セレナ・スコット子爵令嬢の場合
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「私、少し気になっていることがございまして……」
放課後の対策課。重厚な扉が開くと同時に、アイリスが硬い声で切り出した。
「クラスメイトのことなんですの」
「どなたのことか、伺ってもよろしいかしら?」
デスクで書類をめくっていたアテナが顔を上げる。
「ええ。セレナ・スコット子爵令嬢ですわ」
「ああ、あの成績優秀な彼女ね」
「……ええ、これまでは、そうでしたけれど」
「今回は、違うと?」
「はい。学年で百番以内にも入っていないのです。常時五番以内をキープしていた彼女が、ですわ」
「それは……穏やかじゃないわね」
アテナの眉が微かに動く。
「サボっているようには見えないのです。ただ、最近はいつも何かに怯えるように顔色が悪くて。私から声をかけてはみたのですが、何も困りごとはないと、頑なに口を閉ざされてしまって……」
「私がお話をしましょう。生徒相談は私の表の職務ですから」
それまで静かに耳を傾けていたソフィアが、凛とした声で言った。彼女は対策課の一員だが、学園内では「生徒相談室長」という肩書きを持っている。
「まだ教室に残っていればいいのだけれど」
ソフィアはそれだけ言い残すと、流れるような動作で対策課を後にした。
西日に照らされた校舎を急ぎ、ソフィアが教室の扉をわずかに開けて中を覗く。放課後の静まり返った教室の隅。一人の男子生徒が、女子生徒の細い腕を強引に掴み、低い声で威圧的に何かを詰め寄っていた。女子生徒は肩を震わせ、石のように固まって俯いている。
「――少し、よろしいかしら?」
ソフィアが涼やかな声を室内に響かせると、男子生徒は弾かれたように女子生徒の手を離した。彼はきまずそうに視線を泳がせ、逃げるように教室を飛び出していく。
残されたのは、燃えるような紅髪を黒いリボンで丁寧にまとめた少女。アイリスの言っていたセレナの特徴と一致する。
ソフィアは威圧感を与えないよう、ゆっくりと、それでいて確かな歩調で彼女に近づいた。柔らかな笑みを湛え、歌うような静かなトーンで語りかける。
「急に驚かせてごめんなさい。私はソフィア。新しく生徒相談室の室長になったばかりなの。……頼りなく見えるかもしれないけれど、少しだけ、私に時間を預けてくださらないかしら?」
セレナの身体が、ビクンと強張った。拒絶の言葉が漏れそうになるのを察し、ソフィアは畳みかけるように、けれど優しく核心を突いた。
「私、去年の卒業パーティーで、王太子殿下に婚約破棄されたのよ」
その瞬間、セレナが弾かれたように顔を上げた。
学園、ひいては社交界全体を震撼させたあの騒動を知らぬ者などいない。目の前の美しい女性が、あの事件の「当事者」であるという事実に、セレナの瞳に激しい動揺が走る。
「そんな私が、あえて言うわ。私は絶対にあなたの力になる。……だから、私を信じて話してちょうだい」
放課後の静寂が満ちる生徒相談室。セレナは深く椅子に沈み、震える指先を膝の上で組んでいた。ソフィアは何も言わず、彼女の心が決まるのをじっと待った。
数分の沈黙が流れた後、セレナが震える手で自身の制服の袖をゆっくりと捲り上げた。
「……これを見てください」
差し出された白く細い腕には、目を背けたくなるような、どす黒い痣が幾つも重なっていた。
「これは、先ほどの彼が?」
「はい……」
セレナは絞り出すように頷いた。
「私の婚約者、ジェイソン・ドナパルド子爵令息です」
「彼は、いつもあなたに……?」
「ここ数ヶ月は、毎日のように。身体中、これと同じような痣だらけです」
「……それほどの怪我、メイドが気づくでしょうに」
「私が……口止めをしているのです。誰にも言わないでと、必死に頼み込んで」
「どうしてそこまで?」
ソフィアの問いに、セレナは自分の肩を抱きしめ、さらに小さく丸まった。
「喋れば、ただでは済まさないと。……今でも、あの方がどこかで見ているのではないかと、恐ろしいのです」
「ご両親に相談して、婚約を解消していただくことは考えなかったの?」
「何度も考えました。でも、もし解消できても、学園内で彼からもっと酷い報復を受けるのではないかと……」
「ならば、暴行の事実を突きつけて退学処分にすれば済む話よ」
「証拠がないのです。この痣だって、あの方がやったという証明にはならないと笑われました……」
ソフィアは奥歯を噛み締めた。魔道具の監視カメラに一瞬でも映っていれば……。だが、狡猾な男だ。先ほどの教室の隅のように、人目を避けて犯行に及んでいるのだろう。
「難しい状況ね。……けれど、もう大丈夫よ。この件は私と、私の信頼できる仲間に預けて。あなたを必ず守ると約束するわ」
ソフィアが断固たる口調で言い切ると、セレナの瞳から大粒の涙が溢れ出した。彼女は縋るようにソフィアの手を握りしめ、声もなく泣き続けた。
セレナがジェイソンに捕まらないよう、馬車まで送り届けたソフィアは、表情を一変させて対策室へと向かった。
対策室のモニターには、教室と相談室の一部始終が映し出されていた。
「これは、我ら『対策課』の案件と見て間違いなさそうね」
ソフィアが足を踏み入れるなり、アテナが鋭い視線を画面に向けたまま言った。
「ええ。婚約破棄を『される側』ではなく、『する側』としての対策ですわね」
アイリスも同意するように頷く。
「お二人とも、お手伝いくださるかしら?」
「もとよりそのつもりよ。あんな下劣な男、見過ごせるはずがないでしょう?」
アテナが不敵に笑う。
「まずは、あの男をセレナ様から引き離し、護衛することですわね」
アイリスはにっこりと、けれど温度のない笑みを浮かべた。
「その役目、私が適任かと思いますわ」
その後、三人は念のために監視カメラの全記録を精査したが、ジェイソンが暴力を振るう決定的瞬間は、どこにも残されていなかった。
翌朝、学園の車寄せで馬車を降りたセレナの前に、凛とした佇まいのアイリスが待っていた。
「おはようございます、セレナ様。今日は教室までご一緒させてくださいな」
アイリスは流れるような動作でセレナの隣に並び、一歩も離れようとしない。
(……もしかして、ソフィア室長が?)
不安げに横顔を窺うと、アイリスは「お任せください」と言うように、柔らかな微笑みを返した。
その鉄壁のガードは、休み時間も崩れなかった。
教室の入り口にジェイソンが姿を現し、苛立ちを隠さず「おい」と低く鋭い声をかける。反射的に立ち上がりかけたセレナの肩を、アイリスがそっと、けれど力強く押さえた。
アイリスは無言のまま、セレナの瞳をじっと見つめて首を横に振る。
ジェイソンは忌々しげに二人を睨みつけたが、衆人環視の中ではそれ以上の手出しができず、舌打ちを残して去っていった。
だが、放課後。執念深いジェイソンが再び教室に現れた。
「おい、セレナ! ちょっと来い!」
怒号に近い呼びかけに、教室内が凍りつく。しかし、アイリスは動じなかった。
「お待ちになって。あいにく、今日のセレナ様は私と先約がございますの。お話があるなら、また別の日になさって」
「うるさい! この女は俺の婚約者だ、口を出すな!」
「ええ、存じ上げておりますわ。……それが何か?」
アイリスの涼しげな問いかけに、ジェイソンは顔を真っ赤にして詰め寄った。
「だ、だから! 俺の言うことに黙って従っていればいいんだよ!」
その瞬間、アイリスの瞳に鋭い光が宿った。彼女はわざとらしく、教室中に響き渡るような高い声を上げた。
「まあ……! 皆様、お聞きになりまして? 『黙って従え』なんて、あまりに横暴が過ぎるんじゃございませんこと?」
静まり返っていた教室の視線が一斉にジェイソンへ突き刺さる。
逃げ場を失ったジェイソンは、怒りに任せて拳を固く握りしめ、アイリスの胸元へ一歩踏み出した。
「まあああ、恐ろしいこと! 皆様、ご覧になって! この方、私を殴るおつもりですわ! どなたか、助けてくださいませ!」
アイリスの悲鳴(のような演技)に反応し、正義感に駆られた数人の男子生徒たちがジェイソンを取り囲んだ。
「おい、ドナパルド。レディに手を上げるつもりか?」
「見損なったぞ」
冷ややかな視線と包囲網に、ジェイソンは「……フン!」と吐き捨て、逃げるように教室を飛び出していった。
「アイリス様、すごいですわ……あんな風に言い返せるなんて」
興奮で頬を上気させるセレナに、アイリスは静かに首を横に振って微笑んだ。
「いいえ。あなただって、本来はあんな男に屈するような方ではありませんわ。……今は少しだけ、あの方に自信を削られてしまっているだけ。でも大丈夫。すぐに、本来のあなたを取り戻せますわ」
その言葉は、セレナの冷え切った心に、小さな、けれど確かな灯をともした。
ちょうどその頃、アテナは意外な来客を迎えていた。
ガルシー王国のアストレア・ユースティティア女公爵。かつてアテナが留学していた折、その強大なカリスマ性に惹かれ、瞬く間に親友となった女性だ。
卒業パーティでの鮮烈な「婚約破棄返し」は、今もアテナの目に焼き付いている。理不尽な糾弾を、知性と気迫で完封したあの日のアストレアの姿は、アテナにとって理想の「強さ」そのものだった。
「いやあ、久しぶりに訪ねてみれば、校長室ではなく『理事長室』に通されるものだから、面食らってしまったよ」
懐かしい、鈴を転がすような、それでいて芯の通った声が隠し部屋に響く。
「ふふ、失礼いたしました。でも、ここが今の私の主戦場なんですのよ」
「ほう、ここがか」
アストレアは、壁一面に並んだ魔道具のモニターを興味深げに眺めた。アテナは微笑みながら、自身が置かれた状況と、この「対策課」を立ち上げた経緯を簡潔に説明した。
「――なるほど。実に見事な采配だ」
「ええ、理事長先生の決断には感謝しかありませんわ」
「もちろん理事長もだが、素晴らしいのはあなただよ、アテナ。己の地位や身の危険も顧みず、生徒を守るために立ち上がる。……相変わらず、教師の鑑だね」
「……そんなに褒めても、照れてなんてあげませんわよ」
「ははは! お見通しか!」
アストレアは豪快に笑い飛ばすと、ふと真剣な眼差しをアテナに向けた。
「ところで、今回は公務でこちらへ?」
「いや、別件だ。あなたは覚えているかな、我が家に伝わるあの術を」
「『ユースティティア式・絶対制圧体術』ですわね。忘れるはずがありませんわ」
「そうか。実はね、女性専用の道場をこの国にも作ろうと考えていてね。我が国ではこの術を広めたことで、理不尽な暴力に泣く女性が激減した。だから――」
「それですわ、アストレア!」
アテナは身を乗り出し、今まさに直面しているセレナの事件を語った。
「今、彼女に必要なのは、自分を守る技術と、折れない自信です。その両方を授けられるのは、あなたの体術をおいて他にありませんわ!」
アストレアは深く頷き、力強く拳を掌に打ち付けた。
そこへ、報告のためにソフィアとアイリスが戻ってきた。二人はアストレアが放つただならぬ威厳に息を呑み、思わず居住まいを正して深々と一礼する。
アストレアはそれを片手で制し、不敵な笑みを浮かべた。
「挨拶は抜きだ。……さあ、始めようじゃないか。セレナ嬢を救い出し、その愚か者を叩き潰すための、特級の『救済作戦』をね!」
翌日から、ソフィアとアイリスはセレナを伴いアストレアの元へ通い詰めた。
自分のためにこれほどの人々が動いてくれている――その事実が、セレナの凍てついた心を溶かしていった。
仮設の道場では、たおやかな女性門下生たちが、屈強な騎士たちを次々と床に沈めていた。力でねじ伏せるのではない。まるで見えない糸で操るように、相手の勢いを利用して転がしていくのだ。
「なぜ、あんなに軽やかに……?」
驚愕するセレナに、アストレアが不敵に微笑む。
「これは『柔』の理。力で抗うのではなく、相手の力を借りるの。筋力に頼らないこの体術は、まさに理不尽な暴力に抗う女性のためにあるのよ」
三ヶ月後。
セレナの瞳からは怯えが消え、凛とした光が宿っていた。背筋を伸ばし、前を見据える彼女の姿に、かつての面影はない。
ある昼休み、対策室に集まった仲間たちを前に、セレナは静かに、けれど鋼のような決意を口にした。
「……そろそろ、決着を付けたいと思いますわ」
アテナたちは深く頷き、アストレアから託された「切り札」をセレナに手渡した。セレナはそれを胸に抱きしめ、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「私、もう負けません」
運命の放課後。
いつも傍にいたアイリスが、あえてセレナを一人残して教室を去った。静まり返った教室に、獲物を見つけた蛇のような足音が響く。
「おい……とうとう一人だな」
ジェイソンが、下卑た笑みを浮かべてセレナの細い腕を掴んだ。
「その手を離してください。また、いつもの暴力ですか?」
俯くこともなく、真っ直ぐに射抜くような視線を向けられ、ジェイソンは逆上した。
「生意気なんだよ! お前は黙って殴られていればいいんだ。これは『躾』だ。マヌケなお前には痛みが必要なんだよ!」
ジェイソンの拳が唸りを上げ、セレナを襲う。罵声と共に何度も振るわれる暴力。しかし、セレナは倒れなかった。痛みを物ともせず、一歩も引かずに立ち尽くす彼女の姿に、ジェイソンの顔が恐怖と苛立ちで歪んでいく。
「――そこまでね」
凛とした声と共に、アテナたちが姿を現した。
ハッとしたジェイソンが逃げようとするが、出入り口は既に騎士によって封鎖されている。
「どけっ! 邪魔をするな!」
逆上して暴れるジェイソンを制圧しようとする騎士に、セレナの落ち着いた声がかかる。
「私にやらせてください」
その言葉を機に、ジェイソンがセレナに殴りかかってくる。
「ふざけやがってぇぇ!」
理性を失ったジェイソンが全力で振り下ろした拳を、セレナは最小限の動きでかわした。同時に彼の腕を取り、流れるような動作でその巨体を宙に舞わせる。
ドサリ、と鈍い音が響き、ジェイソンは冷たい床にうつ伏せに組み伏せられた。背中に膝を乗せ、完全に自由を奪ったセレナは、喚き散らす彼の耳元で冷ややかに囁いた。
「――弱すぎですわ、情けない方」
間もなく、ジェイソンは現行犯で連行されていった。事前に記録していた全身の痣の写真、そして今しがたの暴行の映像。逃げ場のない証拠と共に、彼は騎士団へと引き渡された。
数日後。提出された膨大な証拠と、決定的な現行犯逮捕により、ジェイソン・ドナパルドには法の裁きが下った。
日常的な暴行の事実を知ったドナパルド子爵家は即座に彼を除籍し、セレナとの婚約は完全に消滅した。子爵家からはスコット家へ丁重な謝罪がなされ、多額の慰謝料が支払われることで、この醜聞は公に決着を見たのである。
穏やかな陽光が差し込む対策室。
そこには、かつての陰りを感じさせないほど清々しい表情のセレナが立っていた。
「アストレア様にお借りしたこれ、本当に……驚きでしたわ」
セレナが愛おしそうに撫でたのは、アストレアから託された「守りの下着」。衝撃を完全に無効化する魔道具だ。あの日、ジェイソンの拳が何度自分を打とうとも、彼女は痛み一つ感じなかった。その揺るぎない「安心」が、彼女の反撃を支えていたのだ。
「私、今、心の底から幸せですわ」
セレナは窓の外に広がる学園の庭園を見つめ、屈託のない笑みを浮かべた。
「いつも足元ばかり見て、俯いて歩いておりましたから……。空の青さに今頃になって心を動かされております」
彼女の視線の先には、春の訪れを告げる色とりどりの花々が咲き誇り、柔らかな風が若葉を揺らしている。
長く暗い冬を乗り越えたセレナの心は、今、春の慈愛に満ちた光で等しく満たされていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
連載はちょっとしんどいのですが、
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また、アストレアの婚約破棄騒動については、コチラをどうぞ。
『婚約破棄された公爵令嬢、中身は伝説の敏腕検事でした』
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