村の鎮守のお地蔵様!
よく晴れた、心地よい春の日のことでした。
青い空の下、鮮やかな新緑におおわれたとある山の中に小さな村がありました。
その一軒の民家の軒先に軽トラックが一台停車していました。
今しも民家の戸をあけて腰の曲がった老人がひとり、小さな包みと水筒をかかえてヒョコヒョコと出てきました。
そして助手席側のドアに手をかけて―――そしてうつむいたままの姿勢で動かなくなってしまいました。
「荷物はこれで全部なんだろ、親父?さっさと乗れよー」
運転席からの男の声に、老人はハッと顔をあげました。
無言でうなずいて一度だけ民家のほうを未練がましく振り向いてから、助手席に乗り込みました。
暖かい陽射しと穏やかな春風の中をスタタン、スタタンとエンジン音を上げて軽トラックは走り出しました。
村を出て急な坂道を駆け上るエンジン音が、甲高く木々の間に響きました。
「すまん。ちぃっとばかり、停めてくれんか」
トラックが峠にさしかかった時に老人は運転していた息子に声をかけました。
「あ?こんなところで何……ああ、そうだったな」
いいかけて息子は道の傍らにあるものに気がつき、ブレーキを踏みトラックをその前に停めました。
「でも、さっさと済ましてくれよ」
「わかっとる」
そこには石のお地蔵様を祀る六つの祠がありました。
その前で降りた老人はグシュッと涙ぐみ鼻水をぬぐいながら、六人のお地蔵様一人一人に「なまんだぶ、なまんだーぶ」と小声で念仏を唱えながら拝みました。
それから手に提げた買い物籠から小さなおむすびを取り出して、六つのお皿にひとつずつ乗せました。
次に水筒から湯呑みに湯気の立つお茶を注いでいきました。
最後に何度も何度もおじぎをして、またグシュグシュと泣き始めました。
「申し訳ねぇこってす。わしがガキの頃からお世話になってきたってぇのに。最後にこんなことくらいしかできねぇで」
涙を手の甲でゴシゴシこすりながら、老人はボソボソとお地蔵様に話しかけていました。
「カカァが亡くなってからはお供えもろくにできねえで。村長が入院しちまってからは、わししか村ぁ守るモンがいねえってぇのに。すんません、ほんとに情けねぇ」
その声もだんだんと力がなくなって泣き声みたいになっていきました。
いやいや、みたいじゃくて本当に泣き出してしまいました。
運転席で煙草をふかして待っていた息子はしばらくは好きにさせていましたが、待ちきれなくなったのかイライラした声をかけてきました。
「親父ィ、いつまでもそんなトコに座って泣いてたってしかたねぇだろ?村を守るもなにも、あの村にゃもう誰も住んでねぇじゃないか。守るものなんて何も残って……すまん、言い過ぎた」
こちらを向いた白髪頭の父親の、母親の葬式以外では見たことのない泣き顔に息子はきまりわるそうに目を伏せました。
息子にしても、この村は生まれてから中学を卒業するまで育ててくれた故郷です。
地図の上から消え去るのが悲しくないわけではありません。
「さ、行こうぜ。村はなくなっても、守らなきゃいけねえもんが親父にはまだまだあるんだからな」
息子の言葉に少しは気力が出てきたのか、老人はしょんぼりしながらもその場を立ち、力のない足でトラックへ乗り込みました。
助手席で肩を落としている父親を元気づけようと息子は言葉を続けました。
「この村の空気もなかなかだけど、俺たちが住んでる北海道だって空気がうまいんだぜ。それに来年にゃ一番上のガキも入学するし、お姉ちゃんも入園だし、三人目の孫だって生まれるんだ。老人ボケしてる暇なんて親父にはないぜ」
老人は顔を上げて、少しだけ笑顔を見せました。
この村に捨て置いていくものも多いけれど、まだまだ残されたものもたくさんあるんだ。
そのことを思い出したのでしょう。
最後の村人を乗せて走り去るトラックを見送る人間はもう誰もおりません。
無人の家と水の涸れた田んぼと荒れた畑と、物言わぬ石地蔵だけが静かに見送っていました。
この瞬間をもってI県の山奥深くに拓かれた青葉沢良木村は八百年の歴史を閉じたのでありました。
-達者で暮らせよ-
「へぇ、ありがと……」
ふいに顔を上げて応えかけた老人は、不思議そうに遠ざかりゆく峠を振り返りました。
「ん、どうした?親父」
「今、声を……いや、なんでもね」