薔薇園に潜む
幼少の頃、真知は薔薇園で迷子になったことがある。父親に手を引かれて歩いていたはずだったが、気がつくと独りとなっていた。
薔薇は見事に咲いており、父親が一眼レフカメラで熱心に写真を撮っていたところまでは覚えている。そのときに見物客に揉まれてはぐれてしまったのだろう。何処へ迷い込んだのか、人の気配のしない場所まで来てしまったようだった。
真知が心細くなり蹲っていると、ふいに頭を撫でる感触がした。温かく、とても優しい手つきだ。顔を上げると、優しい表情をした歳上の少年が佇んでいた。
「……迷子になったの?」
真知は少し間を置いてから、こくりと頷く。自分以外に人がいたことに安堵し、堪えていた涙が突然溢れだす。本当は寂しかったのだ。少年は真知の肩を抱き、安心させるように撫でてくれた。宥められるうちに気持ちが落ち着き、涙が引いてくる。
「よしよし、僕が君を連れてってあげる」
少年はそう言うと微笑み、真知を立たせた。真知は縋るように少年の手を握り締める。
少年と一緒に、それこそ迷路さながらの薔薇園の中を暫く進むと、誰もおらず静寂だった空気が急激にざわついた。色とりどりの薔薇に囲まれ、見知った後ろ姿が遠方にある。父親はまだ薔薇を懸命に撮っているようだった。真知は初めて少年より先に足を踏みだしたが、あともう一歩という辺りで少年が歩みを止める。
「……お兄ちゃん?」
「僕は、……行けないんだ。だから此処でお別れ」
「お兄ちゃん、一緒に行こうよ」
「大きくなったら、今度は僕を探しにおいで。もう迷子になってはいけないよ」
少年に送りだされ、真知は無事に父親の許へ帰ることができた。振り返っても、少年の姿は既にない。父親は子供が迷子になったことも知らない様子で、ほどなくして薔薇園を後にした。
学校帰り、真知は目と鼻の先にある薔薇園に立ち寄った。初夏を迎え見頃となり、今週からフェスタが催されていたためだ。
マゼンタが映える蔓薔薇のアーチをくぐれば、日常を隔てた世界が目の前に広がる。平日ということもあって見物客はさほど多くなく、真知は伸び伸びと薔薇を観賞して歩いた。
随分ひとけのない場所まで来ていた。右を見ても左を見ても、色違いの薔薇が目に入るだけである。中学生にもなって、迷子なるのは御免だ。そう思い、真知は踵を返そうとした。
「僕を、探しに来てくれたんだね」
触れられた片手が凍りつく。それほどまでに、少年の掌は温もりがなく冷たい。
大きくなったら、今度は僕を探しにおいで。