21話
もうあの頃の私ではない、と思う。
涙を採取しようと爪を剥がすトイフェル相手にも、私は一滴も涙をこぼさなかった。
その様を見せつけられた母がボロボロ泣いていたのには、あまりにも胸が痛んだけれど。家族を連れて、無事に逃げる。そのために私は必死で頭を捻っていた。
「ご不浄へ行かせてください」
小さな山小屋の中にはそんな設備もついていない。もよおしたら山の中でするしかない。流石にそこまではついてくるつもりはないらしく、監視の目も緩んだ。
昨日、このあたりで見つけたのだ。
魔の大森林を彷徨っていた時に、ユリアンさんが「燃やすと毒煙を発するから気をつけろ」と言っていた花を。
その花をこっそりと服の隙間に隠し持つ。
もちろん毒煙を使えば敵だけではなく私の家族も巻き込んでしまう。
でも、大丈夫。私には涙があるから。
今日はトイフェルがどこかへ出かけている。監視の男達もトイフェルの護衛として半数がたがついて行ったようで、監視の目も緩んでいた。
深夜遅く、見張り番も眠気でぼうっとしている隙に、暖炉の中へ花を投げ入れた。
「ん? なんだかやけに煙いな」
そう見張りの男が発言したその一瞬後には、男は昏倒していた。
でも、私に毒は効かない。聖女だから。
両親と弟も毒煙を吸い込んで苦しそうにしているけど、待っていて、すぐに助ける。
見張りの男からナイフを奪い取って、後ろ手に縛られた縄をなんとか切る。
そのまま両親の元へ駆け寄り、うつ伏せに倒れているのを仰向けにして、その口元に顔を寄せた。
涙なんて、出そうと思えばすぐに出る。
——会いたい、助けて。愛しい人。
私の心の柔らかくて脆い部分に、そっと触れて撫でてくれるあの人を思い浮かべれば、ぽろぽろと当たり前のように涙が溢れてきた。
ついこの間まで、心なんてとっくに死んで、涙も枯れ果てたと思っていたのにね。
両親と弟のロルフの口に涙が吸い込まれると、しばらくして彼らは目覚めた。
彼らの腕の縄も、さっさと切ってしまう。
ずっと縛り上げられていたから、痛いよね。私のせいで、ごめんね。
さあ、早く逃げなくては、彼らの目標は私。でも、私は捕まってもなんとでもなる。殺されることはない。でも、私の家族が人質にされてしまえば、いくら強いユリアンさん達だって手も足も出なくなってしまう。
だから、逃すなら彼らが優先だ。
「私が囮になって逃げるから、みんなはその反対方向へ逃げて。涙を混ぜた水袋も渡しておくね。万が一の時はこれを飲んで」
見張りの腰に下げられていた水袋を奪い、その中に涙を溶け込ませる。
「そんな、フィオラ一人を囮にして逃げるなんて出来ないわ」
泣きながら抵抗する母に、人質の危険性を言い含めた。
家族が捕まっていれば、私もユリアンさん達も一網打尽にされてしまう。一方で家族さえ逃げれば、外的な要因では死ぬことのない聖女である私一人、人質にとったって意味はない。ユリアンさん達が必ず助けてくれる。
「だからどうか、逃げて」
「フィオラ、ああ、フィオラ」
きっとまた、会いましょう。紹介したい人がいるの。今はまだただの聖女と騎士だけど、もし関係が変わったら、一番にあなた達に話したい。
ぽろぽろと泣き濡れる家族を、それぞれぎゅっと抱きしめて頬にキスをした。
小屋の扉を開けて、外に出る。
そろりそろりと外に出ると、私を探す追っ手を警戒していた見張りは、小屋とは反対側を向いていて、小屋の異変には気づいていない様子だった。
それに乗じて、小屋から徐々に離れていく。十分に距離を稼いだところで、わざと転んだふりをして、悲鳴をあげた。
「な、聖女! 貴様、どうやって逃げた」
見張りの男達がこちらに気づいた。
半数はこちらを追ってきて、半数は小屋の内部の様子を見にいったようだ。小屋を見に行った方は、毒煙で倒すことができるだろう。
運がいい、こっちに来ている追っ手は4人。
慣れない山の中で、なかなか距離を離すことはできないけれど、暗闇の山の中で困っているのは向こうも同じ。
振り切って茂みに隠れながら進んでいけば、向こうも私を見失ったみたいだ。
あとは家族が闇に乗じて逃げ切ってくれればいいけれど。
朝日が昇るまで、私は山の中を移動し続けた。
に、逃げ切った。
けど、遭難した。