2、マーリン
キャシーは銅像を見上げながら、陽の光が眩しいのか目を細めている。
「へえ、そんな偉い人なのか。じゃあなおさら気合い入れて磨かないとな」
「まだこんな銅像が残っていたのね」
ユージンの何気ない一言に、キャシーは周囲を見回して微笑んだ。それはいつもの悪戯っぽい笑みとも違う、柔らかいものだった。
「でも学院の理事長って、そんな名前だっけ」
「今の理事長に血縁関係はないもの。というか、学院の王子様のお祖父様が理事長よ」
「ああ、あの生徒会長。できればああいう目立つ人とは関わりたくないもんだ」
「それ、キミが言うかな」
クエロの失礼な発言は聞き逃しておいてやろう。今はそれより、悪魔像の由来の方に興味があった。
「無理もないわね。今じゃクロフォード家が学院の創始者と思っている人の方が多いんじゃないかしら」
「200年以上歴史があるんじゃ、仕方ないかもね。こんな大きな学校」
「大きい、ね。でも初めは、この旧校舎だけだったらしいわよ」
クエロの言葉を受けて、キャシーは像を見上げながら、その老人の昔話を聞かせてくれた。
学院の創始者であり、偉大な学問の父。王国の賢者と称されたマーリン・C・ノーベルは、自宅で小さな私塾を開いていたのだという。
貴族の師弟だけでなく、身寄りのない子供やマーリンを慕って集まった書生。そんな若い芽を相手に、自宅で教鞭をとっていたのが始まりなんだとか。
「へえ、俺マーリンさん好きだな。マーリンさん家の勉強会なんて、村の寺子屋みたいで親近感湧くよ」
「そうね。無償どころか、屋敷の空き部屋に住み込みまでさせてたらしいわよ」
「じゃあもしかして、ここって」
「そう。この旧校舎はかつてのマーリン邸ってわけ」
ユージンは古い木造建築を見回した。まさかここがマーリンさんの家だっとは。像のおじいさんを見ていると、なんとなく親しみが増す気がした。
「マーリンの教え子たちは、師と同様に秀でていたの。次々と世に放たれる俊英たちの噂は、すぐに王国中に広まったわ。そして当時のウィンチェスター王は、そんなマーリンの後進を育てる技術に目をつけた」
才人を数多く排出するマーリンの塾のノウハウを、もっと大きく広め、王国により多くのギフテッドの才能を芽吹かせる場所を作りたい。そうマーリンに相談を持ち掛けたのだという。
「自宅から始まった私塾が、こんな規模になるなんてすごいだね」
クエロが目を丸くするのを、キャシーは暖かい微笑みで見つめている。
「だけど、マーリンは断ったらしいわ」
「なんでさ。いっぱい生徒が集まれば楽しいよ」
それでもマーリンは王からの提案を断った。
曰く、「政が混ざれば、学の本質が損なわれる」と。
「そうねえ、みんなクエロちゃんみたいならいいんだけど、当時は戦争の匂いもあったし」
王からの誘いを辞退し続けていたマーリンだが、国を挙げての方針に抗い続けることの無益さも、悟っていたのだろう。二つの条件を付けて、王立アプレンデール学院の初代理事長に就任することを承諾した。
一つには、「学びに貴賎なし。性別、人種、身分。その他いかなる理由があろうと、学ぶ意志ある若き才を拒むことはない」
二つには、「学び舎に俗世の理は持ち込まぬこと」
「なんか、ますますいいなあ。そのマーリンって人は、国に子供たちが利用されるのを、防ぎたかったんだろうな」
ユージンは今の国王の顔を思い浮かべて、ついつい比べてしまう。異世界人たちを無理やり引き込んだ思考とは、真逆である。
「で、マーリンとその弟子に王国の有望な13人の子供たちを加えて、ギフテッド専門の学院が船出を迎えたわけ」
「学ぶ意志さえあれば拒まないと言った賢者様でもさ。ギフテッドじゃない人が入学するとは、予想してなかったろうね」
「違いないわね」
クエロの言葉にクスリと笑って、キャシーは言葉を締め括った。
けれどユージンは少しだけ寂しさを感じた。歳月は、偉大な教育者すら学院の歴史から忘れ去らせてしまうのだろうか。
アプレンデール学院が有名になるにつれて、王国は次々と学院都市の敷地や、設備の拡張を決定。莫大な予算を投じて、今のような「都市」と呼べるほどの大きさに成長して行ったのだろう。
必然的に敷地は広くなり、遠方から集まる学生たちが住まう寮を中心に店もできる。最新の設備が導入されれば、新しい校舎や研究棟も作られ、始まりの地はどんどん奥へと埋もれてしまう。
今や学院都市のすみっこにポツンとたたずむ不便な場所は、Nクラスという臭いものとともに蓋をされ、自然と人々の足が遠のいたというわけだ。
「俺はこの庭、結構好きですよ」
きちんと手入れをしてみれば、かつて老人と子供たちを育んだ名残があちらこちらに見える気がする。
ユージンは再びマーリンの姿を見上げ、なんとなく呟いた。そして手にした布切れに力と気持ちを込めた。
それから、無心で像を磨き続けること1時間。とうとうユージンたちの秘密基地は完成した。
そこはまさに、秘密の庭園といった感じの仕上がりだ。古びはているが石畳は趣があって、コケモモや紫の藤の花の周りを、クマバチが忙しく飛び回る。その様子を、学園の創始者が優しく見守っている。
「すごいすごい、とってもいい感じだよ。ボクのためにありがとう、ユージン」
クエロは雑草を刈り取り、綺麗に磨き直した石畳の上でクルリと回ってみせた。その拍子に、白い髪と笑顔がふわりと浮かぶ。
「うふふ、ずいぶん綺麗になったわよ。ありがとうユージンちゃん」
「自分の畑欲しさの下心だからね。キャシーちゃんがお礼を言うことでもないさ」
そう言うユージンも満足である。
「それじゃあさ、さっそくボクの特訓に付き合ってくれるんだよね!」
クエロの期待に満ちた笑顔に、ユージンの胸は傷んだ。ユージンとてそうしたい。そうしたいのだが。
「すまん、クエロ。2週間なんだ」
「え?どういうことさ」
とたんにクエロの頬が膨らむ。しかしそんな顔をしたいのはユージンの方だった。やっても気持ち悪いだけなので自重するが、これからの予定を考えると、気分が沈むのである。それでも仕方がなかった。
「クソ面白くもない先約が入ってる」
クエロとの約束を反故にするつもりはないが、先にしていた約束を破るわけにはいかない。
「ええー、なんの約束さ。というか、ユージンにボクら以外の話し相手なんていたっけ」
自分のことを棚に上げて言うクエロを制して、キャシーが代わりに答えてくれた。
「異世界のお友達に関するご用事でしょう」
「そうなんだよ。すっかり忘れてたんだけどさ、今日は貴族のおじさんへの質問タイムの日なんだ」
「全然意味わかんない」
そりゃそうである。ユージンだって意味わかんない。とっても行きたくないのだが、なんだか流れでそうなってしまったのだ。
初めて王都に着いた日に行なわれた王への謁見。バイロンという貴族と、今後のことを話し合う約束をしたのはその時である。その約束の日が、2週間後、つまり今日の放課後だったのだ。もうすぐ約束の時間が迫っている。
「まあ要するに、異世界人たちがバイロン侯爵って人とのお食事会に呼ばれてるんだよ」
ユージンの言葉に、キャシーは眉を上げた。
「バイロン侯爵?ずいぶん大物ね」
「キャシーちゃんも知っているのか」
「今の貴族社会で、最も注目されている存在よ。いろんな意味でね」
もしかして、キャシーも貴族の出身なのだろうか。ユージンは今まで、キャシーの立ち振る舞いから、彼女と貴族を繋げて考えたことがなかった。身につけている服や小物にそんな匂いがしないのである。今日も唇のピアスが銀色に光っているくらいだ。ただ、礼儀や食事のマナーには品がある。
しかしそんな疑問は、獣人の国から来たクエロには関係がないらしい。イライラしているのか、耳がピクピクと震えている。
「なにそれ、なんでそれにユージンが参加するのさ」
「俺もそう思うんだけどね。一応俺、異世界人たちのサポート役らしいから」
「いいよ、アイツらの所なんて行かなくて」
クエロはすっかりご機嫌な斜めの様子である。友達が、他の遊び仲間のところに行くのは寂いのかもしれない。
「こらこら、あんまりユージンちゃんを困らせないの」
「ゴメンなクエロ。埋め合わせはするからさ」
キャシーの腕の中で暴れるクエロに頭を下げて、ユージンは校門の方へと足を踏み出した。すれ違う瞬間に耳元に届いたキャシーの声は、なんだか不吉な響きを伴っている。
「バイロン侯爵とやり合う気なら、十分気をつけなさい」
「いっとくけど俺、心の底から平和主義者だからね?」
なんだかその言い方では、ユージンが方々で喧嘩を売って回っているようではないか。ユージンはただ、異世界の友人たちのオマケでお呼ばれしただけなのである。
少なくとも、この時まではユージンは、本気でそんな呑気なことを考えていたのだった。