25、お兄ちゃん
聞き馴染んだ声が洞窟の空気を震わせた気がして、ユフィは後ろを振り返った。暗い洞窟の通路には、もちろん大好きな兄の姿も恐ろしい盗賊の姿もない。
当たり前だ。わざわざ別行動をしているのだから。
ユフィと長沢の目的は、できる限り詳しく洞窟の構造を調べることだった。それからユフィにしかできない役割として、盗賊の中にギフテッドがいないかをチェックすることも頼まれている。
あわよくば捉えられている人質の居場所を突き止めたいが、曲がりくねって迷路のようになっている洞窟内をくまなくく探している時間はないだろう。二つの目的が達成できれば、人質の救出に大きく近づく。
「ユージンさんって、本当に村から出たことがないんですか」
何度も後ろを振り返るユフィに、長沢が言った。緊張を紛らわせたくて、ユフィはその言葉に応えた。
「そうですね。町にりんごを売りに行く以外では、ほとんど村から出ません。もともと出不精な人ですから」
だからこそ心配なのだ。兄は争いに向いている人ではない。今この瞬間にも、盗賊に切り刻まれる兄を想像して、ユフィは堪らなくなる。
「信じられませんよ、こんな作戦も思い付くし。話していても知的な感じがして、教養を感じます。」
兄は面と向かって褒められる事が少なかった。あんなキャラクターなので、どちらかと言えばイジられることの方が多いのだろう。だから自分では、優秀な妹と凡人の兄と考えている節がある。
しかしユフィは兄を褒められる事が多かった。小さい頃から「いいお兄ちゃんがいて幸せね」と、言われ続けてきたのだ。まるで本人に言えない分をユフィに話しているようだった。
それはユフィの心を満たしてくれた。みんなに褒められる兄が、自分にはいっとう甘い。それは何物にも変え難い快感だった。
けれど知的とか教養とか言われたのは初めてだ。
「そうですか?お兄ちゃん頭はあんまり良くないけど、本だけはよく読んでらからかもしれませんね」
兄も自分も高度な教育を受けているわけではない。りんごの実らせ方は知っていても、女性の喜ばせ方は何一つ知らない兄なのだ。だけどユフィはそれで良かった。むしろ余計なことは身につけてほしくなかった。
「彼を見ていると、テストの点と頭の良さは別物だって痛感させられますよ」
一方で長沢は、今まで必死で周りの点数ばかり気にしていた自分を恥じていた。
自分が答えを丸暗記している間に、ユージンは自らの頭で考え続けていたのだろう。
どうすれば持てる知識を活かせるか。
農民である彼にとっては、それはりんご畑や土のことだったのだろう。だけど対象は何だっていいのだ。真剣に考えるという行為は、知識を詰め込むだけの作業と違って思考力を鍛える。
鍛えた思考力は応用が効く。
応用の効く思考力は、目的の為に必要な知識に思い当たる。本来なら、それが正しい循環なのだろう。
ただ教師に言われるままに、与えられた課題をこなすことに必死になっていた自分の生き方とは違う。そこに長沢は感銘を受けていた。
長沢の思いを聞いたユフィは、緩やかに微笑んだ。
「お兄ちゃんはそんな小難しいこと考えるほど、頭良くありませんよ」
兄への賞賛は嬉しいが、大事な兄に過度な期待をされても困る。
「ただ……みんなが笑えるように必死で考えてるだけだと思います」
異世界の事情は知らないけれど、長沢たちの通う教育機関というのは、こちらの世界ではかなり高い教育水準だと思う。ユフィの感覚に照らし合わせれば。王都のギフテッド専門学校に行くようなものだ。
普通の農民の兄が、そんなエリートより賢いわけがない。
ただ兄は目の前のことを蔑ろにしない。無理だと諦めない。最高の結果が得られるまで、妥協せずに考え続けてきる。
「昔から諦めが悪いんです。いくら美味しいって褒めても、もっといいりんごが出来るはずだって唸ってますから」
「僕はお兄さんを心の底から尊敬しています」
何の変哲もない農民の兄が、優秀なエリートにそんな風に言われるのは、何だか不思議だった。そんな話をしながらも、道々で人の閉じ込められそうな場所を探す。
「長沢さん、隠れて」
暗い通路の先に人の気配が見えて、ユフィは長沢を岩陰に引っ張り込んだ。その目の前を盗賊の集団が走り去っていく。
「おい、勇者が出たってよ」
「勇者って、アホらしい。取り敢えず侵入者は殺せ」
どうやら兄が派手にやりはじめたらしい。
「どうですかユフィさん。あの中にギフト持ちはいましたか」
ユフィはギフトを発動して、走り去る盗賊の後ろ姿をじっと見つめた。
「いえ、今まですれ違った盗賊にはひとりも」
二人はホッと安堵のため息をつく。殺傷能力や破壊力の高いギフト持ちが複数いれば、ユージンが危険なばかりか計画は破綻する。
「それでは急ぎましょう。もう少し調べればこの洞穴の全体図も図れそうです」
体を張って囮をこなすユージンのため、二人は先を急ぐのだった。