さよなら、ふるさと!
お日様もすっかり傾いて、山の稜線の間に沈みつつありました。
青かった空も橙色に染まり、それが茜色に変わって小さなお星様がひとつ、ふたつと瞬きはじめました。
空気も冷えて暖かかった風も肌寒さを感じさせる刻限です。
今夜はとっても冷えこみそう。
でも、寒さを気にする人はもう誰もいないのです。
―今夜は冷え込みそうじゃの。なあ、不二バァよ―
声が、いや声というのとは何かが違う小さな呟きが、峠の静けさを断ち切りました。
声とするならば随分と年寄りらしく、しゃがれた、年齢を感じさせる老人の声でありました。
―そうですね、壱乃ちゃん。もう熱いお茶を供えてくれる者もおらんのですねぇ―
答えたのは今度は女の人の声でした。
こちらも相当お年を召したおばあさんのようです。
―ふん、恩知らずな連中じゃい。長ぇこと守ってやったわしらをおいてけぼりにしおって―
また別な声?こっちは若い、とまではいきませんが不機嫌そうな殿方の声らしいです。
―まぁまぁ、四郎殿、そう怒りなさるな。皆、捨てたくて村を捨てたのではない―
―左様じゃ、三蔵さんの言うとおり。去り行くもまた人の世の常、そうではないか?―
落ち着いた澄んだ声と、お気楽そうな声。
ただし声はすれども人の姿はどこにもなし。
この場にいるのは祠の中の、物言わぬお地蔵様だけでございました。
―はっ!三蔵も五助も薄情者どもの肩を持ちおって。お人好しなことじゃ―
―四郎さん、そりゃちょっと口がすぎるのではないかい―
―本当のことを言って何が悪い―
四郎と五助の声の間になにやら険悪なムードが漂いだしてきました。
他の声の主たちも割り込んでいいものか?と、ためらっておるようでありました。
―ま、四郎も五助も今日はそれぐらいにしとけ。喧嘩する暇はこれからいくらでもあるからのう―
割って入ったのは最初の老人の声、口喧嘩をとがめるというより楽しんでいる風でもありました。
―ま、壱乃ジィがそういうんなら―
―すんません、あっしも少々配慮が足りなかったみてぇで―
最初の声、壱乃と呼ばれた老人の声で二人は大人しくなりました。
それっきり口をきく者もいなくなり、山に夜闇の静けさが戻ってきました。
空には満天の星、天の川がくっきりと見えるくらいのきれいな夜空でした。
昔は坂の下の村に小さな灯りが点々と輝いていたのに、今夜からはロウソクほどの光もありません。
雨の日も風の日も、大嵐の夜でも絶えなかった輝きが今日からは灯ることはない。
それが皆の心を寂しくさせて、誰もが胸のうちにこもる思いを言葉にするのを避けておりました。
このままずっと誰も何も口にすることなく、朽ち果てるまでこのまま静寂の中で…………
―春恵、どうしてるかなあ?―
今まで一番若い声でした。
幼い男の子の声といったほうがよさそうな、とても元気な声。
でも、それに答えたのは四郎の怒鳴り声でした。
―こりゃ、六平太!あんなバカ娘の名前なんぞ二度と聞かせるなといったろうが―
―そ、そんなこといったって。気になるもんはしょうがなかろ……―
―やかましい、村どころか親まで見捨てて行きおった不孝者のことなんぞ思い出したくもない!―
―でも、でも―
厳しい言葉に六平太と呼ばれた声は尻すぼみになって、とうとう黙り込んでしまいました。
小さくヒック、ヒックと聞こえるところからすれば泣いているのでしょう。
―まぁまぁ、四郎ちゃん。六平太ちゃんを泣かせちゃダメでしょ。ほら、六平太ちゃんもいつまでも泣いてないの―
―チェッ、わかったよ。悪かったな、六平太―
優しい不二バァの声になだめられて、四郎は怒りを鎮め、六平太は泣くのをやめました。
―それにしても確かに春ちゃんのことは気になるわねぇ。あの娘だけだものね、落ち着き先がわからないのは―
ヒック、ヒックと六平太がしゃくりあげるのを聞きながら、不二バァは春恵との別れの日のことを思い出していました。
荷物ひとつ持たず、お財布さえ持たないで。
霧が立ち込める早朝の坂道を駆けてきた娘のことは今でもはっきり思い出せました。
祠の前に立っていた若者と泣きながら抱き合い、何度も村の方角を振り返りながら霧の向こうへ消えていった二人の影を、あの日の六人は黙って見送りました。
―一度だけ、葉書が届きましたね。確か「男の子が生まれた」とか―
―そういえば、そうでしたねえ―
三蔵の言葉に不二バァは相槌をうちました。
春恵が村を去って二年ばかりたった頃、春恵の母親がやってきました。
葉書を一枚、祠の前に置いて何度も何度も念仏をあげて、我が子と孫の無事を祈願していったのです。
その時の母親の涙顔は永きを生き抜いてきた不二バァでも二度と忘れられぬほど、切なくて悲しそうな顔でした。
不二バァだけではありません。
他の五人にとっても忘れられない出来事でした。
皆、それぞれに春恵のことを思い出して黙って星を見上げていました。
―行こうかのぉ、春恵を探しに―
随分長いこと間をおいて、壱乃がそうポツリと呟きました。
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村へと続く峠の祠はいつの間にか、からっぽになっていました。
中に鎮座していたはずの石地蔵さまのお姿は一人もありませんでした。
もし村にまだ人が住んでいた頃ならば大騒ぎになったでしょう。
しかしながら峠の道を通う者はもう誰一人おらず、雨風にさらされ続けた祠が崩れさる日が来ても、この不思議な出来事を知る者は永遠にやってこなかったのです。