社長令嬢、場末でヤニ吸う男に一目惚れする
雨が降っていた。
父の会社のパーティを抜け出し、私は傘をさした。
用意された笑顔も、用意された会話も、用意された将来も、全部息苦しかった。
ふらりと当てもなく細い路地の中へと入る。
古いライブハウス前を通りかかった。
その男は、ライブハウス前の階段に座って煙を燻らせていた。
黒い長髪を束ねた二十代くらいの細身の男だった。
安っぽい黒のジャケットを肩に引っかけ、膝に肘を置いて、切れ長の目を憂鬱そうに下に向けている。
一瞬で目が奪われた。
退廃的で、危険な香りがした。
彼がいる周辺の魔力が澱んでいるのが見える。
一歩近づくと、彼は顔を上げてこちらを見た。
「お嬢さん。その傘の内側からは出ない方がよろしいかと」
彼は煙草を持った手でこちらを指差した。
その声は低く、妙に色気があって、雨の中でもやけに鮮明に聞こえた。
似合わない。
上品な言葉遣いと、整った容姿、そして煙草と場所。
何もかもがズレている。
「歩いたら意味がないと思うけど?」
もう一歩近づいた。
すると、彼は目を細めてため息をついた。
「夜遊びにしては、少々場違いですよ」
先ほどから遠回しに帰れと言われている。
……面白い。
さっきのパーティより、よっぽど面白いし、何より品がある。
「あなたこそ、こんなところで何してるの?」
煙草の煙から、キャラメルのような甘い匂いがした。
「労働後の納税行為、ですかね」
嘘だ。
あの煙草は普通の煙草じゃない。
火がついた先に、魔力の煌めきが見えた。
「そこの魔物、まだ生きてると思うけど」
彼の足元を指差す。
徐々に霧散していく魔力溜まりの中に、今にも消えそうな狼のような魔物がいた。
「……世の中には気付いていても、口にしない方がよいこともありますよ」
「じゃあ、やっぱり生きてるんだ」
「ええ。私の晩酌ですので」
彼、この魔物から魔力を吸収してるの?
……そんなことをする必要があるのは魔物しかいない。
けれど、彼からは魔物特有の気配がしない。
もう一歩、踏み込んだ時。
死にかけの魔物が私に飛びついてきた。
「ッ!」
とっさに羽織っていた上着の内側にしまってある杖を取り出そうとしたが、間に合わない。
傘を放って両腕で体をガードした。
その時、男が煙草を放って手を伸ばした。
指先が、何もない空間を掴む。
「――消えなさい」
その手が握り込まれた瞬間、煙草と共に狼の魔物がぐしゃりと歪んだ。
悲鳴すら上げられず、魔物は潰されるように消えた。
雨が降っていることすら忘れて、見惚れてしまった。
「今のは詠唱じゃないでしょ!?」
空間魔法?
いや、でも雨粒が歪んでいなかった。
空間魔法の発動原理じゃない。
……初めて見た魔法だ。
かっこいい……。
「近付くなと散々申し上げておりましたが、聞こえていませんでしたか?」
男の声に苛立ちが混ざった。
傘を拾って、ライブハウスの庇の下へ入る。
「別に自分の身は自分で守れるわ。これでも私は魔法大学の主席なんだから」
「でしたらご理解いただけるでしょう。あなたの身体がどれほど魔物にとって魅力的か」
何の話をしているの?
「私はただ魔法が少し得意なだけで、そんな特別な身体じゃないんだけど」
「……でしたらあなたのご両親はとんだ嘘つきですね」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
「どういう意味?」
「言葉以上の意味はありませんよ」
答える気がないらしく、疲れたように男は階段に座り込んだ。
「だ、大丈夫?」
思わず声が出た。
「ただの魔力切れです。ご心配には及びません」
「お詫びに私の魔力いる?」
どうやって摂取するかはわからないが、彼の晩酌を奪ってしまったのは、さすがに私が悪かった。
魔力の澱みもなくなっているし、彼には魔力が必要だろう。
男はこちらを見て眉を顰めた。
その目は、一瞬だけ迷ったように揺れたような気がした。
「……結構です」
突然、ライブハウスの扉が開いて、茶髪の男が出てきた。
「おーい、御影。終わったかー?」
「ええ。追加料金を請求したい気分ではありますが」
茶髪の男は、茶封筒をこの男……御影に渡した。
「ほれ、いつもの。このお嬢ちゃんは?」
御影は内ポケットに茶封筒を入れた。
「通りすがりのご令嬢ですよ」
少しムッとして、私は名乗った。
ここは私の名前を覚えてもらわないとね。
「東雲陽毬。御影さんとは先ほど仲良くなりました」
御影は目を細めて私を見ている。
「おー、よくわからんが俺はここのライブハウスの店長の蘇芳だ。良かったらサービスするぜ」
「いえ……」
「ありがとうございます!」
有無を言わさぬうちに、私は店長についていく。
もっと彼を知りたい。
御影はため息をつきながら、立ち上がった。
*
ライブハウス内のカウンター席に座る。
今日はライブが開催されていないようで、数人機材を使って練習しに来ている人がいるぐらいだった。
「悪いな、営業前の掃除みたいな依頼で呼びつけて」
蘇芳さんがドリンクを二人分サービスしてくれた。
「構いませんよ。こちらも少々、食い扶持に困っておりましたから」
御影はグラスを手に取って、一口飲んだ。
私もお礼を言って、グラスに口をつける。
「ムーンレスナイト、そんなに客来てねぇの?」
「閑静な宿泊環境を提供しているだけです」
「来てねぇんだな……」
この人、魔物ハンターじゃないの?
懐からスマホを取り出して、検索する。
ムーンレスナイト……。
ホテルで一件ヒットした。
「ホテル経営してるの?」
「ええ、まぁ」
住所は……都内の山奥だ。
口コミを見てみた。
『受付の男性がかっこいい!』
『めちゃくちゃ寝れるけど、窓の外が暗くて怖い……』
『素泊まりだけ。場所がわかりにくい』
星が3.8だった。
「……儲かってないの?」
「上品な客層を保っております」
「客がいねぇだけだろ」
御影は不機嫌そうにしている。
「蘇芳さん。人前で支配人の尊厳を削るのはおやめください」
魔物ハンターが副業ってことね。
それほど困窮してるなんて……。
「私も泊まりに行っていい?」
さらに御影は不機嫌そうな顔をした。
「当ホテルは、少々特殊な宿泊施設ですので」
「こいつのホテル、長く泊まると魔力吸われるからな」
「蘇芳さん」
御影は語気を強めた。
魔力を吸われるホテル?
そんなの聞いたことがない。
「……ここから先は追加料金ではなく、災害処理ですね」
そう御影が言ってグラスを置くと、スピーカーから高周波の嫌な音がした。
練習していたバンドマンが、アンプの音量を調整するも、変わらなかった。
「この気配……魔物?」
強い魔物ほど、色んな物に影響が出る。
魔物が現れる前兆だ。
「先ほどの魔物の親玉といったところでしょうね」
「おいおい、まだいたのかよ……」
魔物。
自然発生する脅威。
「魔界が発生します。みなさん避難してください」
「私も戦うわ」
中位以上の魔物が発する領域を魔界と言い、魔界の中は現実と切り離された別世界が広がっている。
魔力のない人間が迷い込むと、魔力の代わりに生命力が吸われてしまうため、魔物ハンターは魔界の中に入り、魔物を倒して魔界を消さなくてはならない。
私は……そんな魔物と戦うために、わざわざ両親の推薦する大学を蹴って、戦闘を学ぶ魔法大学に入学した。
「……私一人で十分です」
「魔力不足なんでしょ?」
杖を取り出して構える。
黒い瘴気が辺りに立ち込めてきた。
「通報いるか!?」
蘇芳が叫ぶ。
「いりません」
「いらないわ」
バンドマン達と共に蘇芳は避難した。
そして、黒い瘴気に部屋が完全に包まれた時、景色が変わった。
――そこは暗い、夜の森の中だった。
ごくり、と唾を飲み込む。
魔界に入ったのは初めてだった。
勉強で得た知識がどこまで通用するのか。
「お嬢さんの漏れた魔力で、魔界が強化されていますね……魔力を食すのに優れた領域ですか」
御影はやれやれと腕を組んだ。
「何それ……私、魔物ハンターに向いてないってこと?」
「制御が未熟、と申し上げています」
魔力漏れの制御なんて、普通習わないわよ!
「少なくとも、ドレスで魔界に入る方など見たことありませんよ」
しまった。
パーティドレスにヒールを履いたままだった。
ひとまずヒールを脱いで、動きやすくする。
湿った土の冷たさが足裏に触れる。
最悪だけど、ヒールで転ぶよりはましだ。
「注意事項はある?」
「……このタイプの魔界は、奇襲に優れていますので、背後にお気を付けください」
魔法は無駄撃ち出来ない。
撃ち漏らせば、魔力が魔界に還元されるだけだから。
だから、魔物ハンターは杖を武器に変えて戦う。
「術式展開。レイピア」
杖に魔力を通す。
光が走り、短い杖が細身の剣に変わった。
背後で枝が折れる音がした。
振り向かずに半歩ずれて、脇の下からレイピアを突き出す。
剣先は飛びかかってきた小型の狼の核を正確に貫いた。
「お見事」
御影を見ると、不思議な戦い方をしていた。
……鍵だ。
人の背丈ほどもある真鍮の鍵が、音もなく宙を舞っている。
御影が指先を動かすたび、鍵が狼を押し潰している。
「魔法……じゃないわね」
飛びかかってくる狼の核を貫きながら、御影を観察する。
意味がわからない。
術式も詠唱もない。
そんな魔法が存在するの……?
「……キリがありませんね。敵は消耗戦に持ち込むつもりです。お嬢さんが戦えば戦うほど、この森には上等な餌が撒かれますので」
餌……。
私の魔力のことだ。
……どうやって魔力の制御をすればいいの?
襲いかかる狼の気配を読みながら、魔力まで意識するなんて出来ない。
「まだ落ち込む必要はありませんよ」
「お、落ち込んでない!」
こんなの、練習すればすぐ出来るようになるんだから!
「現場で魔力漏れを完全に制御できる新人などおりません。問題は、制御できない時にどうするかです」
「どうするっていうの?」
沈黙が落ちた。
悩んでいるように、答えに間があった。
「……契約しましょう」
御影は、ひどく嫌そうに言った。
まるで、その言葉を口にすること自体が屈辱みたいに。
「この森に食わせるくらいなら、当ホテルでお預かりします」
ホテル……?
なんでここでホテルが出てくるの。
「つまり、あなたが私の魔力を使うってこと?」
「ええ」
その返事は、今夜聞いたどの言葉よりも重かった。
「だからこそ、契約が必要です」
ああ、そっか。
この人は私の魔力を欲しくないわけじゃない。
欲しいから、嫌なんだ。
……なんて、不器用な人なんだろう。
「私の魔力を使って。今度は、ちゃんとわかって言ってる」
御影は私を見た。
その目には、もう引き返さないと決めた覚悟があった。
「あなたを臨時宿泊客として登録します。期間は、この魔界災害が収束するまで。宿泊料として魔力を一部いただきます。その代わり……契約中、あなたに触れてよい魔物はございません。触れた時点で、当ホテルの規約違反です」
古い宿帳が空中に開いた。
羽ペンが私の目の前に降りてくる。
「名前を記入してください」
私が記入している間、彼が露払いをしてくれていた。
東雲陽毬。
書き心地が良い羽ペンと紙質だった。
黒いインクが宿帳に馴染んでいく。
「ホテル・ムーンレスナイトは、あなたを臨時宿泊客として受理しました」
パタンと宿帳が閉じて消えた。
「宿泊料を」
御影は左の手のひらを私に差し出してきた。
私はその手に右手を重ねる。
そのまま彼は私の手を取り、上品に指先にキスをした。
「!?」
私の魔力が吸われていく。
途端に、彼のくたびれていた服が、髪が、艶を取り戻していった。
「……申し訳ありません。魔界を顕現するには、今はこの方法が一番早かったもので」
薄く笑った彼は、場末で見た彼とは別人のようだった。
高鳴る胸が止まらない。
私は――見つけてはいけないものを、見つけてしまったのかもしれない。
「……そのくらい、構わないわ」
彼の顔から目を逸らす。
顔が赤くなっていないことを祈るしかない。
「ようこそ、ホテル・ムーンレスナイトへ」
その声と同時に、夜の森が塗り潰されて、明るいホテルのエントランスになった。
木々が柱となり、散りゆく葉が装飾となった。
窓の外は月のない闇夜が広がっていた。
魔界だ。
ここは、彼の領域なんだ。
ふわふわのカーペットが足元に広がる。
小さな狼達が逃げ惑い、家具や壁に押しつぶされていく。
「以後、この領域は当ホテルの管轄となります。ご予約のない獣は、速やかにご退場ください」
先ほど襲ってきたのとは違う、大きな狼が私たちの目の前に咆哮と共に飛び出してきた。
「あれが、親玉……」
「聞き分けの悪いお客様ですね」
親玉が爪を振り上げたが、その瞬間にはもう遅かった。
御影は指を下に振ると、床に穴が空いて狼は落ちていった。
「ふふ、強制チェックアウトです」
穴の底で、何かが砕ける音がした。
御影は若干楽しそうだ。
……外で見た時よりも少し傲慢になっている気がする。
「ホテルにいると性格変わるの?」
「失礼ですね。本来の私に戻るだけです」
「……あんなに経営難に喘いでたくせに」
ぽつりと呟くと、御影がこちらを見た。
「おや」
御影が、ひどく綺麗に、嗜虐的に微笑んだ。
「随分と余裕がおありですね。追加料金をお支払いいただいてもよろしいのですよ?」
私が目を細めて御影をじーっと見つめると、彼はふと息を吐いた。
目を閉じ、こめかみに指を添えている。
「……失礼。陽毬様の魔力は少々、私を童心に戻してしまうようです」
かわいい。
少しいじわるしたくなってきた。
欲しがっているくせに我慢する男なんて、つついたらどんな顔をするのか見たくなるに決まっている。
「ほら、私の魔力はまだたくさんあるわ」
御影に片手を出して様子を見る。
「陽毬様」
御影は私の手を取らなかった。
その代わり少し冷えた声で、私の名前を呼ぶ。
「当ホテルでは、支配人への餌付けを禁じております」
「餌付け?」
「ええ。味を覚えますので」
面白い。
もう覚えてるくせに。
「味覚音痴なの? 何泊泊まれば味を覚えられるのかしらね」
御影は、一瞬黙った。
「……すでに覚えておりますよ」
低い声だった。
私を見つめる目は、白状したと言うよりは逃さない、といった熱があった。
「ですから、禁じているのです」
しまった。
からかったつもりだったのに、こっちの胸がやられている。
こんなの、心臓に悪すぎる。
「ごめんなさい。もう言わないわ」
御影はそれ以上、追求してこなかった。
ただ私から視線を外し、指を鳴らす。
パチン、と乾いた音がした。
するとホテルの内装は解けて、元のライブハウスが現れた。
中位以上の魔物からは魔石が出る。
床の上に転がっていた魔石を、御影が拾い上げた。
「……追加料金はいただきませんが、魔石はこちらで処理します」
「売るの?」
「当ホテルの暖房費になります」
やっぱり経営難じゃない……。
相当魔力に困ってるのね。
「おーい御影! 終わったのか!?」
蘇芳がライブハウスに入ってきた。
「ええ。今日は疲れましたので、もう帰ります」
「あ、また泊まりに行ってもいい?」
御影は答えなかった。
しかし、振り返って私に名刺を渡した。
「お仕事のご依頼でしたら承っておりますよ」
――ホテル・ムーンレスナイト支配人、御影朔夜。
私はその名刺を大事に受け取る。
彼がライブハウスの扉を開けると、そこはムーンレスナイトに繋がっていた。
「では、また」
私は小さく手を振って、彼を見送った。
彼が扉を閉じた後、私も同じ扉を開けると、そこは雨の降っている路地裏だった。
まるで一夜の夢のような、そんな体験だった。
蘇芳さんにお礼を言って、傘をさして外へと出た。
*
――数日後。
私はまたあのライブハウスの前に立っていた。
彼は、最初に見た時と同じように階段へ腰を下ろし、煙草に火をつけていた。
くたびれた黒いジャケット。
退廃的で、場末によく似合う姿。
私は、場末でヤニを吸う男に一目惚れした。
けれど、もう騙されない。
私は知っている。
この人が、月のないホテルを従える支配人だということを。




