78話 目の無い人形
「約束が違うだろナターシャ! これはどういうことだ!」
静寂に包まれた夜の王都に、怒りに震える声が広がっていく。興奮する俺の口を塞ぐように、ネルンは突きつけていた戦鎚をぐいと喉元へ押し込んできた。
取り乱す俺を冷めた目で見ながら、ナターシャはため息をつく。
「だいぶ混乱しているようだけど、リゼちゃんには何もしていないわ。少し眠ってもらっているだけ」
「眠っているだけ……?」
歩みを進めるおさげのメイド。その腕の中で、リゼはすやすやと寝息を立てていた。
俺は深く息を吐き出して崩れた壁に身を預ける。冷たい瓦礫が、熱くなった体を冷やした。
よかった。サリーと同じようにリゼも俺から離れていくのかと、心が張り裂けそうだった。
「でも、これからリゼちゃんがどうなるかは、あなた次第なのよ」
「おい…… 何を言って……」
おさげのメイドがナターシャの隣で止まる。痩せたリゼの頬を、ナターシャは指先で包むようになでた。その様子を羨ましそうに、背の高いふくよかなメイドが眺めている。
「これからも私に協力しなさい。断ればどうなるかは、言わなくてもわかるでしょ」
ナターシャはリゼに視線を落としたまま、指先をピンと伸ばす。そして、優しくなでていた頬に爪を沿わせた。
「やめろ! ナターシャ!」
果実の薄皮を剥くように、一筋の線が顎に向かって伸びていく。少し間をおいて、真っ赤な血が傷口からたらりと溢れだした。リゼは寝苦しそうに顔をしかめるだけで、目を開ける様子はない。
「もうやめてくれ…… 何でも言うことを聞くから」
ピタリと止まるナターシャの指。にんまりと口角を持ち上げながら、彼女は絶望に染まる俺に視線を戻す。
「そう言ってくれて嬉しいわ。私だって、本当はこんな事したくないのよ」
嬉々としてナターシャは重ねた両手に頬をのせた。
「リゼちゃんはちゃんと貧民街の連中からは護ってあげるから」
にこやかに微笑みながらナターシャは言う。
俺が高価な薬を持っていたことは、貧民街の奴らに知れ渡っている。あいつらは金のためなら簡単にリゼを拐って俺を脅すだろう。
そんな脅威から身を守るために、リゼをこの屋敷に置いてもらった。ナターシャが不在でもメイド達が戦えるからと。俺は深く考えず、それを受け入れた。
でも、初めからリゼは人質に取られていたのだ。俺をどこにも逃さないために。
「わかった…… わかったよ……」
溢れる涙を抑えるように、俺は歯を食いしばる。自分の弱さを改めて思い知らされると同時に、見えていた世界はより黒く染まっていく。
全部俺のせいだ。俺に力がないから、妹たちを救えない。
「あっ、そうだわ」
楽しそうに俺を見下ろすナターシャは、指をくるくると回して続けた。
「やっぱりダレスを殺すってのはどう? それをリゼちゃんには黙っておいて。帰ってくることのない兄を、そうとは知らずに健気に待ち続ける妹。いいわね、最高だわ」
ナターシャは頬に沿った髪を両手で抱きしめ、興奮したように吐息を漏らす。
「狂ってる……」
「知らなかった? 私は初めから狂ってるわよ」
俺の嫌味など気にするどころか、ナターシャはご機嫌に鼻を鳴らした。
『ナターシャ様、さすがにそれはなりません』
「やっぱりだめ、スイ?」
リゼを抱えたおさげのメイド、スイはコクコクと頷く。直接脳に響く声色は、ナターシャのように狂気に満ちたものではなかった。
『ダメです。レスティー様を復活させる計画が破綻します。それとエイラ、さっきから顔を近づけすぎ。リゼちゃんから離れなさい』
『だってスイばっかりずるい』
背の高いふくよかなメイド、エイラはリゼから視線をスイに移し、頬を膨らませる。ナターシャは二人のメイドのやり取りに、クスリと笑みをこぼした。
「私のメイドたちに感謝することね。本当に優しい子ばかりだから」
主の視線を感じ取ったのか、俺に突きつけたネルンの戦鎚がピクリと揺れる。
ナターシャには敵わないと、心の中の自分が語りかけてくる。そりゃそうだ。死を覚悟して挑んだ結果がこのザマなのだから。
もがけばもがくほどに、俺はナターシャの作り出した沼の底へと落ちていった。
「戦いは済んだようですね」
壊れた門から、夜の闇に混じって人の影が近づいてくる。地面を踏みしめるたび、身に着けた貴金属がジャラジャラと鳴り響いた。泥棒だとしたら自己主張が強すぎるが、あいつは――
「ランドハイム……!」
「おやおや、私のことを覚えていましたか。あなたのことはナターシャから聞いていますよ、ダレス君」
屋敷の明かりが、ランドハイムの胡散臭い作り笑顔をぼんやりと照らす。
こいつは、俺の親友ガインにわけの分からない罪をなすりつけて焼き殺した貴族だ。ただひたすらに憎いこの男を忘れるわけがない。
「予定の時間にはまだ早いんじゃなくて?」
「そうですが、王都の中心があまりに騒がしいものでね。何事かと思いましたよ」
ナターシャに言いながら、ランドハイムはちらりと俺を見やる。身に着けたアクセサリーに負けない金色の長髪が静かに揺れた。
「どうです? 例のものはそろそろ完成しそうですか?」
「数日前にも言った通りよ、あともう少し待ちなさい」
「そうでしたか? 楽しみがあると時の流れが緩やかに感じますね」
不快そうに眉をひそめるナターシャ。ランドハイムは気にすることなく笑顔を振りまく。
例のものってなんだ? こいつら何を企んでいる。
「立ち話もなんですから、屋敷に入れてもらえますか。もちろん、ダレス君も一緒に」
「私の家を自分のものみたいに言わないでくれる? それと、ダレスはもう限界だと思うわよ」
「……俺はまだ……!」
ランドハイムを前に、くすぶっていた怒りの炎が再び燃え上がる。だが、自分の意思と逆らうように視界が段々とぼやけだした。鉛のように重たい瞼の隙間からは、こちらに歩み寄るナターシャの足だけが見えている。
「ポーションも万能ではないわ、完全に体を治すには休息が必要なのよ。今はゆっくり休みなさい」
耳元をくすぐる甘い声。さらに遠のいていく全身の感覚。ナターシャはフフと笑みをこぼして続けた。
「ダレス。私のかわいいお人形さん。最後までちゃんと踊ってちょうだいね」
そこでプツンと俺の意識は切れた。物言わぬ死体のように体は動かない。
そうか。
俺は初めから、ナターシャの操り人形だったんだ。




