河童の仕返し
河童は鬼や天狗と並んで、最もメジャーな妖怪の一つである。
以前から複数の会社のキャラクターに使われているし、ユーモラスなイメージは人々に浸透している。河童を身近に感じる人はいても、怖いと思う人は少ないことだろう。
しかし、本来は人間の生き肝を食らったり尻子玉を抜いたりするという、とても陰惨で怖ろしい妖怪である。
実は、河童らしきものに関わったことがある。
あれは大学のゼミ合宿の時だった。宿泊地は海沿いの大きな寺。ゼミ合宿とは名ばかりで、内容は完全なレジャーである。海水浴や花火大会が予定に組まれていたほどだ。
かわいい女の子も一緒だし、僕は「青春」を満喫していた。
海水浴場は遠浅だと聞かされていたので、友人と一緒に沖に向かって泳いでみた。浜から50メートルほど離れた時、急に深くなった。水温も一気に低くなってきた。友人が沖に向かっていたので、僕は戻るように声をかけた。
何となく、不安になったからである。虫の知らせだったのかもしれない。
そのうち、友人の姿が見えなくなった。どうやら、潜ったらしい。海中で目を凝らしたのだが、澱んでいる上に視界がきかない。
もしかしたら、溺れたのかもしれない。このまま捜し続けるか、浜に戻って助けを呼ぶか、僕は立ち泳ぎをしながら少し迷った。
その時、左足にガクンと衝撃が来た。強い力で引っ張られたのだ。
はずみで思い切り、海水を飲み込んでしまった。あわてて態勢を立て直そうとするが、なかなか果たせない。左足を下に引っ張る力が弱まらないからだ。
必死に水をかいて、海上に頭出そうとするが、グイグイと引きずり込まれてしまう。
どうしても空気が吸えない。めちゃくちゃ苦しい。このままでは溺れてしまう。
何かが左の足首を掴んでいるらしい。そいつを思い切り右足で蹴りつけた。何度も繰り返し、蹴りつけた。
どうにか、足首の締めつけがゆるみ、海上に顔を出すことができた。
咳き込みながら立ち泳ぎをしていると、どこからか友人の声がした。
「大丈夫か、何があったんや」
さっきまで姿が見えなくなっていた友人だった。こいつに足を引っ張られたのか?
「今のは、お前がやったんか? 笑えん冗談やぞ」
友人はキョトンとしていた。足を引っ張っていたのは、彼ではなかったらしい。
それは訊く前から、何となくわかっていた。海中で一瞬だけ見たのだが、僕の左足首を掴んでいたのは、真っ黒な手と腕だったからだ。
太くて長い海藻がからみついたのではないのか? その可能性も吟味したが、それは絶対にありえない。足首を強く握られた感触を生々しく覚えているからだ。
ヌメヌメとした肌触りであり、まるで、真っ黒な河童に掴まれたようだった。
河童は水辺に通りかかった人や泳いでいる人を水中に引っ張り込み、溺れさせて尻子玉を抜く。生息地は川や沼が多いが、中には海に住むものもいる。付け加えるに、河童の色は緑や赤のイメージが強いが、黒い河童もいたらしい。
河童に襲われて溺れかけたなんて、誰も信じない。楽しいゼミ合宿に水を差すこともしたくなかったので、このトラブルについては、自分の胸に収めておくことにした。
花火大会の後、急遽、肝試しを行うことになった。
海辺の真っ暗な雑木林を男女のカップルで歩き、途中で隠れている連中が驚かすという、お決まりの内容である。ただ、男女の人数があわず、一人の男だけ単独で行くことになる。
嫌な予感が的中した。くじ引きによって、単独行は僕に決まったのだ。
雑木林の一本道には街灯が一つもない。懐中電灯は手にしているが、あたりは墨で塗りつぶしたような真っ暗闇である。明かりの届かないところは、何も見えない。
僕は慎重に歩き始めた。嫌な予感はずっと続いていた。
遊び半分で闇と戯れると、ロクなことが起こらないのだ。
それは突然おこった。足の下から地面が消失して、天地が逆転していた。後でわかったのだが、地面のない地点に足を踏み出し、急斜面を2メートルほど転がり落ちてしまったのだ。
蛇足だが、驚かし役の面々は暗闇に潜んで恐怖と戦っていたわけだが、最も怖かったのは、僕が突然消失したように見えたことだったらしい。
転がり落ちたのが草むらだったことが幸いし、大した怪我はなさそうだったが、しばらくしてから左足首が痛み始めた。
どうやら、ひねってしまったようだ。歩けないことはなかったが、足が地面につくとズキンと激痛が走る。
このため、ゼミ合宿の後半は、足首に湿布薬を貼って、ずっとおとなしくしていた。もっとも、その怪我のおかげで、女の子たちに優しくしてもらえたわけだが。
さて、病院で診察をしてもらうと、怪我は足首の捻挫だけでなかった。レントゲン写真を撮ったところ、左足の小指の付け根が折れていたのだ。全治2カ月。当分の間、松葉杖の世話になることになった。
ただ、二度目のトラブルについて、誰にも言っていないことが一つある。
実は、急斜面を転がり落ちる前に、僕は確かに左足を引っ張られたのだ。その時、左足首に感じたのは、海の中で溺れそうになった時と同じ、ヌメヌメとした感触だった。
真っ暗闇だったから、そいつの姿は見ていない。だから、そいつが河童だったかどうかはわからない。
ただ、僕は昼間に海中で、そいつから逃れるために、何度も蹴っている。強い恨みを買ったことは想像に難くない。そいつは仕返しをするために、暗闇に潜んで待ち構えていたと考えて、おそらく間違いないだろう。
その証拠に、急斜面を転がり落ちた時、僕は甲高い笑い声のようなものを耳にした。そいつが快哉を叫んでいるのを確かに実感したのだ。