74話 貧民街のネクロマンサー
華やかな王都の裏側にある貧民街。
この腐臭漂うボロ小屋でナターシャは生まれた。
子どもというのは本来、雨風をしのげる家に住み、かわいらしい服を着て、両親と笑って暮らしているものらしい。
だけどナターシャは父親の顔すら見たことがない。母親は笑ったり、怒ったり感情の起伏が激しい人だったと思う。笑っている時は、いつもナターシャを殴っている時だった。
思い出したように、ナターシャは腫れ上がっていた頬をさする。もう痛みはない。枯れ草を敷いたベッドで母親が眠ってからしばらく経つ。もう五日くらいか。
「お姉ちゃん、お母さん起きないね」
ナターシャの隣。同じように膝を抱えて座るモニカが呟く。モニカはナターシャの三つ下の妹だ。
「そうね」
何度このやり取りをしただろう。
ナターシャは壁に身を預け天井を見上げる。ミシッという木材の悲鳴が、視界を飛び交う羽虫の音に混ざった。
「お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「いつもモニカのこと、守ってくれてありがとね」
ベッドに視線を固定したまま、淡々とモニカは言った。母親譲りの薄い耳が、傷んだ髪に包まれている。
あと何日生きられるのだろう。
市場のパンを盗みに行くどころか、立ち上がる気力すら湧いてこない。
せめてモニカだけでも生きてほしいと言い聞かせてきたが、もう限界が近いようだ。
「お姉ちゃん、お母さん起きないね」
「そうね」
膝の上に置かれた頭は一点を見つめ、壊れた人形のように同じ動作を繰り返す。数日前からこのありさまだ。
意外にもモニカは、暴力を振るう母親のことが大切だったらしい。子どもにとって母親はどこまでいっても母親なのか。ナターシャもその子どもなのだけれど。
ナターシャは鼻で笑うと、自身の汚れた膝頭の間に顔をうずめた。
もういいか――
空っぽの胃を、諦めという感情で埋めてしまおうと思った。その時だった。
「ナターシャ、いる?」
ノックもなく開いた扉から、外の光とともに一人の少女が入ってくる。
丁寧に結われた髪。汚れのないシャツに花柄のスカート。同い年の女の子は普段からこんな格好をしているのかと、いつも妬ましく思う。
「何の用? マリエラ」
「今日はとっても良いことがあって…… って、何ここ」
マリエラは鼻をつまんで部屋を見回す。ベッドで横たわる母を見つけると、恐る恐る近づいた。
「この腕の模様は…… レーゲの病ね」
「何それ?」
「呪いのように恐ろしい病気よ」
「そうなの」
言われてナターシャは、母親の体中にひし形のあざがあったことを思い出す。そうか、病気だったのか。
関心を持たないナターシャに、マリエラはゆるりと笑みを作る。
「良かったね、お母さん死んで」
「うん……」
ナターシャは何のためらいもなく肯定した。子どもとして正しい返答だとは思わないが、ナターシャはそうなのだ。
ぶたれた頬を洗うように何度もさするが、やはり痛みを感じない。そうか、やっと解放されたのか。
「でも、モニカがおかしくなっちゃって」
だが同時に、失うものもあった。
ポンと小さな頭にナターシャは手を置いたが、モニカは特に反応を示さない。マリエラが家に来てからも、モニカはベッドから視線を動かすことはなかった。
「モニカちゃん…… でも、美味しいもの食べたら元気になるよ」
「その美味しいものがないんでしょ」
ナターシャが怪訝な視線を向けると、マリエラはなぜかニマニマと頬を緩ませた。そして、スカートのポケットに手を伸ばす。
「じゃーん! 家にあったブレスレット」
得意げに取り出したのは、小さな宝石を散りばめた銀色の腕輪だ。大きさからして、マリエラの所有物ではなさそうだが。
「また盗んできたの?」
「盗んでないよ、家に置いてあったやつだから」
それを盗んだと言うのでは、と喉から出かかった言葉をナターシャは飲み込んだ。マリエラは自分の行いが咎められることをえらく嫌う。
「それでね、さっき盗品蔵に見せにいったんだけど、これ、金貨二枚もするんだって!」
目の前に掲げたブレスレットを、うっとりとした目でマリエラは見つめる。自分で盗品蔵と言ったのを、ナターシャは聞いていないことにした。
「大金じゃない」
「そうなの。これでみんなのご飯をたくさん用意できるわ」
太陽のような眩い笑顔で、マリエラはブレスレットを抱きしめる。
マリエラの指す『みんな』とは、貧民街の子どもたちのことだ。この王都のお嬢様は、たまに家の物を勝手に持ち出しては、食料に変えてナターシャたちに配り歩いている。
配り歩いているといっても、大人に見つからないようにだ。見つかってしまえば取り上げられるのは目に見えているし、マリエラ自身の身も危ない。その辺は彼女もちゃんと理解している。
この前は、母親に隠れてモニカとサンドイッチを分けて食べた。「おいしいね」と欠けた歯を見せ笑うモニカの顔を、今でも鮮明に覚えている。
「どうしてマリエラは食べ物をくれるの?」
なんでこんな事をするのか、ナターシャにはこれぽっちも理解できなかった。慈善活動が好きなんだとしても度が過ぎている。あるいは、貧民街の子どもを自分のペットか何かと勘違いしているのか。
ジロリと睨みつけると、マリエラは快活に笑う。
「だって子どもは幸せにならないと」
さも当たり前かのように言い放つ彼女に、ナターシャの背筋は凍りついた。
そんな綺麗事は童話の中だけにしてくれ。
現実は違う。ここに幸せなんてない。死にたくないから、今より苦しみたくないから生きている。それだけだ。
飢える苦しみも、全身の感覚がなくなる冬も、明日死ぬかもしれないという恐怖もマリエラは知らないのだろう。
「いつかここに孤児院を作りたいのよね。全員とはいかなくても、できるだけみんなを守ってあげたいの」
ブレスレットを握りしめ、マリエラは祈るように両手を合わせる。
目の前の世間知らずに言いたいことは山程あるが、ナターシャはその全てを胸の中にしまった。
だってナターシャも、マリエラに生かされている子どもの一人だから。
「いい夢ね」
「そうでしょ」
そしてそんな自分が、マリエラよりも嫌いだ。
モニカを守れない自分が大嫌いだ。
「すぐにでも食べ物を持ってきたかったんだけど、今は盗品蔵に買取金がないみたいなの。だから明日まで待ってね」
「うん……」
「じゃあね、ナターシャ、モニカちゃん」
マリエラはニカリと笑みを見せ、家を飛び出していった。
毎度毎度、嵐のような奴だ。この行動力があれば、本当に貧民街に孤児院を作ってしまうかもしれない。
もし、自分が産まれるのが十年も後だったら。
ふと脳裏に浮かんだ情景を、ナターシャは慌ててかき消した。あんな気味の悪い奴に世話してもらうなんて、考えただけでぞっとする。
でも――
「お姉ちゃん、お母さん起きないね」
「そうね」
もう一度モニカの笑顔が見られるなら。あと一日くらい、生きてもいいか。




