29話
尖塔にたどり着いた。
聖騎士の詰め所には、大勢の兵士が忙しなく動いている。
魔物の襲撃に備えるため、簡易的な落とし穴や柵などを設けて拠点を作っている。
「フォークナスのように砦がないのがつくづく痛いですね」
ユリアンさんは、せっせと落とし穴を掘りながらそう言った。
私はひたすら涙の採取である。その横では、レオくんが出来上がった玉ねぎを回収して、大鍋で具沢山のスープを作っている。
戦いが始まればなかなか食事を取る暇もないから、今のうちにたくさん食べておくようにと、炊き出しをしてくれているのだ。
みんなにはそれぞれ涙を溶かし込んだ水の水筒が配られた。
これで少しでも怪我人がすぐに回復してくれて、死者が少なくて済めばいいのだけれど。
魔の大森林は不気味に静まり返っている。鳥の声すらも聞こえない。
「フィオラ様、大丈夫ですか? ここはあなたにとっては居るのも辛い場所のはずだ」
魔の大森林の方を見て、その気配の異様さに険しい表情をしている私を、ユリアンさんは心配そうに見やった。
「大丈夫です。かつてこの尖塔に居た私は孤独で無力だったけれど、今は仲間がいる。それに、私にはみんなを助けるためにできることがある。そう思うと、体の奥から力が湧いてくるんです」
強がりではない。私は心からそう思った。
森がざわめく。ざわめきが徐々に大きくなり、そして森の入り口が大きく波打った。
「来るぞ!」
瘴気を纏った真っ黒な魔物たちが、暗い森から飛び出してくる。
「弓兵、斉射!」
聖騎士団長の怒号と共に、弓が雨のように降り注ぐ。
矢は魔物たちに突き刺さり、その勢いを押し留めた。鏃に括り付けられた小瓶が割れ、涙を溶かし込んだ水があたりにぶちまけられる。
「グオアアア!」
その聖水に当たった魔物たちは、まるで酸で焼かれたかのように苦痛の呻き声を上げて溶け出した。
「いいぞ! そのまま押していけ! 柵を越えた魔物は絶対に後ろに通すな!」
落とし穴が転落した魔物で埋まりきり、柵も徐々に破壊されていくが、こちらの兵士たちも負けてはいない。
弓で撃ち漏らし、柵を越えた魔物を、ユリアンさんは怒涛の勢いで屠っていった。
流石に元国境魔物討伐隊の隊長だけあって、強さは格別だった。
私は拠点の後方にある簡易的な救護所にて、怪我人に涙を供給していく。涙で回復できるから、斃れていく魔物に対してこちらの兵の損耗はない。
とはいえ、戦いの緊迫感によってすり減る精神はどうしようもなく、徐々に疲労が目立っていった。
第一波を乗り切り、第二波を乗り切り。それでもなお魔の大森林の異様な雰囲気に変化は見られない。
「まだ、敵がいるのか」
一時的に魔物の侵攻が止んだものの、これで勝利とはまだ思えなかった。
それから二晩が経過した。
断続的に魔物が森から出てくるものの、大きな波は発生しない。徐々に、「これで終わりか?」と兵たちの間でも緩んだ空気が流れてくる。
しかし、普段は森に溢れかえっている鳥の声は、いまだに聞こえなかった。
柵の修繕を行ったり、炊き出しを食べたりなど兵たちがそれぞれに過ごしている中。
ざわり、と森が鳴動した。
その気配だけで、腰に力の入らなくなる兵までも出る。
のそり、のそりと森から出てきたのは、背の高い木に等しいほどの大きさを誇る、巨大な魔物だった。
「な、なんだ……あれ……」
あんなもの、人間が勝てるわけがない。
それでもユリアンさんはじめ、精鋭たちは剣を取り立ち向かう。
無事で、どうか無事で……と思いながら、私は拳を握りしめた。
戦いは熾烈を極めていた。涙を何度も何度も補給しながら、かろうじて戦線は崩壊せずにいる。
ぶん、と怪物の腕の一振りで3人の兵士が振り飛ばされる。
足を切り付けても、あまりにその足が太すぎて動きを止めるに至らない。急所がどこにあるかもわからず、ただ闇雲に削っていくような、そんな戦いぶりであった。
一人、また一人と、疲労のために立ち上がれなくなり、最後に立っていたのはユリアンただ一人だった。
「だめ……、だめ……、ユリアンさん、逃げて!」
魔物がその巨大な豪腕を振り上げる。
ああもうだめだ、と私が目を瞑ったその時。
ひゅん、と弓の風を切る音が聞こえた。
魔の大森林から、砦の面々が続々と現れる。
「たいちょぉ〜。無事っすかぁ!」
「たいちょお! 会いに来ましたよ愛しのたいちょお!」
少し戯けながら、懐かしい人たちが森の中から飛び出してきた。
「お前たち! 一体どうして!」
「砦の方が落ち着いたので、こちらの様子を見に来たのです。我らが聖女様もこちらにいらっしゃるかと思いまして」
なんと、砦の方では魔物の襲撃が収まったので、森の中で魔物を倒し、瘴気を浄化しながらこちらまで来てくれたというのである。
「みんな……」
私は玉ねぎを刻まなくても、涙が止まらなくなった。
これを溢しては勿体無いと、レオ君が慌てて水筒に回収してくれる。
「さあ、いっちょやりますか!」
そこからは獅子奮迅の働きだった。
ユリアンさんの指揮で、隊全体がまるで一つの大きな生き物かのように自由自在に動く。
連携は素晴らしく、右側方から回り込んだ一団が魔物を押せば、左前方の隊員が魔物に縄をかけ引きずり倒す。
転倒した魔物に飛び乗り、めちゃくちゃに振り回される豪腕を掻い潜って、ユリアンさんは魔物の首筋を掻き切った。
ぶわり、とその傷から黒い靄が吹き出し、ユリアンさんが瘴気に包まれる。
「隊長!」
「ユリアンさん!」
ユリアンさんの体が黒く染まり、瘴気に呑み込まれるか、というその時。
ユリアンさんと目が合い、ふわりとその瞳が優しく細められた。
私の瞳から、ぽろり、ぽろりと涙が溢れ落ちる。
涙は地面に吸い込まれることなく、宙をふわふわと漂った。
私とユリアンさんとの間に、涙の雫がキラキラと舞い、虹を作る。
虹はどんどんと大きくなり、拠点を、森を包み込む。
虹の光に包まれたユリアンさんは、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「フィオラ様、お怪我はありませんか」
「あなたこそ、あなたこそお怪我はありませんか?」
「ええ、俺はあなたのおかげで無事ですよ。愛しい人」
わ、と歓声が上がった。
ついに、戦いは終わったのだ。




