王位よりも、世界を知りたくて
第一章 旅立ちの誓い
漆黒の長髪を背に流した青年が、城の訓練所で一人の剣士と向き合っていた。
四十代後半くらいの男で、無駄のない動きと落ち着いた眼差しが、歴戦であることを物語っていた。
青年――ハオは、武器を持っていない。
次の瞬間、床を蹴る鋭い音が訓練所に響き渡った。
一瞬で間合いを詰め、踏み込んだ体ごと、剣士の腹へ迷いなく掌底を叩き込む。
「ぐおっ……!」
剣士は呻き声を漏らし、体勢を崩した。だがすぐに剣を収め、素直に拍手を送る。
「ハオ、見事だ」
名を呼ばれ、ハオは背筋を伸ばして一礼する。
「ありがとうございます。ルドルフ先生」
「私が教えられることは、すべて教えたつもりだ。あとは君がどうするかだ」
「……僕が、どうするか」
「そうだ。ハオは王位を継ぐ資格を持つ者だ。
これまでの修練を、どう国民に示すか――それは君自身が考えなければならない」
「そうですね」
ルドルフは小さく頷き、懐から一つの首飾りを取り出した。
鷹の爪が三つ連なっている。
「卒業の証だ」
ハオはそれを受け取った。
ひんやりとした感触が掌に残り、静かに胸の奥へ沈んでいく。
「ハオ兄様ー!」
城に戻ったハオのもとへ、元気な声とともに妹のリディアが駆け寄ってきて腕に飛びついた。
「お、我らの可愛いお姫様のお迎えだぞ」
ルドルフの言葉に、ハオは小さく笑う。
「ですね」
「稽古終わった? 遊ぼうよー!」
「へへ、いいけどさ。その前にシャワー浴びさせてくれ。兄ちゃん汗だくだ」
「はーい」
ハオはルドルフに向き直り、きちんと頭を下げた。
「では、ルドルフ先生。ありがとうございました」
「こちらこそ。君を師事できて光栄だったよ。ではな」
そう言ってルドルフは城を後にした。
ハオはリディアと並び、自室へと戻る。
「リディア、少し待っててな」
「うん」
シャワールームで蛇口をひねると、白い湯気とともに湯が勢いよくほとばしった。
ハオはそれを頭から浴び、静かに呟く。
「……僕がどうしたいか、か」
湯とともに汗と熱を洗い流しても、答えのない思考だけが胸に残った。
三十分ほどして、髪をタオルで拭きながら部屋へ戻る。
「お待たせ、リディア」
「兄様、ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
小さな手が、当たり前のように兄を気遣ってくる。
ハオは苦笑しながら、その温もりを受け取った。
「ハオ兄様、これ読んで」
リディアが差し出してきたのは、天女巫女と闇龍の物語だった。
「リディアは、この話が本当に好きだな」
「うん! 大好きだよ。天女巫女様、すっごく素敵だもん!」
ハオは静かに本を開き、読み始めた。
序:闇龍エクリプス・ドラグナール
闇龍エクリプス・ドラグナール。
天地の狭間にて生まれし、最初の闇。
神々の光を憎み、命を喰らい、
世界を無へと還さんと欲したる存在なり。
されど神々、己が命を賭してこれを封じ、
闇龍を黄泉の底へと沈めたり。
されど封印は永遠にあらず――。
闇は常に、再び目覚める時を待つ。
しばし考え込んでから、リディアは小さく首を傾げた。
「でもさ、闇龍って……本当にいるのかな?」
「……いるかもしれないな」
「で、でも、お話の中の悪者だよね? ね?」
ハオは答えなかった。
——僕は、勝てるだろうか。
——この子を、守れるだろうか。
——もし本当に、闇龍が存在するとしたら。
「……ごめん、リディア。ちょっと父様のところへ行ってきていいか?」
「いいよ! リディアはカイ兄様と遊んでるね」
「ああ、そうしてくれ。また、あとでな」
ハオは静かに立ち上がる。
胸の奥に抱き続けてきた想いと願いを、今日こそ言葉にすると決めていた。
玉座の間の扉の前で、ハオは一度だけ深く息を吐いた。
そして、扉の前に立つ兵士に尋ねる。
「父上、いらっしゃいますか?」
「はい。王妃様もご一緒です、ハオ様」
扉が開かれ、ハオは玉座の前へと歩みを進めた。
「父上、母上。少しお話ししたいことがあります。今、よろしいでしょうか」
「ああ、いいぞ。どうした?」
ハオは一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「……僕は、旅に出たい」
「え? え、急にどうした?」
「エバン、落ち着いて。まずはハオの話を聞きましょう」
「すまん……続けてくれ」
「外の世界をこの目で見たいのです。この力が、どこまで通じるのかを確かめたい」
「しかしな……」
「十年間、ルドルフ先生のもとで修練を積んできました。その成果を、試したいのです」
父と母は、しばし言葉もなく視線を交わした。
「ハオ」
母が、静かに口を開く。
「私たちは、あなたの考えを頭ごなしに否定したくはありません。本当の理由を、聞かせてください」
「……王になることを、ためらう気持ちはあります。自由に生きたいという想いも、確かにある」
ハオは一度、強く拳を握りしめた。
「けれど、もし民が僕を選んだときに……少しでも恥じない王でありたい。そのために、世界を見たい。この身体で、感じたいんです」
「なるほど……」
父は腕を組み、低く唸った。
「外の世界を知ることは、王にとって確かに大切だ。私はお前に王位を継いでほしいと思っている。それは今も変わらん」
「ですが……」
母が言葉を継ぐ。
「無理強いはしません。あなたが、その覚悟を持てるようになるまで」
「うむ」
父はゆっくりと頷いた。
「一人で旅をし、自分と向き合ってこい。旅立ちを許可する」
「……ありがとうございます。父上、母上」
「ただし」
父は一本、指を立てた。
「民には、お前自身の言葉で説明するのだ。逃げるための旅ではないと、示せ」
「はい。覚悟のうえです」
「民への表明は、一ヶ月後にしよう」
父はそう言って、静かに息を整えた。
「お前も旅支度があるだろう。その間、この話は公にはするな。城内も同様だ」
「……わかっています」
「カイとリディアには、表明の前夜にでも話そう。あの二人にも、心の準備が要る」
「はい」
ハオは深く頭を下げた。
その一ヶ月が、ただの準備期間ではないことをすでに理解していた。
演説を二日後に控えた夕暮れ、ハオは静かに城下町へ足を運んでいた。
石畳の広場で、子どもたちを前に、ハオはハーモニカを吹く。
風に乗った音色はどこか力強く、それでいて胸の奥をそっと温める旋律だった。
この国の子どもたちは、皆ハオが大好きだ。
身分の差など気にも留めず、街に来れば自然と集まってくる。
肩車をせがまれ、木剣を渡され、名前を呼ばれる。
ハオは、その顔を見れば誰が誰だかすぐに分かった。
「ハオ様、もう一曲吹いてー!」
「今日はもうおしまいだ」
「えー! アンコールー!」
「……しょうがないな」
しばらく帰ってこられなくなる。
その事実を、言葉にする気にはなれなかった。
代わりに、ハオは息を整え、ハーモニカを口元に当てる。
流れ出したのは、少しだけ切ない旋律だった。
夕暮れの風に溶けるように、その音は静かに街へ広がっていった。
「また聞かせてね、ハオ様!」
「……ああ。またな」
その言葉に、偽りはなかった。
晩餐を終えたあと、王家専用の談話室に、父がカイとリディアを呼んだ。
カイが怪訝そうに聞く。
「何? どうしたの?」
「ハオが、どうしても二人に話しておきたいことがあるそうだ」
「ハオ兄様が?」
母が静かに頷く。
「お願いね、ハオ」
「……ああ」
ハオは一度、息を整えた。
「僕は、一ヶ月後にこの国を発つ。旅に出る」
「……へ?」
「た、旅?」
「何年帰ってこられないかは、正直わからない。でも……長い旅になると思う」
その言葉に、リディアの表情が崩れた。
「な、なに……ハオ兄様……?」
涙に変わりかけた声を、母がそっと抱きとめた。
「よしよし……泣かないで、リディア。お兄様のやることを信じて、帰りを待ちましょう」
「ごめんな、リディア」
ハオは目を伏せた。
「明後日、民の前でちゃんと話す。そのときに、全部説明する」
「……ずっとじゃないんだろ?」
カイが真っ直ぐに聞いた。
「ああ。帰ってくる。何年経とうとな」
「なら、僕は兄さんを信じるよ」
カイは微笑み、リディアを見る。
「な、リディア」
「……う、うん……」
「リディア」
ハオが名を呼ぶと、リディアは堪えきれず胸に飛び込んできた。
「絶対に……帰ってきてよ……」
ハオはその小さな背中を、そっと、しかし力強く抱きしめた。
「約束だ」
「……うん」
涙を拭いながら、リディアは笑った。
「リディア、信じて待つから」
演説の朝、ハオの心は不思議なほど澄み渡っていた。
民と話すことには、慣れている。
——僕らしく行こう。




