12.慟哭
悔しい……。身体も心もズタボロだ。
一体何が起こってる? 俺ってこんなに弱かったっけ?
恋人が他の男とキスするところを見せつけられたというのに、俺は何もできないでいる。それどころか、傷だらけで地面に這いつくばっている。
先に手を出したのは俺、やり返されるのは仕方のないことだと思う。それに巧は殆ど何もしていない。ただ身を守っただけ。
肉体の痛みはまだいい。それよりも俺の心を抉ったのは圧倒的な力の差だった。
巧に手も足も出なかった。幼馴染に勝つことが当たり前の俺からしたら青天の霹靂だ。
俺は内心、巧のことを下に見ていたのだと思う。だからこそこんなにも悔しくて、やるせない。
「樹……私達もう別れましょう。私樹のこと好きじゃなかったの。むしろ嫌いだった。私と一緒で巧のこと苦しめてたから」
フラれてしまった。長い間想い続けてきた初恋の幼馴染に。彼女に近づく数多くの男達を退け、やっと付き合えたというのに。
何となく察してはいた。涼乃は常に巧のことだけを考えていることを。彼女は俺とデートをしている時も、心ここにあらずといった感じだった。
でもいつかは本当に俺のことを好きになってくれると信じて、俺は我慢していた。
だがやはり、どこか晴れない気持ちがあった。巧より運動ができても、テストの点数で彼を上回っても、満足できなかった。
自惚れていた。勘違いをしていた。涼乃は最初から、俺を見ていなかった。
それどころか俺は涼乃に嫌われていた。その事実が、俺の精神に重くのし掛かる。
「そんな……」
滑稽にも程がある。涼乃と付き合えた時、俺は巧に勝ったと浮かれていたのだから。
「もう私に話しかけないで。これ以上巧に勘違いされたくない」
別れを告げる初恋の人は、まるでゴミを見るかのような冷たい目を俺に向けてくる。
そして彼女は俺に背を向け、巧の方に近づいていく。
待って、行かないで、すずちゃん……。
あの頃に戻りたい。誰が上だとか、下だとか考えず無邪気に3人で遊んでいた幼い時に。
いつからこうなった。俺の何が悪かった。
巧に手を上げようとしたから? 涼乃を迎えにいったから?
「巧……この際だからはっきり言うね。私巧のことが好き」
「え……?」
止めてくれ……。そんなこと言わないでくれ涼乃。俺が告白した時、涼乃は俺のことを好きだと言ってくれたじゃないか。
「いきなりこんなこと言うのもあれだけど、巧、家に帰りたくないなら、私の家に泊まりなよ」
年頃の女の子の家に、思春期真っ盛りの男が泊まりに行く。その先にあるものと言ったら――。
「えっと……」
巧は困惑している。戸惑っている。それだけ見るといつもの巧だ。だが彼の肉体は、さっきとは比べ物にならないくらい筋骨隆々になっている。
涼乃の言う、本当の巧から感じるオーラは凄まじい。今の俺と、彼のどちらが涼乃に相応しいかと言われれば、間違いなく後者だ。
気付いていた。巧が涼乃のことを好きだということを。
彼氏――俺と言う障壁は既にない。その気になれば、彼は涼乃のことを思いのままに……。
「そんな、さすがにおばさん達に悪いよ……」
巧は悩んでいる。突然の申し出に、自分の気持ちに素直になっていいのか迷っているようだ。
頼む、巧! どうか断ってくれ!
神様、お願いします。どうか巧が断るように導いて下さい。
もはや神にすがる他なかった。巧がここで、涼乃の家に泊まりに行くとなれば、間違いなくそういうことになる。
情けない話だ。巧の気分次第で全てが決まってしまう。俺は自分の力で涼乃を引き止めることも、巧を引き止めることもできない。
「大丈夫だよ。実は今日、お父さんもお母さんも家にいないんだ」
そんな都合のいい話がある訳がない――と思ったが、涼乃が最近バイトを始めたと言っていたことを思い出す。
バイトの目的は親孝行と話していたが、それは今日という日に親を家から追い出すための方便。彼女はバイト代を使って親を旅行にでも行かせたのだろう。
涼乃は虎視眈々と狙っていたのだ。巧を自分の部屋に連れ込む機会を。
「えっと……じゃあ……いいかな? 泊まっても……?」
「もちろん!」
ああ……駄目だ。終わった……。
2人の視界の片隅にすら俺は入っていない。まるで俺と言う存在がこの世に存在していないかのように。
涼乃が目を輝かせながら巧を見つめている。
恋人であった俺が今まで見たことがない、うっとりとした表情を浮かべ、これからやろうとする行為に胸を踊らせている。
俺と一緒にいる時、彼女はいつもつまらなそうにしていた。何だか義務的に俺と付き合っているように思えた。
だがそれでも俺は涼乃の彼氏になれて嬉しかった。彼女のことがずっと好きだったから――。
「行こっ!」
涼乃が巧の腕に自らの腕を絡ませる。彼女は俺にこんなことはしてくれなかった。
巧は満更でもなさそうに、空いている手で頬をポリポリと掻いている。
取られていく。奪われていく。見下していた幼馴染に、初恋の女の子がいいようにされてしまう様を、俺は指を咥えて眺めることしかできないのか。
「待ってくれ!!」
声は届かない。涼乃は振り向こうとすらせず、その歩みを進めていく。巧は振り返ってくれたが、涼乃に腕を引かれ、すぐに顔を背けてしまった。
2人の背が遠く離れていく。手を伸ばせど、伸ばせどその距離は縮まらない。
嫌だ……。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
何でこうなるんだよ! 俺が何をしたって言うんだよ! 理不尽すぎるじゃないか、こんなの……、
「うああああああああ!!」
天に向かって慟哭する。無力な自分を嘆く。されど誰も俺を慰めてなどくれない。
身体からありとあらゆる力が抜けていく。身に宿っていたものが片っ端から喪失していくのを感じる。
何もかもが失われていく。恋人も、友達も。
だが俺は気付いていなかった。今日が人生の最悪の日でなかったことに。これから続く、苦難の入り口でしかなかったことに――。




