第十五話 新人研究者と獣人の子ども、熊さんに出会った
「こんちわ! チルでしゅ!」
エミーは混乱していた。
今回のボルティモア大森林の実地研究は、当初の予想を大きく上回る発見があり、皆一様に見つけた成果を見せ合い、議論し、盛り上がった。
エミー自身も、途中まで同じく新人研究者のケーニッヒや、先輩研究員たちと語り合った記憶がある[要出展]。そうしている内に、これまた見たことのない成長の姿を見せている植物に出会い、他の研究員に声をかけて[本当に?]調査していたはずである。
なんということはない。エミーは自分の中では『他の研究員たちと会話しながら調査していた』、『その場を離れる際に他の研究員に声をかけた』と思い込んでいるが、目の前の事に集中していたエミーの『ちょっと、奥に行きます……』の声は、元々の小ささに加え更に一層小さくなり、誰にも聞こえていなかったのだ。
気がつけばぽつんと一人、最後尾……ではなく、最前線。ウェル達が潜っていたスケイルグリズリーと遭遇した場所……もはや奥地と言っても過言ではない領域に来ていたのだ。研究をしていない、普段のエミーは割かし周りの事や自分の事に目がいく人間である。
今回の探索に関しても、事前にあれこれ準備をしていた。それこそ、虫に刺されないよう液体薬を塗ったり、獣避けの香を携帯するアクセサリー。万が一の時の為の水と食料など、それを見た先輩研究員は苦笑を浮かべる程度には準備は万端だった。
そのこともあり、森の奥地に向かうほど増える毒虫だったり、小型から中型の獣に遭遇せず、奥地まで来てしまったのだ。
そんなエミーは、先程不幸にも黒塗りの熊の尻に頭から突っ込んでしまった。幸いにも熊のサイズがサイズだったので、頭から穴にブスリ♂とはならなかったが。だが、それにも驚いたが、何より驚いたのが、馬車で相乗りになっていたチルという女の子の事だ。
気づけば森の奥というこの状況にも焦りは感じるが、こんな奥地に子どもが一人居ていいわけがない。完全に自分の事は棚にあげてではあるが。
「えっと……チルちゃん、だったよね? お父さんは何処にいるのかな?」
「ん~? グレンおじちゃんのことでしゅか?」
「あ、お父さんじゃないんだ……そう、そのグレンさん。近くにいるの?」
「ちょっと待ってくだしゃいね……うむむむむ」
自分の両側のこめかみを人差し指で押さえて唸るチル。
(な、なにをしているんだろう……頭が痛いのかな? あれ? でも、なんか魔力が……)
エミーは辺りにふわりと漂う魔力の気配を感じとる。
研究職は今回の様に実地研究がある以上、いろいろと魔術を使う場面はある。軽い身体強化はもちろんのこと、探索の魔術であったり、属性魔術なども使えると便利だ、と言うより必須である。なので、研究員はそのほとんどが魔術が使えるよう訓練をしている者が多い。エミーもご多分に漏れず、魔術が使える。しかも、割りと優秀な分類に入るくらいには。
なので、いまチルが使っているのが恐らく探索の魔術でないかとあたりをつけた。が、実際は違う。そも、チルは魔術は使えないのだ。物心がついたころから森にいるチルには、スマイリー式呼吸法を身につける術はない。
「あっちでしゅ!」
だが、そんなことは関係ないとばかりに、自信満々に入り口方向を指差すチルに、エミーは少し表情を緩めて息を吐く。
「じゃあ、このまま二人で入り口の方に行こっか? あっちにグレンさんがいるんでしょ?」
「はい! あっちにグレンおじちゃんがいましゅ! でも……」
「ん? でも?」
「チルは熊しゃんを追いかけましゅ! お友だちが困ってたら、助けるでしゅ!」
「え!? ちょ、待って! チルちゃん!!」
制止しようとするエミーの手をすり抜け、森の奥へと駆け出すチル。
宙を掻いた手をさ迷わせながら、エミーは追いかけるべきか、入り口に戻るかを悩んだ。確かに、ある程度の自衛ができる程度には、魔術も探索についても学んでいる。だが、それでも自分は森に関しては、素人でしかない。このまま奥へ向かっても、命を投げ捨てるだけだ。
少し顔を合わせた程度の少女の命と己の命など、比べるまでもない。
しかし、エミーはチルを追いかけることを選んだ。
それは、子どもだけで森に行くことが危険だと思ったから。
それは、そんな状況を見捨てて逃げる事を、一人の大人として良しとしなかったから。
そんな高尚なものではない。
気になってしかたがないのだ。チルが発した『熊が友達』という発言が。それがエミーの脳細胞に電気を走らせ、自然と足を森の奥へと向かわせる。
そう……とどのつまり、エミーはある種の狂人であった。己の知的好奇心が満たせるのであれば、命は投げ捨てるもの。どこぞの世紀末四兄弟の次男も真っ青である。
道中腹が減ったと、チルが持参していた菓子や、エミーの持っていた携帯食料を開けつつ、二人はスケイルグリズリーの足跡を辿り森の奥へと進む。不思議な事に、進むなかで獣の姿は確かに見えた。だが、そのどれもが二人を……いや、チルを見ると、襲おうとはせずに、ただただ見送るばかりであった。
そして、二人が辿り着いたその場所には、五頭のスケイルグリズリーがいた。
青みのかかった大きな雄と、黄色がかった小柄な雌。そして、その周りをうろうろと、どこか不安げな表情で歩く二頭の小熊と、中心の木陰でぐったりとしている小さな小熊。
親二頭はチルたちに気がつくと、唸り声をあげて警戒を……しなかった。まるでチルにこっちに来てほしいとばかりに、頭を垂れて、小さく……何かを懇願するかのように、困ったような声で鳴いた。
「エミーお姉しゃん、行きましゅよ」
「え、え? で、でも……危なくはないんですかねぇ?」
「大丈夫でしゅ。熊しゃんたちは、チルのお友だちなんでしゅ」
腰が引けているエミーとは対称的に、チルはずんずんとスケイルグリズリーへと近づいていく。そして、ぐったりと寝そべっている小熊の前で座ると、眉を八の字に下げる。
「この熊しゃん、とても弱ってましゅねぇ。なんとかなりましぇんか?」
「えーっと……あぁ、確かに。うーん……なるほど、なるほど。うん、少し待ってくださいね」
小熊の様子を少し見たエミーは、荷物の中から水筒と塩の欠片、それから魔術で氷を作り薄手の布でくるむ。少しずつ小熊の口に水を流し、塩の欠片を削って舌に乗せてやり、氷を脇の下や首筋に当てて冷やしていく。
「これは恐らく熱中症ですね。人間ばかりがかかると思われがちですが、野生生物……獣とかでも十分かかります。水も不足気味ですし、近くの小川も干上がってるのかな?
どうも、今年の異常な猛暑に耐えられなかったんでしょう。そちらの二頭はこの子より少し早く生まれたのかな? 鱗状の体毛がもうしっかりと出来上がってるので体温調整が出来たんでしょうね。この子ももう少し大きくなったら大丈夫になるんじゃないですかね」
あんなにも腰が引けて、震えていたのにいまでは微塵もそんな様子が見られないエミー。生きたスケイルグリズリー……しかも生きた子どもという、普通に研究所で勤めていたら一生出会うことのない存在に、恐怖などとっくに消え去っていた。
そして、エミーは熱の魔術が使える。この属性は魔力量に応じて、熱の上げ下げが出来るのだ。属性魔術はある程度才能がなければ使うことはできない。が、そもそも学院を卒業し、王立の研究機関に入れる者は皆、それぞれ一芸に秀でる。むしろ、今年入ってきた新人に属性魔術が使えない者などいない。
また、まだ新人とはいえ、それでも生物学を学んできたエミーは、小熊の様子からその状態をある程度推測し、対処することができた。
様子を見ていると、徐々にではあるが小熊の表情も和らいで来たのが二人にもわかった。
「クゥ……」
「もう大丈夫だって! エミーお姉しゃんが助けてくれたよ!」
「ガウ……グワゥ」
「あぁ、えーっと、大丈夫ですよ。でも、出来れば涼しいところに連れていってあげてください」
「なるほどね! もっと涼しい場所に連れていった方がいいんだって!」
「グゥ……ガウ!」
「え? チルちゃん、もしかして……熊と話してる? 言葉がわかるの?」
「んぉ? わかるよ? え? エミーお姉しゃんはわからないの?」
なにを言ってるんだこいつは?とばかりに、首を傾げるチル。エミーはチルと親熊との様子を観察しつつ、脳内では色々な思いが交錯していた。だが、それは森に響き渡る咆哮によって断たれた。
『キョオオオォォォォォオオッッッ!!』
「うわぁ!?」
「な、なにごとですか!?」
一斉に巣から飛び立つ野鳥。木々の上の小動物は思わず足をとめ、そして直ぐ様に逃げるように地面に落ちて駆け出す。森全体が、その声の主を畏れ、逃げ惑う。
それは、三頭の小熊も同じだ。元気な二頭は弱った兄弟に寄り添い、自分も怖かろうにそれでもクッと鳴き声の咆哮を睨んだ。そして、母親はその我が子らを守るべく、立ちふさがる。幸いにも、鳴き声の主はまだ遠い場所の様だ。しかし、その主の近くに、大切な人がいることに気がついたチルは、急いで駆け出そうとする。
「っ! どこに行くの!?」
「グレンおじしゃんが危ないでしゅ!!」
「なんでわかるの!? それに……あんな恐ろしい鳴き声……あ、危ないよ!!」
「それでも、チルは行きましゅ!!」
流石に止めなければと、先程の反省を活かして胴をギュッと抱き締めて動きを阻止したエミー。それをなんとか逃れようとジタバタともがくチルだったが、そんな二人をひょいっとまとめて持ち上げるモノがいた。
「ガウ……ガウガウ、ガウッ!!」
青き鱗のスケイルグリズリー、その人……いや、その熊だった!




