第六十一話 宿屋の娘、覚悟を決める
時は少しだけ遡る。
グレンがモンクレール伯爵との晩餐を終え、ソアラに介助されながら部屋へと戻った頃である。
久しぶりに深酒をし、もは酩酊状態であったグレンは、この時点で意識がなかった。だが、不思議なもので人間とは酩酊状態で、意識が無くとも行動をするし、言葉も発する。それが自身の記憶に残っているかどうかは別の話として。
「うぇー……酔ったぁ、酔ったぜ俺はぁ~! 俺は、グレンだぁ!!」
「もう~、こんなに酔っぱらいなグレンさん、久しぶりに見たわ」
「はっはっはっ! そあらが三人にふえてらぁ! うっぷ……」
戻しそうになるグレンの前に、さっと桶を差し出すソアラ。なんとか気合いで我慢していたグレンであったが、どうにも抗えない奔流に身を任せ、そのまま桶に戻してしまった。桶を持って支えていたソアラの手にもそれがかかってしまうが、ソアラはそんな事はまったく気に介さず、グレンの心配をして声をかけ続ける。
「大丈夫よ、グレンさん。他の人は誰もいないから、思いっきり吐いちゃっても」
「うえ……すまんな、そあら」
「ふふ。なんだか、懐かしいなぁ」
誰に聞かせるわけでもなく、ソアラはポツリと呟く。
昔から、こうやって深酒で酔ったグレンの世話を何度かしたことはあった。そんな付き合いも、もう長いものだと懐かしむ。
グレンと出会ったのがもう十五年前になる。その頃の自分は、目の前で父を殺されたショックと、その原因が自分にあるという自責の念から、心を閉ざして声が出なくなってしまった。
父を失ったあの事件は、いまでもソアラの心の影となって、いつも背中にしがみついている。
最初は、イタズラのつもりだった。近くの街へと仕入れにいく為、その費用を押さえようと自ら馬車を駈り、街を出発する父を驚かそうと、ソアラは荷台の一角に隠れていた。
当初は街を出る前にネタバラシをし、門の所で馬車を降りて父を見送る予定であったのだが、その日イタズラをするために早起きをしたのがまずかった。ソアラはそのまま荷台の樽の影で居眠りをしてしまったのだ。
まさか、自分の娘が潜んでいるなど思いもしなかった父・ダニエルは、門の衛兵に荷台には仕入れで使う用の空の樽が載っていると申告。衛兵もいくつか樽を確認し、残りの樽も外から叩いたところ、空の音しかしなかったのでソアラはそのままスルーされてしまった。仕入れ用の樽が大きかったのと、ソアラがまだ小さすぎて、入っていた樽を叩いても空の樽と音が変わらなかったのだ。
樽を叩く音で目を覚ましたソアラであったが、時既に遅し。樽からなんとか這い出た頃には、既に街を出発して、見晴らしの良い平野を馬車は駆けていた。
その後は休憩で止まった野営場でダニエルに見つかり、怒られたりもしたが、いまから街に戻るのも時刻も遅いと、翌朝サースフライに引き返すことになった。
イタズラが思いがけぬ事態になってしまったと、ソアラも泣きべそをかきながら反省した。その様子にダニエルはこれ以上は怒れないと、ソアラを元気づけようと歌を唄ったり、妻にも子どもにも隠していたのだが、野営の焚き火で炙って食べるマシュマロの味が最高だと、マーサには内緒だよと一緒にマシュマロを焼いて食べたりもした。
それが、我が子にとって自分との、最期の温かい記憶になるなどと、思わないまま。
翌日の早朝。
心配をしているであろうマーサを思い、日が昇り始めると共にダニエルは馬車を走らせた。これが、親子の運命を分けた。
ククル王国は、近隣諸国に比べると治安は悪くない方ではある。平時であれば仕事はだいたい失くなることはないし、景気も落ち込む事も少ない。
だが、この数年は話が別だった。一次産業が主体のククル王国に於いて、自然の脅威というものはまさに人間にとって抗えない恐怖となる。
この年の前の年の夏は異例の台風年であり、夏の始まりと共に直撃台風がいくつも王国を襲った。これにより、自身の畑や田んぼを失った農民が幾人も出たり、村が廃村となる地域も少なくなかった。そんな農民崩れの中には、野盗に落ちる者もおり、ダニエル達はそんな野盗と遭遇してしまったのだ。
普段であれば、ダニエルはこんな早朝に馬車を走らせる事はなかった。というのも、街の近辺であれば、日中は領兵が巡回をして、野盗などを追い払ってくれる。なので、街から街への移動は日中に行い、夜は柵や門のある野営場へ入るのが常識だからだ。
しかし、ソアラが街を抜け出したことで、今ごろは捜索が始まっているかもしれない。そう考えたダニエルは、なるべく早く街に戻ろうと、慣れない早朝を選んで馬車を走らせてしまったのだ。
その結果。野盗に囲まれてしまい、仕入れ用の資金を渡すことを条件に命乞いをするも、無視されて殺害されてしまった。
目撃者も殺すしかないと、荷台にいたソアラもあわや殺されかけた。だが、その時に駆けつけたのが、ソアラを捜索すべく馬を走らせていたサースフライの衛兵達と、その道中で街に向かう途中で合流した、とある駆け出しの青年冒険者であった。
「……グレンさんは覚えていないと思うけど、実は街に来る前にあたしたち、会ってたのよ?」
「うーん、うーん……」
「……ふふ」
ソアラは思い出して微笑む。もう、これで終わりだと諦めていた時に、不器用ながら微笑んで頭を撫でてくれた、その男の顔を思い出して。その男はいまは隣でうんうんと唸っているが。
ソアラはグレンが粗相した桶を片付けたり、汚れた衣服の世話をしてやってベッドへと寝かしつけた。そして、自身の服にもその残滓がついているのに気がつき、いまなら誰も見ていないなとそれを脱いで、グレンの分の衣服も共に洗おうと部屋をでようとした、その瞬間。
「きゃっ!?」
ふいに後ろから引っ張られる感覚にあい、たたらを踏んだ。が、意識の外からの力が思ったよりも強く、そのまま後ろへと転ぶように倒れてしまった。
倒れてからその先がベッドだと気がついたソアラであったが、なにより驚いたのが自分の腰をがっしりと腕で抱えてベッドに倒れ込むグレンの姿であった。
「ぐ、グレンさん!? ちょ、ちょちょちょ、ちょっと、待って!!?」
焦った声でグレンを剥がそうとするソアラであったが、その腕の力は一介の街娘が剥がせるようなものではない。
と、その時。以前、グレン達と食事に出掛けていた、商業区の飲食店を営むニール&レーナ夫婦の、レーナがくれた助言が脳裏を過る。
『酔った時が、チャンスよ!』
聞けば、幼馴染みで仲が進展しないことに困っていたレーナは、酒の力を借りてニールを陥落したのだとか。その詳細は割愛するが、とにもかくにも、酒の力というものは偉大なのだ、と。
しかし、ソアラは焦った。グレンとそういう仲になりたい気持ちは、もはやこれ以上にない位に抱いている。はじめは、確かにグレンの言うように、亡き父の面影を探して年上の男性へ抱いた憧れだったのかもしれない。
だが、いま自分がグレンに抱いている気持ちは、嘘偽りのない本当の好意なのだ。
なので、もしグレンが求めるのであれば、それに応える覚悟はある。だが、一人の若い女としては待って欲しい部分もある。
手にも服にも嘔吐物がかかっているこの状況で、自身の大切な初めてを捧げたくはない、と。
しかし、この期を逃すと、こと恋愛には消極的を越えたなにかがあるレベルのグレンだ。もう次はないかもしれない。
ソアラの迷いは一瞬であった。
覚悟、完了。
一度覚悟が決まれば、腹を据えるのは男よりも女の方が強いもの。ばっちこいとばかりに、背後から自分の腰を抱き締めるグレンに、声をかける。
「グレンさんが、望むのなら……あたしはだいじょう……えぇ???」
おかしい。いつまで腰にしがみついているのだろうか?
そう疑問に思ったソアラが背後へと視線を向けると、そこには幸せそうな表情を浮かべ、そのまま寝息をたてるグレンの姿があった。
実は、ここ最近のグレンが密かにハマっているというか、元々はグレンへの温もりに飢えていたチルがベッドに潜り込み、一緒に寝ていたのが始まりではあるが、チルの尻尾がおもいの他抱き心地がよく、いまでは抱き枕代わりにしていた。
それを求めたグレンが手を伸ばし、偶然にもソアラを捕まえてしまったことで、チルの尻尾と勘違いして抱きついているのだ。
ひとつのベッドに、半裸の男女が一組抱き合っている。
字面で言えば、もはや情事の場面である。だが、実際はそんな事はなく、それに気がついたソアラが脱出を試みるも、グレンの腕の力が思った以上に強く、もはやそれも叶わない。
色々なことに諦めたソアラは、少し泣きそうな自分と、どこか安堵の気持ちを抱く自分がいることに気がつき、微妙な表情を浮かべる。が、まぁ、こんなものかと気を取り直し、久しぶりに……まだ小さい頃に、夜の寂しさからグレンのベッドに潜り込んだ時の記憶を思いだし、口角に笑みを浮かべる。
「おやすみなさい、グレンさん。明日の貴方にも良い一日がありますように」
なんとか体を捩り、グレンと正面を向くかたちへと持っていったソアラは、軽くグレンの頬に口づけをするのであった。
俺たちのグレンはやっぱりやりやがったぜ!(やっていない)
※ソアラの過去について、登場人物紹介を一部変更しました。




