたくないので、似合わない、変だ、などと言われたと勘違いされたままにはしておけなかったのだ。
その時チャイムが鳴って僕は逃げるように彼女のもとを去った。成否が確認できなかったが、傘少女の誤解が解けたことを願おう。
そう思って僕は席に着いた。嫌なことに、僕の席は『特等席』である。教卓の真ん前だ。
と、教室の扉が開いた。みんなが一斉に席に着こうと動く。だが現われたその人影を確認した途端、その動きが一様に止まった。
その男は、見知った白髪の目立つ眼鏡がトレードマークの一時間目担当教師ではなかったのだ。そしてその男は体で隠すように右手を後ろに回していた。その隠してあったものとは、
……刃渡り三十センチ近い長包丁!!
「騒ぐな! 騒いだら殺すッ」
包丁を目にしパニックに陥り掛けたみんなの悲鳴や混乱を、男の一言が全て止めた。
そして例のごとく机全てを教室の後ろに下げさせ、抜け目無く携帯を生徒全員から没収し、全員を下げた机群の前に集めた。結果的には教室の中央に生徒が集まった形になる。
高い人口密度のなかでも不安や恐怖からか啜り泣く声も聞こえるなか、僕は思わず呟いた。
「どうしてこう間断無く矢継ぎ早に事件が起こるんだ……?」
本当にありえない頻度である。路上のケンカから始まって、バスジャックにこの学校立てこもりだ。ケンカというあっても不思議ではない事件はともかく、あとの二つはまずもって体験できなさそうな事件なのにもかかわらず立て続けに巻き込まれた。
もうギネスブックに載っちゃうんじゃないか?
その時唐突に後頭部を突かれた。何かと思って振り返るとそこには地味カラーの傘があった。地味だからってあなどるなかれ、この傘は何を隠そう仕込み刀なのだ。この中には刀匠もびっくりの白銀に煌めく刀が隠されている。
……というか、今この刀を内包した傘で突かれたのか?
「あ、あっぶねぇえ!!」
僕は絶叫した。勿論小声である。当然犯人には気付かれていない。
傘少女はそれでも慌てて僕の口を塞ぎ、人混みをしゃがみ歩きで抜けて僕に身を寄せてきた。
「静かにして、気付かれるわ。あとこれはタダの傘なんだから危ないわけ、ないでしょ?」
無論彼女も小声だ。しかし背と背を触れさせる距離にいるみんなには聞こえてしまうので、彼女は聞こえを憚って酷いことを言った。ある意味脅しである。
僕が言葉を失っていると彼女は自分の用をあとに続けて話した。
「ねぇ、どうしよう……」
いつになく不安そうな顔に僕まで不安になりながらも、取り敢えず正当と思える回答を言う。
「どう……って、いつも通りカタナを片手に『馬鹿な真似は止めなさい』バキッドコッ……ってやるんじゃないの?」
当然、そのはずである。本来なら僕に問う前にやっているはずなのだ。だが、返ってきた答えは意外にもノー、だった。
「みんなが居るのにこれは抜けないわ。これは最終手段だもの」
なんでみんなが居ると抜けないんだろう、と思ったが犯人がこちらを向いたのでそれを問おうとしていた僕は慌てて口をつぐんだ。
犯人がまた余所を警戒しはじめたのに乗じて彼女に必要最低限のことだけ耳打ちする。
「早くなんとかしないと先生来ちゃうよ」
一時間目担当教師は教室に来るのが遅いことで人気であるが、さすがにもうチャイムから十分が経とうとしている。残り時間はもう幾らもないだろう。
彼女も犯人の隙を突いて僕に言い返した。
「来ないと思うわ。犯人が教室を占拠してること職員室に伝わってると思う」
彼女の意見は僕の想定していないものだった。僕は目だけで問い掛ける。
「さすがに隣のクラスとかから使いが行ってると思うわ。解らないというのは考えにくいもの」
ちゃっかり携帯を明け渡さなかった人も居るかもしれないし、と彼女は付け足した。なるほどと思う。
さすが、凶行に走る人々を成敗してまわってるだけのことはある。
ところが意表とは突かれるためにあるのかもしれない。扉がガラッと開きお馴染みの見知った白髪の目立つ眼鏡がトレードマークの担当教師が現われたのだ!
全員の視線が例外なく彼に注がれる。犯人の男はこれを既に予期していたのかもしれない、素早く教師に向かって動きだす。
「先生逃げて!」
凛とした声が耳朶に叩きつけられるのと同時、傍らから影が飛び出した。傘少女の叫びにひっぱたかれたように教師は悲鳴を上げて教材などをかなぐり捨てて逃げ出した。
男も彼女のほうに包丁を向ける。彼女は刀を抜かず傘を男の手に叩きつけた。だが男は痛そうに眉をしかめただけで包丁を取り落としたりはしない。
打撃に怒った男は包丁を構え、意外にも巧みな踏み込みで間合いを詰めて包丁を横薙ぎに振りぬいた。彼女は男の技術に驚いてはいたが、彼女のお祖父さんに叩き込まれた動きは速い。素早く後退して、紙一重で男の斬撃をかわす。
男はさらに踏み込み、彼女の痩身に包丁を刺そうと鋭く腕を突き出した。彼女は思い切り体をひねって何とか避けるが、体勢が崩れてしまう。男は始めからそれを狙っていたのか、素早く腕を振りぬき彼女を横ざま斬りにしようとする。
彼女は傘を杖のように床に突いて崩れた体勢を強引に動かし、体を引いた。髪が幾らか男の斬撃に巻き込まれ引きちぎられる。すごく痛そうだが彼女は構わず教卓に片手を置き、後ろへと高く跳躍。空中で体をひねり黒板の『さん』を斜めに蹴って二段跳び。教卓に置いた彼女の手を支点に大きく回転するふうになる。
教卓に両手をつけると手を捻り、バランスを整えて全身ごと大きく回った回し蹴りを男の顔面にお見舞いする!
彼女は腕を押し出すようにして教卓の前に深く屈伸して着地。男は半回転して倒れた。
人間離れした超人バトルを傍観する皆には良く、神業を魅せた彼女には悪いことに、男は『なかなかやるじゃないか、お嬢ちゃん』などと嘯きながら立ち上がった。
「っくぅ……」
傘少女は髪を引きちぎられた額辺りを押さえてうめいた。息が上がっている。対する男も疲れを見せてはいるが、彼女よりかはまだやれそうだった。ここにきて戦況に優劣がついた。
男は非情にも傘少女の体力の回復を待たず包丁を振るった。彼女は屈んで斬撃をよけ、後退する。
勇ましく傘は構えたままだが、もはや刀を抜いても優劣は覆らないだろう。卓越した者同士では獲物の違いなど大した差にはならない。
男が大きく横に包丁を振りぬいた。彼女はくぐるように体を回してそれを避けると傘の柄を突き上げる。が、男は片足を一歩引き半身逸らして躱した。
そして、空いた左手で彼女を引き倒してしまった。柔道で言えば小外刈り、彼女は見事に転がされてしまう。
そして包丁を彼女の胸に突き立てよう振り上げる。見物していたみんなが息を呑んだ。
「だらっしゃぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
焦りのあまり変な声になりつつも雄叫びを上げながらそこに割り込んだのは、僕だ。掃除用具箱から出したT字型箒なるシロモノを鋭く突き出し男の包丁を持つ手を遮る。
傘少女はその隙に身を跳ね起こして命からがら男の殺傷圏から脱した。
青い顔で息を乱す彼女を勇気づけるために僕は笑顔を向けて励ました。
「僕がやる気になったからにはもう安心だよ。このタワケたオッサンは僕がボロ雑巾と見間違えるくらいにボコすから」
「待って、どう考えてもあなたじゃ絶対に無理……危ないッ!」
彼女に言われる間でもなく男の接近になど気付いている。刺そうと踏み込んだ男を僕は長い柄をブン回して牽制し、機を得たとみるや両手を肩の高さにして
「キェエ―――ッ!!」
気合い一撃。回していた箒を両手で背中のほうで止め、体で大の字をつくるふうになる。同時に男へと踏み込むことで柄の先は男の鼻面を強打! 男はもんどりうつ勢いでぶっ倒れる。
僕は箒を回して体の前に持ってくると、両手に持ち半身の構えを取る。鬼の形相で赤くなった鼻から鼻血をダクダク流す男が起き上がった。僕は完全に立ち上がるのを待たずに男に向かって箒を突き出す。
男は柄を取って止めようと包丁を捨てて両手を顔の前にやった。だが甘い。
「僕の棒術とやり合おうなぞ百年早いわぁーッ!」
柄の先を素早く小さく回し、男の右手の甲を打って額を突く。男は中腰の体勢を崩して尻餅を突いた。
それこそ僕の狙い!
僕は最大最高のキレで必殺技を繰り出す。一歩深く踏み込みつつ体を回し、掴もうと伸ばされた男の左手から逃げるように柄を動かす。勢いは止まるどころか強くなる。旋回した柄は僕を支点に大回転! 向かう先は当然男の横っ面ァ!
僕は全力を解放した。
「傘少女の胸を引き倒すのに紛れて触ってんじゃネェェエェェェェェェッ!!」
僕の怒りと憤りとちょこっと嫉みが込められた魂の叫びを起爆スイッチに、箒の柄は男の側頭部をこれでもかと超強打! 男は吹っ飛び、床とキスして意識は彼方である。
「はぁー、はぁー……」
僕は肩で息をする。最後の叫びが思ったより体力を消耗したらしい。僕はその場に座り込む。
騒ぎを聞きつけた職員達が教室にやってきて、人質だったみんなを保護した。スゴいものを見たと興奮している生徒達に職員達は一様に不思議そうな顔をしていた。
にわかに職員と野次馬含む生徒達が入り乱れ、無事を喜ぶ喧騒に包まれた教室で座り込む僕の隣に傘少女が腰を下ろした。彼女は僕に言う。
「あの、助けてくれてありがとう」
箒の先で気絶した男を突いていた僕は苦笑とともに即座に返した。
「いいよ、礼なんて。冗談抜きに僕がやりたかっただけだし」
僕の言葉に彼女は首を縦に振る。彼女のほうを向いた僕と目を合わせ、微笑を湛えた彼女は答えた。
「それは見ててよっく解った。素直に礼を言いたくなくなるくらいに」
ひどいなぁ、と唇を尖らせた。と、僕はある疑問を思い出した。軽い気持ちで問う。
「そういえばさ、なんでみんなが居るところでは『それ』」
僕はわずか切って彼女が手に持つ地味な色の傘を顎で示す。彼女の視線が手元と僕と上下した。
「……抜けないって言ったの?」
そうなのだ。彼女には意外性を突くことに特化した傘型仕込み刀があった。始めからこれを抜いていれば彼女は男に敗北を喫しなかったかもしれない。
だが彼女は怒ったように頬を膨らませて、ヒトに常識を教えるような呆れた口調で言った。
「抜けるわけないじゃない」
なんでさ、と問い掛ける僕に彼女は『本当に分からない?』と念押しする。僕は本当に分からなかったので素直に頷いた。
彼女は溜め息を吐くと嫌そうに唇を尖らせて言う。
「みんなに向けて『これ』やれって言うの?」
言いながら彼女は人差し指を尖らせたままの唇にやった。やや桃色に上気した顔に映えて、それは男子限定に凶悪な殺傷力を惜しみなく振りまく。見てるのが僕だけという状況もたまらない。
傘少女の母親はスゴく優秀な人なのかもしれない、とまだ見ぬ女性を内心で褒め称えていた僕に、彼女が声を掛けた。
「ところでさ、『僕がやる気になったからには』とか言ってたってことは初めからいつでもあの男を倒せたってこと?」
彼女の問い掛けに僕は小さく眉を寄せる。僕はそんな瞬殺系アビリティーは持っていない。
だがここは教室である。僕は見栄も若干織り交ぜて答える。
「どうだろう、うまくいけば倒せたのかも。椅子とか使って戦えば倒せたとは思うけど」
椅子は意外に強い武器である。教室にはいくらでもあるので投げることも出来るし使い捨ても可能だ。使いこなせるかは置いて、そういう利点から僕はそう答えた。
その答えに彼女はなぜか残念そうに眉をやや下げて笑った。そして、小首を傾げて訊ねる。
「じゃあ、もしかして昨日の喧嘩も今朝のバスジャックも、私がでしゃばらなくてもよかった?」
僕は小さく唸る。彼女の問い掛けの意図は分からないが、安易な答えを返すべきトコロではないことは分かった。僕は考える。
確かに結構な実力者だった教室占拠男が傘少女より強く、その占拠男より僕が強いのであるからその構図は成り立つわけだが……。
「そんなことないよ。僕は誰がどう見ても絶体絶命空前絶後の大ピンチだったじゃないか。助けてくれてありがとう」
僕はやる気にならないと実力を出せないのだ。やる気にならず戦ったら、昨日のケンカ男にだって負けたかもしれない。
僕の正直な返礼に彼女はくすぐったそうな微笑を浮かべた。
彼女は笑顔のまま思い出したように口を開く。
「ねぇ、もう一つ訊きたいんだけど」
僕は彼女の目を見た。僕の目を覗き込むように見る彼女と目が合う。彼女の綺麗な漆黒の瞳を見つめていると、彼女がその凛とした声を紡いだ。
「男に『傘少女のナントカー』って叫んでたけど、あれって私のことよね?」
僕が男へと傘少女の胸をどさくさに紛れて触ったことに対する制裁を公正に行ったときのことだろう。それは確かに彼女のために行ったことだ。
僕は雲行きが怪しいことを感じ取る。彼女は下から窺うように僕を睨み、その問いを解き放った。
「あなた、もしかして私の名前を憶えてないの?」
僕は、口をつぐんだ。
ありがとうございます、そして、すみません! 長くなり過ぎて連載での投稿も考えましたが、イキオイで短篇での投稿に相成りました。お楽しみいただけたなら幸いです