5、黄金の価値
バイロン侯爵は目の前の農民の瞳に、誰よりもよく知っていたスコット少年の面影を思い出していた。
☆
スコットは元々、それなりに大きな商家に仕える丁稚であった。
母親はある貴族が戯れで孕ませた町娘。父親の名を母親は頑なに明かさなかった。
スコットが権力のある貴族の血を引いていると知ったのは12の時。母親が病に倒れ、今まさに死なんとしている時である。あれだけ父の話を嫌がっていた母の最後の言葉は、その男の名前であった。差し出されたのはとある大貴族の家紋の入った指輪。
たった一度だけ、この家紋の名の下に我が息子としての権力を振るう事を許す。
無理やりに手篭めにしておいて、己の子を孕んだ女に言い残した言葉はそれだけだったと言う。妾としてすら扱われなかった母の憎悪が、スコットには痛いほど分かった。母にとって貴族の名は呪いの言葉だったのだ。
それでも、唯一の肉親である幼い我が子の身を案じたのであろう。母は独り残される息子に、自分が死んだらその貴族を頼れと言い残したのだ。
だが少年は貴族の元へは行かなかった。それどころか貴族の名を使って誰かに庇護を求める事も、職を斡旋してもらう事さえしなかった。
かわりにその足で、当時最も勢いのあった商家に自分を売り込みに行ったのである。
幸いスコットには「神算」のギフトがあった。計算が速くなるだけのチンケなギフトではあったが、彼はそれを売りに丁稚として雇われることに成功する。
それから少年は懸命に働き、必死で学んだ。世の中のこと。商売の心得。
彼はその間、何度も辛い目にあった。同じ奉公人からは穀潰しや居候として冷たく扱われた。
食事の量だってほんの僅かで、朝は誰よりも早く起き、夜は足りぬ教養を身につけるために遅くまで勉学に励んだ。
店の金がなくなった時には真っ先に疑われ、袋叩きにあった。右腕と肋骨を何本か折られたが、自ら真犯人を見つけ出し、身の潔白を証明した。
幾度も辛い目にあったスコットだったが、その間一度も父親の名にすがろうとは思わなかった。
同世代の子供たちが成長し、女房の尻にしかれ始める頃には、彼はとうとう王都の店を任されるほどに成長していた。彼の手腕で店はみるみる成長を遂げることとなる。
彼の最大の才能はギフトではない。母親譲りの間抜けで愛嬌のある顔と、計算した数字の本質を見抜く優秀な頭脳。そして折れない不屈の精神力こそが、最大の武器であった。
それから数年後。
大店の番頭として店の金を牛耳るスコットの、帳簿をめくる手が止まった。
店の者に、帳簿に書かれた名前を指差して言った。
少し出掛けて来ます。
ああ、共はいりませんよ。
あそことは長年取引をさせてもらっています。
身内のようなものですからね。
私1人で内々に済ませて来ましょう。
帳簿は支払いの滞っている貴族のリストであった。
大きな貴族は金持ちと思われがちだが、内情は厳しい所も少なくない。交遊費や式典の費用、使用人たちへの給与。
どれも馬鹿にならないのである。
さらに昨年に出された王の貴族への締め付け政策により、貴族の領土がいくつか召し上げられていた。何の仕事もせず、ただ昔から続いているというだけの無能な貴族の力を削いだのである。
その結果、かなりの数の未払いが発生している。
主人がこれから赴く貴族も、そんな1人である。それも特に酷い貴族であった。先の政策で領土の半分近くを没収されたのだから、当然収入も半減しているはずだろう。
だが一度覚えた旨味を、人は簡単に手放せない。
とっくに払える額は超えているのに、次から次へと贅を尽くしたものを欲しがる。たとえ収入が追いつかなくても、それは変わらない。かなり有名な家だったので初めはツケで引き渡していたのだが、限度を超えていた。
オマケに女癖も悪い。来店するたびに商品より先にねっとりと見られる店の女たちは、この貴族を毛嫌いしている。
貴族とは評判を気にするもの。主人もその辺りのことを慮り、1人で行ったのであろう。
店を任されるには商売の巧さだけでは無く、こういう心配りも必要なのか。たとえあんなクズ貴族であっても。
主人の言葉を聞いた店の従業員は、いたく感心していた。
店を出る主人の指には、普段はつけない装飾品が光っていた。
スコットは貴族の家の前で、しばし立ち止まる。
大きく、立派な家である。中に案内されると、至る所に目の飛び出るような値段の絵画や彫刻が置かれている。
だがそれが虚飾である事を、店を任されている彼は誰よりも知っていた。店へのツケがきかなくなってからは、自分の個人資産を損失に当てている。
つまりそのほとんどは、スコットの私財によって立て替えられているのだ。いわばこの屋敷の調度品の数々は、自分のものと言っても過言ではない。
欲望の匂いの立ち込める屋敷に、スコットは一瞬だけ眉を顰めた。だがすぐに商人の顔を取り戻す。
貴族と対面すると、金を借りている申し訳なさなど微塵も無い様子で貴族が話しかけてくる。
「おおスコット、何の用だ。この前頼んだ娘のドレスとネックレスが入ったか」
スコットは笑顔を崩さず答える。
「申し訳御座いません、お嬢様に見合う品となるとなかなか」
「半端なものはダメだぞ。大貴族である私の子供に見すぼらしい格好はさせられんからな」
鍛え上げられた商人の態度は揺るがない。
「心得ております。それより今日は別のお話がありまして。実は支払いの方をそろそろして頂きたいのです」
「ふん、金の話か。お前が立て替えておけば良かろう」
悪びれる様子もなく貴族は言う。だが、いつもなら素直に金を差し出すはずのスコットが首を横にふる。
「私は大丈夫と申したのですが、我が商会の大旦那様が不安に思われたようで。払わぬならば相応のものを差し押さえて来いと」
「さっ、差し押さえだと!ちっ、仕方ない。幾らだ」
踏み倒すには相手の商会は大きすぎる。苛立ちを隠しもせずに聞く貴族。
スコットが取り出した帳簿の金額を見て、今度こそ男の顔が青色に染まった。
そこには貴族の土地を丸ごと買えるほどの金額が記されていたからである。
「な、何だこの金額は。馬鹿げている、払えるわけないだろう!」
貴族はスコットに掴みがからんばかりの勢いで叫ぶ。だがそんな相手にも、彼は淡々とした態度を崩さない。まるで崩れてしまえば、とどまることを知らず、爆発でもしてしまうかのように。
「馬鹿げているのは貴方です。これは貴方のご家族に相応しいだけの装飾品を集めた結果です。私は何度もお伝えしたはずですよ?」
「と、とにかく無理だ。金ならどこかから融通してくる。今日は帰ってくれ!」
スコットはため息をつくのを懸命に堪えた。知らぬは本人のみである。彼が領地を没収されたことも、それでも借金を重ねてまで贅沢を続けていたことも既に知れ渡っている。この落ち目の貴族に金を貸す者などいないだろう。
「そうも参りません。今日ご用意いただけない場合は貴方の領地を丸ごと差押えさせていただきます。それでも足りないでしょうから、貴方が鉱山で働くか、娘さんをあまりオススメできない場所で働かせるかですね」
別に誇張しているわけでもない。これは純然たる事実である。
「い、嫌だ!私は建国から続く名門の長だぞ!そんなことが許されるか!」
この期に及んでまだ寝ぼけたことを言う貴族に、笑みをかき消したスコットが言う。
「……1人だけ、貴方の借金を肩代わり出来る人間がいます」
スコットの目からついに、商人としてのものが消えた。それは幸せを遠ざける、暗い取引を持ちかける悪魔の目。
だが藁にもすがる思いの貴族は気付かず飛びつく。
「だ、誰だそれは!」
「私ですよ」
「は?しかし商会はもはや待てぬと……」
「ですから、商会ではなく私個人の資産で貴方の借金を全てお支払いすると言っているのです。貴方に返済能力があるとも思えませんので返して頂かなくもいいですよ?」
「な、なにを言っている?なにが狙いだ!」
あまりにも都合が良すぎる提案に、助かったと言う安堵よりも恐怖が貴族に襲いかかる。
誰だコイツは。本当にいつも間抜けな顔を晒していたスコットなのか。コイツは私の言う物は何でも持ってくるただの雇われ店主のはずだ、なのにこの目は。
「貴方から何かしてもらいたいわけではないのです。ただ、昔の約束を、貴方から頂いた私の正統な権利を行使させて頂きたいだけです」
そう言ってスコットは、机の上に何か小さな物を置いた。カツンと、白檀の机にぶつかったソレは小さな音を立てた。
それを見た貴族は思わず悲鳴をあげる。
「ひっ!?」
それは指輪であった。精巧な作りで、確かにそこには栄光ある己の家紋が刻まれている。ここに至ってようやく、男は目の前の相手が誰なのかを理解した。
己が犯し、孕ませ、捨ててきた町娘の子供。
スコットは剣を掲げる英雄のように、毅然とした態度で宣言した。
「僕はただ一度だけ、この家の者として権力をふるおう。大貴族バイロン侯爵の息子として、父である貴方に、家督を相続する事を求める。無論息子としては正統な権利ですよね?」
男は真っ白になった頭で必死に考える。
冗談ではない、つまりコイツは借金を肩代わりする代わりに、領地を奪うどころか貴族としての地位まで奪うつもりなのだ。町娘の子供の、下らない平民の商人ごときが。
「勿論断っていただいても構いませんよ。ただ引退して借金とは無縁の生活を送るか、一生かかっても返せぬ借金を子々孫々抱えたまま奴隷のように死ぬか。好きな方を選んでください」
そこに選択肢はなかった。幾ら腹を立てようが、もはや選ぶ道は無い。貴族の当主、いや元当主はただ恐怖した。
一体いつからこの男は準備をしていた?
ツケでいいと言った時か、それとも商人になった時?
まさか母親が死んだ時には既に?
だがそんな貴族を横目に、バイロン侯爵は静かな微笑みを浮かべて言った。
「ではこれからよろしくお願いしますね、お父さん」
そう言った彼の顔は、大きな利益をあげた商人の顔でも、愚者を笑う勝者の顔でもない。
あの日母を失った怒りと悲しみで、押しつぶされそうな少年のままであった。
★
その後、貴族の地位を得たバイロンは商会の大旦那の娘を嫁にもらった。
大旦那としてもバイロン家の名は魅力的であり、元々1番重要な王都の商売を任せるほどスコットの商才は認めている。
裏では金で爵位を買ったと馬鹿にするものが多いことも知っていた。
それでもそれ程大きな混乱もなく、商会のトップと大貴族としての地位を得たバイロンは、家を立て直して着実に権力を伸ばしていった。
「あのー、もしかして怒ってます?や、やめて下さいね、いきなり無礼打ちとか」
少年からかけられた声で、バイロンは長い思索からようやく目覚める。そして目の前の少年をもう一度、今度はしっかりと見つめた。自分はもうこの眼には戻れないのだろうか。
理不尽を理不尽と怒れるこの眼に。友人が大切だとまっすぐに言えるこの心に。
今でも分からないことが1つだけある。自分は根っからの商売人だ。母から真相を聞いたあの日、直ぐにバイロン家を訪ねなかったのは、最も有効な時に売りさばいてやろうと思ったから。
今や田舎でそれなりの生活を満喫している父を恨んだことは無い。だだ貴族とはそういうモノなのだ思っただけだ。
そう自分に言い聞かせて生きてきた。
だが一方ではやはり、復讐したかったのだろうかという自分への疑惑が心を捉えて離さない。それは今尚、己の心に暗く重い塊を背負わせ続けていた。己の生涯をかけて築いてきた栄光が、子供の頃からの憎悪と復讐の成果だとしたら、余りにも虚しい。
「だがそれもまた一興か」
もしかしたらこの少年の中に、答えがあるのかもしれない。
「分かりました、私の知る範囲でならお答えしましょう。貴方たちの置かれた状況を。学院での生活が落ち着いた頃、そうですね。二週間後でどうでしょうか」
この農民には勇者を超える値がある。
あり得ない。だがあり得ない事でも己の眼を信じて、自分は孤独な丁稚からこの国の最高峰の貴族にまで駆け上がったのだ。
だからこそ、たとえどこにでもいる農民にしか見えなくても。地位も力も無い村人でも。己の出した値は変えない。
この少年には黄金の価値があるかもしれない。
そんな風に思い、普段貴族と商人、2つの仮面を被り続けるバイロン侯爵は久しぶりに素直な気持ちで微笑んだ。
本日2話目の投稿です。
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