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戦艦<ヤマト>を撃沈せよ  作者: 池田 和美
13/13

戦艦<ヤマト>を撃沈せよ・⑬



●戦後の書籍より抜粋

 西印度洋海戦。

 西印度洋海戦(にしいんどようかいせん、英語Battle of the Indian Ocean)は日独戦没中の一九四八年(昭和二三年)四月下旬、BS作戦中の日本海軍とドイツ軍との間で発生した戦闘。インド洋アラビア海全体の制海権を手にしようとする日本海軍と、ボンベイよりインド首都デリー占領を目指す陸軍部隊のための海上補給線を確保するために出撃したドイツ海軍機動部隊との間に発生した戦い。特に四月一九日から二〇日にかけて発生した戦闘では、お互いがジェット艦上機を本格的に投入した史上初の戦いとなった。また人類史上初めて核兵器の戦略使用が為された戦いでもあった。

 初代大ドイツ総統アドルフ・ヒトラー五九歳の誕生日に、その記念として勝利を捧げようとした海軍総司令部(OKM)が計画を立てたため、艦隊に対する支援体制が準備不足など、とても不健全な状態で作戦が開始された。

 また日本側も問題を抱えていた。大ドイツの拠点となっているボンベイのみを攻略すれば相手の補給線を断つことが出来るところを、同時に途中にあるゴアと、ドイツ海軍の策動拠点となっていたアラビア海西岸のソコトラ島攻略を同時に行おうとする、戦略目標を絞り切れていない玉虫色の作戦案であった。

 後背を突かれない様にゴアを攻略する意味はまだあったが、ソコトラ島はこの時点で無理に攻略する必要は無かったと思われる。

 その結果、戦力分散の愚を犯した日本側は、海戦前から一方的に攻撃されるという事になった。結果、北方攻略部隊(通称BG部隊)は海援隊(後の大日本帝国海兵隊)を乗せた輸送船団の護衛についていた軽空母<冲鷹>を、ドイツ空軍の誘導爆弾を装備した基地攻撃隊に撃沈された。

 基地攻撃機から日本艦隊の位置を通知されたドイツ機動部隊は、西側から先制攻撃に成功した。

 だが後述する理由で戦艦<大和>に攻撃を集中したため、大きな損害を与えることはできなかった。それどころか大規模な海空戦では攻撃必須の航空母艦への攻撃を選択しないという大きな間違いを起こした。

 だが、それも仕方のない事かもしれない。戦前からの諜報活動により大ドイツ側は<大和>に核砲弾が準備されていると判断しており、その使用がなされた場合、戦後の戦力バランスが大きく日本側に傾くことを憂いていた。戦術的には失敗かもしれないが、核兵器の使用を防げれば戦略的には勝利と言えたからだ。

 海空戦二日目。同時にお互いの位置を発見した両海軍は、ほぼ同時に攻撃隊を発進させた。その結果は明らかであった。日本側は太平洋の戦いで鳴らした腕前を充分に発揮し、大ドイツ側の航空母艦二隻を大破させることに成功した。

 ただ大ドイツ側も新兵器である<ミステルフィア>を一二機も投入した。全ての弾頭は途中で迎撃されるなどし、ただ一発のみが<大和>正面から突入した。だが、その攻撃も<大和>主砲による三式弾一斉射撃により撃墜に成功した。

 この<ミステルフィア>内の一発が大ドイツ側へと誤誘導された結果、航空戦艦<フォン・リヒトホーフェン>へと命中。同艦はその後、日本機動部隊の航空攻撃を受けて転覆沈没したが、その必要が無かったほどの損傷であったとする資料もある。

 まともな空母が一隻のみとなったドイツ機動部隊は、それでも海上打撃戦を日本艦隊に挑んだが、大改装を終えていた<大和>は五〇センチ砲搭載艦となっており、大ドイツ機動部隊旗艦の<ウルリヒ・フォン・フッテン>を一方的に砲撃し、撃沈する事に成功した。

 これが現在では戦艦による作戦行動中の戦艦を撃沈した最後の例となっている。

 その夜、日本海軍第六艦隊に所属する潜水艦の追撃を受けたドイツ機動部隊は唯一無傷で残っていた空母<エーリッヒ・レーヴェンハルト>を喪失。航空攻撃で大破していた<ペーター・シュトラッサー>のみが、追撃を逃れてスエズ方面への逃走に成功した。

 海戦翌日にはポルトガル領インド、ゴア首府パナジが無防備都市宣言をし、駐留していたドイツ軍は北部にある鉄鉱山へ籠城した。北部パナジ港と南部バスコ・ダ・ガマ港に分散して上陸した帝国陸軍、帝国海援隊、そしてインド陸軍は当地を占領した。同地は後にインドへ併合されることになる。

 また二五日までに日本機動部隊よりの空襲を受けたボンベイは、占領軍司令官のヘルムート・バイトリング砲兵大将がヒトラー総統よりの死守命令を順守しようとして、無防備宣言を出せずにいた。

 そこに遣印艦隊司令長官の伊藤整一海軍大将からの新兵器使用予告宣言の通達が為された。民間の人命と資産を守るためバイトリング大将はそこで初めて折れて、ボンベイ占領軍は降伏した。

 これによりインド首都デリーを目指し、アーメダバードを攻略して進撃を続けていたドイツ国防軍B軍集団は補給線を断ち切られ丸ごと孤立した。その後、物資が欠乏する中で善戦するが翌年には最後の部隊が降伏する事になる。

 この海戦の敗北を受けカール・デーニッツ海軍元帥は海軍総司令官を辞任した。(注314)

 ヒトラー総統は怒りの余り海上部隊の総解体を命令するが、後任のハンス=ゲオルグ・フォン・フリーデブルグ海軍大将は翻意を求めた。

 国防軍のB軍集団の劣勢が伝えられ、インド亜大陸における敗北が見える頃になって総統官邸はヒトラー総統の重病を公表した。病状は重篤で、同時に政界からの引退も宣言された。

 だが明らかに政党内部での政治的な争いに敗北し、病気を言い訳に戦争責任を負わされた事は間違いなかった。

 一般にはドイツ国家放送協会にて流された翌日昼のニュースによって知らされ「愛する臣民よ。これからは大ドイツの全てと同じ様に、ひとりの女性を愛する事を許して欲しい」というヒトラー自身の言葉が有名になった。同日、彼はエヴァ・アンナ・パウラ・ブラウンとの婚姻を発表した。

 結婚生活は長くなかった。婚姻の発表後十日にして大ドイツを導いて来たアドルフ・ヒトラーは病魔に屈する事になったのだから。

 先代の指名を受けて大ドイツ国会社会主義国第二代総統の座に就いたカール・デーニッツは、海軍力の増強に心を砕くことになるが、それはまた別の歴史だ。

 こうしてインド・アフガニスタン戦役は、大ドイツの「転進」によって終結した。この影響により大ドイツは数々の権益を手放すこととなり、代わりに大陸中央部の開発へと邁進する事となる。


 結果

 一連の戦闘に勝利した大日本帝国は、世界の指導国としての立場を確実なものとし、一層の発展を続けていく事になった。


 余談

 当時の乗組員の証言によると、たしかに戦艦<大和>の主砲はボンベイ市街へと向けられたようである。ただし用意されていた砲弾は対地用焼夷弾として使用できる三式弾であり、巷で言われている五式弾(核砲弾)でなかったようだ。三式弾も当時は秘密兵器の扱いであり、伊藤大将の「通常兵器で非ず」の電文はまったくの嘘では無かったが、核兵器という物の使用法は、実際に敵の頭上へと落とす物では無く、恫喝によって得られる物の方がより有効的という実例を残した。


(民明書房刊「絵で分かる戦史叢書」より)(注315)


 現代と違って仮想戦記が大流行した時代、和美は色々な先生の作品を読み漁ったのですよ。その中でも面白いと感じていたのが、横山信義先生の「八八艦隊物語」檜山良昭先生の「大逆転シリーズ」等でした。もちろん玉石混合であった時代ですが、和美には宝石のように思えた吉岡平先生の「凍てる波涛」は、ページが擦り切れるぐらい繰り返し読んだものです。

 そして佐藤大輔先生の各作品。未完の作品ばかりと言われる先生の作品群に触れ「あ、終わらなくてもいいんだ」と新たな刺激を受け(それダメなやつ!)陰ながら応援していたのです。

 そして年月が重なり、自分なりの太平洋戦争のやり直しを火葬(それとも夢想? 妄想?)していた頃、吉岡、佐藤両先生の訃報に触れ、あの頃の感情が蘇ってきました。

 そういう事で、二大先生への和美からの弔意のつもりでこの作品を書きました。ネタ的には佐藤先生の「レッドサン・ブラッククロス」まんまなんですけどね

 この作品がお二方のご冥福に繋がる物でありますように。


 池田 和美


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