放課後の決行、想定外の鼓動
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「今日の放課後決行」
アテナからその短い伝言が届いたのは、レオがセレナたちの監視を始めて三ヶ月が過ぎた頃だった。
レオは一人、アテナと交わしたあの日の会話を脳裏に呼び起こす。
***
「ジェイソン・ドナパルド……セレナ・スコットの婚約者です。ですが、もはや見過ごせる段階ではありません」
アテナのもたらした情報に、レオは焦燥に震えていた。傍らで聞いていたフィンは、あまりの衝撃に言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
「ま、待ってください。女性に手を上げるなど言語道断だ。すぐに捕らえて、吐かせるべきでしょう!」
血気にはやるレオを、アテナは静かな、しかし有無を言わせぬ視線で制した。
「あなたの義憤は理解できます。私たちも思いは同じ。
ですが、もし彼が口を閉ざしてしまったら? 彼は子爵家の令息であり、まだ未成年です。騎士団といえど、度を越した尋問は許されない。
だからこそ、今はまだ泳がせているのです」
アテナは淡々と、しかし確かな意志を込めて言葉を継ぐ。
「案ずることはありません。セレナは私たちが守ります。
……それに、彼女自身にも『時間』が必要なのです。今の彼女は自信を失い、泥濘の中にいる。
そこから這い上がり、自らの意志で婚約者を切り捨てる勇気を持ってほしい。
私たちがすべてを肩代わりするのは容易いことですが、彼女が自らの手で未来を勝ち取ることこそが、真の救いになると信じています」
「……なぜ、彼はあんな暴挙に及ぶようになったのでしょうか」
レオの沈痛な問いに、アテナは窓の外を見やりながら答えた。
「スコット家の跡取りは、一人娘のセレナだけ。
三男坊であるジェイソンにとって、この婚姻は婿入りを意味します。
……ここからは推測ですが、若さゆえの気負いもあったのでしょう。
家での立場を誇示したいという歪んだ支配欲。
そして何より、セレナの優秀さです。逆立ちしても敵わない彼女の才覚への劣等感が、彼を暴力へと突き動かした……。皮肉なものですね」
「……しかし、それはあまりに」
「ええ。稚拙で、卑劣。お話になりませんわ」
レオの言葉を遮るように、アテナが冷然と言い放つ。
「彼が心を入れ替えれば済むという次元ではないのです。彼の『暴力』という罪を明白に立証し、セレナの再出発を後押ししたい。そのために、あなた方の力が必要なのです。……ここぞという時、証人になっていただけますか?」
レオとフィンは顔を見合わせ、深く、力強く頷いた。
「もちろんです。証人だけでなく、我々にできることなら何なりと。今後も教室の監視を続けさせてください」
「ありがとうございます。心強いわ」
ようやく口を開いたフィンが、鼻息荒く宣言する。
「ぼ、僕にも話してくれて感謝します! ジェイソンの野郎、きっちり見張ってやりますから!」
その剣幕に、張り詰めていたアテナとレオの表情が、わずかに和らいだ。
***
(さて……ついに『放課後、決行』か)
騎士団控室で準備運動をしながら、レオはこの三ヶ月を反芻していた。
最初は怯えた小動物のようだったセレナが、日を追うごとに背筋を伸ばし、瞳に力を宿していく。アテナの言葉通り、彼女が自分自身を取り戻していく過程を、レオは特等席で見守り続けてきた。その変化への感慨が、胸に熱く込み上げる。
放課後。
レオは物陰に身を潜め、教室を注視していた。
アイリスが教室を後にする。それを合図にしたかのように、ジェイソンが姿を現した。
ジェイソンがセレナの細い腕を乱暴に掴んだ瞬間、レオは堪らず飛び出そうとした。だが、その肩を鋭い力で抑えられる。
アテナだ。彼女は短く首を振り、無言で「まだだ」と告げた。
しかし、ジェイソンが拳を振り上げ、それがセレナの腹部にめり込んだ時、レオの理性は限界を迎えた。一歩、踏み出そうとした瞬間――。
「っ!」
膝の裏を鋭い衝撃が襲った。
思わず片膝を突いたレオを見下ろしていたのは、平然とした顔のアイリスだった。彼女はレオの耳元で、密やかに、しかし断固とした口調で囁く。
「彼女は大丈夫です。もう少し、このまま」
レオは黙って頷くしかなかった。暴力に晒されながらも、一歩も引かずに立ち続けるセレナの姿。それを見守る時間は、レオにとっても身を削るような苦痛だった。
「――そこまでね」
ついに、アテナの制止が響いた。
ハッとしたジェイソンが逃亡を図るが、出口にはすでにレオが立ち塞がっている。
「どけ! 邪魔だ!」
逆上して向かってくるジェイソンをどう「料理」してやろうか。レオが拳を固めたその時――。
「私に、やらせてください」
凛とした声の主は、セレナだった。
「ふざけやがってぇぇ!」
理性を失ったジェイソンが彼女に飛びかかる。
全力で振り下ろされた拳を、セレナは最小限の動きで鮮やかにかわした。同時に彼の腕を取り、流れるような動作でその巨体を宙に舞わせる。
ドサッ、と重苦しい音が響き、ジェイソンは冷たい床に叩きつけられ、制圧された。
「……今までずっと、私たちを見守ってくださり、ありがとうございました」
不意に届いたその声は、春の風のように涼やかだった。レオは弾かれたように、声の主へと視線を投げた。
そこにいたのは、晴れやかな、どこまでも澄んだ微笑みを浮かべるアイリスだった。
(……え?)
レオの思考が、一瞬で真っ白に染まる。
つい数秒前まで、自分の膝を容赦なく打ち据え、冷徹なまでの鋭い眼光で戦場を支配していた「あの女騎士」と同じ人物とは、到底思えなかった。
陽光を透かす柔らかな髪、慈愛を湛えた瞳。先ほどまでの鉄の如き冷たさは霧散し、そこにはただ、仲間を想い、勝利を祝う一人の少女としての輝きがあった。
ドクン、と胸の奥が跳ねた。
それは単なる驚きではない。
喉の奥が熱くなり、肺に吸い込む空気が足りなくなるような、暴力的なまでの動悸。
自分より小柄なはずの彼女が、今は何よりも巨大で、不可侵の美しさを纏っているように見えた。
(……ずるいだろ、そんなのは)
その鮮烈なギャップに、レオは抵抗する術を持たなかった。
隠していた恋心が、防壁を突き破って溢れ出す。
痛いほどの鼓動を刻む胸を、レオは思わず片手で押さえた。自分の心臓の音が、静まり返った教室に響き渡ってしまうのではないかと、本気で危惧するほどだった。
しかし、そんなレオの窮地など露知らず、隣ではもう一人の男が「別の衝撃」に撃ち抜かれていた。
「…………す、すげぇ。……かっこいい」
フィンだった。
彼は口を半開きにしたまま、地を這うジェイソンを完璧な体勢で組み伏せているセレナを凝視している。その瞳は、もはや「心配」や「保護欲」を通り越し、気高い英雄を仰ぎ見るような、熱い崇拝の色に染まっていた。
「おい、フィン……?」
レオの掠れた呼びかけも、今の彼には届かない。
先ほどまで「守ってやりたい」と息巻いていたはずのフィンが、今やセレナの「強さ」の虜となり、その足元にひざまずかんばかりの勢いである。
(……お前も、かよ)
レオは苦笑まじりに、熱を持った息を吐き出した。
一人は、守るべきだと思っていた少女の、予想だにしない猛々しき美しさに。
もう一人は、冷徹な仮面の裏に隠されていた、花の綻ぶような微笑みに。
「……完敗だな」
誰にともなく零したその独白は、高鳴り続ける二人の鼓動にかき消されていった。
お読みいただき、ありがとうございました。




