幕間.学生さんの憂鬱
憂鬱な空模様だった。8月の空は突き抜けるような晴天だというのに、雨が教室の窓を叩いている。
香椎冬子は窓を伝う水滴を、教室の中からぼんやりと眺めた。
教室といっても学校ではない。受験生のための夏期講習だ。授業の合間の貴重な休み時間なのに、ほとんどの生徒は机に広げた参考書を見つめている。時々無表情でスマホをいじっている子もいるが、お喋りに興じている者は誰もいない。
「なにを見ているの、冬子」
そんな教室の雰囲気を気遣ったのだろう。宮沢紅が小さな声で尋ねてきた。大きな猫目に真夏でも白い肌。紅とは出会った頃から気の合う友達である。
「変な天気だなって」
冬の体越しに窓の外を見ようと、紅は必死に爪先を伸ばしている。背が低いのだ。そんな仕草がかわいらしくて、冬は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。笑えば彼女は怒るだろう。
「こういうの、狐の嫁入りって言うんだろ」
2人の会話に、前の席に座っていた川口浩介が振り返った。浩介とは、塾だけでなく高校も同じだ。引き締まった身体はいかにも運動部といった感じで、板を割ったような性格をよく表している。坊主頭が中途半端に伸びているのは、大会が終わって部活を引退したせいだろう。
「狐の嫁入りって、夜に狐火が並んでるんじゃないの?」
浩介の言葉に、冬はおばあちゃんから聞いた話を思い出した。子供の頃、車の窓から流れる街灯の光を眺めながら「花嫁さんはどこにいるのかなあ」なんて聞いたことがある。冬にもそういうメルヘンチックなことを夢想できる時期があったわけだ。
「そうだっけ。うちの田舎じゃ晴れの日の雨だったけどな。狐の世界に嫁入りしなきゃいけない花嫁の涙なんだって」
机の上まで身を乗り出した紅の髪が、冬子の鼻先をくすぐった。手入れの行き届いた黒い髪は、生まれつき茶色がかかった冬子の髪と違って紅の白い肌によく映える。
「両方正しい。本州から九州にかけて幅広く伝承があるから、バリエーションが多い」
抑揚の少ない話し方は冷たく聞こえるが、紅は博識で努力家だ。気になったことはとことん調べる彼女は、勉強だけでなく雑学にも強い。
「だったら今日の花嫁はよっぽど嫌なんだね。朝から降りっぱなしだもん」
家を出る前から降り始めた雨は、正午を回っても降り止む気配を見せない。
自分だったらどうだろう。
今の自分の日常とは違う、まったく新しい世界。
そんな場所に放り込まれたら、花嫁と同じように泣き出してしまうのかしら。
しとしとと降り注ぐ雨は、そんな馬鹿げた妄想に冬子を誘った。
そんな冬子の様子を見て、ふたりは顔を見合わせて詰め寄ってくる。
「冬も気をつけろよ。最近よくボーッとしているから、狐に連れていかれないようにな」
「受験ノイローゼはダメ」
どうやら妙な想像をさせてしまったらしい。大げさな心配だったけれど、友達の気遣いは素直に嬉しかった。降り続く雨に憂鬱だった冬子の気分が、少しだけ和らぐ。
「ありがとう。そんなんじゃないから大丈夫だよ」
さっきまで気を滅入らせていた雨音も、今は不思議と優しい音色に聞こえてきた。
けれどその優しい音色は、教室の扉から飛び込んできた喧騒にすぐにかき消されてしまう。
勢いよく開いた扉から、数人の生徒が大きな声でおしゃべりに興じながらなだれ込んできたのだ。
「松田くん、それどこで買ったの」
「どこだったかな。ファッションはブランドじゃなくて直感で選んでるから忘れちゃったよ」
「やっぱオシャレな人は言う事が違うわ」
「今度買い物付き合ってよ」
自習に励んでいた生徒たちは一瞬顔を顰めたが、騒音の発生源を確認すると、諦めたように自分の世界に戻っていった。
松田はいつだって、教室の中の中心だ。都内でも有数のお坊ちゃま校に通っており、進学校にありがちな野暮ったさもない。
けれど冬子は、少しだけ松田が苦手だった。
おしゃべりに夢中になっている集団は、冬子のすぐ隣に陣取ってしまった。
松田は机の上に腰を下ろし、楽しそうに大きな声で笑う。盛り上がっている彼らの声が、聞き耳を立てなくとも耳に入っしまう。
「でさでさ、結局どこに行く?」
「やっぱ海かな」
「焼けるじゃん、あたし遊園地がいい」
どうやら夏休みを満喫する場所を決めているらしい。
「なあ冬子、おまえはどこがいいんだよ」
「え、なんで私?」
唐突に向けられた会話の矛先に、冬は思わず間抜けな声を出した。
「だって冬子はK大志望だろ。この間の模試でもA判定だったじゃん。志望校に余裕のある人は参加決定な」
こういうところが苦手なのだ。押しが強いんというか、なんというか。断られることを全く想像していない話し方である。
おまけにデリカシーもない。受験モードに入った夏期講習の教室には、少しでも偏差値を上げようと自習に励む生徒がいるのだ。誘われても困るが、誘わなくとも角が立つ言い方である。
早く会話を切りげたくて、冬は心の中の衣装ケースから笑顔を選んで貼り付けた。
「私は遠慮しとく。まだ志望校もはっきり決めてないし」
それはあながち口実というわけでもない。鞄の中には白紙の進路希望のプリントが入っている。前回の志望校にK大を選んだのは、ただ自分の学力と照らし合わせて、いちばん偏差値のいい大学を並べた結果だ。
冬子の選択はいつだって消去法である。並べられた選択肢から、条件に合わないものを弾いていく。そして最後に、残った中で最良のものが選ばれるのだ。
だけど年齢を重ねるにつれて、選べる選択肢はどんどん減っていく。受験そのものより、漠然と狭まっていく未来の方が冬子には憂鬱だった。
「松田くんもK大志望だよね。なんでそこに決めたの?」
「俺はどうせ父さんの会社に入るからな。それなりに格好のつく学校ならどこでもいいんだよ。来年からは一緒に学校通えるかもな」
冬子は心の中で、真剣にK大を志望校のリストから外すことを検討した。卒業してまでこの男と関わりたくなかった。だけど本当に最悪なのは、ただ漠然と進路を決めているという一点において、冬子が松田と同類ということだった。
出来るだけ選択肢を残そうと悪足掻きをしているだけの自分と、すでに決まっている選択肢に甘んじる松田。
両者の間に大した差はない。どちらも自分の中に明確なビジョンや欲がないのだ。
半ば八つ当たりであると理解していても、再び心の中にモヤモヤが募る。松田もしかして、鏡に映った自分の姿なのだろうか。
「少なくとも川口や宮沢より余裕あるだろう。行こうぜ」
冬子の前後の席に目をやって、松田は言った。その目には明らかに嘲りの色が浮かんでいる。
冬子はカチンときた。これは八つ当たりではなく、友達を馬鹿にされた怒りだ。
浩介にはプロバスケットボール選手になるという夢がある。その為に、学力的には厳しい強豪校になんとしても入ろうと、部活で遅れた分を取り戻す努力をしている。
分厚い専門書を持ち歩く紅は、研究職に就きたいらしい。そのために有名国立大学のかなり特殊な学部を目指している。
ふたりともきちんと自分のゴールを見据えて進学先を決めているのだ。
「私たちより紅や浩介の方が頭いいよ」
チクリと口から漏れた皮肉は、良くも悪くも空振りだ。
「この間の模試の結果、あのふたりより俺の方が順位良かったはずだけど」
言わずもがなの余計な嫌味に、その嫌味にすら気が付かないおめでたい脳。
どこまで行っても噛み合わない会話に、冬子の我慢は限界に達していた。
お粗末な話を自慢げに語る松田にも、それを冷静に受け止められない自分にも苛立ちが募る。
これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、冬子は再び窓の外に視線を向けた。
自分もどこか遠くの世界に行けないかしら。
嫁入りは御免だけれど、この憂鬱から逃れられるなら狐の世界だっていい。
冬子を救ったのは、始業を告げるチャイムの音だった。ガラリと教室の前の扉が開き、先生の入ってくる気配がする。
思えばバチが当たったのかも知れない。
その瞬間、教室に緑と赤の入り混じった光が溢れた。
疑問やパニックになる暇さえなく、その光は教室全体を包み込んでいく。
そして光が爆ぜた。
気がつくと、冬子たちは見たこともない景色の中に放り出されていた。
少し真面目ぶったスタートですが、これから下らないことがたくさん起きます。どうぞ気軽に先へ進んでいただければ幸いです。
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