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戦艦<ヤマト>を撃沈せよ  作者: 池田 和美
1/13

戦艦<ヤマト>を撃沈せよ・①

 かつて古代の政治家マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス(大カトー)は、演説をこの言葉で締めたとされる。

「カルタゴ滅ぶべし」

 これがカルタゴ滅亡に繋がる第三次ポエニ戦争のきっかけとされる演説であった。らしい…。

 まあ実際には伝説の類で、似たような事は口にしたが、そんなことは言っていないとか。

 学校の成績が悪かった和美が、そんな自分で見聞きする事ができない大昔の事が本当かどうか知る術なんてありはしません。

 ですが我が国の大サトー(佐藤大輔)は言いました。


「合衆国滅ぶべし」

(いや言ってそうだけど、たぶん言っていないし!)


 どういうことを言いたいかと言うと、大サトーは偉大だったな、と。

 という事で(どういう事?)和美も合衆国を滅ぼそうと火葬(仮想ですらねえ)戦記に手を出してみました。

 とりあえず大日本帝国とアドルフ・ヒトラー率いるドイツとの戦いを描いてみました。いつの間にか合衆国が蚊帳の外になっているのは、まあ和美の企画力の無さのせいなんですが。

 日本とドイツの戦いを和美が書くとどうなるのか、お楽しみください。


 捕捉:毎回和美が作品につける「蛇足」ですが、今回は量が多いので、本文中に(注)をつけて整理してみました。先の展開などのネタバレになっている項目もあるので、使用の際にはご注意を。


●新大陸アリゾナ州コロラド砂漠:1945年8月15日1215(現地時間)


 岩砂漠を横断する国道には、一定の距離を置いた電信柱しか付随している物は無かった。

 砂漠という事で何も無い不毛の土地だと思われるが、意外にも植生は豊富で、オオハシラサボテンをはじめとし、低い灌木や枯れているように見える草の葉などで、赤色と黄色が重なった地層を見せる岩肌を覆っていた。

 だが暑さは本物だ。砂漠の名にふさわしい温度に湿度である。こんな土地でも月に一度ぐらいは降雨があり、その時は地面の草が生き返ったように青々とするのだ。

 今は陽炎すら枯れ果てるコロラド砂漠を一台のフォードV八(注1)が走っていた。さすがに戦前のモデルだけあって最新型には見劣りするが、こんな誰の力も借りられない土地を走るには、最高速度よりも故障しない信頼性の方が大事であった。

 窓は全開に開けていても、砂混じりの熱風だけが入り込んで来て、爽やかという気分にはなれなかった。

 ハンドルを握るのはネグロイドの男で、路面の照り返しで目を灼かれないようにサングラスをかけていた。

 助手席に座るのは若い男である。こちらも顔にはサングラスがあるが、アングロ・サクソン系の顔つきだ。身なりはそれなりに良いが、染み込んだ汗はシャツをよれよれにしていた。

 後部座席にはお人形を抱えた五歳程度の女の子を挟んで、中年に差し掛かったこれまたアングロ・サクソン系と思われる男女が座っていた。

 五人とも旅の疲労が顔に出ていた。なにせ一番近い町からも一昼夜走った地点となる。最後のダイナーを出てからも半日だ。

 買い込んだ飲料水はすでに半分以上を飲み干してしまった。

 休もうにも太陽が真上にあるせいでサボテンは木陰を作ってはいなかった。停車してようが走っていようが、そんなに休めるという土地ではなかった。ならば走り続けた方が、まだそれに伴って風が車内に入るのでマシという物だった。

 普通、長距離の移動は鉄道に頼るのが一般的だ。ユニオン・パシフィック鉄道の<オーバーランド・リミテッド>(注2)を始め、華やかな特急や急行が鉄路を行き交っているはずだ。

 そちらならば清涼な車内環境に、デザートがつく食事と、この自家用車の車内とは比べて天と地…、いや天国と地獄ほどの差のはずだ。

 だが、この小さな女の子を含む一家は、込み入った事情という奴で、鉄道の利用ができなかった。

「そろそろですぜ」

 戦争中は陸軍航空隊(注3)で整備員をやっていたという運転手が、久しぶりに口を開いた。車窓に物騒な物が見えるようになってきた。

 国道の両脇には幾重にも重ねられた鉄条網が張られ、等間隔に安物の立て看板が並び始めた。

 どれもこれも「地雷原」と書いてあり、また字が読めない者に配慮してか、ドクロマークまで書き加えられていた。

 字を読むことができない野生生物はというと、ちょうど今、獣一頭分の骨が鉄条網に絡み取られたままの姿で放置されていたのが目の前を通り過ぎた。大きさからしてコヨーテであろう。

 目を開きながらも半ば意識を失っていた助手席の男が頭を振った。

「そろそろ?」

州境(しゅうざかい)だ」

 オウム返しに帰って来た質問に、だいぶ訛った英語で運転手は答えた。助手席の色男は取ってつけたような微笑みを浮かべると、ギヤボックスの真上から後席を振り返った。

「そろそろ『国境』だそうです」

「聞こえていたよ」

 後席の男が疲れ果てた声を出した。

「いいですか? 私はジョージ・スミス、失業した小学校教師である貴方の秘書だ。彼はアル・パウエル。見ての通り運転手として貴方が雇った男」

「ああ、分かっている。そういうことには慣れているつもりだ。私の名前はクリス・ジョンソン。ニューヨークで小学校の教師をしていたが失職し、ロスアンゼルスで叔父が開いている学校へ再就職に行く途中。車を選択したのは、一度でいいからトムソーヤに書かれた南部の土地を、アチコチ旅をしたかったからだ。こちらの女性はホリー・ジョンソン。ニューヨークで知り合った結婚一二年目の私の妻だ」

 そこでクリスと名乗った男は、並びに座る女性の方へ視線をやった。今風の活動的な服を着て、夫のいる女性らしく抑え目の化粧をした彼女が目だけで振り返った。

「よろしく、アナタ(ダーリン)

「よろしく、我が妻(マイ・ワイフ)

 クリスは車内でも被ったままにしていたソフト帽子を少し持ち上げた。

「そして嬢ちゃんの名前は?」

 優しい声で夫と妻に挟まれて座る女の子へジョージは訊いた。

「わたしはロジー・ジョンソン。なかのいい、カッコいいパパとやさしいママのむすめよ」

 小さい割にしっかりとした答えが返って来た。両手で小さなお人形を抱きしめているとは思えない程だ。

「よくできましたレディ」

 からかっているつもりなのかジョージも被ったままにしていたソフト帽を取ると、それを胸に当てる仕草をしてみせた。

「アル。君はご主人一家の名前は覚えたかな?」

「ご主人はクリス。奥さまがホリー。嬢ちゃんがロジー。秘書のあんたがジョージ。それで俺がアル」

「よくできました。間違えないようにしてくれよ?」

 ジョージの念押しに不快感を隠さない顔つきになったアルは、それだけで人が死ぬのではないかというぐらい、凶悪な目線を助手席に向けた。

「おいおい」

 からかいすぎたと反省したのか、ジョージが軽い調子を崩さずに言った。

「いまは我慢してくれよ。怒ったなら後で苦情は引き受けるからさ」

「…」

 お前にゃ言う事が百や二百で済まないほどあるんだぞと目だけで言うと、アルは運転に意識を戻した。

 車内でお互いの名前を確認していた一家に再び沈黙が訪れた。いや、真ん中に座る女の子だけが、呪文のように「私はロジー。私はロジー」と呟いていた。

 道の先に複数の小屋が見えて来た。その周囲には地雷原が無いようで、チノと呼ばれる防暑服姿の兵隊がうろついており、砂漠に合わせて茶色い色に塗られた一台の戦車が国道脇に停まっていた。

 砲塔を西に向けたままのソレはM四A三<シャーマン>(注4)であった。去年に終わった第二次世界大戦で、優秀なドイツ戦車に池の家鴨のよう(ケチョンケチョン)にやっつけられた戦車である。

 すでに東海岸の州には最新式戦車M二六<パーシング>(注5)が配備され、同じアリゾナ州でもユマ市など鉄道が通っている都市にも配備されているはずだ。

 だが、こんな砂漠の一本道に、そんな最新鋭の戦車が配備されているわけもなく、海外からの引き上げ組か、それとも本国に温存された物かは分からぬが、使い古した感じだけはその装甲に現れていた。

 二、三人の兵隊が、赤い輪を描いた看板を先端につけた棒を振り、フォードV八へ停車するように命じていた。

 アルは減速すると周囲を見回した。

 こちらは就学前と思われる女の子を入れても五人。兵隊たちは見えているだけでも倍の二〇人は居た。さらに小屋の中に何人が待機しているのかまでは分からなかった。

 素直に両脇から差し出された停車標識の前で車を停め、ギヤを抜いた。

「君ぃ」

 開けっ放しの運転手側の窓から停車標識を持った一人が車内を遠慮なく覗き込みながら言った。

「ここがドコだか分かっている?」

「分かってまさ」

 不愛想なアルは前を見据えたまま答え、彼越しにジョージが笑顔を向けた。

「我々は旅人でして」

「もしかして『越境』希望者?」

「そうなります」

 サングラスをしたままでは失礼に当たるかと思い、ジョージは懐にしまった。

「じゃあ、あっちに駐車して、全員降りて来て。審査があるから」

 この暑いのに面倒事かよと言っているような態度であった。

 特に「あっち」としか指示はされなかった。アルが周囲を再確認すると、小屋の脇に軍用トラックが並列で停められていた。面倒くさそうにギヤを入れ直すと、アルはその列にフォードを加えた。

 戦車の脇にある空き地で野球をやっていたらしい兵隊たちがわらわらと集まって来た。半分は当番であるようだが、半分は野次馬であることは間違いない。目が好奇心に輝いていた。

 若い男たちに囲まれて、自然とホリーは娘のロジーへ両手を回していた。

「女だ」

 若い男にありがちな欲望も混じった目と声が、フォードの窓越しに投げつけられた。

 停車標識を手にしていた当番兵が、ホイッスルを吹いて野次馬を追い散らした。

 相当軍規が乱れている部隊に見える。なにせ真面目に軍服を着ている者が誰一人としていない。その上ガムを噛んでいる者が半分、煙草を咥えている者が半分である。

 しかし、それも理解できる。こんな誰が通るか分からない検問所に配置される部隊である。軍規を取り締まるMPの目なんて届くわけもなく、あまりの暑さにケンカが起きてもおかしく無いほどだ。

 だったら軍規を口煩く言うよりも、気楽に過ごせと指示した方が、まだ最低限の規律が保たれるだろう。

 明日の朝には交代の者がやってきて、停めたトラックに分乗して駐屯地へ帰れる。そして何日か後にまた配備される。それの繰り返しだ。うんざりして当たり前だ。

「全員、通行証と身分証を持って降りて来て」

 当番兵が再度運転席の窓越しに命じて来た。車内の五人は顔を見合わせた。秘書役のジョージがダッシュボードから書類の束を出し、野次馬たちにぶつけないようにゆっくりとドアを開いて降車した。

 半円状に野次馬に囲まれ、先導する当番兵の後に続くのも苦労した。

 五人は一軒の小屋へと案内された。

 部屋には机が置いてあり、そこへ両足を上げた男が顔にポルノグラフティを乗せて椅子に座っていた。

 どうやら昼食後の昼寝の時間だったようだ。

 ブブブと羽音のような騒音を立てて扇風機が回り、室内を照らす電球があるということは、少なくとも電気は来ているようだ。(注6)

「少尉」

 当番兵が声をかけると、顔の上のいかがわしい雑誌を床へ落とし、椅子に引っくり返っていた男が顔をあらわした。

 若い男かと思いきや、少しとうのたった男である。襟の階級章からして少尉であることは間違いないが、年齢と階級がチグハグだ。おそらく何か問題を起こして降等し、しかもこんな僻地へ飛ばされた厄介者であるようだ。

 この野郎、俺さまを起こしやがったなという顔をあからさまにしてから、いつもと違いお客さんが五人ほど彼の机の前に並んでいる事に気がついた。

 それでも慌てることなく足を机からおろすと、まず書類などで散らかった机の上から煙草とマッチを取り上げた。

 五人が無言で待っているのにも関わらず、目の前で火を点けて美味そうに煙を味わった。

 当番兵は机を回り込むと、彼へ何事か耳打ちした。それに何度か頷いた。

「通行証と、身分証を」

 面倒臭がっている態度はありありと分かった。ジョージが五人分の書類を差し出すと、当番兵が受け取って彼の机の上へと並べられた。

「クリス・ジョンソンさん?」

 身分証の写真と、右から二番目に立つ男を見比べて少尉が訊ねた。

「小学校教師?」

 本当だろうかと見定めようとする遠慮ない視線に晒された。だが実際に、あまり頑強そうでない肉付きは肉体労働には向いていないのは丸わかりで、教師と言われて納得の雰囲気なのだ。

「はい。私がクリスです。こちらが妻のホリーで…」名前を呼ばれホリーは今様のスカートの端を摘まんで挨拶(カテーシーを)した。

「ほら、ロジー」

「ロジー・ジョンソンです。五さいです」

 母を真似するようにスカートの端を摘まんでヒョコンと挨拶をする少女に、今まで胡散臭そうな顔をしていた少尉の表情が緩んだ。

「で? そちらは?」

「こちらは私の秘書役を買って出てくれているジョージと、運転手をしてくれているアルです」

「どうもダンナ」

 サングラスを胸のポケットにしまったアルが、不愛想ながらも帽子を取って礼をした。

「よろしく」

 こちらも帽子を取って挨拶したジョージの顔には、軽薄さが滲み出ていた。

「通行証におかしいところも無い。身分証にも問題は無さそうだ。で? なんたって、こんな田舎道を?」

「私がお答えします」

 芝居がかった口調でジョージは、先ほど車の中で打ち合わせした通りの話しをした。あまりにも口が達者なので、クリスは相槌を打つのにも大変であった。

「ほお。車で『越境』ねえ」

 少尉は面倒くさそうに窓を見た。西側の窓には、国道の先が見える。相変わらずの直線に、周囲は枯草で覆われた砂漠だ。

「問題が無ければ我々を通していただけませんか?」

 揉み手をせんばかりのジョージを胡散臭そうに睨み返した少尉は、あくまでも手続きの延長という態度で訊いて来た。

「先に申告すべき物は、お持ちですか?」

 言葉は丁寧になったが、声色は変わっていない。疑っているのは間違いなかった。

「武器とか?」

「ええ、正直に言いましょう。我々は銃を持っています」

 ジョージが軽い調子で言った。なにせ砂漠を渡って来たのである、民間人といえども武装していない方がおかしいだろう。それに合衆国憲法で市民の武装は許可されていた。

「あ~、分かっていると思うが、武器を携帯したままの越境は利敵行為となるので禁止されている」

「はあ?」

 初耳だったという感じでジョージは驚きの声を上げた。

「もし携帯したまま越境するつもりならば、諸君らを逮捕しなければならない」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。武器の携帯が利敵行為?」

「もちろん」

 自明の理だろうと言わんばかりに少尉は頷いた。

「敵に没収され、その銃口が我々に向けられるかもしれないのだ。その前に、この事務所に置いていってもらおう」

 大人四人は視線を交差させた。目だけで相談を終わらせると、ジョージが溜息を一つついた。

「仕方がありませんね。新しい銃は向こう側で買う事に致しましょう」

 ジョージは懐から自動拳銃を取り出した。もちろんグリップを握るなんて危険なことはせずに、銃身側を持ってだ。しぶしぶといった態で少尉の机に置く。コルト社の出している<ガバメント>(注7)であった。戦争が一旦終結して民間市場に大量に放出されたので、値段的に手ごろな物だった。

「長い間、世話になったのだがね」

 クリスは、ちょっと名残惜しそうに銃を取り出した。ジョージの<ガバメント>の横に並べて置く。こちらは欧州のブローニング社<ハイパワー>(注8)であった。

「もう一挺、車に散弾銃(ショットガン)がある」

 正直に答えながらアルが回転式拳銃を取り出して置いた。S&W社のM一〇<ミリタリー&ポリス>(注9)であった。

「はあ。こんな物でも、文句を言われるぐらいなら」

 ホリーまで銃を取り出した。上下二段式でポケットに入るようなオモチャのような銃である。リンカーン大統領を暗殺するのに使用されたことで有名になったポケットガンの一種のレミントン・モデル九五<ダブルデリンジャー>(注10)であった。

「チビッコは持っていないのか? ん?」

 少尉があからさまにからかう声でロジーに訊ねた。少女は手にしていた人形をギュッと抱きしめると、ホリーの後ろに半分隠れた。

「あと現金の持ち出しにも制限がある」

 からかいがいが無いなという顔を一瞬見せた少尉が、ついでのように言った。

「ええ、知っています。一万ドルまでですよね?」

 秘書役のジョージが笑顔で言うと、自分の左手の爪を眺めながら少尉は言った。

「五〇〇〇ドルだ」

「は?」

「ここの検問じゃ五○○〇ドルまでっていうことになっている」

「はい?」

 ジョージは部屋の中を見回した。あくまで他人事のような態度を取る少尉はともかく、ここまで五人を連れて来た当番兵は、下卑た笑いを浮かべていた。

「そんなぁ」

「五〇○○ドル以上持ち出そうって言うなら、連邦銀行法違反の疑いで、逮捕しなければいけなくなるなあ」

 やっと少尉の視線がこちらを向いた。ジョージはとても泣きそうな顔になって、まずクリスを見た。彼は黙って頷いた。ホリーは難しい顔のままで固まっており、自分の背中に隠れたロジーへ手を伸ばしていた。

「ダンナたちで決めて下せえよ」

 アルは黒人である俺に相談するなという態度だ。彼はチラチラと壁にかかった手配書の方が気になるようだ。そこには強盗やら殺人やらをやらかした指名手配犯の似顔絵が並べた掲示板がある。白人も居れば黒人も居た。どうやら、どれかの人相書きに似ているとイチャモンをつけられやしないかと心配しているようだ。

「…はあ」

 何か捲し立てようと息を吸ったジョージであったが、大きな溜息に替えた。

「五〇○○ドルですね」

 悔し気に言うと内ポケットから財布を出し、一枚ずつ数えるように少尉の机の上に札びらを並べた。(注11)

 この直前にあったダイナーで整理したので、五〇〇ドル札が一五枚と、一〇〇ドル札が二五枚と、キッチリ一万ドル入れてあった。

 並べたウィリアム・マッキンリーの肖像画(注12)を一〇枚数えると机に戻し、残りの札を財布へと戻した。

「これでいいですね?」

「車もだ」

「はあ?」

 ジョージが驚きの声を上げた。運転手であるアルは何も言わない。黒人が軍人に意見すると碌な目に遭わない事を骨身に染みて知っているのだ。

「言わなくてもわかるだろう? こんな豆鉄砲ですら利敵行為になるんだ。車なぞ敵に鹵獲されたらたまったもんじゃない。それとも俺たちに死ねと言いたいのか?」

 ギロリと恐い目で睨んで来た。それに対して反論したのは、意外にもホリーだった。

「小さな娘がいるんですよ」

「それがどうした」

 少尉は言い切った。

「黄色い猿どもの銃弾を受けるのは俺たちだぞ。車を置いていかないとなると、ここで逮捕だ」

「うっ」

 悔しそうにホリーは唇を噛み、そしてロジーを抱きしめた。

「無理を言わないで奥さん。ここでUターンして帰ったら、車の没収も無い。金も越境しないなら差し押さえる理由も無い。銃ももちろん返しますよ。優しい忠告だと思いますがねえ」

 少尉はいかにも同情している声を出してはいたが、本音は違う。貴様らに、この先の砂漠を歩いて行くことはできないだろうと笑っているのである。

 それを理解したホリーは心配そうに腕の中のロジーを見おろしてからキッと少尉を睨み返した。

「民間資産ですよ」

「ええ、民間資産だ。理由もなく差し押さえることは、俺たち陸軍でも無理だ。理由が無ければね」

 涼しい顔をして少尉は言い切った。

「あ、それと帰る振りをして、後でアクセルを全開して突っ込んでくるっていうのは止めて下さいよ。たまにだがコッチからアッチへ逃げ出そうとする凶悪犯が、そういう風に挑戦しますがね。そのための戦車って奴で」

 たしかに無敵のドイツ機甲師団に敗れた<シャーマン>でも、相手が自家用車ならば負けはしないだろう。<シャーマン>の主砲から発射できるのは、徹甲弾だけでなく榴弾もあるのだから。

 どうしようとホリーの視線がクリスに向いた。彼も相談するように、他の同行者へと視線を回した。

「荷物を半分、諦めなければいけませんね」

 肩を竦めたジョージが口に出して言って、結論をまとめた。

 五人はフォードV八へ戻ると、荷物の整理を始めた。埃だらけの地面に旅行鞄を並べ、持って行く物と、置いて行く物に仕分けていった。

 遠巻きに野次馬たちが見ている。特にホリーの荷物には興味があるようだ。持っていけない分に仕分けた彼女の服などは、後で彼らの劣情の糧となるのだろう。

 複数あった旅行鞄の内、中型の物を二つ小型のものを一つに絞った。ホリーは自分の荷物を削ってまでロジーの着替えを入れる隙間を確保した。

「すみませんねえ、先生」

 サングラスをかけ直したジョージが中型の鞄を持って言った。

「荷物を持って歩かせるなんてこと」

「いや、私は大丈夫だ」

 こちらは小型の鞄を持つことになったクリスだ。車内では被っていなかった帽子を取り出して頭の上に置く。目の保護のためにサングラスも欠かせない。同じようにホリーとロジーにもサングラスを差し出した。

「いざとなりやしたら、奥さんの宝物は俺が背負います」

 中型の鞄の中でも一番大きな物を手にしたアルが優しい声を出した。話しかけられたホリーは、ちょっとぎこちない笑顔で「ええ、お願い」と口にした。

 そういう彼女はショルダーバッグを肩にかけ、まだ歩く体力があるロジーの手を引いていた。頭には被っていなかった鍔広の帽子。ふいの風で飛ばされないように、ロジーとお揃いに上からスカーフを巻いて、顎の下で縛った。(注13)

 ロジーの顔に対してサングラスは相当大きい物だった。だが文句も言わずにホリーと手を繋ぎ、サングラスを鼻の上へ乗せていた。

 車内に置いていたショットガンをアルが手にして、新たな旅支度は終わった。

「強情を張らずに、戻りなよ」

 西部によくある庇の長い小屋の前に出て来た少尉は、呆れたように言った。その前に五人は並ぶと、アルは散弾銃を差し出した。

「これでいいですね」

 武器は全部置いて行く約束を守ったと言いたかったのだろう。散弾銃は脇に控えていた当番兵が受け取った。

「やめときなよ」

「死んじまうぜ」

「小さい子がいるんだし」

 野次馬をしていた兵隊たちも口々に止めようとしてくれた。基本的には気のいい連中であるようだ。

「軍曹。車を漁るのは、彼らが越境してからにしろと徹底させろ。途中で帰って来たはいいが車が無事じゃないと、俺が訴えられかねん」

「イエッサー」

 当番兵で一番年上に見える兵隊が敬礼をして答えた。どうやら彼なりに「途中で諦めて帰ってきてもいいんだぜ」と言っているようだ。

「それでは少尉。機会がありましたら、またお会いいたしましょう」

 クリスが帽子をちょっと上げて別れの挨拶をした。ハアとわざとらしい溜息をついた少尉は、しゃがんでロジーと同じ目の高さになるとわざとらしい笑顔を作った。

「シャローム・アレイヘム」(注14)

 声をかけられたロジーがキョトンとした。少なくとも英語ではない言葉を聞き分けることができなかったようだ。

「幸運を。お嬢ちゃん」

 反応が無かった五歳児に手を振って送り出した。

 砂漠の中に一本道が伸びていた。

 両側に鉄条網も地雷原を示す看板すら無かった。なにせ非武装地帯である。ここから州境まで二キロメートルは、お互いがそういった物を設置してはいない。

 だからといって道を外れていいわけでもない。表示が無いだけで、どちらかの陣営が内緒で地雷が埋めているかもしれないし、次の町までの一番の近道は、この国道しかないのだ。

 容赦なく太陽に灼かれた路面から熱気が上がっていた。道にある火事の痕跡は、もしかしたら少尉が言った強引に突破しようとした犯罪者の成れの果てかもしれなかった。

「もう休みにしましょう」

 時間で判断しているのか、五人組は一五分歩いてから荷物を路面に置いた。ホリーとロジーを鞄の上に座らせて振り返る。まだ三〇〇メートルほどしか歩いていなかった。

「帰ってきなよ」

「戻ってこい」

「チビがかわいそうだよ」

 兵隊たちが同情の声を上げる中、長い庇の下に椅子を持ってこさせた少尉は、そこにふんぞり返って座っていた。

 やる事が無いこの検問所では、いい見世物だとでも思っているのだろうか。

 ロープで提げて来た瓶から飲料水をコップに取り、一人ずつ味わうように呑み込む。休憩が済んだら、また歩くのだ。幸い湿度はほとんどないから、コップに注いだ水は気化熱で冷たく感じた。

「大丈夫かい?」

 アルがロジーに声をかけた。ロジーは慣れた調子で首を縦に振った。

 つぎの休憩も一五分後であった。振り返ると距離は六○○メートルほどになっていた。兵隊たちは飽きたのか、野球の続きを始めたようだ。

 少尉は庇の下の椅子で居眠りをしているように見えた。

「まだ歩ける?」

 ホリーがロジーに心配そうに声をかける。ロジーは黙ったままで首を縦に振る。空になった瓶を国道脇に捨て、休憩を終了させた。

 次の休憩も一五分後であった。これで合計四五分歩いたことになる。さすがに検問所からの距離も九○○メートルほどになり、動いている人影で野球をやっているな程度のことが分かるぐらいになった。

 あと一○○メートルほどで国道を黄色い線が横断していた。だが、そこが州境ではない。州境は、さらに一キロメートル先にある白い線である。

 やっと頭上を占めていた太陽が、諦めたように動き始めた。少しだけ大人の体から影が伸び、男たちはロジーのために南側に固まって並んだ。

「しかし…」

 もうここなら話し声も聞こえないだろうとばかりに、ジョージが口を開いた。

「嬢ちゃんに、あんな挨拶をかけてくるなんて、あの少尉どのは、なかなかの曲者でしたね」

「たしかに。よく返事しなかったね」

 クリスが褒めるようにロジーを見おろした。

「この娘の姉が、リバプールでうっかり返事してしまったんです」

 ホリーがロジーの背中を撫でてやりながら言った。

「そのせいで、その娘と夫は…」

 こんな砂漠である。涙を流したとしてもすぐに乾いてしまうだろう。

「すみませんね奥さん。余計な事を思い出させて」

 ジョージが帽子の位置を直す程度に弄って礼を示した。

「いえ。でも、その経験が今日に役立ちました」

「わたし。ちゃんとおへんじしなかったよ。えらい?」

「ああ、えらいな」

 クリスが手放しで褒めた。

「さて、ここまでは予定通り。この逃避行も、もう少しだ。頑張って下さいよ、博士」

「その呼び方はまだ早い。向こうについてからにしてくれ」

 クリスが不快そうに眉を顰めた。

 五人は、再び空になった瓶を道に捨てると、歩き出した。

 黄色い線を超える。そこまで歩くと道の先も見通せるようになってきた。真っすぐ続く直線の国道。陽炎の向こうに、先ほどと同じような小屋が建っているのが見える。しかし太陽の位置からして、進む方角を間違えているわけではない。

 次の一五分後の休憩で振り返ると、国道の両端にある小屋以外はすべて地平線に囲まれているように見えた。

「誰だよ。こんなルートを考えた奴は」

 さすがに顎の出たジョージが文句を言った。それに対してアルが馬鹿にするように言い返した。

「自分の方が頭脳労働に向いているから黙ってろって言ったのは、お前だぜ」

「そうだっけ?」

 コップに注いだ水を飲み干した。これで飲料水は最後である。

「持つかな?」

 ジョージが不安に駆られたようにロジーを見た。もう一目でだいぶへばっているのが分かった。

「じゃあ荷物の担当を変えましょうや」

 アルが遠慮なく言った。(注15)

「奥さんの宝物は俺が。小さいのを奥さんが持って、中ぐらいのは先生。そして、お前は大きいのを持ちやがれ」

「へいへい」

 上着から出したハンカチで顎を拭っていたジョージが嫌そうに返事をした。

「お願いします」

 ホリーがアルに頭を下げた。

「いいってことよ」

 男前に言ったアルは、その場に跪くと、大きい背中をロジーに向けた。

「どれ。お嬢ちゃんは俺がおぶってやるからよ」

「うん」

 ロジーがその背中に乗った時だった。遥か彼方から大きなエンジン音がした。音がするアリゾナの方を振り返ると、検問所に黒塗りの車が停車するところだった。

「やべぇ」

 ジョージが首を竦めた。

「ばれた」

「これだから、お前の計画は…」

 アルがジョージを睨みつけたが、クリスが止めた。

「彼らよりも一時間ほどジョージ君の計画が上回ったという事さ。さあ、急いで『国境』を越えよう」

 四人分になった足が、さっきまでとは違いキビキビと動き出す。アルの背中で振り返っていたロジーが声を上げた。

「くるよ!」

 黒い車から降りた黒い服装の男たちが騒ぎを起こしたようだ。何を言っているのか分からないが、怒鳴り合っている事は間違いない。その内の一人が、静止する当番兵を振り切って非武装地帯に侵入し、懐へ手を入れた。

 パーンと砂漠に銃声が反響した。上空に向けての警告の一発である。黒服が懐から拳銃を抜いて発砲したのだ。さらに検問所での騒ぎが大きくなっていた。

「こりゃ、まずい」

 速足だった大人たちの速度は、駈け出さんばかりになっていた。ジョージが大きい荷物にふうふう言い、遅れがちになるホリーの手をクリスが引っ張った。

「つぎの休憩は、白線を超えてからだな」

 それでもジョージがおどけて言うが、アルが冷たく言い返した。

「超えられればな。そうじゃなきゃ次の休憩は鉄格子の中だ」

 その声にエンジン音が重なった。

「おっきいのが、くるよ!」

 ロジーの悲鳴に大人たちは足を停めずに振り返った。小屋の反対側に土嚢を積んで作った陣地に停めてあった<シャーマン>が、国道上に出ようとしていた。

 走攻守の内、装甲が当てにならなかったり、主砲の威力が物足りなかったりと、色々な問題点を抱えていた<シャーマン>であった。しかし走ることに関してだけは、さすが自動車大国の国だけあって、文句をつけようが無かった。

 検問所で野球をやっていた兵隊たちも、ヘルメットを被って軍用トラックの荷台へと乗車し、後に続いた。

 どう見ても追っ手の方が速い。万事休すである。

 しかし、エンジン音は反対側からも聞こえてきていた。進む方角に視線をやれば、見慣れない型式の軍用トラック(注16)がこちらに向けて走って来るところだった。

 そうこうしている内に、白い線までやって来られた。国道脇に矢印と、こちらはカリフォルニア州、こちらはアリゾナ州と書かれた看板が立っていた。

 追っ手である<シャーマン>は黄色い線で停車し、その陰で軍用トラックから兵隊たちが降車した。

 手には自動小銃(注17)があるが、筒先は上に向けたままだ。そんな中で黒い服を着た男が、逆上したように叫んでいた。

「どうした少尉! 進め! 進まんか!」

「無茶言わないで下さいよ」

 いちおうヘルメットを頭の上に乗せた少尉が、周囲に聞こえるように怒鳴り返した。

「これ以上進んだら、向こうだって『のほほんと見ているだけ』っていうことになりませんよ」

「では射撃を命じたまえ」

「あんたバカですか? そんなことをしたら新しい戦争が始まっちまうかもしれませんぜ?」

「もういい! おい!」

 黒服の男たち(注18)だけで追って来ることにしたようだ。黄色い線で綺麗に横並びした兵隊の間から、三人の男たちが駈け出した。

「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」

 言葉だけでなく、再び上空へ警告射撃までした。

 その途端に、国境の向こうに敷かれた黄色い線に並んでいた人影の方から大声が聞こえて来た。

「チャッケーン!」

 少なくとも幼いロジーは初めて耳にする言葉であった。

 五人が向かう方向に並んでいるのは、後ろの兵隊とは違う軍服を着た者たちだった。身長は比べ物にならないほど低いが、その者たちが手にしている小銃は長く、さらに号令に従って銃剣を装着して並んだ。(注19)

 まるで騎士物語に出てくる槍兵の列のような眺めである。それだけでじゅうぶんに威圧感があった。

 白線を走り抜けた五人は、足を止めずにその槍列の方へと急いだ。黒服の男たちは、白線で停止し、悔しそうな顔をするばかりである。

 もう安心だろうと足を緩める。炎天下の砂漠で全速力を出したのだ。いくら大人だって無理のある運動だ。

 立ち止まって息を整えていると、向かう先にいる兵隊たちが口々に声を上げていた。

「モウチョットダ、ガンバレ!」

「ハヤク、コチラヘ!」

「マダ、オワリジャナイゾ」

 だが残念ながらロジーだけでなく大人の誰もが知らない言語であった。雰囲気から励ましてくれているのは分かるが、内容までは分からなかった。

「アア。モウ、ミチャイラレナイ」

 横並びに並んだ槍兵の列が割れると、一台の自転車が飛び出した。半袖に開襟シャツ、頭に同じ色の作業帽といった服装だ。鋲の打った靴と襟の階級章で軍人であることは間違いない。ただ小柄で大人というより少年に見えた。目が吊り上がって頭は丸刈りだが、愛嬌のある笑顔を浮かべていた。

 飛び出した自転車は五人の前で停車すると、前後を入れ替えた。

「トラックまで」

 短い英語で自転車に乗るように身振りを付け加えた。

「ありがたい」

 さっそくジョージが荷台に荷物を載せ、自転車に跨った。乗って来た兵士は、ホリーの荷物を受け取り運び始めた。

 自転車の威力は最高だった。あっという間にジョージが槍列に消え、次の兵士が跨って歩き出していた五人のところへやってきた。もちろん武装はしていない。

「トラックまで」

 最初に自転車に乗って来た兵士がまた同じ説明をした。今度は荷台に鞄を置いて、上にロジーを座らせ、アルが運転した。

 アルがロジーと槍列に消え、また新しい兵士が自転車を漕いできた。今度は荷台に鞄を縛ると、その上にホリーを座らせ、クリスがハンドルを握った。

 三人の兵士たちは一列になって自転車の後について走り出した。

 最後まで黒服の男たちは、境界線を示す白線の向こう側で悔しそうな顔をしていた。

「ヨカッタヨカッタ」

「サアサア」

 兵士たちに囲まれた五人はトラックの荷台へと上げられた。長い小銃から銃剣を外して、兵士たちも乗り込んできた。荷物を取り上げられるかと思ったが、三つの鞄は五人の足元へと置かれた。

 五人の救世主となった自転車は、運転台の上に増設された荷台の上へと上げられた。

トラックは切り返すことなく、アリゾナ側に向いたまま後進して彼らの方の小屋へ進み始めた。

 みんながみんな、判で押したように同じ笑顔だ。細い吊り目に黄色い肌。誰が誰だか見分けをつけられそうになかった。余分な会話をせずに愛想笑いだけを向けてくるので、不愛想で無表情のアルよりも恐いぐらいだ。

 程なくしてトラックは、州境の向こう側と同じように小屋が密集した検問所に到着した。

 こちらには戦車は置いておらず、国道を挟んだ小屋の反対側には、土嚢を積んだ機関銃陣地が設けられていた。もちろん筒先は東を向いていた。

「審査がありますので、こちらへ」

 最初に自転車に乗って来てくれた兵士が五人を案内して、向こう側と似たような庇の長い小屋へと案内された。

 間取りまで似せて作ったのかと思われる小屋の内部には、同じように机が置いてあり、扇風機が回っていた。

 椅子に座っているのは開襟の軍服を着た軍人で、眼鏡をかけていた。

 なにかの書類をつまらなそうに眺めていた軍人は、五人が連れられてくると机の脇に置いた。

 若い男である。頭は他の兵士と同じで丸刈りで眼鏡をかけていた。大学生か高校生ぐらいに見える男は席を立つと机を回り込んで来た。

「こんにちは」

 少々堅苦しい挨拶であったが、どうやら彼は英語が話せるようだ。

「自分は大日本帝国陸軍第三五一師団、第三二八歩兵連隊のヤマザキ少尉です。暑い中大変だったでしょう」(注20)

「私はジョージ・スミス。先生の秘書です」

 交渉役は自分だとジョージが差し出した手を、ヤマザキは優しく握った。

「ジョージさん?」

 チラリと壁の掲示板に張り出された手配書に視線が行った。

「ジョンさんではなく?」

「今日はジョージということでお願いします」

 偽名がバレたことに対して悪びれることなく、ジョージは舌さえ出してみせた。(注21)

「まあ、いいでしょう。お座りください」

 ヤマザキが目で合図すると、壁際に並べてあった椅子を、ここまで五人を案内して来た兵士が、サッと並べた。向こうとは待遇に天と地の差があった。

「オイ。アツイナカヲアルイテキタンダ。ナニカノミモノヲ」

 少尉が五人の知らない言葉で部下に命令すると、ここまで案内して来た兵士が相変わらずの愛想笑いをしたまま敬礼をして部屋から飛び出していった。

「身分証明書と通行証はお持ちですか?」

「これになります」

 まとめて入れていた鞄からジョージが取り出し、少尉は直接受け取った。机を回り込んで自分の席へ戻ると、扇風機の向きを五人…、とくにロジーへと向けてくれた。

 砂漠に建てられた小屋の中の空気である。しかし、そよ風でも今は生き返る気分であった。

「通行証も問題ない。身分証も…」

 チラリとジョージと通行証の写真を見比べた。

「…申し分なし、と」

 書類を揃えてまたジョージに返すために机を回り込んで来た。

「書類はもうよろしいです。あー、申請する物はお持ちですか? 武器、現金、その他の事柄など」

「武器は向こうで取り上げられましたよ」

 ジョージは肩を竦めながら財布を取り出した。

「現金もこの通り、半分も取り上げられて。中身、出しましょうか?」

「いえ、それには及びません」

 笑顔でヤマザキは首を振る。その彼にホリーが訊ねた。

「その他の事柄ってなんです?」

「犯罪歴とか」

 その即答にジョージは首を竦め、アルがギロリと睨んだ。しかし、お互いがそれ以上の事を口にせず、まるで達人同士が間合いを測っているような空気だけが流れた。

「それと自分は初めて扱うケースなのですが。亡命ですか?」

 ヤマザキの言葉に五人は顔を見合わせた。

「亡命でしたら連隊本部に連絡して、迎えの車を寄越してもらいますが?」

 どうやら隠れた悪意などは無いようだ。笑顔がちょっと歪んで困り顔になっている。おそらく、そんな厄介事は初めてなのだという言葉は本当なのだろう。

「自分は宗教のことはよく知りませんが、ユダヤの人たちが迫害を受けている事ぐらいは知っています。でも自分は実家が寺なもので、仏教の考えかもしれませんが、みんな仲良く過ごせたらいいなあという思いなのです。寺、分かります?」

「仏教徒の会堂(シナゴーグ)のような物と聞いた事がある」

 学校の先生らしくクリスが答えると、ヤマザキはニヤリと笑った。(注22)

「シナゴーグ、ね」

 あっと手を口に当てるが、ヤマザキは特に動かなかった。五人の両端に座っているジョージとアルが素早く室内を見回す。武器は取り上げられたが、この部屋にはこの将校しかおらず、叩きのめして強引に逃げ出す事は可能かに思えた。

「では亡命ですか?」

 突然兵士が押し寄せて拘束されるわけでも無く、目の前の将校が銃を突きつけるのでもなく、相変わらず愛想笑いののんびりした雰囲気であった。

 ドアがノックされて背筋が伸びた。

「失礼します」

 言いつけられた兵士がお盆にコップと飲料水を乗せて兵士が持ってきたところだった。

「お嬢さんにはこれをあげよう」

 兵士の胸ポケットから四角い箱が取り出された。

「?」

「これは、こうやって食べるんだ」

 箱から小さな包み紙に包まれた四角い物がコロンと出てきた。包み紙を兵士が解いて、ロジーの口へ入れてくれた。

「あまい!」

「キャラメルって言うんだ。全部、どうぞ」

 すでに何個か消費されていた箱であるが、兵士はキャラメルの箱をロジーの手に握らせてくれた。(注23)

「ありがとう、へいたいさん」

「どういたしまして」

 ニッコリ笑った兵士は、出て行く前に立っていた壁際へと下がった。その彼を、ちょっと残念そうな顔で見つめるヤマザキ。

「どうかいたしましたか? 少尉殿?」

 わざとであろうか、英語で訊ねる兵士。ヤマザキは何でもないと言うように手を横に振った。

 同じ大きさをした物が彼の胸ポケットにも入っているのは、その膨らみから間違いなかった。

「亡命でしたら、隣の部屋に電話があります。もちろん軍の電話ですから検閲はされていますが、使う事ができます。使用しますか?」

 大人たち四人は困惑して、さらに顔を見合わせるのだった。その真ん中でロジーだけが甘い物を頬張って笑顔であった。


 去年に終結した第二次世界大戦で、合衆国を代表とする連合国は敗北した。欧州では大英帝国本土(グレートブリテン・アイランド)が占領され、太平洋ではハワイを失った。

 俗に太平洋の戦いと呼ばれる世界(ヨーロッパ)の裏側で起きた戦いでは、合衆国海軍は負けに負けた。序盤のハワイ海戦に始まり、ミッドウェイ、ソロモン、ハワイ沖、そして『東太平洋海戦』と、いいところは無かった。

 たまに『東京空襲』などで得点を得ることはあったが『東太平洋海戦』で制海権を完全に失った後は、太平洋側最大の軍港であるサンディエゴに空襲を許す醜態であった。

 新大陸にそれ以上進攻が無かったのは、反対側である大西洋で生起したドイツ海軍との大海戦である『北大西洋海戦』に、ようやく勝利して大西洋の制海権は維持できたからに他ならない。

 もちろん日本側にも問題が発生していた。それ以上東へ攻める戦力が尽きていたのだ。この事実をアメリカ側は掴んでおらず、太平洋沿岸の各州より、日本軍の直接侵略を恐れる声が高まり、それはホワイトハウスを動かした。

 政治の中心たる東海岸は『北大西洋海戦』で一息付けたこともあり、連合軍側は枢軸側との交渉テーブルにつくことにしたのだ。

 停戦後すぐに始められた和平会議は、もちろん紛糾した。

 国内からは、あまり出番の無かった合衆国陸軍が本土決戦を叫んでいたし(注24)、国会社会主義(注25)に塗り潰された欧州からの避難民たちは故郷の回復を祈っていた。

 とくにアドルフ・ヒトラー首班によるドイツ政府の反ユダヤ主義は欧州に(あまね)く広がり、各国は進んでユダヤ人を狩って収容所に送っていた。そこから逃れるためにユダヤ人たちは二通りの脱出路を選ばなければならなかった。(民族浄化政策は、まだこの時は伏せられていたが、強制収容所が地獄なのは知れ渡っていた)

 まず陸路を東へ逃亡する方法。だが東部戦線は公式には停戦したものの、いまだに戦火がくすぶっている土地であり、脱出には困難が伴った。

 次にドーバー海峡を渡ってイングランド国会社会主義国など三か国に分割した島へ行き、その港町で中立国の貨客船に乗る方法。こちらは大西洋を渡るだけで新天地「自由の国」へ辿り着けるため、狩人たちの目が道すがら光っているような手段だった。(ロジーの姉と父親が捕まったように)(注26)

 そうやってやっと新天地に辿り着いたユダヤ人たちだったが、講和会議の俎上に上がった事実に驚かされる事になった。

 なんと太平洋の戦いの時に、合衆国は日系人たちを強制収容し、財産まで没収していたのだ。(注27)

 これは講和会議を有利に進めようとした合衆国が、ドイツの反ユダヤ主義を非難したことに対するカウンターパンチであった。情報は「欧州で一番危険な男」の肩書を持つオットー・ヨハン・アントン・スコルツェニー親衛隊中佐(オーバーシュツルムバンフューラー)が集め、パウル・ヨーゼス・ゲッベルス宣伝相が大々的にキャンペーンを行った。

「我々は国を指導する立場になる前から反ユダヤ主義を掲げており嘘は無い。だが自称『自由の国』らしい合衆国には嘘がある」

 これに激怒したのが大日本帝国である。国籍は変わったとはいえ同胞が虐げられていたのだ。停戦で戦力の整理ができて余裕も生まれつつあり、帝国国内の世論も合衆国討つべしという声が日に日に高まった。

 これでは講和条約を締結するどころではなかった。

 そのストレスのせいか合衆国に大きな事件が起きた。

 合衆国第三二代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、講和会議中に行われた大統領選挙において、歴史上初の四選を成し遂げた。しかし、その偉業を果たした一一月四日に開かれた選挙の勝利パーティの席上にて脳卒中で倒れ、そのまま一週間後に帰らぬ人となってしまったのだ。(注28)

 もともと日系人の強制収容は人種差別主義者であったルーズベルトが言い出したこともあり、副大統領から格上げで後を継いだ第三三代大統領ハリー・S・トルーマンは「死人に口なし」と、全責任をルーズベルトへ押し付けた。

 それでも納得しない日本側を説得するために、各州知事が警察権を乱用したことにもした。太平洋側の各州の知事は多かれ少なかれ差があったが、黄禍論を口にして当選した者ばかりという事実もそれを裏付けした。

 しかし驚いたのは合衆国にあったユダヤ人コミュニティである。欧州でも迫害され、やっと逃げ延びてきた土地にも、他民族(日系人)に対する強い排斥感情があるのだ。いつ、その矛先が自分たちに向けられるか分かったものではなかった。いや合衆国にその気がなくとも、長い間に虐げられてきた民族の記憶が「危険」と囁くのだ。

「正義を」

 これが市中から沸き上がった意見である。正義が為されないのなら移民国家である合衆国には価値が無かった。正義のために欧州で戦い、正義のために太平洋で戦ったのだ。

 力尽きて敗れた今、その正義を合衆国政府に成す力があると見なされなかった。

 よって講和会議の合衆国代表は、内と外に敵を抱えての交渉となった。少しでも有利な条件で収めるには、日系人収容が行われた州の警察権を、もう知事が乱用しないようにと大日本帝国陸軍に委託するしか方法が無かった。

 そこは戦って奪われた土地ではないので、あくまでも合衆国の領土だ。大統領選挙にだって参加する資格はあるし、国税も合衆国の国庫に入る。住んでいる者たちの国籍も合衆国である。

 こうして日系人の強制収容が行われた西海岸各州(カリフォルニア州、ワシントン州、オレゴン州、そして合衆国では無いがカナダのブリティッシュ・コロンビア州)の警察権を、大日本帝国が邦人と日系人保護のために握る事となった。

 ただ誤解してはいけない。何度も言うが占領地では無いのだ。その証拠にカルフォルニアにある軍港サンディエゴも、ワシントン州にあるピュージット・サウンド海軍工廠も、合衆国海軍の手元に残った。

 現地警察と州軍が解体され、陸軍は西海岸各州から撤収することになった。西海岸各州と依然として合衆国の警察権が及ぶ州との境目は、偶発的な軍事衝突を予防するために、境界線からお互いが二キロメートル下がり、そこを非武装地帯とすることになった。

 もちろん電撃的に日本軍が侵略を再開するかもしれない。それに対抗するために講和条約には、日本軍は新大陸へ戦車を始めとする装甲車両を持ち込まない事が明記された。代償として、連合国海軍は太平洋方面に一万トンを超える艦船の配備ができなくなったが、敗北により政治的発言が弱体化している海軍には意見を言う資格すら与えられなかった。

 こうして今年の一月一日に奇妙な講和条約が締結された。新大陸は相変わらず合衆国の物であったが、西海岸に日本陸軍が進駐しているという不思議な状態である。

 太平洋の戦いで無能を晒した海軍の予算は削られ、その分を陸軍に振り分けられた。いつ西海岸から日本人が東海岸に向けて押し寄せて来るか分からないのである。東海岸の政治家たちが枕を高くして寝られるようにするには、西海岸各州に隣接する、モンタナ州、アイダホ州、ネバダ州、アリゾナ州に大規模な陸軍部隊を配置するしか無かった。(カナダではアルバータ州とユーコン準州とノースウエスト準州がこれに当たった)

 この陸軍部隊の予算は豊かであった合衆国経済に暗い影を落とすことになるのだが、それは別の話しだ。

 連合軍の目が西海岸に向いている間は、大西洋を渡って欧州へ捲土重来を果たそうとする戦いは起きないだろう。海軍という物は基本的に技術者の集団で、陸軍の歩兵の様に徴兵してすぐに戦場へ駆り出すなんて言う事はできないのだ。

 もしここまで先を見通して講和条約に日本軍の駐留を盛り込んだのだとしたら、ヒトラー政権の先見の明に感嘆するしかない。

 もちろん西部各州への進駐は日本陸軍にも負担となった。しかし条約で装甲車両を持ち込むことは禁止されていたため、歩兵部隊のみの派遣で済んだ。これは戦費がつきかけていた大日本帝国をギリギリ救うラインであった。

 そして日系人や、アジア各国からの移民は迫害を受けることなく、西部各州で名誉の回復が行われた。

 同じころ、不思議な事にナチス政権のように強制収容政策もしていないのに、ある種の人間を選択して合衆国は集めるようになっていた。

 ターゲットは欧州から亡命してきた優秀な物理化学者や数学者たちである。彼らの多くはユダヤ系の民族であったため、国際政治の駆け引きとして捕えているのではないかという憶測が流れた。なんらかの引き換え条件で、国内のユダヤ人をナチス政権に渡しているという噂である。

 こうして今度は東部各州から西部への亡命者が増えることになった。彼らはみんな合衆国に愛想をつかした民族、ユダヤ人だった。

 検問所の日本陸軍少尉ヤマザキが「亡命ではないか」と訊ねたのは、そういう理由であった。


 隣室から電話をかけ終えたクリスが帰って来た。取調室だったヤマザキの執務室には緩んだ空気が満ちていた。

 おそらくヤマザキが提供したのだろう、大人たちは煙草を咥え、ロジーだけは二つ目のキャラメルの箱へ手を付けるところだった。

「すぐに迎えが来るそうだ」

 安心させようと寛いでいる全員へ伝えた。

 これで逃避行は終わりということだ。ドーバー海峡をハンスという名前で渡り<フライング・スコッツマン>(注29)にはアーサーという紳士として乗車した。それから大西洋を渡るタイ王国籍の貨客船にはピーターという名前を使った。

 そして新大陸で協力者にクリスという名前を貰い、ここまで走って来たのだ。

 ここからは本名で歩いていても捕まる事のない世界。信じられないような明るい未来が待っているような気がした。

 欧州では狩られる対象であり、新大陸でもいつ状況が悪化するか分からなかったが、大日本帝国はユダヤ人を迫害する政策を行っておらず、ただそれだけの事なのに彼らにとって楽園となっているのだ。もちろんまだ合衆国内にいるので油断大敵ではあるが、取り締まりを行う警察活動は日本陸軍が行っているので、亡命者は狩られる対象ではなく、むしろ保護される対象となっていた。

「じゃあダンナ」

 アルが煙草を咥えたまま身を乗り出した。

「俺たちの身分は?」

「司法取引というやつで、カルフォルニアに居る間は自由が保証される」

 アルとジョージは顔を見合わせて笑顔になった。二人が何を犯したのかまでは知らなかったが、協力者に「腕は確かだから」とつけられた護衛であった。

「いちおう契約は…」

 クリスが確認しようとすると、ジョージがウインクをしながら言った。

「港で博士が船に乗り込むのを見届けるまで。忘れてやいませんよ」

「その呼び方は…」

 自分を博士と呼んだジョージを叱責しようとしたが、もう身分すら偽らなくていいことに気がつき、言葉は途中で空気に消えた。

「まあ、私らの未来なんかよりも、これからの事を気にしなきゃならない人がいるんじゃないんですか?」

 視線だけでジョージはホリーを指差した。

「ホリー」

 クリスは彼女の横に座ると微笑みかけた。

「私は日本まで行くことになる。君はどうする?」

 娘から離れるようにして煙草の煙を楽しんでいた彼女は、不安そうに彼を見上げた。彼女とはフィラデルフィアで協力者に紹介してもらった仲だ。男が一人で旅をしているより、家族旅行の方が周囲の目を誤魔化せるだろうと紹介者は言った。

 たしかに彼女と、彼女の娘はカモフラージュとして役に立ってくれた。だが用が済んだからそれでお別れと言うには、一緒にいた時間を重ねすぎていた。

「ロスで仕事を探すわ。せめて、この娘が大きくなるまでは母親をしなくちゃ」

 忌々し気に紙巻煙草を吹かすホリー。ほとんど吸い込んでいないことは確実だ。

「…。一緒に日本まで来てくれるかい?」

 クリスの言葉にホリーは言葉を失った。二人の間の空気を感じたジョージとアルがそっと立ち上がると煙草を灰皿に押し付けた。不安そうに見上げるロジーを抱きかかえて部屋を出て行こうとする。

「どうしたの?」

「いや。このあたりの探検をしてみようかってね」

「そうだぜ、嬢ちゃん。ギャングはいつでも立ち回りを考えねえとな」

「それなら自分が…」

 ヤマザキまで察したのかニコニコ顔のまま後からついてきた。

「この検問所を案内しましょう」

 不思議そうに大人たちを見上げていたロジーは、さすが女の子である。この先を察したのか破顔一笑、目が無くなる程に細められた。

「わかった! ちゅーでしょ? ちゅーするんでしょ? ママが!」

「はいはい」

 興奮して雰囲気ぶち壊しのロジーを五人の大人が退場させ、場面には男と女が残った。

「そういえば、私。あなたの本当の名前を知らないわ」(注30)

「私も君の名前を知らないな」

 彼らが日本本土で『ニ号計画』(注31)に参加するのは、冬になる前であった。



●大日本帝国広島県呉泊地:1947年2月1日0600(現地時間)



 総員起こしがかかるにはまだまだある時間にカナモト一等兵曹は寝台から叩き起こされて前甲板に立っていた。

 春と呼ぶには早い季節である。海を渡って来た風が身を切り刻もうとするかのように、木甲板を走り抜けカナモトに体当たりして行った。

「いったい何だっていうんです」

 ブツブツ言いながら、同じ分隊の連中と真新しい水密扉の横に組み立て式の簡易起重機を立ち上げた。

「口では無く手を動かせ」

 不機嫌そのものの声を分隊士がぶつけてくる。

 こんな寒い早朝の労務というのに、分隊長どころか砲術長、それどころか艦長まで顔を出しているのだから手を抜くわけにはいかなかった。

「本当に何なんですかね」

 同郷のキムラも小さな声でカナモトに同意してくれた。

 一週間ほど前に聞かされた作業内容は、ただの積み込み作業だったはずだ。荷物を受け入れるのに、艦上層部のベタ金たちの立ち合いが必要だとは思えなかった。

 わずかに鋼鉄に振動が加えられたような音がした。

「?」

 ほとんど組みあがった起重機を部下に任せて、カナモトが舷側を振り返ると、一隻の船が彼らの乗る艦の甲板の縁にかろうじて見えた。

 こんな手元がおぼつかなくなる暗闇で接近してきて、まさか接触事故を起こしたのだろうか。

「ありゃあ何だ?」

 キムラも、帽子を直しながら、ぶつかってきた船を見た。

「おい、余所見をするな」

 すぐに分隊士から叱責の声が飛んだ。

「もう出来上がりますよ」

 一切の説明もなく作業を急がされたおかげで、起重機の方はもうほぼ準備完了である。数人がかりで人員用よりは大き目の水密扉を開くと、下の甲板の同じ位置にある水密扉を見おろすことができた。

「カナヤマとキンジョウは下を開けてこい」

「うへえ」

「なんだ、その返事は」

 分隊士の顔が真っ赤に染まるのが、まだ夜明け前で真っ暗だというのに、見えた気がした。

 分隊士の鉄拳制裁が部下に落ちているのを見ながら、しかしカナモトも部下たちの感想に同意するのであった。

 振り返れば二つの砲塔が重なるようにこちらを向いていた。改装前は一五・五センチ砲の副砲塔もその向こうに見えて三段だったが、いまは防御力強化の名目で降ろされて少し寂しい景色になっていた。

 そして、重なるように装備されている砲塔の後ろには、どこの都市にもない摩天楼のような前檣鐘が聳え立っていた。

 連合艦隊第一艦隊第二戦隊所属、戦艦<大和>。

 それは彼らの誇るべき職場であり住居でもあった。

 竣工から六年近く経っており、後から次々と新造艦が竣工しているが、いまだに連合艦隊の主力には違いない。

 そしていまだ世界一大きな戦艦の一隻でもあった。

 新人研修の時に艦内を一周して各部署から判子を貰うという巡回競技があるぐらいだ。早朝から始めて要領の良い者でも夕方までかかるし、遅い者だと就寝喇叭が鳴る頃までかかってしまう。戦艦<大和>とは、そんな巨大迷路でもあるのだ。

 いま開いている最上甲板から見えている水密扉は上甲板の物である。その下に中甲板と下甲板の水密扉があるはずだ。それぞれを開けるためには人員用の通路が直通しているわけでないから、各傾斜梯子までグルッと遠回りしなければならない。弾庫は最下甲板に設けられている。さらに戦艦<大和>にはその下に、火薬庫のある高さの船艙甲板と、防御構造の二重底があった。

 カナヤマとキンジョウには悪いが、その走る距離を考えると(もちろんダラダラ歩いたりしていたら鉄拳制裁だ)指名されなくて良かったとカナモトは考えた。

 手を休めて眺めていた前檣楼でも、この暗い中で当直の者が配置についているのだろう。そこかしこに小さな明かりが灯っていた。それが一層幻想的な彩りを与えていた。

起重機(デリック)準備できました」

 一旦、玩具のような巻き上げ機を作動させて異常が無い事を確認した後に、作業責任者であった分隊士が分隊長に報告した。

 第一砲塔砲台長の彼はウムと頷くと、艦長と一緒に離れた所に立っている砲術長へと報告に行った。艦長が何やら言うと、艦長付きの伝令が自転車で上り坂のようになっている甲板を走り出した。

 あまりにも広いので徒歩では伝令に時間がかかりすぎるのだ。(注32)

 第二砲塔の影で伝令が見えなくなってしばらくすると、前檣楼の脇で小さな光の明滅が始まった。訓練された者にはそれが何だかすぐに分かる。灯火信号である。

 すると<大和>に横付けした船の起重機が動き始めた。

 同時に舷門に数人の人影が現れた。

「だれだ? あいつら…」

 起重機の準備ができたカナモトたちは、巻き上げ機が設置されている波除板の方へと固まっていた。そこならば、わずかであるが寒い風が防げるからである。

 と、そこへ接舷作業の方に駆り出されていたらしい同じ分隊の下端(したっぱ)たちが、カナモトたちが固まっているところへと寄って来た。

「おう、ごくろうさん」

 広い前甲板では、そこしか風を遮るものが無いのだから、集まってくるのも自然と言えた。

 同じように肩をすぼめている中に同郷のアライがいた。

「おたがいに寒い中、辛い思いをさせられますなあ」

「あれ、なんだよ」

 ズボンに突っ込んだ手を出すだけでも苦行だ。顎で接舷してきた船を差すと、アライは振り返りもせずに教えてくれた。

「<樫野>だよ。なんか荷物を持ってきたらしい」

「ああ<樫野>か」

 主砲を扱う分隊に所属しているからカナモトも、その名前に馴染みがあった。

 帝国海軍所属の運送船<樫野>。一見するとただの貨物船に見えない事もない。ただ前後に高角砲を、船橋両脇に機関銃を装備しているので、軍籍にあるのが分かる。

 しかしてその正体は、大和級の砲塔を運搬するために建造された砲塔運搬船なのだ。

 大和級の主砲塔は諸外国には例を見ない巨砲を搭載した物である。一基あたりが駆逐艦一隻分の重さがあるほどだ。その砲塔を製造できるのは、日本…、いや世界広しと言えどもここ広島の呉工廠しかない。

 よって佐世保や横須賀、大神など、他の工廠で大和級を建造する時に困ったことになった。艦体は建造できても、砲塔は呉から運ばなければならないのだ。(注33)

 運送船<樫野>はそのためだけに建造されたと言って過言ではない船なのだ。

 実際、この<大和>の次に佐世保で建造された<武蔵>そして横須賀の<信濃>の時には活躍した。四番艦である<甲斐>は呉で建造されたので出番が無かったが、五番艦である<越後>は<信濃>建造後の横須賀で起工されたので、また出番があった。続く<紀伊>が呉での建造だったが、その次の<尾張>が大神工廠での建造だったので、また出番があった。(注34)

 全七隻で大和級の建造は終了し、噂では新しい型の戦艦を二隻建造しているらしいが、建造場所によってはまだまだ<樫野>には出番があるということだ。(注35)

 もちろん仕事はそれだけではない。二年前には、カナモトたちが乗る<大和>の改装が大神で行われた。その時にも砲塔の新部品を呉から運んできたのも<樫野>だった。一回に砲塔一基分しか運べないので合計三回カナモトは大神で<樫野>を見る機会があった。

 それと昨年秋に定期整備のついでの様に行われた改装時、第一砲塔の主砲二門だけを特別仕様の砲身にするとかで運んできたのも<樫野>だった。

 それにしても、いま振り返ると、異様な改装であったと思える変な工事が多かった。

 まず変な事の筆頭と言えば、第一砲塔だけを改造した事だ。新型にするなら艦尾に向いている第三砲塔まで三つの砲塔があるのだから、全部一緒に変えればいいではないか。だが、それとなく分隊長から聞き出したところ、この改装は特別な砲弾を撃てるようにする改造だとか。だが特別な砲弾ならば全砲門で射撃可能とすればいいところ、第一砲塔二門だけとは不思議な話しである。(注36)

 これも、将校たちの話しているのを盗み聞きやら何やらからの不確かな情報だったが、二門だけで充分だということらしい。理由は「二発も撃てば戦争が終わるから」というトンデモない物だった。

「一発で敵の艦隊を撃滅してやる」というのは、よく砲術長がそういう気概でやれという心構えで分隊整列の時に口にする言葉であるが、カナモトには二発で戦争が終わる砲弾というのは理解できない代物だった。

 また第一砲塔の改造の他に、いま起重機を立てた水密扉も、同じ時期に装備された物である。縦に船艙まで水密扉が三枚も続き、最終的には錨鎖庫直後に新設された第零番弾庫に繋がっていた。

 こんな普段から乗組員が近づかない場所に弾庫を設ける意味が分からなかったし、さらに庫内の温度管理を火薬庫なみに厳重にせよと命令がきていた。

 おかげで普段勤務する第一砲塔の弾庫から、わざわざ日に十二回も温度確認のために迷路のような艦内を歩かなければならない。それが他人事ならばいいが、カナモトは第一弾庫勤務なのだ。

 班の中で持ち回りということにしたが、毎日歩かされる身にもなってもらいたかった。しかも、サボることもできない。一日一回は艦内巡検する副長が、第零番弾庫を見回り順路に入れているのだ。(注37)

 その時に、弾庫の入り口脇にある札入れに差してある書類に、確認印が捺していなかったら、雷が落ちるどころではない。おそらく砲術長から分隊長、分隊士、もちろん分隊の二等水兵にいたるまで連帯責任を取らされるだろう。

 もちろん射撃する時に、そんな砲塔から離れた弾庫では役立たずになる。主砲の砲弾という物は(トン)単位の重さなのだ。対空射撃で大量消費される高角砲の砲弾とはわけが違う。(注38)

 しかし<大和>では、その常識が当てはまらなかった。もともと最前部の第一弾庫から最後部の第三弾庫まで、砲弾を運搬するための軌条が走っているのだ。これは追撃戦などで前部または後部の砲弾を射耗してしまった場合、他の弾庫から供給できるように設けられた物だ。<大和>では、この軌条をさらに前部までのばし、第零番弾庫と繋ぐ工事が行われた。これでいざその特別な砲弾を射撃するとなっても、弾庫員が台車で行けばいい話だ。(注39)

 普段の温度管理の時にもこの軌条を使わせて欲しいが、途中何枚も通過する隔壁の開け閉めを考えると、歩いて行った方とどちらが楽なのかは難しいところなのだが。

 艦内の噂では、支那に隠されていた旧王朝の埋蔵金だか芸術品だかを極秘に運搬するための設備じゃないかという事になっていたが、カナモトたちにはいまだ真相は明かされていなかった。

 カナモト自身は戦争に負けた合衆国が帝国へ払う賠償金を、太平洋を渡って本土へ運ぶための特別装備だと思っていた。

「うわあ」

 隣のキムラが小さな声を上げた。

「?」

 何に声を上げたか分からずに振り返ると、舷門から普段はお目にかからない者たちが前甲板に上がって来るところだった。

「陸式が何の用だってんだ?」

 紺色をした海軍の第一種軍服ではない国防色をした見慣れない軍服を着た一団が艦長の所へ歩み寄っていく。私服の連中も何人かいるようだ。

 あの国防色は間違いない。大日本帝国陸軍将校の物だ。

「泥靴で上がりやがって」

 彼らが残した足跡を見てキムラが恨み言の様に言った。なにせ前甲板の清掃も第一分隊の仕事なのだ。しかも艦長などのお偉方が勤務する昼間艦橋から一番目立つ位置だ。汚れなんかあった日には、怒り狂った分隊長に殴られて、分隊全員がタンコブを作ることになるだろう。(注40)

 眼鏡をかけた私服の連中が艦長と何やら話し、陸軍の将校は何やら輪になって渡って来る海風に耐えているようだ。

「ああ」

 つい溜息のような悲鳴を上げたのは誰だろうか。舷門から次々に陸軍の兵隊たちが上がってきて、さらに磨き上げられていた前甲板を汚していった。

「ちくしょう」

 だが文句を言うわけにもいくまい。なにせ直接の上司どころか、艦の全ての責任を負っている艦長が何も言わないのである。横から口を出したら余分な騒動になる事は間違いなしだ。

 せめて分隊士に愚痴ってやろうと、冷たい風の中を横移動し、カナモトたちから離れた位置で背中を丸めている分隊士へ近寄って行った。

「あいつら、なんなんです」

 カナモトの強い口調に分隊士も言いたいことが分かったのだろう。彼は曖昧な笑みを浮かべた。

「仕方なかろう。陸式に艦のことは分からん」

「それで仕事を増やされるコッチはたまりませんよ」

「そう言うな。足の裏にまで文句をつけていたら、ウチの艦長はケツの穴が小さいと、向こうでウワサになるかもしれん」

「そういうもんですかね」

 分隊士が納得しているのに、これ以上文句を言っていると、逆にコチラが仕事をしたくないと取られてしまう。まあ冬の甲板清掃なんて、やりたくない仕事で順位をつければ筆頭と言って間違いないのだが。

 電動機が激しく稼働する音が続くので何事かと振り返ると、<樫野>の起重機が奇妙な物を前甲板へ下ろすところだった。簡単に言うと梯子のような物である。ただし人が上り下りするにはちょっと幅がありすぎるようだ。何枚も重ねて束ねた物が甲板上に下ろされていく。

「?」

 不思議に思って観察していると、陸軍の兵隊たちがそれにとりついた。縛ってあったロープを解くと、一枚ずつ舷門の横からカナモトたちが開いた水密扉の方まで、一直線に並べ始めた。どうやら簡易的な線路…、軌框のようだ。(注41)

 つなぎ目を組み合わせ機関砲弾ぐらいあるネジを通すと、鋼鉄製の杖のような工具で手際よく締めていく。

 あれよあれよと言う間に舷門から水密扉までを繋ぐ軌框が完成していた。

 軌框を敷設している間に<樫野>の起重機が、その上を走る平たい貨車を降ろした。

 小さな鉄道を完成させた陸軍兵は、舷門の方へと下がった。(注42)

「なんだありゃ」

 カナモトがつい呟いたことは目立たなくて済んだ。なにせ横にいる分隊士すら同じ事を口にしていたからだ。

 二人とも甲板に敷かれた線路ではなく、舷門に現れた新たな一団にド肝を抜かれていた。

 遠目には白い煙管服に身を包んだ機関科の者に見えた。だが、その白い服は合羽のように頭まで覆うように出来ており、全身がピッタリと白い布で覆われていた。

 手袋と長靴も白色をしており、特別製であるようだ。どちらも見るからに細かい物を摘まめないような分厚い生地でできているようだ。

 そして、どんな奴が着ているのかは、まったく分からなかった。開いているはずの顔面には、戦闘中に携帯するように言われている防毒面で覆われているからだ。

 その防毒面すら白く塗られており、まるで季節外れの幽霊のように、全身が白色に包まれていた。(注43)

 彼らは陸軍兵が線路を敷設して乗せた貨車を舷門の近くへと寄せた。その間に<樫野>の起重機が動き、細長い物を吊り上げていた。

 主砲弾薬庫で働くカナモトなら見たことがある形をしていた。

「砲弾?」

 一発だけの砲弾が、白んできた夜空を背景に宙を移動していた。正確な誘導で軌框の上の台車へと下ろされた。(注44)

(あれが戦争を終わらせる弾ってやつか)

 現在のところ帝国は、欧州大陸を制覇した大独逸とイザコザを抱えていた。しかし、あれを二発撃つだけでイザコザが戦争になっても終わるなら、大歓迎の代物だ。

 まあ温度管理とか余分な仕事は勘弁だが。

 それと、艦内の噂はどうやら外れだったようだ。せめて支那の旧王朝のお宝の方が良かったなとカナモトは思った。

 台車に起立したまま下ろされた砲弾は、どうやら黒と黄色で塗られているようだ。徹甲弾は白色、通常弾は緑色に塗られているから、新しい塗り分けである。形は徹甲弾よりも通常弾に近いようだ。

 台車に仮固定された砲弾が、ゆっくりと数人の白ずくめたちに押されて、カナモトたちの前を横切って行った。

「手伝わなくて良いのですか?」

 もちろん、余分な仕事は嫌だったが、提案だけは口にしておかないと、後で考課表に何を書かれるか分かった物ではない。

 ただでさえ同期の奴らとは差をつけられているのだ。これも出身地が内地では無いということが原因だろうとカナモトは考えていた。

 内地出身の同期の奴らは、とっくに一等兵曹どころか兵曹長にまで出世した者がいる。要領のいい奴なんか上官の推薦を受けて(おか)勤務だ。

 それに比べて自分の評価は惨めな物だ。同じ一等兵曹でも等級が低めのままで抑えられているらしく、俸給にすら差がある程だ。

「手伝うな、ということらしい」

 つまらなそうに分隊士が言った。

「それどころか『近づくな』まで言われたぞ。どんなインチキが隠されているか分からねえが。ま、触るなって言うのだったら、触らないでおこう」

「そうですか」

 つい声が明るくなりそうになり、自重した。なにせ自分の縄張りに正体不明の輩が入り込んで来たのだ。素直に喜んでいては、どんなとばっちりが回って来るか分からなかった。

 白ずくめの三人が、カナモトたちが用意した水密扉脇の簡易起重機で、その黒と黄色の砲弾を吊り上げた。他の何人かは、この<大和>の構造を知っているのか、人員用の傾斜梯子へ取りついて、艦内へと潜り込んでいった。

 この間、防毒面が邪魔をするためか、白ずくめの男たちは一切声を発せず、手信号だけで会話していた。ただでさえ不気味な外見に、無言を貫く態度で、いっそう気味悪さが増した。

 とは言っても手信号の内容は、荷物の運搬に関する必要最低限の会話であった。カナモトも下士官にまで上がった男であるから、手信号ぐらいは読み取ることができた。

(疫病神じゃなけりゃあいいんだが)

 ふとそう思ったカナモトは考えを改めた。

(いや、ひょっとすると金の成る木に化けるか?)

 こんな怪しげな物を搬入したという事実自体が金になる。そう直感したカナモトは、起重機に吊られて開いた水密扉の上へと移動した砲弾を観察した。

 彼にはツテがあった。半舷上陸で馴染みの店で呑んだくれている時に、知り合った外国人だ。カナモトにはイワンと名乗った自称露西亜(ロシア)人の男だ。彼はこういうちょっとした事に大金を出してくれるのだ。まあ露西亜人と言ってはいるが、カナモトは彼が独逸人ではないかとアタリはつけているのだが。

 二年前の改装時、彼は運良く主砲塔の図面を手に入れることができた。まあ新しい砲塔になった事で古い図面は用済みとなり、かつて軍極秘だった図面はマル秘扱いまで、機密が解除されていたこともある。

 現場で仲良くなった技術士官に、自分が海軍を退役した時に床の間に飾りたいと持ち掛けたら、一枚複製を取ってくれたのだ。もちろんタダではなかったが。

 その図面をイワンに見せたところ、それなりの物と交換しましょうと持ち掛けられたのだ。

 まあ墨水画の一枚とでも交換だろうと高をくくっていたのだが、イワンが持ってきたのは一山の金の延べ棒だった。

 カナモトは迷うことなく図面と金塊を交換した。いまだ換金していないが、カナモトだって金に相場があることは知っている。今は低い俸給で我慢している身だが、退役後はそれを元手に肉屋でも始める気だった。

(イワンに説明できるように、よおく見ておかなくちゃな)

 そう気を取り直すと、早春の冷たい風すら苦でなくなるのだから現金な物だ。

 一発目の砲弾が、ちょうど起重機に吊られて甲板の下へと消えていくところだった。白ずくめの一人が後の作業を任せて、台車を舷門の方へと押して戻して行った。

 その頃には二発目の砲弾が<樫野>の起重機に吊り上げられて、宙を移動していた。舷縁に立った白ずくめの誘導で、正確に台車の上へと下ろされていく。

(さて、次の半舷上陸はいつだったかな)

 再び懐が潤う事を期待しながらカナモトは台車の上に起立する砲弾を眺めるのだった。



●背景 一九四〇年代の概観

 第二次世界大戦の結果、ドイツが勝利し欧州を支配する事になったことは、間違いなく歴史的にも政治的にも大事件であった。

 そろそろ世界革命の萌芽を見せ始めていた共産主義は地上からほぼ一掃され、国会社会主義(ナチズム)という新たな国家形態が東はウラル山脈から、西はイベリア半島の突端までを支配することになったのだから。

 意外な事にドイツは、戦中に連合国が揶揄していたように「第三帝国」を名乗らずにいた。理由は簡単で、先にイタリアに「新生ローマ帝国」を名乗られてしまったからだ。それでも欧州制覇を成し遂げた偉大なる指導者の意向により、戦争後は「大ドイツ(グロース・ドイッチュラント)」と名乗ることになった。

 先に帝国の復活を宣言したベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニを首班とするイタリア内閣は、時のイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世を初代皇帝に据えた。

 しかし実権はムッソリーニ首席宰相兼国務大臣兼帝国元帥首席が依然と握ったままであった。その象徴とも言える事件が初代皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世即位後すぐに起きた「エジプト亡命事件」だった。(注45)

 きっかけはムッソリーニの影響力を抑え込みたい皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世が、奇手ともいえる手段を用いて彼を失脚させようとした政治的事件であった。

 帝国内を見回りたいという皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世の希望から実現したエジプト行幸であった。彼が外遊している間に様々な計画が帝国国内で動き出すはずであった。

 しかし計画とはまるで逆にピエトロ・バドリオ元総合参謀本部総長を中心とする反ムッソリーニ派が次々と暴力事件の準備容疑で検挙され、その後ろ盾に皇帝自身が居たことを自白した…、いやさせられたのだ。(注46)

 この事件により皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世はエジプトからローマへと帰ることができなくなり、そのまま亡命という形で逗留することとなった。ムッソリーニ内閣よりウンベルト皇太子へと譲位を半ば強制され、それを受け入れたのは、いまだローマに留まっている子供たちの身の安全を考えての事だとされている。

 譲位翌年、現地で新生ローマ帝国初代皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世は失意のうちに病没した。「残念だが…、実に残念だ」という言葉が遺っている。事件の渦中と言える時期だったので暗殺も疑われたが、いっさいの証拠はない。

 現在、二代目皇帝ウンベルト二世の下に、新生ローマ帝国は、地中海を「我が海(マーレ・ノストラム)」と豪語するだけの勢力を持っていた。(気の大きな者の中には「イタリア湖(ラッゴ・イタリアーノ)」とさえいう者がいた)

 いまや地中海をぐるりと囲む国々は(スペインなどの中立国もあるが)新生ローマ帝国の影響下にあった。もちろんこれはドイツという勝ち馬に乗ることが出来たから成し遂げられた偉業であった。

 こうしてサンフランシスコでの講和会議で、イタリアは帝国の復活を宣言し、地中海の権益を丸ごと手に入れた。

 まあ世界中の国からは「ドイツの尻尾」程度の認識でしかなかったが、ムッソリーニ統領の悲願は達成されたのである。(注47)

 負けた側の連合国は、新大陸に引きこもることになった。

 グレート・ブリテン島本土を第二次アシカ作戦で、北アイルランドをアイルランド共和国による平和進駐で失った大英帝国(グレート・ブリテン)は崩壊した。王室はカナダ自治領へと辛うじて脱出することができたが、色々と大きな物を失った。

 特に大英帝国の崩壊を決定づけたのは、皮肉にも大英帝国がかつての植民地であった合衆国に助けを求めたことだった。

 一九四一年にサー・ウィストン・レナード・スペンサー・チャーチル英国首相が、フランクリン・デラノ・ルーズベルト合衆国大統領に、当時まだ中立国だった合衆国の助力を要請する際に発表したのが大西洋憲章である。

 同憲章で植民地に自治権を認めた事が法的根拠となり、大英帝国が世界各地に持っていた各植民地では(大ドイツの工作員による援助もあったようだが)独立騒乱が発生し、戦後の地図は大きく塗り替えられることになった。

 南アフリカ連邦やオーストラリア連邦は、いまだ王室についてきてくれていたが、独立機運が高かったインドでは、色々な悲劇が起きた。血と涙は流れ、苦労の末にインドは独立を果たした。

 クリストファー・コロンブスの新大陸到達だってインドへの西回り航路を発見するための旅だったし、バスコ・ダ・ガマの東回り航路は欧州に香料をもたらした。スエズ運河が開削された理由も、インドと欧州を繋ぐ最短距離を求めてだった。

 つまり欧州人にとってインドとは富の象徴だったのである。そのインドを大英帝国が失ったというのは大事件であった。

 インドを支配下に置いていた英国は世界中に覇を成し、それが「陽の沈まぬ帝国(グレート・ブリテン)」となる原動力となっていたからだ。

 欧州全土を手に入れた大ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、独立間もないインドを次に目指すのも、当たり前と言う事ができよう。もちろんアリアン人種がウンヌンとかいう言い訳もあった。それによれば全てのアリアン人種の故郷は取り返すべきものとされていた。

 まず東部戦線で大活躍した機甲師団でインドまでの道を拓こうとした。大ドイツは古くより陸軍国であるから、至極当然である。

 インドは藩国が集まってできた多民族国家である。まだ独立して間もない今ならば、首都デリーさえ占領してしまえば、かつて大英帝国が成功させたように、全土を支配する事も出来るだろう。

 こうした目論見により、Sdkfz一七二、V号戦車<パンターⅡ>(注48)を主力とする東伐部隊は地中海から東へと出発した。

 国際的世論はもちろん大ドイツの侵略に非を唱えていたが、彼らに対抗できる武力が無いのだから気にする必要はなかった。

 しかし順調に行ったのはパーレヴィ朝イランまでだった。

 一度、連合軍による進駐を受けたパーレヴィ朝イランであったが、元々親ドイツ的立場の地域だったこともあり、ドイツ軍を快く引き入れた。ここまでは連合軍がソ連を支援するために用意したペルシア回廊を、逆に自分たちの補給路として利用する事で、比較的スムーズにいった。

 だが問題はそこからであった。

 彼らの前に立ち塞がったのはスライマン山脈とバーラクザイ朝アフガニスタン王国であった。

 ここは鉄道どころか道すらまともに整備されていない地域であった。海路を使えば補給が届かないこともなかったが、アフガニスタン王国の首都カブールは内陸である。

 さらにカブールからインドの首都デリーへと至る道は、峠を幾重にも越えなければならない。

 アレクサンダー大王の時代ならともかく、戦車を主力にした機甲師団を支えるには膨大な量の物資が必要となる。騎士団や傭兵団の時代ならば主な補給品は糧秣であるが、機甲師団はそれだけでは動けない。燃料となるガソリンが必要だし、また故障した機械の修理には部品が必要だった。ガソリンはまだしも、電撃作戦で欧州を併呑した最新式の機甲師団が装備する車両の数々が必要とする部品は、少なくとも畑から生えて来る物では無かった。

 そして第二次世界大戦時、周囲を枢軸、連合双方の陣営に囲まれた土地であるゆえに選んだ中立を侵しにやって来た「敵」に、アフガニスタン王国は全力で対抗した。

 もちろんその裏には、大ドイツの覇権を快く思わない国からの援助があった。援助は、迫りくる敵に対抗しようとするインドだけなく、いつか大西洋を渡って欧州を取り戻したいと願っている連合国も、そして「昨日の情は明日の仇」とばかり大日本帝国も加わっていた。

 急峻な地形は防御に向いており、戦車が一台ずつしか通れないような峠道では、旧式の武装しか持たない彼らでも十分対抗が可能であった。

 ここに至り、陸路でインドを目指していた大ドイツは行き詰った。

 陸から進むことが出来ないのであるなら、海から進むことになる。

 幸い、保護国としたポルトガル共和国がインド西岸各所に植民地を持っていた。特にゴアはアラビア海では重要な港であり、インフラも整っていた。

 そこを宗主国からの「領土保全の要請」という形でドイツ軍は進駐し、補給基地とした。

 いまだ戦争状態になる前に、機甲師団が駐屯し、空軍基地が作られ、港にはドイツ海軍の船が出入りした。それだけではない。普通の植民都市では必要がないはずの量の燃料弾薬、兵器を修理するための部品まで備蓄された。

 あとは簡単な話しである。海の穏やかな朝、ゴアの北方五八五キロにあるボンベイ市の市民が沖を見ると、そこをドイツの輸送船団が埋め尽くしていたのだ。

 ゴアは山脈に囲まれており、アフガニスタン戦線と同じ間違いを引き起こす可能性があったので、ゴアから直接デリーへ向かう作戦は初期に放棄されていた。

 そのために目をつけられたのがボンベイであった。

 ゴアから飛来したドイツ空軍機の援護の元、機甲師団の揚陸はほぼ予定通りに完了した。

 ゴアにドイツ軍が兵力を集結している段階で、インド側は相手の意図を読み、ボンベイの守備隊を強化してはいたが、あっという間に占領されてしまった。(注49)

 このボンベイから首都デリーを攻略しようと言うのである。

 ボンベイからデリーまでは鉄道が通じており、途中の都市アーメダバードを経由して一、一六〇キロほどの距離である。ベルリンから国会社会主義国となったウクライナの首都キーウまでの距離に近い。(日本列島で言うなら東京から佐賀までの距離ぐらいである)確かに「近所」という距離ではないが、補給や輸送に鉄道が使えるなら可能な作戦距離と言えた。実際、欧州戦争にてドイツ軍は、キーウよりも遠いソビエト連邦の首都モスクワまで攻め込むことができた。そしてなにより重要な事にインドには冬将軍はいない。

 だが、彼らの前に立ちふさがる者がいた。

 生まれたばかりのインド軍である。様々な悲劇の末に勝ち取った独立である。相手が欧州最強の陸軍だろうが、科学先進国だろうが、諦めて侵略を受け入れるわけにはいかないのだ。

 だが、インド軍にはあらゆる物が足りなかった。人員だけは強制徴兵で集まったが、充足されたのはそれだけである。装備の幾つかはイギリス軍から分捕った物があったが、それらは旧式化していたし、なにより数が少なかった。

 対するドイツ軍はポーランドで、フランスで、そして今はロシアと呼ばれる地となった場所で、何倍もの敵を打倒して来た歴戦の強者であった。

 だが救世主は居たのだ。インドの危機に救いの手を差し伸べる者が現れたのだ。




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