戦艦<ヤマト>を撃沈せよ・⑧
さて海戦二日目になります。
ルーデル閣下の率いるドイツ空母航空団と帝国海軍連合艦隊との戦いも「やまばぁ~」(cv八奈見乗児)であります。
「そんな事言って大丈夫かい? ボヤッキー?」
「大丈夫ですよドロンジョさま。こちらには、とっておきの秘密兵器をご用意しましたから」
ってな感じでドイツ軍の数あるビックリドッキリメカから「アレ」が登場します。
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北東海域。ラッカジブ海上空六五〇〇メートル:1948年4月20日0622(現地時間)
高空を往くフォッケウルフ一六七<アイバトス>のエンジンは快調であった。
天候の方は高度四〇〇〇まで雲は無く、上空を覆う雲は薄くて見通しが良い。そこかしこに青空が塊のようにあり、同じように厚い雲の塊も同じぐらいの割合で散在していた。
つまり、艦隊の目として飛んでいるこの<アイバトス>にとって、最悪の天候であった。
これが大洋を渡る豪華客船の乗客ならば歓迎すべき天候であるかもしれない。降雨が無く薄い雲が南洋の厳しい陽差しをやわらげてくれるから、甲板を散策するには絶好の日よりとなるだろう。
洒落っ気のある船長ならば、あの厚い雲を利用して、右舷だけに雨を降らせ、左舷は散策日和なんていう芸当で乗客を楽しませてくれるかもしれない。
だが<アイバトス>の機内で計器と手にした海図を見比べて航法に専念する機長としては、もっと雲が多くあって欲しかった。
見通しが良いのは、敵艦隊を見落とす可能性が低い事を意味する。索敵機としては喜ぶべき天候条件なのかもしれないが、逆に言えば向こうからコチラも丸見えと言う事だ。
相手が丸腰の輸送船団を探しているのならば、それでも良いのかもしれない。ブーンと呑気に飛んで行って「敵艦隊発見」の電報を打つだけの気軽な仕事だ。
だが戦時下の輸送船団には、対空対潜のために護衛空母が貼りつくのが今では常識である。
護衛空母の狭い飛行甲板ではジェット機を運用するのは困難であるから、上空いる直掩機も二線級のレシプロ機である可能性が高い。
だが<アイバトス>は三座の雷撃機なのである。空中戦はできないとまで言わないが、できるだけ避けた方が長生きできるだろう機体だ。
さらに今回探している敵艦隊は、そんな輸送船団ではない。最新鋭のジェット機を搭載した空母機動部隊を含んでいる臨戦態勢の大艦隊である。
直掩機の数だって質だって本国の空を守るドイツ空軍第一航空艦隊に引けを取らない態勢で充実している相手だ。
しかも三桁に届く数の艦船の全てに対空レーダーが装備されている事は間違いない。人間の見張りだけならば、運やら神の気まぐれやらで見落とす可能性が無きにしも非ずだが、機械である対空レーダーにそれを求めるのは無理な話しであろう。しかも一台や二台ならば、運や神の気まぐれで故障してくれて、こちらが発見されない可能性が残る。が、三桁のレーダーが同時に故障するには、日頃にどれだけの善行を積んでおけばよいのか機長には分からなかった。
機長は<アイバトス>の装備されている機上レーダーの発振を切っていた。昨日の経験からそれが役立たずになっていることを見越してだ。日本艦隊に近づくと使用不能になるということは、何らかの手段によって機上レーダーを無効化する術を、敵は持っていると考えた方が論理的であった。
ならば電波を無駄に垂れ流してこちらの接近を向こうに悟らせるよりも、昔ながらの方法で索敵をした方がマシと考えたからだ。
昔ながらの方法…、己の目で発見するのだ。
三人縦に並んで座っている真ん中の偵察員席にも敵性電波を感知する逆探も装備されている。その指向性アンテナを回すハンドルをゆっくりと動かす。長いロッドで繋がれた主翼の八木アンテナが、彼の操作で動いているのが確認できた。(注234)
「針路右舷一時方向に強い電波発信源」
「ようそろ。右三〇度へ変針します」
正確な航法をして直線に飛行し、二点の位置から観測すれば、三角法で相手までの距離を割り出せるだろうが、残念ながら<アイバトス>は単発の艦上機であった。強い横風があれば簡単に横滑りをしてしまうため、その手を試すのには少々無理があった。
ならば強い電波源に向かって飛んだ方が、日本艦隊を発見できる可能性が高いと考えたのだ。もちろん、これが日本側のレーダーに使用している電波ならば、自ら発見してくれと突っ込んでいくようなものだから、より生還は難しくなるだろうことは自覚していた。
「機長」
「なんだ」
本来は戦闘機志望だったが性格に難ありと雷撃機部隊に回された操縦士が、とても言いにくそうに口を開いた。
「前方、スコールです」
「なに?」
機械にかかりきりだった機長は顔を上げた。彼らの乗る<アイバトス>を、両手を広げて通せんぼうするかのように、立派な積乱雲が進行方向にあった。
表面は綿のように白いが、内部は黒い雲が詰まっているのが、そこかしこから伺えた。その黒い雲が時折光るのは、相当稲光が行き交っている証拠であろう。
(まさか、あの雷を電波源と間違えて…)
一瞬だけ迷った機長は、操縦士との会話を補助してくれる喉に巻いたマイクを掴んだ。
「雲の中へ」
「え」
操縦士が驚いて肩越しに振り返った。まあ無理もない。自分から危険に向かって飛び込んでいく事を意味するからだ。積乱雲の内部は乱気流と雷、そしてこの高度だと霰などの氷の粒でろくな事になっていないことは明確であった。
「雲の中へ入れ。針路そのまま」
だが機長が確信を持って指示を出した。根拠は逆探に入り続けている敵性電波だ。間違いなく、この向こうから電波はやってきているはずだ。
雲に入った途端にバチバチと風防から衝突音が上がった。氷の粒が巡航速度で進む<アイバトス>の全身にぶつかってきているのだ。
「き、機長…」
操縦士が弱気な声を出した。氷の粒だって相対速度が高ければ、防弾ガラスだってジェラルミンの機体だってダメージを受けるのだ。
「大丈夫だ。整備長の腕を信じろ」
機長は気休めにもならない言葉をかけた。右側の主翼を跳ね上げるように風が巻いたかと思えば、機体全体を空から叩き落すような降下気流に弄ばれる。真っすぐ飛ぶだけでも苦労が続いた。やがて氷の粒との衝突音が消え、風も収まって来た。
まだ積乱雲の中ではあるが、台風の目のように穏やかな空域に入ったようだ。
「ちょっと高度を下げてみろ」
機長の誘導で操縦士は高度を下げ始めた。<アイバトス>は驟雨の中へと入り込んだ。
「機長!」
後方で通信機に耳をそばだてていたはずの通信員が声を上げる。
「下! 下!」
肩越しに振り返ると、一生懸命彼は下を指差していた。
「?」
言われて海面を見てみれば、積乱雲の乱気流で海面には白波が立っていた。それを切り裂くように一本の白い筋があった。
いくら嵐とはいえ、あんな真っすぐに海へ跡を残す自然現象など無いはずだ。白い筋を目で追っていくと、明らかに海面とは違う色の物体が波にもまれていた。
「でかしたぞ」
機長はその物体を日本海軍のA級駆逐艦と判別した。前に一基、後ろに二基の砲塔。三つある砲塔の内、前から二番目に描かれた日の丸がはっきりと確認できる。こんな海域に一隻のみでうろついている性格の艦では無いはずだ。
おそらく何らかの理由で艦隊から落伍し、慌てて本隊へ合流しようと全速力を出している最中と思われた。
「あの駆逐艦の向かっている先へ」
「ようそろ」
操縦士がラダーペダルを踏んで進行方向を修正した。幸運な事に積乱雲を背景にしているせいか、あの駆逐艦はこちらに気が付いている様子はなかった。
「高度を取って雲に隠れろ」
できるだけ敵から発見されないことが生き残る道である。骨の髄までそれが染み込んでいた操縦士が、薄皮一枚分だけ雲の中へ機体を入れた。
「機長!」
そのまま五分も行かない内に、それまでとは違う声で操縦士が声を上げた。
「前方、水平線近く」
段々と雲が減り、白い雲の向こうはスコールに入る前の霞がかった空になり始めていた。操縦士の報告に、機長は座席から身を乗り出して前方を確認した。
雲のせいで海面は暗く、真っ黒に見えた。それを黒板に例えるならば、多数の「C」をチョークでイタズラ書きしたような風景が広がっていた。
間違いなく変針直後の輪形陣である。そして輪形陣を取って進軍する艦隊は、ここいらでは味方でない事は間違いなかった。
「緊急電だ。『我、敵艦隊見ユ!』」
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北西海域。ドイツ機動部隊:1948年4月20日0627(現地時間)
「きました!」
隣室の通信室からたったいま受信した電文を殴り書きした通信用紙を握りしめて、通信員が機動部隊航空団の司令部に飛び込んで来た。
大きな机にインド洋東部の海図を広げて難しい顔を突き合わせていた高級将校たちが一斉に振り返った。
「敵艦隊発見の知らせです」
通信員は室内を見回し、この場の最先任であるガーデルマン少佐に通信用紙を突き出すように差し出した。
「ありがとう」
ガーデルマンは通信員の握力で皺が寄った通信用紙を広げた。顔が少々引き攣っているのは、胸の痛みからであろう。
用紙には敵艦隊発見を知らせる索敵機からの第一報が書きこんであった。相手の座標や針路、速度ももちろん書きこんである。
新しいオモチャ箱を開ける前の子供のような顔をしている当直将校へ、読んだ電文を渡してやる。他の将校たちが餌に群がる犬の群れのように、彼の手元を覗き込んだ。
軍医とはいえ空軍の将校であるガーデルマンも、電文の座標が広げてある海図のどの位置に当たるかを読み取る訓練は受けている。それは司令部の面々が予想した位置と指一本分の太さしか違わない地点だった。
「ルーデルは…、大佐はどこにいらっしゃる?」
いちおう親友として親しくしているとはいえ、上官であるから部下の前では一線を引いた言葉遣いを心掛けていた。今日の従兵役の若い兵が壁の向こうの飛行甲板を指差していた。
「大佐は自分の目で天候を確認しております」
「ありがとう。では私も自分で確認しながら、大佐へ敵発見を知らせてこよう」
ガーデルマンは動きの鈍った体で廊室を通り、空母<ペーター・シュトラッサー>の飛行甲板へと出た。
そこでは整備員たちが今日の攻撃に備えて艦上機を並べ、暖機運転を開始していた。
兵器員たちが体へ巻きつけるようにして弾帯を運び、点検口を開いた主翼の機関砲へ給弾している。手すきの者全員で台車に乗せた航空魚雷を運び、機体の下へと差し込んでいたりもした。(注235)
忙しくしている彼らを邪魔しないように、隅の方で空を見上げているルーデルをガーデルマンは見つけた。
「ルーデル。索敵機が敵艦隊を見つけたぞ」
「こっちもだな」
空を見上げたままルーデルは心ここに非ずといった風情で答えた。
「?」
ガーデルマンが彼の視線を追うと、艦隊近くの積乱雲の塊に行き着いた。そこに小さな十字架のような印がある。
いや大空に十字架が見えるなんていうことはありえない。あれは航空機だ。
見えたと思ったのは束の間で、すぐに積乱雲に呑み込まれるように消えた。
ガーデルマンがそれに気が付いた途端に、アイランドの上の方から戦闘配置を告げるラッパの音が響き出した。音階の最期に「G」の音が加わっている事から「対空戦闘配置」を意味する吹鳴信号だ。(注236)
艦隊司令部でも今の航空機が接近してきたのを発見し、日本側の索敵機と判断したのだろう。さっきまでの正体不明の電波なんてものじゃない。確実に敵に発見されたのだ。
甲板員たちが慌ただしく行き来し始めた。アイランドの前後に装備された連装対空砲が獲物を求めて砲身を振り上げつつ旋回を開始していた。
だが容易に発砲することはできない。飛行甲板の高さに装備された対空砲を無闇に撃つと、並べてある艦上機を撃ち抜くことにもなりかねないからだ。それに発射の砲煙や衝撃を機体に取りついている整備員がまともに喰らう事になりかねないのだ。
もちろん<ペーター・シュトラッサー>の砲術長もそういったことは頭に入っている。万が一だが甲板を片付ける前に敵の空襲が始まり、そういった犠牲を納得の上で発砲する事も有るという事だ。
頭では理解していても、ぬうっと砲口が向けられるのは、あまり面白い光景では無かった。渋い顔をしたガーデルマンは、横で爽やかな笑顔のまま雲を見つめている相棒に振り返った。
「見つけたのは、ほぼ同時か。忙しくなるぞガーデルマン!」
ルーデルは痛む足を引き摺りつつ、司令部のスタッフとの打ち合わせのためにアイランドへ向かった。
司令部で慌てて書かれたために線が踊っている海図が作戦会議室の壁へと掲示された。もちろん索敵機は次々と報告を送ってきており、雲高を含む現地の天候や風、地磁気に至るまで細かな情報が並んでいた。
各機の操縦士や航法士が、自分の手元の海図と見比べて、必要な情報を書き写していく。専用の航法士を載せるフォッケウルフ一六七<アイバトス>や複座のユンカース一八七C<スツーカ>はいいが、単座戦闘機であるタンク一五二T<テレーザ>なんかは操縦士自身が航法もこなさなければならないから大変だ。(注237)
ちなみにドルニエ三三五C<プファイル>も複座なので副操縦士が航法を行うが、今回は攻撃隊へ参加する予定が無いので、彼らの姿は作戦会議室に無かった。
すでに日本の索敵機が近くの積乱雲に隠れているのは分かっているので、それを狩り立てるのに忙しいはずだ。
必要なデータなどが各機の搭乗員の頭とメモに入った頃を見計らって作戦会議室にルーデルが顔を出した。
すでに足を引き摺っている理由は航空団全員に知れ渡っており、そんな体でも陣頭指揮を取り続けようとする英雄に、搭乗員たちは畏怖のような物すら感じ始めていた。
「勝利のために!」
自分たちの上官に、最先任の掛け声で敬礼をする一堂。それに笑顔でルーデルは答礼した。
「みんな、ご苦労な事だが目標である<ヤマト>はしぶとくご健在らしい」
まるで村の隠居を噂する若者のような口ぶりでルーデルは言った。自信に満ちた搭乗員たちが遠慮なく笑い声を上げた。
「今日で未練が残らないように片付けてやることにしよう」
部下たちの様子を見てルーデルは安心した。昨日の攻撃で沈めることができなかったので、萎縮したり諦めたりと士気の低下を心配していたが、そんなものは杞憂だったようだ。
「全力で行くぞ」
いつも全力なのは変わらないがルーデルは握った拳を見せつけるように胸の前に差し上げた。
だが空母の補給事情まで耳に入っているルーデルは、今日出せる攻撃隊が一回だけになることを知っていた。機体の方が元気でも魚雷や爆弾などがつきかけているのだ。
空母に用意された航空機用の弾薬庫であるが、全部の機体が二回も出撃すれば空になってしまうのだ。日本海軍ではどうしているのか分からないが、今日の攻撃で<ヤマト>が沈まなければ補給を受けないと空母機動部隊としての戦闘力はほぼ無くなる物と思って間違いなかった。(注238)
おそらくそうなったら艦隊司令のハイデンハイム中将は旗艦<ウルリヒ・フォン・フッテン>で水上打撃戦を挑もうとするだろう。簡単にドイツ海軍が敗北するとはルーデルも考えてはいなかったが、そうなると航空隊に残された役割は限られてくる。戦艦同士の果し合いに水を差そうとする日本機動部隊の攻撃隊から<ウルリヒ・フォン・フッテン>を守ることが主な物になるだろう。それは戦闘機の仕事であり、急降下爆撃機乗りのルーデルにとっては、あまり面白い物では無かった。
いま手元に上がっている報告では、今日最初で最後の攻撃隊は<スツーカ>が約三〇機<アイバトス>が一五機、そして<テレーザ>が二〇機ほどの予定だ。この内、実際に発進できる機体は未知数と言えた。カタパルトに接続したのはいいが、突然のエンジントラブルで出撃を止めるとか、発進に失敗して海へ落ちる事故とか、人が最大限努力したとしても最後に神がイタズラしたとしか思えない結果が待っていることがあるからだ。
だが、それだけあれば一隻の戦艦を沈めるのは足りる戦力のはずだ。あとは必中必沈の気合だけである。
(それに、こちらには…)
ルーデルの意識は船室の壁を越え自身の乗る<ペーター・シュトラッサー>と旗艦<ウルリヒ・フォン・フッテン>の間を往く航空戦艦<フォン・リヒトホーフェン>へと飛んでいた。
その<フォン・リヒトホーフェン>の飛行甲板では整備員たちが慌ただしく働いていた。
飛行甲板に千鳥に並べられていた機械の塊から覆っていた灰色のシートが剥がされ、南洋の陽の光を反射した。
出港からずっとシートを被せられてきたが、外部からの視認を予防するというより、精密機械を天候などから防護するという意味合いの方が強かった。
だが今は低下した空母航空団の戦力を補うために、全てのシートが取り払われて、とうとう『秘密兵器』が姿を晒したのだ。
それは巡航速度も、巡航高度もルーデルが率いる普通の艦上機とは桁違いなので、後になって発進する予定である。
「ふん」
いまだにその威力に懐疑的なルーデルは、誰にも聞かれない程度で鼻を鳴らした。
意識を作戦会議室へと戻したルーデルは、熱い空気が充満する室内をもう一度見回した。
全体的に若い搭乗員が多い。全員を大ドイツへと連れて帰ってやりたいが、果たして何人が生き残れるか…。
「全員、必要な事は頭に入れたな」
とか言いつつ航法の事は相棒に任せきりのルーデルである。もちろん彼だって空軍の将校だ。推測航法ができるように訓練を受けてはいるが、面倒な事は得意な者に任せればいいという考えだ。(注239)
もう一度、自信満々の一堂を見回したルーデルは大きく頷いた。
「それでは行こう。勝利のために!」
「勝利のために!」
作戦会議室から廊室を抜ければそこは飛行甲板である。愛機たちが万全の態勢で空へ舞い上がる準備を終えているはずだった。
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北西海域。ドイツ機動部隊、航空戦艦<フォン・リヒトホーフェン>:1948年4月20日0755(現地時間)
航空戦艦<フォン・リヒトホーフェン>の飛行甲板は大忙しとなっていた。すでにルーデル大佐が直率する攻撃隊は空中集合を終えて姿も無く、他の空母は直掩隊の準備に入っていた。
対して<フォン・リヒトホーフェン>は、ソコトラ島から大事に運んできた『秘密兵器』の発進準備をやっと終わらせようとしていた。
黒く塗られた飛行甲板の上に、灰色のシートを被せて隠すように運んできたそれらは、雲間から差し込む太陽光を反射して輝いて見えた。
全部で一二個の山に見えた『秘密兵器』は、文字通り白日の下に晒された。
あまりの大きさに飛行甲板へ真っすぐ並べることができずに千鳥に置かれたそれらは艦上機ではなかった。オタマジャクシの様に膨らんだ機首に、中翼位置に主翼がついている機体だ。パッと見ただけで軍用機に詳しい物ならば、大ドイツが同盟各国へ供与している高速爆撃機ユンカース三八八Kに見えただろう。
原型期は英国上空の戦い(バトル・オブ・ブリテン)で活躍したユンカース八八Aであった。当時のドイツ空軍の主力爆撃機である。
そこから発展したユンカース三八八Kも、もちろんカテゴリーは爆撃機であった。しかし第二次世界大戦が始まる前ならば三トンという爆弾搭載量は「重」爆撃機に分類される性能であったが、それが翼下懸架となると少々古い基準だということになる。(注240)
連合軍で代表的な重爆撃機のボーイングB一七<フライング・フォートレス>は機内爆弾倉に五トンもの爆弾を積んでドイツ領域内を戦略爆撃した。その後継機のボーイングB二九<スーパー・フォートレス>では標準状態で五トンを積むのが当たり前、試作が進んでいるという噂のコンベアB三六に至っては四〇トンもの爆弾を運ぶことができるようだ。
まあ、そのかわりにユンカース三八八は爆撃機と思えない程の運動性能を誇り、爆撃機(K型)の他に対戦車攻撃機(P型)から夜間戦闘機(J型)、果ては超高高度偵察機(L型)として使える機体であった。もしかしたら「万能機」という分類の方がふさわしいのかもしれなかった。
だが<フォン・リヒトホーフェン>の飛行甲板に並んでいるのはユンカース三八八Kではなかった。なにせユンカース三八八Kならば主翼に取り付けられているプロペラが見当たらないのだ。しかも、その主翼の形状すら変である。ユンカース三八八Kならば直線翼のはずだが、機体から生えている翼が、なんと前に向かって二三度の角度がついているのだ。
未来の爆撃機を設計するにあたって、ドイツ空軍が試行錯誤した結果生まれた前進翼という形状をした翼を持つこの機体はユンカース二八七Aという名前であった。
試作機のユンカース二八七V一は寄せ集めの部品で取り敢えず作られた事でも有名である。機体の前半はハインケル一七七A<グライフ>の物、後半はユンカース三八八の物、流石に前進翼は新造であったが主脚は輸送機のユンカース三五二の物を出しっぱなし、前輪に至っては撃墜した合衆国陸軍航空隊のコンソリデーテットB二四<リベレーター>の物であった。
その機体に、操縦席の両脇と、主翼の中ほどに取り付けられたのは、もちろんジェットエンジンであった。開発初期のジェットエンジンは、最大推力ではレシプロエンジンが逆立ちしたって出せない速度性能を叩き出せたが、滑走路を走り始めた直後などは逆に情けないほど推力が弱かった。このアンバランスな新型エンジンを有効的に活用するために考え出されたのが、この前進翼であった。
前進翼は低速度域における飛行特性が良好であり、ジェット機にふさわしい翼と考えられたのだ。
高速爆撃機として開発されたアラド二三四<ブリッツ>と並んで、ユンカース二八七Aは本国でジェット爆撃機部隊へ配備が進んでいる機体である。
制式量産機となったユンカース二八七Aは、もちろん試作機とは打って変わって全身を新造された部品で造られた。
それでも同じ会社が作る爆撃機ユンカース三八八Kに機体が似てしまったのは、まあ当たり前と言っては当たり前の事だろう。オタマジャクシのような膨らんだ機首はガラス張りとされ、良好な視界を約束していた。
主翼はもちろん前進翼である。片翼に二つずつのBMW○○三ジェットエンジンが離して装備されている。ジェットエンジンは翼だけでなく、操縦室の両脇という特異な位置に左右一基ずつ、同じ物が試作機と同じように装備された。
合計で六発のジェットエンジンである。機体の最後尾には遠隔式の一三ミリ連装銃塔が装備され、三人の乗組員が固まって配置されている操縦室から操作される。
爆弾搭載量は四トンである。やはり戦略爆撃機としては物足りないが、高速爆撃機であるアラド二三四<ブリッツ>は主翼懸架で合計一・五トンであるから、ジェット爆撃機としては上出来の部類であろう。(注241)
空母から高速爆撃機を発進させるというのは、じつはドイツ空軍の独創では無かった。元ネタがあり、それは太平洋の戦いにて合衆国陸海軍合同で行われた秘密作戦『ドーリットル空襲』であった。
この作戦では合衆国陸軍航空隊のノースアメリカンB二五<ミッチェル>を改造した特別機を、合衆国海軍の空母<シャングリラ>から発進させ、当時すでに負け始めていた太平洋の戦いにおいて、見事帝都東京へ一矢報いたのであった。(注242)
それと同じ事をやろうと言うのである。この方法を選択すれば艦上機では運べないほどの大型兵器を洋上で使用する事が出来るはずだ。
航空戦艦として通常の空母よりも広めな艦橋で、艦長のドーラ・ベック大佐はへの字口をして飛行甲板の作業を見おろしていた。
いや、別に不満があるわけではない。欧州戦争での厳しい潜水艦任務と、寄る年波で自然とそういう顔に仕上がってしまったのだ。だが、そんなことは知らない若い水兵たちからは「いつも機嫌の悪い親父さん」と、半ば親しみを込めて呼ばれているのであった。
その親父さんと慕われているベック艦長は、やっぱりへの字口のまま振り返った。
「行くのか」
「ああ」
答えた空軍の将校も、だいぶ目つきが悪い禿頭の男であった。臨時に乗り込むことになった『秘密兵器』部隊である第二〇〇爆撃航空団(注243)指揮官のヴァイス・プファンクーハン大尉だ。
禿頭の右側には欧州戦争で撃墜された時に負った火傷の痕が見える。彼もベック艦長の様に部下から親父さんと呼ばれるぐらいの歳に見えた。
鼻の下から左右に伸ばしたカイゼル髭と合わせて、第一次世界大戦まで現役だったピッケルハウベを被ると、本人は鉄血宰相と呼ばれた政治家オットー・フォン・ビスマルクに似ているつもりである。(あくまでも本人の感想です)
「行ってくる。世話になったな」
プファンクーハン隊長は少し寂しそうに言った。なにせ乗り込むのはジェット爆撃機である。発進したら<フォン・リヒトホーフェン>に帰ってくることは無いはずだ。着艦しようにも機体が重すぎて制動索で受け止めきれないのだ。よって攻撃が終わった後は、ボンベイにある空軍基地を目指すことになっていた。敵の迎撃を受けて損傷し、ボンベイまで飛べなくなったら、ゴアに緊急着陸することも許可されていたが、こちらも支援設備が貧弱なので、着陸はできても修理して飛び立つことはできないであろう。
帰るところが用意されているにしろ、命がけの特攻作戦だ。プファンクーハン隊長とベック艦長が話すのは、これが最後の機会になるだろう。
「気をつけてな」
短くベック艦長が言った。それで男同士の会話はじゅうぶんだった。
プファンクーハン隊長は飛行甲板へと下りた。すでに隊長機は準備ができている。二つあるカタパルト両方とワイヤーで繋がれ、翼下に四つものロケットブースターを下げている姿だ。
これだけやっても彼が乗り込む予定のユンカース二八七Aの爆弾倉は空である。
機首の少し後ろにある搭乗用の梯子を登り、操縦席へと入った。
狭いガラス張りの操縦席には三つの席がある。一つは後ろ向きに設置された通信士席だ。彼は機尾にある遠隔銃塔の銃手も兼ねていた。左側の操縦席には操縦士がすでに準備を終えていた。各計器の点検を行い、プファンクーハン隊長を振り返ると自信たっぷりに頷いて見せた。
プファンクーハン隊長の席は、その右側で少し後ろになる。普通のユンカース二八七Aならば航法士兼爆撃手席となる席だ。しかも折り畳み式の機器を展開すれば簡易操縦席にもなる。何でもやらなきゃいけない、とても忙しい席だ。
飛行甲板で機体の面倒を見てくれている整備員を除くと、第二〇〇爆撃航空団から派遣されてきた人員は、たったこれだけであった。
プファンクーハン隊長は席に着くと、喉に貼り付けるマイクとヘッドホンを装着した。
「隊長機から作戦各機へ。準備出来次第発艦の予定」
短く後ろに連なる機体へと連絡をつけた。
飛行甲板に乗せられたユンカース二八七Aは全部で十二機である。それをこの一機で操縦するというわけではない。無線機からは次々に了解の返事があった。
まず隊長機であるプファンクーハン機がエンジンの出力を上げる。後ろに噴き出す火炎で他の機体を焼かないように、臨時に制動索を張る装置を利用して板が立てられて、噴射炎は上へと逸らされた。(注244)
エンジンの出力が上がったところで、操縦士が甲板員へ合図した。甲板員は艦首を差すように腕を振り、両舷のカタパルトが作動した。
これから発艦するとは思えないほど、ゆっくりとユンカース二八七Aが動き出した。不安になるぐらいの遅い速度で、向かい風を受けた凧のようにふわりと浮かび上がた。
ジェットエンジンは未だ本気を出していないが、点火後五秒で最大推力に達するロケットブースターが機体を加速させていった。
隊長機が無事に発艦したということで、二番機が発艦位置へと進んで来た。だがそれはただのユンカース二八七Aでは無かった。
まず普通のユンカース二八七Aの特徴であるオタマジャクシの頭のような操縦席が無かった。代わりに円錐形をした無粋なジェラルミン剥き出しの機首が取り付けられていた。
中身は二トン爆弾である。しかも成形炸薬弾となっており、七メートルもの厚さをした装甲板ですら貫通が可能となっていた。
整備員の中に洒落者がいたのか、その円錐形をした弾頭がドリルに見えるように、螺旋状にペンキでイタズラ描きがされていた。
もちろん機首が弾頭になっているのだから操縦席が無い、ではどうやって操縦するのか。答えは簡単である。ユンカース二八七Aの上に櫓を組み、そこへジェット艦上戦闘機メッサーシュミット二六二F<カイヤン>が固定されているのだ。
いわば親亀の上に子亀が乗ったような二階建て飛行機である。ドイツ空軍はこの方式を<ヤドリギ>として欧州戦争時に実用化していた。(注245)
当初はユンカース八八の上にメッサーシュミット一〇九Fの組み合わせであった。爆弾を満載したユンカース八八を、大河の橋梁や大型ダムのような戦略目標や敵艦船のような大型の戦術目標にぶつけて破壊するために開発された。
その頃は無誘導で、直進するように舵を固定した上で両機を繋ぐ櫓を爆破して、操縦士の乗った戦闘機部分が帰還するという物だった。
それを発展させたのが今回『秘密兵器』として<フォン・リヒトホーフェン>に持ち込まれた<ミステル四>であった。
レシプロ機では出せない速度で日本艦隊へ迫り、その大威力の弾頭で<ヤマト>を一撃で沈める一発必沈の秘密兵器だ。しかも今回は<フリッツX>と同じ誘導装置を組み込んであった。櫓上の<カイヤン>を操る操縦士は、いわば運び屋で、最終誘導は隊長機からプファンクーハン隊長が行うことになっていた。
上部に乗った戦闘機も艦上ジェット戦闘機である<カイヤン>であるから、作戦後はジェット機用の改修が成された空母<ドクトル・エッケナー>へ帰還できる寸法だ。
隊長機だけは誘導装置を積んでいるとはいえ普通のユンカース二八七Aであるから、既述の通り、攻撃終了後は陸上基地まで飛ばなければならなかった。
櫓上の<カイヤン>にまでロケットブースターをつけた<ミステルフィア>がカタパルトに接続された。
まるで火災が起きたように盛大なロケット噴射の煙を巻き上げ<ミステルフィア>は航空戦艦<フォン・リヒトホーフェン>から飛び立った。
一機だけでも<ヤマト>をじゅうぶん撃沈する威力がある。それがまだ一〇機も発艦を待っていた。
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北西海域。ドイツ機動部隊から先行する空母<ドクトル・エッケナー>:1948年4月20日0900(現地時間)
ドイツ機動部隊の各艦に勇ましい戦闘ラッパが鳴り響いた。
攻撃隊を送り出して一時間後、来るべきものが来たという感じである。
すでに対空レーダーは画面がハレーションを起こすほどの大編隊を捉えており、航空団司令部は直掩機を向かわせていた。
追加で何機かの戦闘機も発進させるが、あまりにも数が多いため、果たしてどれだけ効果があるのかは、誰にも分からなかった。
四隻で編成された機動部隊本隊と、先行する空母<ドクトル・エッケナー>であるが、航空機の巡航高度から見れば、全ての艦が一目で見渡すことができる距離しか離れていないのであった。(注246)
幸い機動部隊本隊の近くに厚い積乱雲の塊があり、空母<エーリッヒ・レーヴェンハルト>などは戦闘機を発進させるついでに、その雲が降らせるスコールの下へと潜り込むことに成功していた。
だが、そう行かなかったのが本隊より単独先行していた空母<ドクトル・エッケナー>であった。
逃げ込めるほど厚い雲がない空の下で、所属不明の編隊が現れたとレーダー室から艦橋へ報告が上がった。
もちろん敵攻撃隊を誘引するのが任務であるから、覚悟はできていた。
「対空戦闘準備」
艦橋に上がっていた<ドクトル・エッケナー>艦長、モルド・ヴォルフ大佐は全艦に命令を発した。
ここに至って所属不明機と聞いて、これが友軍機に思えるお人好しは、少なくとも艦内にはいないであろう。味方機動部隊の航空団は敵艦隊に向かって行ったし、友軍の飛行場で一番近いのは、北方にあるゴアのドイツ空軍の物だけで、そこからココまで飛んでこられる機種は限られていた。
やがて雲の合間にチラチラ見えていた機影がはっきりと見えて来た。どれもが機体上面を煤色に、下面を明灰白色に塗り分けた日本海軍艦上機の平均的な塗装であった。
「接近する飛行機は日本軍の物と認む」
艦橋脇のスポンソンから空に向けて対空監視用の双眼鏡を向けていた見張り員が報告して来た。
「それでは飛行長。お願いします」
口髭を蓄えたヴォルフ艦長は、艦橋に飛行服のまま上がっていた第一六七実験航空団第五飛行隊第一三飛行中隊中隊長のライル・フィッシャー少佐に会釈をした。
「任せて下さって結構です」
感情を感じさせないとても平板な答えが返って来た。そして彼自身も出撃しようというのか、手袋に手を通しながら飛行甲板へと向かう廊室へと消えた。
この二人は長い付き合いではない。インド方面での戦いのためにフィッシャーが部下と共に<ドクトル・エッケナー>に乗り込んで来て知り合ったという関係だ。
だがヴォルフ艦長も人を見る目はあるつもりだった。
それによればフィッシャーは、寡黙だがやる時にはやる男で、さらに信頼のおける人物であることも間違いなしだ。
ヴォルフ艦長はアイランドから飛行甲板へと張り出している長いベランダのような場所へと出た。これは側橋と呼ばれる設備で、ドイツ海軍に所属する大型軍艦の特徴とも言える物であった。
欧州の地図を広げてもらえば分かると思うが、ドイツ海軍最大の根拠地であるヴィルヘルムスハーフェンは北海に面していた。そのまま北上すればノルウェー海へ、西進すればドーバー海峡へ至る事が出来る。しかし大ドイツが面している海はそれだけではない。ダンツィヒを始めとする大ドイツの北東部はバルト海に面していた。
バルト海は、北はスカンジナビア半島、南と東は欧州大陸、そして西はユトランド半島に囲まれた海である。スカゲラク海峡とカテガット海峡を抜ければ北海へと出ることができる。だが不便なことに、ヴィルヘルムスハーフェンからバルト海を目指すとなるとユトランド半島をほぼ一周しなければならなくなる。
そこでユトランド半島を横断するように北海とバルト海を繋ぐ運河が開削されることになった。これが現在のキール運河である。(正式名称は「北海バルト海運河」である)
一八九五年に完成して以来、何度か拡張工事が行われ、今では三大運河に数えられている運河であった。
もちろん北海にもバルト海にも艦隊を派遣できるように、戦艦が弩級艦、超弩級艦と発達するのに合わせて運河も拡張されてきた。
そのキール運河の通航時、護岸と衝突しないように両舷を見渡せる設備が必要であった。それで外輪船の時代に発明されて船橋という語源となった、両舷いっぱいまでのブリッジウイングが、ドイツ海軍艦艇、特に大型艦船には必要なのであった。(注247)
だがさすがに<ドクトル・エッケナー>に艦体を横断するブリッジウイングは設けられなかった。いや設置しても構わないが、そうなるとブリッジウイングが飛行甲板を横断する事になる。そいつが邪魔をして艦上機の発着ができなくなってしまう。
よって改グラーフ・ツェッペリン級の各艦は、右舷はアイランドから舷側一杯へ、左舷へは飛行甲板の作業を邪魔しない程度と考えられた長さのブリッジウイングが設けられていた。
もう少し具体的に言うと前部エレベーターと中央エレベーターのちょうど中間位置に、飛行甲板の右端から中央に向けて全幅の三分の一まで張り出したバルコニーみたいな設備である。
ブクブクに着膨れしているように見える防弾チョッキに防弾ヘルメットと着用し、ヴォルフ艦長はその左舷側まで見通せるブリッジウイングに立った。
気分的には車両が行き交う歩道橋に立って、道行くものを見おろしている感じだ。
そうやって飛行甲板を見おろすと、ちょうどフィッシャーが搭乗したメッサーシュミット二六二F<カイヤン>がカタパルトと補助ロケットの能力を活かして発艦するところだった。
飛行甲板を覆うロケットの金臭い噴射煙が、ヴォルフ艦長を包むようにして艦尾へと流れた。
続けて艦首に並列に装備されているカタパルトのもう一方を使って、フィッシャーの僚機が発艦していった。飛行甲板は再び健康に悪そうな白い煙に包まれた。
飛行甲板では三機目の<カイヤン>を飛ばそうと準備していたが、その前に変針しなくてはならなくなるだろう。
ブリッジウイングは同じ高さにある航海艦橋との間には何も無いので、両舷を見通せる場所であり、かつ上空をよく観察できる場所であった。敵の空襲を回避する操艦をするのにもってこいの場所のはずだ。
そこには予備の羅針盤と、航海艦橋へ操艦を伝える伝声管があった。もちろんこれらは運河通航時に使用することが前提の装備であるが、使える物を遊ばせておく道理は無かった。
若い水兵がさらに伝令としてヴォルフ艦長の横に就いた。彼の胸には艦内各所と通じる電話が、抱え込まれるようにして首からぶら下げられていた。
伝令役の水兵は足を震わせていた。なにせ体を隠す物と言えば胸の高さほどの鉄製の壁だけである。それも横殴りの風雨という悪天候時に足を取られないようにするための物であって、防弾性能なんてまるきり無いペラペラの一枚だ。もちろん天井も無いので、航空機からも、そこに誰か立っているのは丸見えである。吹き曝しのお立ち台と言っても過言ではない。
そんな場所でヴォルフ艦長が指揮を執るため、任務として付き合わなければならないのである。いくら防弾チョッキを着てヘルメットを被っているとはいえ、経験の浅い水兵には酷という物かもしれない。防弾チョッキだって万能ではない。ライフル弾だって角度次第で貫通する。だが着ていないよりはマシのはずだ。
カチコチに固まった若い水兵にヴォルフ艦長は笑いかけた。
「恐いかね?」
一瞬返答を迷ったのは顔に現れていた。
「恐くなぞ、ありましぇん!」
緊張のあまりに声が裏返っていた。その様子を見て、欧州戦争時Uボートで連合軍の哨戒機と撃ち合った経験のあるヴォルフ艦長は、微笑ましく思ってしまった。
「君、名前は?」
「はっ。クルツ・ウェーバー二等水兵であります」
「よしウェーバーくん。仕事に取り掛かろうか」
「はっ」
ヴォルフ艦長の呼びかけに、ウェーバーは電話交換室を呼び出し、ちゃんと通話ができるかの確認を始めた。
「まあ無理はしないことだ…」
もう一度、ヴォルフ艦長はウェーバーの足元を確認して言った。
散開する日本機を仰ぎ見るように視線を変えたヴォルフ艦長は言った。
「…誰でも恐い物は恐い」
「は、はいっ!」
これまた裏返った声でウェーバーが返事をするものだから、つい表情に現れそうになってしまった。彼の勇気を笑うわけにはいかない。ヴォルフ艦長は羅針盤を抱え込むように両手をついた。
「君は日本の航空機を見分ける訓練は受けているかね?」
「はい! 艦橋見張りとして当直に就くこともあります」
「よし、それではアレは、どういう敵か私に教えてくれたまえ」
もちろん空母の艦長としてヴォルフ大佐も勉強は怠らなかったが、一人で確認するよりも二人で確認した方がより確実だからである。
「はい。あの機体はおそらく<アンモーツ>であると思われます。急降下爆撃も雷撃もできる攻撃機という新機種であると教わりました」
雲の切れ間に見え隠れする機体を指差してウェーバーが答えた。
「よし、いいぞ。私もそうだと思う」
それは帝国海軍が制式採用している艦上機である。ドイツ側符牒は<アンモーツ>であり、帝国海軍での正式名称は五式艦上攻撃機B七A<リュウセイカイ>であった。他の機種がそうであるように、この<アンモーツ>という符牒も連合軍の物を流用しており、英米での符牒は<グレイス>で、そのドイツ語訳だ。
迫りつつある<アンモーツ>の画期的な性能は、艦上雷撃機でもあり艦上爆撃機でもあるところだ。
太平洋の戦いで、動きの鈍い艦上雷撃機の生存率は著しく低く、運動性能の改良が求められた。また艦上爆撃機が落とす爆弾の大型化が進み、魚雷とほぼ同じ重さの重量まで発展してしまった。このため両機種の差があまりなくなったため開発された、急降下爆撃もでき、雷撃もこなす新時代の艦上機なのであった。(ちなみに空中戦までやらせようと開発が進んでいたが、さすがにジェット時代の到来に諦めたという逸話がある)(注248)
実は同じ海軍先進国である合衆国でも同種の機体は開発されており、またカナダへ逃れた英国の技術陣も同じように両方の任務をこなせる機体の開発に取り掛かっていた。(注249)
大ドイツでも似たような機種を開発中であるが、まだ試作機の段階を超える事はできず、いっそユンカース一八七C<スツーカ>を改良して同じ性能域へ到達させてしまおうかと言われているほどだ。
スマートな大ドイツの航空機には見られない太い機体に、<スツーカ>の真似をしているような軽い逆ガル翼。液冷と空冷の差はあるが、もしかしたら塗装が同じだと見分けが出来ないかもしれなかった。
その<アンモーツ>の編隊が大きく分けて三つに分裂した。二つは上空に留まっているが、一つは海面へと下りて来る。どうやら後者は雷撃任務のようだ。
訓練でいつも相手にしていたフォッケウルフ一六七<アイバトス>とは動きが違う事は一目で分かった。何というかキビキビしているような感じなのだ。
これだけの敵に囲まれても、ヴォルフ艦長は怖じ気づくどころか、やる気満々であった。
ただ漫然と味方の標的艦として過ごしてきたわけでは無い。彼なりに回避術を編み出して、演習の度に試して来たつもりだ。
全弾回避といかないかもしれないが、やれるだけやろうという意気込みであった。
敵編隊のさらに上空では、激しい空中戦が繰り広げられていた。<アンモーツ>を護衛してきた日本の艦上戦闘機J三K・A<ジンプウ>こと<(メヒティヒ)ゲオルグ」>と、こちらの<カイヤン>やドルニエ三三五C<プファイル>そしてメッサーシュミット一五五<バジリカ>の戦いだ。
悔しいことに単純に戦闘機の数で言うと、空母<ドクトル・エッケナー>側は負けていた。雲間での戦闘なので相手の数を正確に把握しているわけではないが、確実に向こうの数の方が多かった。こちらも追加で艦上戦闘機を発艦させたいが、そうなると<ドクトル・エッケナー>は直進しなければならない。そんな相手にとって読みやすい針路を取るのは、いまは危険を通り越して無謀であろう。
本来ならば護衛艦が描く輪形陣の真ん中に位置する空母が、単艦でいるのである。どうやら日本側は容易い相手と思っているようだ。
「取舵」
艦橋に繋がる伝声管へ針路を伝える。速力はさっきまで<カイヤン>発艦のために全速を出していたので、いまさらそちらに号令を出す必要は無かった。
ヴォルフ艦長が取舵を命じたのは、低空に下りて来た<アンモーツ>が二つに分かれたからだ。おそらく両舷同時雷撃を企んでいるのであろう。真っすぐ進んでいたら簡単に未来位置を悟られ、全弾命中なんていうことになりかねない。もちろん副長を始めとする応急班の優秀さを疑うつもりは無いが、一発でも多く避けなければならないだろう。なにせ<ドクトル・エッケナー>は空母である。格納庫の中は予備の爆弾や魚雷、燃料など誘爆の恐れのある危険物で一杯なのだ。
大型艦である故に、ヴォルフ艦長の号令から少し遅れて舵が利き始めた。最初はゆっくりと、そしてある時点から急激に艦首が左に回り始めた。
遠心力を受けた艦体が外側に傾き、飛行甲板で作業をしていた整備員が足を踏ん張るのが分かった。
「戦闘」
ヴォルフ艦長の戦闘号令は、ウェーバーが首から提げた電話機によって、各部にある射撃指揮所へ伝えられた。半球状の本体から測距儀がはみ出している形をして金網のようなレーダーをつけた対空砲射撃装置は、上空の<アンモーツ>に狙いを定めるためにすでに旋回を終了していた。それと同期しているアイランドの前後に装備されている一〇・五センチ連装対空砲が旋回し、舷側に並んだ三七ミリ連装機関砲が鎌首を上げる蛇のように砲身を上に向けた。全手動で扱う二〇ミリ機関砲に取りついている射撃員も準備を終えているはずだ。
おそらく砲術長が発した「撃ち方はじめ」の号令があり、対空砲が射撃を開始した。砲口から砲弾を吐き出す度に響き渡る轟音が、吹き曝しのブリッジウイングをまるで叩くように通り過ぎていく。
しかしアイランド後部にある二基の対空砲は元気よく砲弾を撃ち上げているが、前部に並んだ二基の対空砲は、うんともすんとも言わなかった。四つある砲口は上空に向けられているのだが、射撃を開始しないのだ。
飛行甲板に張り出した位置に立っているヴォルフ艦長は、すぐにその理由に気がついた。
発艦しそこねた<カイヤン>の三番機が、まだ飛行甲板前部のカタパルト発進位置にて、もたもたしているのだ。この状態で射撃を開始してしまうと、対空砲の衝撃波で機体を損傷させてしまうどころか、移動させようと取りついている整備員たちにも怪我をさせかねないのだ。
「はやく移動させろ」
ヴォルフ艦長はブリッジウイングから飛行甲板へ向けて怒鳴った。響き渡る砲声の中でも声が通ったのか、幾人かの整備員たちがヴォルフ艦長を仰ぎ見た。彼らだって一生懸命やっているのは分かる。なにせ発艦状態の<カイヤン>の重さは七トンを超える重さがある。それを移動させろと突然言うのだから無理があるのはじゅうぶん承知だ。
改グラーフ・ツェッペリン級には、重い艦上機を発進位置へ移動させるために、エレベーターからカタパルトまで電動で牽引できるように飛行甲板にレールが敷いてあった。が、その逆までは考えて作られていなかったのだ。まず首輪に取り付けられている牽引台車をそのままバックさせても、飛行機は素直にバックしてくれない。これが道路を走る自動車ならば苦労は少なかっただろう、だが<カイヤン>は前輪と主脚を組み合わせた首脚式であった。つまり地上の乗り物として見ると三輪車なので、すなおに後進できないのだ。最低でも一回牽引台車から外し、前後を入れ替えてから再び牽引台車に繋がないとならない。(注250)
しかも<ドクトル・エッケナー>が取舵にて変針中なので飛行甲板が傾いている。同じ場所に留めておくだけで精一杯なのが分かった。
だが、このまま前部対空砲が使用できないままだと<ドクトル・エッケナー>の運命に関わる事態となる。
「ウェーバー君。砲術長に前部対空砲の射撃開始を伝えたまえ」
「えっ」
最悪の場合には整備員の何人かが衝撃波で吹き飛ばされる事も有り得る命令である。しかし大事の前の小事とばかりにヴォルフ艦長は再度命じた。
「前部対空砲に、射撃開始を伝えたまえ」
厳密に言えば飛行甲板で<カイヤン>に取りついている整備員は、空軍に所属している将兵である。ヴォルフ艦長の直属の部下ではない。だからといって同胞を見殺しにするかもしれない命令を、平然と下せるはずはなかった。
ウェーバーは羅針盤へついたヴォルフ艦長の拳が細かく震えているのを見た後、艦長命令を電話で交換所に伝えた。
射撃はすぐに開始された。何も障害物の無い飛行甲板上を衝撃波が走り抜け、<カイヤン>をカタパルト後方にある六角形をした前部エレベーターへ向けるために押していた整備員の帽子が飛んで行った。
それだけではない。衝撃波は<カイヤン>の補助翼や尾翼の一部を捥ぎ取り、海上へと飛ばした。
これで作戦機を一機、無駄にしてしまった。格納庫にある予備の部品で修理が終わるまで、あの<カイヤン>は空を飛ぶことすらできなくなった。
上空に対空砲弾がつくる丸い砲煙が生まれ始めた。対空機関砲も寄せ付けない意志を示すかのように曳光弾を撃ち上げる。
飛行甲板に沿って対空機関砲を設置したスポンソンが設けられ、三七ミリ四連装機関砲が対空砲のある右舷側に二基、ない左舷側に四基、そして艦首に一基の合計七基装備されていた。そして二〇ミリ四連装機関砲が二基ずつ艦後部の両舷に装備されていた。
さすがに一隻で張る弾幕は心もとないほど薄いが、少しでも敵機が不利になる状況を作らなければならない。
雷撃隊の準備が出来たのだろう、上空の爆撃隊が艦首方向へと回り込んでくる。舵を左に切り続けているが、その先を読んだ行動だ。
ヴォルフ艦長は味方の標的として何度も模擬的な空襲を受けて来た。その経験からここぞという時に、伝声管へ向けて大声で叫んだ。
「面舵一杯!」
「面舵一杯、宣侯」
伝声管を伝って航海長の復唱が聞こえて来た。舵輪が回され<ドクトル・エッケナー>の艦首が左へ回ることを止めた。
しばし直進した後に、面倒臭がっているような調子で右へ針路を変え始めた。
これで回り込んだ半分の雷撃機は射点につくことができず、上昇して再びの機会を伺うはずだ。
しかしヴォルフ艦長の目論見は外れてしまった。
航空魚雷を抱えた雷撃機はのろまな動きしかできないはずなのに、スーッと機体を横滑りさせ、そのまま新たな射点へと変針してきた。その速度はドイツ空軍の雷撃機である<アイバトス>とは比べ物にならないほど速かった。
倍以上の速度で接近して来るので、もしかしたら爆撃隊に有利なようにこちらへフェイントをかけているのかもしれないと疑った瞬間、まだ高度も速度も高いままで<アンモーツ>から魚雷が投下された。
(あんな高度と速度、それに距離での雷撃とは。もしかして新米ばかり集めた二線級部隊なのか?)
ヴォルフ艦長が勘繰ったのも当たり前の話しだ。目測で速度が時速五〇〇キロ以上出ているし、高度も三○○メートルと高かった。距離だって、まだこちらの対空砲火が効果を上げるまで、もう少し近づいてくれないとならないほどだ。
あれでは落下した衝撃で、航空魚雷が海面に触れた瞬間に、魚雷本体が破壊されてしまうはずだ。
航空魚雷は<アンモーツ>から離れて三秒ほど空中を飛んだ。空中で姿勢はまったくぶれずに<ドクトル・エッケナー>を向いたままである。そのまま飛沫を上げて海面へと突っ込んだ。
やはり海面での抵抗は大きいらしく、部品が飛んだように見えた。だが、その位置から発生した雷跡が、スーッと<ドクトル・エッケナー>へ向けて伸び始めた。
(舵とスクリューを、木の板で保護していたのか)
コロンブスの玉子である。たしかに海面での衝撃が大きいのならば、その瞬間を保護する覆いで弱い舵やスクリューを守ってやればいいのだ。そして日本人は確実に覆いが外れるように、逆に海面での衝撃すら利用していた。
一発でカラクリを見抜いたヴォルフ艦長の頭の上から、サイレンのような音が響き始めた。
上空にいた<アンモーツ>たちが急降下爆撃を始めていた。
一列に<ドクトル・エッケナー>の全長分に並んだ一五機ほどの<アンモーツ>が一斉に突っ込んでくる方法だ。縦に一機ずつ並んで突っ込んでくるドイツ方式とは丸きりやり方が違った。
幾度も模擬的な急降下爆撃を受けて来たから分かる。爆弾と魚雷は同時に<ドクトル・エッケナー>に到達するはずだ。上空から突っ込んでくる機体の腹にある爆弾倉の扉が開いていた。
「前進一杯!」
ヴォルフ艦長は伝声管に向けて叫んだ。それは前進全速よりも速度を出せという命令だった。全速の場合は機械の安全値の中で出せるだけの速度という意味だが、一杯というのは安全値を無視して出せるだけの出力を絞りだせという意味だ。もちろん故障の確率は大きくなるが、いまは回避の方が優先であった。
ブルブルとヴォルフ艦長が立っているブリッジウイングまで振動が伝わって来た。アイランドと一体になっている煙突から、あまり耳触りの良くない騒音まで聞こえ始めていた。
だが二〇秒ほどしかなかった時間で<ドクトル・エッケナー>はグンと加速し、その分だけ真円のような曲線を描いていた航跡が、楕円の一部の様に伸びた。
こればかりは日本の攻撃隊も予想していなかったようで、魚雷が左右から次々と艦首の前と艦尾の後ろを通過していった。
「これは…」
まるで手品のように雷撃をかわしたヴォルフ艦長を、伝令役のウェーバーが讃えるように見た瞬間だった。
ズンと地震のような揺れが<ドクトル・エッケナー>全体を襲い、そして続いて上空から落ちて来た灰色に塗られた塊が飛行甲板に穴を開けた。
着弾の衝撃で、まだ前甲板で悪戦苦闘していた<カイヤン>が右舷へ吹き飛ばされた。最後まで頑張っていた整備員の一人が、その主脚を掴んだまま一緒に海へと落ちて行くのが見えた。
縦に並んで後部飛行甲板へ三発の爆弾が着弾していた。おそらく徹甲爆弾だったそれらは仲良く飛行甲板を突き抜けた。
一発は下にある格納庫すら突き抜けて主防御甲板である中甲板で炸裂した。次の一発は、その最初の爆弾が開けた水平防御の装甲を通過し、前部機関室へと飛び込んで信管を作動させた。
もう一発は後部エレベーター脇に着弾すると、上部格納庫から下部格納庫へと駆け抜け、そこで爆発した。
再び<ドクトル・エッケナー>は地震に襲われたようにグラグラと揺れ、飛行甲板に残っていた整備員たちは、たまらずその場に伏せた。
ドドドと火山を間近で見ているような光景が生まれていた。中央エレベーター後部に命中した二発が<ドクトル・エッケナー>の臓物を掻きまわすように破壊し、後部エレベーターを引き裂いたもう一発は<ドクトル・エッケナー>の格納庫に火災を発生させていた。
異常である事を示すブザーが鳴り響き、小さな爆発が続く。もしかしたら誘爆が始まっているのかもしれない。対空機関砲に取りついていた乗組員の半分が消火ホースへと走った。
残った射撃員で追い撃ちをかけるが、悠々と避退していく<アンモーツ>は、まるでコバエが集っている程度のような動きを見せて避けてしまった。
「大丈夫かウェーバー君」
爆発の衝撃を羅針盤に掴まって耐えたヴォルフ艦長は、傍らに立っていたはずの若い水兵を心配した。
「あははは」
防弾であるはずのヘルメットを顔の前に落としたウェーバーは、ウイングブリッジの床にへたり込んでいた。指摘しては彼に悪い記憶として残ってしまうかもしれないが、みっともなくズボンの中間から液体が滴っていた。
「怪我はないかね?」
自分も潜水艦乗りに成りたての頃に同じような経験があるヴォルフ艦長は、それを無視して彼に確認した。
「は、はい」
慌てて手摺を掴んで立ち上がってから、いまさらながら気がついたようで自分の股間を見おろして情け無さそうに表情を歪めた。
「被害の報告は?」
ヴォルフ艦長が訊ねると、何回か交換室を呼び出そうと声を張ったが、どうやらどこかで電話線が切れた様子であった。
ヴォルフ艦長は上空を確認し、そして水平方向を確認した。
雲間から海面を繋ぐように黒い煙の筋が何本か立っていた。どちらの機体か分からないが、どうやら撃墜された者がいるようだ。
上空には、まだ一群の<アンモーツ>が待機している。こちらの損害を上空から伺い、とどめを刺そうと身構えている状態だ。
「舵中央、機関全速前進」
航海艦橋と繋がっている伝声管へ叫ぶ。手負いとなった<ドクトル・エッケナー>にどれだけの運動性能が残っているかヴォルフ艦長は分からなかったが、止まってしまったらさらに被害を受けてしまう事は間違いなかった。
「舵中央、宣侯」
「全速前進、宣侯」
いちおう航海艦橋から返事はあるが<ドクトル・エッケナー>はブルブルと震えるだけで、一向に速度を上げようとはしなかった。明らかに後部に受けた爆撃と、ヴォルフ艦長は確認できなかったが幾つかの航空魚雷による被害によるものだ。
再び射撃音が激しくなった。艦首方向を確認し、依然と進まない<ドクトル・エッケナー>にイライラしながらも、ヴォルフ艦長は上空を振り仰いだ。
最後まで上空を占位していた<アンモーツ>が一列に並んでいた。先ほどの様子と同じである。
(突っ込んで来るな)
そう確信したヴォルフ艦長は伝声管に叫んだ。
「取舵一杯!」
同時に寄せ付けまいとする対空砲火がより一層激しくなり、<アンモーツ>が急降下を始める空気を引き裂く音が聞こえて来た。
ブルブルと震えるだけだった<ドクトル・エッケナー>が、もうこれ以上の被害はごめんだと言うように、左に艦首を回し始めた。
先ほどよりも急激に回頭していく。もしかすると左舷に受けた被害が抵抗を生み出しており、それが左への変針を手助けしてくれているのかもしれなかった。
ヨロヨロだったはずの<ドクトル・エッケナー>が機敏に変針したことに、突っ込んでいた<アンモーツ>が対応できなかった。
先ほどと同じ高度で爆弾を切り離すが、最初の爆撃よりも外れた海面に水柱を上げていく。一本、二本と右舷に上がった水柱の位置が近づいてきて、三本目は水柱ではなかった。
今度は<ドクトル・エッケナー>自体が海面から飛び上がったかのような衝撃がやってきた。
四角い飛行甲板を満遍なく破壊するように前から次々に着弾し、後部のすでに火災が起きている被弾口へも追加で爆弾が放り込まれた。
視界は爆発の黒い煙で塞がれ、あまりの衝撃に自分の体すらどうなったか分からなかった。
衝撃は発生した時と同じように突然止んだ。
これが人生の最期となろうとも、絶対に羅針盤だけは手放すまいと踏ん張っていたヴォルフ艦長は、自分が爆発に包まれる前と同じ姿勢で立っている事に気がついた。
被弾した飛行甲板上は、弾片や爆風が入り乱れて飛んだはずである。あまりの爆発音に耳が遠くなった気もするが、鼓膜が破れたというほどでもない。
敵弾が降る中に生身で立つようなウイングブリッジにあって、さすがに爆発かそれに続く火災による煙の物か全身が煤けてしまったが、彼は奇跡的に無傷で仁王立ちしていた。
彼の軍人というよりレスリングの選手といった体には痛みはない。口髭がいささか焦げたような気がするが、そんな物は負傷の内に入らないだろう。
気を取り直したヴォルフ艦長は周囲に目を走らせた。
周辺に、こちらへ向かってくる敵機の気配は無い。いやまだ攻撃する能力がある機が存在しても、上空から見てこれ以上の攻撃が必要ないと思ったのかもしれない。飛行甲板で発生しているだろう火災で視界は半分以下になっていた。
飛行甲板に向けて張り出しているウイングブリッジから航海艦橋を見ると、水平だったはずの通路が、明らかに上り坂に変わっていた。
どうやら左舷側に傾いているようだ。
もう一度だけ周囲を見回したヴォルフ艦長は、伝令役のウェーバーがどうなっただろうと傍らを見た。
この大騒動の中、ヴォルフ艦長と同じぐらい強運だったのか、彼も無傷で立っていた。
ただ放心しているかのように惚けた表情で上空を見上げている。衝撃の大きさに目を開けたまま気絶しているかのようだった。
「艦橋へ戻ろう。ここに居てもやる事は無さそうだ」
「ああ、はい」
声をかけると、いま起きたような反応である。彼を押しのけるようにして細い通路を両脇の手摺に掴まり上るように移動すると、航海艦橋は意外と静かなままであった。
押しのけられたことで意識を取り戻したのか、ウェーバーも後からついて来た。
艦橋へつくと、舵輪を自ら握っていた航海長が操舵長と交代して、ヴォルフ艦長へと報告のために近寄って来た。(注251)
「やられたね」
「はい。全て回避できると踏んでいたのですが」
先に口を開くと航海長は残念そうに言った。
「被弾は全部で一〇発です。最初に三発。次に七発。それと魚雷を左舷に二発食らいました。左舷の機関室はおそらく全滅でしょう。現在、舵は中央。機関には停止を命じてあります」
「そうか」
ふと艦橋から左後方へと視線をやる。アチコチに穴が開いた飛行甲板では、火柱が上がっている被弾口へ、消火ホースからじゃんじゃん水を注いでいるところだ。
消火ホースから出ている海水の勢いは強そうだ。とすると補機類はまだ生きているという事なのだろう。
改グラーフ・ツェッペリン級航空母艦である<ドクトル・エッケナー>は、四つの機関室を持っていた。その原動力は一二基の主罐で発生させる高圧蒸気である。原型が設計された当時は機関と主罐を交互に配置する「シフト配置」が一般的でなかったこともあり<ドクトル・エッケナー>も、漫然と前部から主罐室、前部機関室、後部機関室と配置されていた。
重要な箇所が隣り合わないよう間に補機類(ポンプや発電機)を納めた小部屋を挟んでいるとはいえ、被害が留めるのには限界があるだろう。
「何機を海水浴にご招待できた?」
次に艦橋詰めの主計科の将校へと訊ねた。戦闘中は仕事が無くなる主計科の者は、ある者は弾薬運びに、そしてある者は記録係へと配属される。
「二機は確実に。そして、もう二機ほど不確実ですが戦果に加えてもいいかもしれません。直掩隊の方は何とも言えません」
上空で空中戦をしている直掩隊の戦果は、帰還して初めて分かる物だ。記録係とは言え彼に把握できていなくても責めることはできないであろう。
「被害報告を」
副長を防御指揮官として艦が受けたダメージを局限するために応急班が働いてくれているはずである。防御甲板の中に設けられた応急班指揮所へ正式に報告を求めた。
ドイツ海軍の間接防御には定評があった。第一次世界大戦最大というだけでなく、参加した戦艦の数は史上最多ということで有名なユトランド沖海戦(英国側呼称ジェットランド海戦)において、他国の巡洋戦艦に相当する大型巡洋艦<ザイドリッツ>は、英国艦隊から二一発の大口径砲弾と一発の魚雷を受けて大破した。軽巡洋艦一隻分にも相当する五〇〇〇トンを超える浸水を艦内に許したにも関わらず、海戦から三か月半で艦隊に復帰した。
その伝統は今でも生きていた。魚雷を受けたことで浸水した左舷とバランスを取るため、右舷バルジ内にある注水区画へと海水を入れて艦の水平を取り戻した。
これにより応急班の活動もやりやすくなった。傾いた場所では力を入れようと踏ん張っても限界があるが、平らな甲板ならそれも容易い。
艦内にある防水隔壁は厳重に封鎖された。この処置により浸水区画も限定されたが、副次効果として火災区画も局限された。
「左舷の機関室は前後共にダメなようです」
それでも被害を直接受けた箇所は元通りというわけにはいかない。副長が指揮を執る応急班からの報告をヴォルフ艦長は唇を噛んで聞いた。航海長の予想は当たっていたようだ。
右舷の前部機関室は飛行甲板を突き抜けて主装甲とされた中甲板すら貫通した爆弾に、左舷前後にある機関室はバルジを突破した魚雷が直接飛び込んで来て、破壊された。
蒸気タービンを始めとする大型機械は、本国工廠にあるドックに入らないと修理は不可能である。
「右舷後部機関室にも浸水は広がっています」
いくら防水隔壁で区切ろうとも、蒸気配管や復水器への真水配管、各種の電気配線などが隔壁を貫通している。爆発の振動や続く火災でそういう部位に穴が開き、隣の区画へ浸水が広がることは予想された事態だ。
だが知っている事と、実際に起きたことでは、同じ情報でも耳に入ると重さが違った。
「格納庫の火災が広がっています」
前部から中央部にかけて着弾した爆弾は、主装甲を貫通する事はできなかったようだ。だが装甲板の上には格納庫があった。その中には機会があれば出撃させようとしていた<スツーカ>や<アイバトス>それに出撃準備をしていた各種艦上戦闘機などが残されていたはずである。安全のために燃料タンクを空にしておくなどの基本を守ったとしても、燃料が気化したガスはタンクの中に残っているものだ。それに火が回れば爆発の危険があった。
「格納庫真下の罐室も温度が上がっています。鎮火するまで主罐の火を落とさなければならないかもしれません」
「むっ」
ボイラーの火を落とすと、再び蒸気を発生させるために二四時間はかかるものなのだ。そうなると右舷機関室が無事でも<ドクトル・エッケナー>は動けなくなることを意味した。
これがどこかの平和な海、しかも港の入り口などだったらヴォルフ艦長も難しい顔をしなかったかもしれない。
しかし<ドクトル・エッケナー>は、そこと対極の海域に居ると言っても過言ではない。なにせ機動部隊から先鋒として突出した位置にいるのだ。下手をすると味方機動部隊より、敵艦隊の方が近いかもしれないのだ。
「伝令を。誰か伝令を」
ヴォルフ艦長が見回すと、こんな状況だから着替える暇の無いまま汚れた服装のウェーバーが一歩前に出た。
「空軍の航空隊指揮所へ行き、本艦は飛行甲板に重大な被害を受けたため、上空にいる直掩隊の収容は不可能と伝えてくれたまえ」
たとえ火災が鎮火したとしても、飛行甲板は艦内で起きた爆発に吹き上げられて、平らではなくなっていた。<シュトルヒ>などの短距離着陸ができる飛行機ならば、まだ発着の可能性は残っていたが、発艦にも着艦にも長い距離を必要とするジェット機には無理だろう。それにジェット機には航続時間の問題もあった。
「はっ。飛行甲板に重大な被害を受けたため直掩隊の収容は不可能。伝えます」
復唱を終えたウェーバーは、若い水兵らしく小走りに廊室へと消えた。
これで燃料が切れる前に、上空を守ってくれた戦闘機は後方の機動部隊本隊へと向かう事ができるであろう。ただ同じ改グラーフ・ツェッペリン級とはいえ、他の二隻の航空母艦はジェット機対応の改修を受けていないので、<カイヤン>の着艦は無理なはずだ。艦隊近くの海へと着水し、操縦士はヘリコプターで救助する事になるだろう。
だが<ドクトル・エッケナー>を守ってくれた勇士たちに無責任な態度を取る事はできない。第一<ドクトル・エッケナー>の周りに着水されても、救助が満足にできないことは自明の理であった。
少し経ってウェーバーがまともな格好で艦橋へ戻ってきた後も、上空には友軍機のエンンジン音がしていたが、それも櫛の歯が抜けるように少なくなっていき、最後の一機はわざわざ<ドクトル・エッケナー>の近くまでやってきて、別れを惜しむように翼を振ってくれた。
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北東海域。ラッカジブ海上空一〇メートル:1948年4月20日0900(現地時間)
一方、日本艦隊を目指すルーデル大佐が率いる攻撃隊は、順調に進撃していた。途中で不調になって引き返す機体も無いようだ。
索敵機が伝えて来た日本艦隊の位置から逆算して五〇キロ手前で、ルーデルは編隊を低空へと導いた。
日本艦隊が索敵用のレーダーを使用しているのは間違いない。それどころか先行させた艦船もしくは航空機でこちらの攻撃隊をより早い位置で探知し、迎撃態勢をより完璧にしているように思われた。
そこでこの苦肉の策である。レーダーという物は便利な機械ではあるが完璧ではない。まず、どこまでも見ることができるように考える素人がいるが、水平線の向こうまでは見えないのだ。これは目で水平線の向こうの風景が見えない事と同じである。(注252)
なぜなら地球は丸いからだ。その丸みの影になる部分には、観測者から見ることはできない。大げさな事を言えば、地球の反対側の様子はどんな望遠鏡を使っても見ることができないということと同じだ。
虹の七色に例えられる可視光線がそうならば、電波だって同じである。
よって低空飛行で接近すれば、ギリギリまで日本艦隊に見つかることは避けられるということになる。
この見ることが出来ない高さは、天候やそれによる波の高さによって刻々と変化する。だから必ずこの高さなら安全という数字は無いが、それでも目安は自軍のレーダーによって得ることができた。
おおよそ高度一〇メートルから二〇メートルよりも低く飛べば、レーダーによる探知を遅らせることができるはずだった。
ルーデルも、この経験から機体の高度を一〇メートルとしていた。彼の機体に続く編隊各機も似たような高度を取っている。戦闘機によって構成されている護衛隊のみが、ちょっと高く二〇メートルほどに居るのは、いざとなったらその身をもって攻撃隊の傘となるつもりであるからだ。
もちろん気を抜いていると海面へ突入してしまう高度だ。だが大陸の上で低空飛行するよりは気楽なものである。これぐらいの安定した天候ならば波高が一〇メートルもある大波なぞ滅多に立たないであろうことは明白だからだ。これが地面の上だと丘や森の木、教会の鐘楼などが脅威となる。
もちろん東部戦線で英雄となった百戦錬磨のルーデルにとって容易い飛行であったが、部下たちだって負けてはいなかった。
まあ半分は欧州戦争で腕を鳴らした猛者であったし、残り半分の新米たちは、そのベテランたちに日夜しごかれてきた連中であるからだ。
ただ、安全策と言える低空飛行にも問題があった。
これも当たり前すぎて書きづらい事だが、遠くを見る時はなるべく高い位置に居た方が、より遠くまで見ることができるのである。これも水平線の理屈だ。よって城塞などの見張り台は敵軍が良く見えるように高く築かれたし、戦艦の檣楼は遠距離の目標に照準するために高く櫓が組まれた。
同じ理論でルーデルが率いる攻撃隊からは、日本艦隊がまだ確認できなかった。いつも進軍する高度八○○○メートル程度ならば、日本艦隊が海面に描く航跡が見える頃になっても、水平線しか確認できなかった。
これだと敵艦隊を発見できずに迷子になって右往左往して燃料が切れ、無為に引き返す事にもなりかねなかった。
だが、もちろん百戦錬磨の彼が無策というわけでは無かった。
「方位に違いは無いか?」
ルーデルが後席に座るガーデルマン少佐に訊ねた。彼は目を閉じてヘッドホンから聞こえてくる音に集中していた。
「ああ、間違いない」
乗員同士での会話がスムーズに行くようにインターホン回線も入っているが、ルーデルの耳にも微かにガーデルマンが聞いている音が届いていた。
一定のリズムでピー、ピー、ピーと鳴っているが、異常ではない。これで正常だ。
これは先行している誘導機が出してくれている誘導電波だ。中波で送られてくる誘導波は、向かう方向に対して右側にモールス信号の「A」が、左側に「N」が送信されている。モールス信号の「A」は「・-」で「N」は「-・」であるから、これが重なり「ーー」と聞こえる方向が電波の発信者の方位となる。
ガーデルマンが受信機の周波数を合わせて耳で確認しているが、実はルーデルが座る操縦席の計器盤右側に、矢印が一本真ん中に立っているような計器があった。
これは誘導波を受信して、左右にずれた分だけ矢印が傾いて知らせてくれる計器であった。(注253)
つまりガーデルマンがやっていることは計器の再確認以上の物では無いのだが、航空団司令の編隊長機としては、万が一にも間違った方向へ攻撃隊を率いるわけにもいかないので、慎重に慎重を重ねているのであった。
「我々のために誘導してくれている…」
それがどれだけ危険な仕事か分かっているルーデルは、雲しか見えない空を見上げて呟いた。
「ありがたいことだ」
●インド洋アラビア海ラッカジブ諸島北東海域。ラッカジブ海上空七〇〇〇メートル:1948年4月20日0900(現地時間)
高空を往くフォッケウルフ一六七<アイバトス>のBMW八〇一J空冷星型エンジンは、予備機として空母の倉庫へ放り込まれていた割には快調であった。
先行していた索敵機の報告の通り雲高は四〇〇〇ほどあり、その雲も薄くて見通しが良かった。見渡すと青空と積乱雲で水玉模様のようになっている点も変わりなかった。
「これは、まずいな」
二時間ほど前に空母<ドクトル・エッケナー>を飛び立った誘導機の操縦桿を握るのはヴァルター・トラウトロフト軍曹である。彼はちょっとオカルトめいたところがあるので、突拍子もない事を口にする傾向があった。
「まずい?」
機体のお腹からは誘導波を出すために曳航式のアンテナが繰り出されていた。その誘導装置にかかり切りになっていたマックス・シュリクティング軍曹は顔を上げた。
トラウトロフトとは階級は同じだが先任順でシュリクティングの方が偉いという事になっている。機長役をやっているのもそういう理由だ。
「ああ、いい予感がしない」
「勘弁してくださいよ」
機内で通信機を弄っていたゲルハルト・リッパート軍曹が悲鳴のような声を上げた。
なにせトラウトロフトの悪い予感は「当たる」のだ。それが天気予報に無い夕立程度の予感ならばまだしも、ここは戦場の上空…、しかも単独行動している誘導任務の時とくれば最悪である。
今のところ三人が乗る<アイバトス>が敵に発見された兆候は無かった。最初に発見した索敵機の報告通り、日本艦隊の北西側に厚い積乱雲の塊があり、トラウトロフトは自機をその中に隠すように飛ばしていたからだ。
だからといって空を飛ぶ航空機が海を往く艦船と同じ速度で飛ぶというわけにはいかなかった。
日本艦隊は二〇ノット(時速三七キロ)の速度で針路を〇・〇・〇、つまり真北に向けて進撃していた。おそらく航空機運用の邪魔となる雲の塊、三人が乗る<アイバトス>が隠れている空の障害を避けるために回り込んでいる最中であろう。速度の方は加速中であり、これからどこまで艦隊速度が上がるのかは分からない。
一方、三人が乗る<アイバトス>であるが、要目表にある巡航速度は時速三三三キロであった。艦隊との速度差が十倍近くもある。しかも誘導波を安定して放出するために、なるべく直進して飛ぶ必要があった。
これではあっという間に追い越してしまう。そこでトラウトロフトは、この高度で飛んでいられるギリギリの速度(失速速度)である時速一三二キロまでスロットルを絞り、さらに主翼のフラップを出すことで空気抵抗と揚力を稼いで、もっと速度を落としていた。
積乱雲の中なので気圧が目まぐるしく変わるために速度計はあてにならなくなっていたが、おそらく時速一〇〇キロほどまで減速できているはずだ。(注254)
これでもまだ三倍近くの差があるが、普通の航空機が空で停止できない以上、工夫してなんとかするしかなかった。
今のところトラウトロフトは一〇分間直進し、そしてなるべく鋭く旋回、同じ航路をまた一〇分かけて戻るという飛行法を取っていた。
旋回する度に誘導装置の左右を切り替える必要があるが、円を描いて飛ぶよりはマシである。もしそうしたら、誘導装置の面倒を見ているシュリクティングが、ずっと方位を切り替え続けなければならなくなる。そうするとやはり精度が悪くなるし、下手をすると攻撃隊を全く違う場所へ誘導する事にもなりかねなかった。(注255)
もちろん積乱雲の中を飛ぶ時に直進するには多大な労力が必要だった。風防には雨や霰がぶつかって視界は悪くなるし、突風で機体の姿勢が崩れ、それは誘導波の方位を維持する邪魔となった。
だが、のんびりと青空の下を飛んでいたら敵の戦闘機に襲われる事は間違いなしだ。そうなったら誘導波を出すどころか、三人の生命にかかる問題である。まあ乱気流の中を飛ぶのも命がけに違いは無いが、程度の問題である。
エンジンにしたって無理をして低速飛行をしているので燃費は最悪だ。トラウトロフトは機体をなるべく真っすぐ飛ばす事以上に、燃料の残量を気にしていた。
大型機などでは空中給油の実験は成功していた。だが空母航空団ではまだ試したことすらない技術だ。よって機内タンクと、両翼にぶら下げて来た増槽に入ったガソリンだけが頼りという事になる。
燃料計は全速運転を続けている時のような勢いで減り続けていた。
「増加タンクが空になった」
トラウトロフトが報告する。普段は切り離して捨てる物だが、今は低速飛行に必要な空気抵抗としてそのままである。
「燃料切れですか?」
トラウトロフトの嫌な予感という奴を先回りして予想したリッパートが、勘弁してくれとばかりに言った。
「あまり泳ぎの成績は良くなかったのですが」
「どうする?」
まだ機内タンクには標準レベルの燃料が残っている。燃料切り替えコックを適正に扱って行けば、まだ一時間近くこの空域には留まれそうだ。
「味方の攻撃が始まるまで耐えろ」
シュリクティングが、それが当たり前のように言った。
「早く始まれ、早く始まれ」
後席のリッパートが指を組んで祈り始めた。
「その前に、リッパート。仕事だ」
まだ直進飛行を続ける時間であるが、スポンと黒い雲から飛び出てしまった。しかも間の悪いことに、視界に広がる青空に、ゴミのような物が浮いているのが目に入った。
「旋回する。シュリクティング方位を。リッパート銃を」
予告してトラウトロフトはラダーペダルと操縦桿を操作し始めた。低速飛行なのでいつもの調子で急旋回に入ると失速して墜落の危険があるのだ。鋭く旋回をしているつもりでも、戦闘機から見たらもっさりと遊覧飛行しているように見えるかもしれない。
そして敵の誘導機を見逃すほど、直掩隊の戦闘機というのは呑気では無かった。
見ている間に、ゴミのように見えた黒い粒が、形が分かる程に急接近して来る。間違いなく日本海軍の制式戦闘機である五式艦上戦闘機J三K・A<ジンプウ>、ドイツ側符牒<(メヒティヒ・)ゲオルグ>だ。
全速で向かってくるのが実感できる。点みたいな姿から、すぐに翼が見分けられるようになったし、黒だった色もいつの間にか白と灰の二色で塗り分けられているのが見て取れた。
「はやく雲の中へ」
誘導波の左右を素早く切り替えたシュリクティングがトラウトロフトに命じた。
「了解」
トラウトロフトは左手に握っていたスロットルレバーを押してエンジンの回転数を上げた。すぐに抵抗の元になっている主翼下の増槽を切り離し、フラップを格納する操作を行った。(注256)
「ひいい」
昨日の索敵任務で酷い目に遭わされた事を思い出したのか、機体が回って敵機と向かい合う形となったリッパートが悲鳴のような物を上げる。だが無闇に取りついている後部機関銃を撃たないところは流石であった。
雲は風で変形していく。いまは風の女神たちの悪戯か、三人が乗る<アイバトス>を拒否するように引っ込んでいく。だが本気の加速に入った<アイバトス>よりも強い風は吹いておらず、ズボンと機体はすぐに灰色の空間に飛び込んだ。
これでも相手が夜間戦闘機などでは安心はできない。そいつらは空対空レーダーを装備しているからだ。だが<ゲオルグ>は昼間戦闘機のはずだ。探り撃ち程度はあるかもしれないが、追撃を振り切ったと思って間違いないだろう。
「くるぞ」
だがトラウトロフトは確信したように言った。
「来る?」
再び機器にかかりきりとなったシュリクティングではなく、リッパートが訊き返した。
「こっちは誘導波のせいで直線飛行しかできないことは向こうにバレてる。雲の中だろうがこっちの位置を予想するのは容易い」
「ひえ」
その途端に黄色く光る棒が複数、<アイバトス>を追い抜くように飛んで行った。戦闘機の機関銃による射撃だ。
いくら直線飛行を心掛けているとは言え、積乱雲の中で風に押されて横滑りしていた分、敵の射線から逃れられることができたのだ。
「くそう」
飛んできた方向にリッパートが銃口を向けた。
「やめろ撃つな」
トラウトロフトが叫んだ。
「なんで?」
「いま撃ったら、発射炎で位置がバレる!」
風に対抗しているのか、それとも予感がするのか、トラウトロフトは汗を掻いていた。彼はラダーペダルや操縦桿を使って水平飛行を維持しようと忙しい。その合間にリッパートの反撃を止めた理由を口にした。
雲の中で機関銃を撃ったら、その銃口から出た発射炎が目立つことは間違いない。しかも同じ高度で後方から追いすがって来る戦闘機からだとよい目標となるだろう。
ここは反撃よりも見つからない方が優先であった。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
「…下の銃座から海を見ろ」
「は?」
またトラウトロフトが変な事を言い出した。だがシュリクティングよりは彼のオカルトめいたところを受け入れているリッパートは、座席の高さを下げるとシートベルトを外し、機体下部から後方を狙うように装備された機関銃の位置へと潜り込んだ。
こっちの機関銃は射界は狭いし威力は低いしで、設計者はともかく搭乗員たちからは「気休め」だの「吊り合い錘」だの散々な評価を受けていた。
だが機体の下方視界を得るには最高の場所だった。
その銃座から荒天で波立つ海面に、いくつもの細かい点で描かれた三角形があるのが見えた。
最初はトビウオの群れが跳ねているのかと思ったが、この高度でトビウオのような小さな魚が目に入るわけがない。
「あれは…」
正しくルーデル直率の攻撃隊が到着した瞬間であった。
ということで空母が一隻やられちゃいました。まあ順当な損害だと思いますけど。当時、実際に大きな海戦で戦った方の戦記や手記を読んでいると、意外に敵の弾が当たらないようで当たり、当たるようで当たらないという不思議な感想がこみ上げてきます。
おそらく死と生の境目を経験しての文章だからでしょうか。最初からそうなるように運命づけられていたと感じる方が多いようです。(だからと言って和美のご都合主義が肯定されるわけではありませんが)
実際に五万トンやら十万トンやらの艦を指揮して敵弾をくぐるって、どんな物なんでしょうね。先人が残してくれた記事を伝えていくしか私たちにはできないけれど。大事にしたい物です。