4、人間引き際が肝心
突進を避けられたのがよほど腹に据えたのか、山の主は苛立たしげに地面を掻いている。
一方ユージンの方も苛立ちは最高潮に達していた。
理由は定かではないが、マツダはギフトを使えないらしい。いや、持っているかどうかもすでに怪しい。動きを見たところ戦闘も素人である。
これなら独学でも剣を握ったことのあるユージンの方がまだ動ける。いちばん生き残る可能性が高いユージンが挑む方が、まだましな選択肢。ユージンは腹を括って後ろを振り返った。
「ギフトも使えないんじゃどうにもならない。俺が注意を引いてる間におまえらは逃げろ」
「え、いいの?」
返事は疑問の体をとっているが、すでに行動は開始されていた。マツダは主を刺激しないようゆっくりと後ずさる。その冷静さがなんだか腹立たしい。そんな配慮ができるなら、はじめからギフトなど無いと言ってほしかった。そうすれば近づく前に逃げられたかもしれない。
「善意で言ったわけじゃない。おまえらには後できっちり弁償してもらわなきゃいけないし、自慢の畑に人肉の肥料が混じるなんてまっぴら御免なんだよ」
その時、ひとりの少女がユージンの右隣に並んだ。亜麻色の髪から嗅いだことのない花の香りが漂ってくる。
「どう考えても善意ですよね、それ」
少女の声は震えていた。それでも、少女は拾った木の棒を構えて主の前に立つ。こんな状況でなければ目を見張るような美少女だった。
「同意。死んだら弁償も意味ないし、私たちを囮にすればいいだけ。何人か欠けても請求先には困らない。あなたが自分の命と私たちの命を平等に秤にかけるのは、お人好しだから」
もうひとり、小柄な少女が今度は左隣に並ぶ。黒い髪が艶やかな少女の表情は堅いが、冷静な分析だ。
「結構鍛えてるんだぜ、さっきの奴よりは動けるはずだ」
引き締まった体の短髪の少年が、少女たちより前に出る。その横顔にはやはり恐怖が見えたが、精悍な顔つきの少年だった。揺れる瞳には、非力な少女に遅れをとった恥のような色が見える。
しかし少女より前に出た少年の背中に、ユージンは尊さを覚えた。そしてその瞬間、少しだけ彼らのことを理解できた気がした。
「なあ、もしかして本当にギフトも異獣も知らなかったのか?」
「はい」
亜麻色の髪の少女が答えた。
「じゃああんな化け物見るのも初めてか」
「興味深い」
強がっているのか、冗談で言っているのか。小柄な少女の表情は読み取りにくい。
「畑を吹っ飛ばしたのもアンタらじゃない」
「いや、それは、うん。多分無関係ではないな」
短髪の少年の苦笑いは、彼らに悪意がなかったことの証左だった。
「そっか」
ユージンの口元は無意識に緩んでいた。
「たっく、いつだって真面目にやってる普通のやつが貧乏くじ引くんだよな。いいんだよ、囮なんか人数増えても意味ないし」
ユージンはひとり呟いて、森の主の前に躍り出た。
「おいこら猪。俺の可愛いりんご様を食いたきゃ、頂きますの一つでも言える様になってから来いや」
主は知能の低い異獣だが、馬鹿にされたのはわかったらしい。ターゲットをユージンに定めた。
突っ込んでくる主をかわしながら、徐々に集団から引き離していく。荒い鼻息を感じるたびに、背筋に冷たい汗が流れた。土を蹴立てる重い足跡が響くが、2度、3度と転げるように死の気配を遠ざける。
消耗していく体力。躱す度に、体と主の牙の間の距離が徐々に近くなっていくのが分かって、なんとも嫌な気分だ。
けれどユージンにも、勝算が全くないわけでは無かった。悲しいことに死ぬことがわかっていて突っ込むほど、ユージンは勇敢でも無謀でもない。
主はこれまでも何度か、ユージンや村人の畑を荒らしている。
畑はユージンにとって家族の次に大切なものだ。土とともに生き、土とともに死ぬ。ユージンは農民の、フィルに言わせればいっちゃってる感性の持ち主だった。
順番をつけるなら、妹、両親、畑、大きく水をあけて自分の命。誇張なしに、死んでも畑は守る気だった。
畑がなければ農民の暮らしは傾く。傾けば一家が路頭に迷う。そうなれば最悪の場合は餓死である。農民以外の生き方は知らない。だから結局、畑がなければ命を失うようなものなのだ。
そんな畑が何度も荒らされて、ユージンは他の村人のように諦めることを受け入れられなかった。
そこでユージンは、お手製の罠を作った。フィルには馬鹿にされ、妹には危ないからやめてと懇願された。
しかしユージンからすれば、いつか来ることがわかっている災難に対策を打たないのは、馬鹿かマゾのどちらかである。
来る日も来る日もコツコツと、畑の世話が終わってからもスコップを手放さずに地面を掘り続けた。
それは原始的で、でも知能の低い相手には有効な罠。
馬鹿みたいな響きだが、ユージンの作った罠とは落とし穴である。
その場所まで山の主を挑発しながら誘導していく。
「来いよ子豚ちゃん。俺の、畑は俺が守る」
何度も失敗し、幾度もかすった牙にヒヤヒヤしながらも、ユージンはとうとう罠のある場所まで主をおびき寄せた。
最後の力を振り絞ってたどり着いた場所は、罠を挟んで主と対峙する絶好のポイント。すでに最高速に近づいている主が進路を変えることは不可能な距離。
ユージンは己で己を褒め倒してやりたいと思った。原因を作ったマツダには、水増しした畑の損害賠償を請求しても許されると確信していた。
この場合その考えは自己保身や悪意ではない。妄想は足を動かし続けるためのガソリンであり、文字通り命綱だった。肉体的な痛みと精神的な恐怖に、それぐらい疲れ果てていた。
あまりに涙ぐましいその献身的な走りは、この場にいる全員の命を救うウィニングランのはずだった。
「おいでやす!」
ユージンは勝利を確信した。すでに最高速度に達した主は、方向転換も急ブレーキもかけれぬ距離まで罠に近づいている。
主の足元の地面が、その重みで沈む。
その瞬間。
眩い閃光と衝撃で、再びユージンの体は宙を舞った。