星読師ハシリウス[王都編]最終回 旅立ちの歌を口ずさめ(後)
ナディアとの血戦を『繋ぐ者』の力で制したハシリウス。
真の『大君主』となったハシリウスたちに、魔軍800万が押し寄せる。
未曾有の危機に、ハシリウスは『究極結界魔法』の発動を決心する。
果たして、王都は守れるか?
『星読師ハシリウス・王都編』4年の歳月を経て、いま完結!
転の章 ナディアの最期
「王女よ、ハシリウスがナディアと戦っている。しかしナディアの力はかなり強くなっていて、このままではハシリウスが不利だ」
ソフィアは、突然執務室に現れた星将ベテルギウスがそう言うのを聞いて、顔色を変えて訊く。
「アキレウスの軍団はどうしているのですか?」
ソフィアが訊くと、ベテルギウスは
「ナディアの魔力で動けなくなっている」
そう答えた。それは無理もないだろう。アキレウスにとっては不本意だろうが、部下の損害を防げというソフィアの命令に従っているのだろう。
「星将ベテルギウス、私ができることはありませんか?」
すると星将ベテルギウスは、うなずいて言う。
「それをお願いしに来た。『繋ぐ者』の権威により、ハシリウスに創造神アルビオン様の『星の護り』を要請してもらいたい」
それを聞くと、ソフィアは銀色の瞳を持つ目を細め、
「分かりました。すぐに女神アンナ・プルナ様に祈ります」
そう答える。星将ベテルギウスは、
「頼む。私はハシリウスの援護に戻る」
そう言って姿を消した。
――ナディア、あなたはどうしても私からハシリウスを奪うつもりでいるのですね。しかし、私も負けません。
星将ベテルギウスによってハシリウスたちの苦戦を知ったソフィアは、すぐにそうつぶやいて侍女を呼んだ。
「ご用事でしょうか?」
「ハシリウスたちが『冥界の使者』と戦っています。私は女神アンナ・プルナ様に祈ります。私が呼ぶまで、誰一人としてこの部屋に入れてはなりません。お願いしましたよ?」
ソフィアが真剣な顔でそう言うと、侍女は畏まって出て行った。
「ハシリウス、頑張ってください。私も力を尽くしますから」
ドアに鍵をかけた後、ソフィアは椅子に座り、女神アンナ・プルナ様に祈りを捧げ始めた。どうか女神様、私のハシリウスを助けるために、今一度、翼の力をお与えください。
その時、女神アンナ・プルナが、虚空に現れて言った。
“『繋ぐ者』よ、『冥界の使者』にハシリウスがつかまりました。あなたは『日月の乙女たち』と共に、ハシリウスを取り戻さねばなりません。その力をあなたに与えます。翼を広げてすぐにハシリウスのもとに急ぎなさい!”
――えっ! ハシリウスが!
ソフィアは激しく動揺したが、『繋ぐ者』の翼が大きく広がり、強い力でハシリウスのもとへと飛び始めると、
――ナディア、あなたの『魂』は必ず平安の中に解き放ってみせます。
そう、決意の眉を寄せていた。
★ ★ ★ ★ ★
「ハシリウス、私のものになって?」
ナディアは微笑と共にそう言いながら、左手をハシリウスの心臓に差し込んだ。
「ぐっ……」
ハシリウスはそう呻くと、左手でナディアの左手を押さえる。
「「ハシリウス!」」
ゾンネとルナが、顔を青くして叫ぶ。いけない、このままじゃハシリウスが死んでしまう! 二人ともすぐにハシリウスを助けに飛んで行きたいと焦るが、目の前のナディアが邪魔をする。
「邪魔をするな! 火焔放射!」
ゾンネとルナは、先ほどの教訓から自らを楯で守り、魔力を中心の戦いに切り替えている。けれど、ナディアはどんなに攻撃を受けても、それをかわして逆に攻撃してくる。
「無駄よ、それにあなたたちにはハシリウスを助けに行かせないわ」
ナディアたちは、薄い笑いを浮かべながら、ゾンネとルナを翻弄していた。
「くそっ、『日月の乙女たち』すら手玉に取るとは……」
星将シリウスが歯噛みする。向こう側ではデネブが苦戦している。そんなシリウスに、ナディアはすました表情で言い放った。
「私の力は女神デーメーテールから授かったもの。神格において劣るあなたたち星将では、私の前には立てません。諦めてハシリウスの最期を見物しておいでなさい」
「……私の腕を触って即死しないのはさすがですけれど……」
ナディアは自分の左腕をつかむハシリウスを、困惑と恥ずかしさがないまぜになったような顔で言う。
「ねぇ、ハシリウス。私はこのままあなたの心臓を握り潰しても、取り出してもいいけれど、最後に一度だけチャンスをあげるわ」
「……いずれはそちらの世界に行く私に、どうしてそこまで執心する?」
ハシリウスが絞り出すように訊くと、ナディアは笑って言った。
「何回も言っているわ。好きだから、愛しているからに決まっているじゃない。ソフィアもそうだと思うけれど、私は自分が好きになった人が他の女をその目に映すのすら許せないの」
そしてナディアは、目を細めて訊く。ハシリウスは、そのナディアの眼の光とは別の、何か青白い光を見たように思った。
「だから、私だけのものになって? ハシリウス」
ハシリウスは、自分の心臓に触れるナディアの指が感じられた。それは細かく震えている。これは勝利の喜びからなのか、それとも……。
「ナディア、君とは、生きているうちに会いたかった」
思わずハシリウスからそんな言葉が出て来た。びっくりするナディアに、ハシリウスはうなずいて続ける。
「君の運命には同情する。君が『処置』されなければ、ソフィアやジョゼとともに、幼馴染として仲良くできただろうに……うっ!」
ハシリウスは呻いた。ナディアの指がびくりと動いたからだ。ナディアは悲しそうな顔で言う。
「いまさらそんなこと言わないで。私だって、私だって好きで死んだわけじゃないし、好きで生き返ったわけじゃないわ……ましてや好んでこんなことするわけないじゃない!」
ハシリウスは、唇の端から血を流しながら言う。
「ぐっ……それは十分理解っている。けれど、僕は今の君を拒絶しなければならないことを心苦しく思っている。前にも言ったが、光と闇は、哀しいほどすれ違うものだから」
「……それは、私のお願いを拒絶する、と受け取っていいのかしら?」
ナディアが訊くと、ハシリウスは碧の目を細めて言った。
「私にはやるべきことがある。それに沿わないものは、たとえソフィアの願いであろうと私は拒絶せざるを得ない」
ナディアは顔を伏せてハシリウスの言葉を聞いていた……肩を震わせながら。
けれど、すぐに顔をあげて、冷たい瞳でハシリウスを見つめながら言った。
「……そう、分かったわ」
そして、その目をすうっと細めながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。
「じゃ、力ずくであなたを私のものにしてあげる。悪く思わないでよね?」
★ ★ ★ ★ ★
「ハシリウス、死なないで! あなたがいないと私はどうしたらいいか分からなくなります」
ソフィアは翼を広げてハシリウスのもとに急ぎながら、何度もそうつぶやいていた。ナディアが、ナディアが私のハシリウスを捕まえている。早く取り返さないと、この世界が、この国が、ううん、ハシリウスがなくなってしまう。
やがて、ハシリウスたちがいる場所に近づくと、ソフィアの目の前には信じられない光景が広がっていた。
『日月の乙女たち』や星将たちは、それぞれナディアと戦っている。そしてハシリウスは……。
「ハシリウス!」
ソフィアは顔色を失くした。ナディアが、私のハシリウスの、心臓をつかんでいる!
「させるものですか!」
ソフィアはそう言うと、翼を羽ばたかせてさらにスピードを上げた。
「キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ……ノウキシャタラ・ニリソダニエイ」
ソフィアは28神人呪を唱えながら、真っ直ぐにハシリウスのもとへと飛んで行った。
★ ★ ★ ★ ★
「……そう、分かったわ」
そして、その目をすうっと細めながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。
「じゃ、力ずくであなたを私のものにしてあげる。悪く思わないでよね?」
ナディアがその指に力を込めようとした瞬間、
“それは許しません、『冥界の使者』よ”
そう虚空から声がすると、辺りがまぶしく輝いた。その輝きは暖かく、けれど荘厳で絶対的な威圧感をもってナディアを包み込んだ。
「なに? か、身体が……動かない?」
ナディアが慌てた声で言う。そして、光の先にいる者をみて驚いて言う。
「女神アンナ・プルナ!」
“『冥界の使者』よ、私もハシリウスと同様、あなたの境遇には理解もし、同情もします。けれど、ハシリウスは重き使命を背負った若者。あなたの好きにさせるわけにはまいりません”
女神アンナ・プルナはそう言うと、少し目を細めた。その途端、ナディアの分身は一人残らず消え去り、ハシリウスの心臓をつかんでいるナディアただ一人になった。
“ナディア、私たちの序列は、意味があるのです。デーメーテールはその意味に思い至らず、不満を持っているようですが……”
「意味?」
“そう、この世の理に関わる意味があります”
女神アンナ・プルナは、そう言うと優しい瞳でナディアを見て続けた。
“命とは、調和の中で生まれ、正義によって形作られます。最初に統合と言う名の調和があり、その調和が乱れた時、世界は産まれました。世界は正義によって形作られ、やがて命が生まれたのです。ナディア、あなたは本当はその調和のもとに還らなければならない存在です”
「調和の中に?……」
ナディアは、女神アンナ・プルナの言葉を、不思議と穏やかな心で素直に受け止められた。そうなのか、すでに死に、もはやどこにも行く場所がないと思っていたのに、私には還るところがあるのか……そう知った時、不思議とナディアは安心したのである。
“……ですから、私もハシリウスと同様、今あなたの願いを叶えるわけにはいきません。ナディア、あなたは平安の中で眠り、そして再びハシリウスのような星読師と心を通わせ、共に戦わなければならないのです”
★ ★ ★ ★ ★
『ハシリウス、ハシリウス。しっかりしてください』
ハシリウスは、心の中で聞こえてくるソフィアの声に、ハッと我に返った。今まで、ナディアの左腕からかなりの魔力と生命力を吸い取られ、もうろうとしかけていたのだ。
『僕はまだ生きていたか……』
ハシリウスの独り言に、頭の中でソフィアの声が答える。
『あなたには私がついています。私はあなたを決して一人にはしません! だからハシリウス、立ち上がってください』
ハシリウスは、頭の中に響くソフィアの言葉に励まされたように、女神アンナ・プルナに祈り始めた。
『僕はまだ生きている。生きている限りは、この道を進まなければ。女神アンナ・プルナ様、この祈りを聞き届け、我に星のご加護を与えたまえ……キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ……ノウキシャタラ・ニリソダニエイ』
ハシリウスの祈りが終わると、
『ああっ!』
どこか甘美な、恥ずかしがるようなソフィアの声が響いた。しかし、ハシリウスはそれを聞き流すかのように、自分の中にいるソフィアの想念に手を伸ばし、しっかりと抱きよせた。
『は、ハシリウス……』
ソフィアは、想念の中でハシリウスの力強い鼓動を感じ、
『女神様、創造神アルビオン様、このお方をお守りください』
そう念じた。
ハシリウスの祈りは、ソフィアの願いと重なった。重なった想いは女神アンナ・プルナに届き、女神を通じて創造神アルビオンに伝えられる。
そのとき、天空が、光った。
星々の配列が、誰の目にも明らかになり、連なる星々から、28神人が座する星々から、ハシリウスに向けて光の束が伸びて来た。
『ハシリウス、私はあなたを、この命を懸けて守ります』
ソフィアの感極まったような声とともに、ハシリウスを神々しい翼が包み込む。そして銀色に輝くハシリウスとソフィアに、星々の優しい光が届いた。
“大君主ハシリウスよ、神の力をもって世界の理を示し、『大いなる災い』に立ち向かいなさい!”
「ああっ!」
女神アンナ・プルナの言葉とともに、ナディアはハシリウスから引き離されるように吹き飛ばされた。
「「ハシリウス!」」
『日月の乙女たち』が叫ぶ。そして星将たちも息をのみ、ナディアは悔しそうにただ佇立していた。みんなの視線の先には、金の額当を締め、銀の鎧に銀の籠手をつけ、銀の長靴を穿いて銀色のマントを翻し、背中に神々しい白い羽根を生やしたハシリウスがいた。
「だ、大君主ハシリウス……」
星将シリウスはそうつぶやいた。星読師セントリウスの孫よ、最初は雑魚にすら振り回されていたハシリウスよ。お前は戦いの中で様々な経験をして、今、建国の英雄ヴィクトリウスを超える星読師としてここにいる。
「ナディア、私がここにいるのは、私一人の意思ではない。誰しもが自分の意思のみでは産まれず、育たず、そして死ぬこともない。星々の意思を受けて、我いま、ここにあり。ナディア、そなたも自分の運命を受け入れ、大宇宙の意思の中に戻るといい」
そしてハシリウスは、動けなくなっているナディアの頭に、神剣『ガイアス』を静かに差し込んだ。
「あっ!……あっ、あっ……」
どうしようもなく声を上げるナディアに、ハシリウスは優しい声で言った。
「逝きたまえ、平安の中に。ノウキシャタラ・ニリソダニエイ、『日月の輪廻』」
すると、ナディアの頭の中に、今までの記憶がこぼれ始めた。
ふわふわとした優しい空間の記憶、
産まれた日のまぶしさ、
人々の当惑のざわめき、
セントリウスの提言、
エスメラルダの涙、
切ないほどの苦しみ、
光もなく、音もない世界に引き込まれるような感覚、
不意に自分を引き戻すような力、
デーメーテールの優しい顔、
光もなく、音もない世界での日々、
初めて魔法を使った日、
デーメーテールの満足そうな顔、
『冥界の大賢人』としての日々、
初めて自分の運命を知り、初めてハシリウスを見た日……、
そしてハシリウスとの闘いの日々、
……そして、今。
『あなたは平安の中で眠り、そして再びハシリウスのような星読師と心を通わせ、共に戦わなければならないのです』
女神アンナ・プルナの言葉が、ナディアの心の中に響く。そうか、そんな未来が待っていたなんて……随分遠回りしてしまったわ。
ソフィアに仕返しできなかったのは悔しいし、ハシリウスと会えなくなるのも寂しい。でも、今は眠い。ナディアは、本当に還る場所が、この眠りの先にある気がした。
その時ナディアは、なぜオフェリアが最期にああ言ったのかが分かった。
「……やっと、還れる……気持ち、いい……」
その言葉を残し、ナディアは光のチリとなった。
「ハシリウス、大丈夫?」
「ハシリウス」
『日月の乙女たち』や星将たちが、大君主ハシリウスの周りを囲んで口々に言う。ハシリウスはニコリと笑って全員を等しく見つめた。
「ありがとう。けれど、これですべてが終わったわけではない」
ハシリウスはそう言うと、女神アンナ・プルナを見て言った。
「女神アンナ・プルナ様、女神デーメーテール様はどうされますか?」
すると女神アンナ・プルナは、静かな微笑をもって応えた。
“わが父、創造神アルビオン様の代わりに、そなたにデーメーテールの処置は任せます。出来る限り穏便に、けれど断固とした処置を”
ハシリウスはうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
「ナディアが敗れた」
『闇の国』では、厩将クリスタルが、12夜叉大将の一人であるデイモンにそう言って、ニヤリと笑った。
「貴様の言うとおりだったな」
デイモンは感に堪えぬようにそう言うと、
「ハシリウスか……あいつはガキだったが、『冥界の使者』すら退けるほどの奴だったとはな……」
デイモンはそう言って首を振る。クリスタルはそんなデイモンに
「まあ、これで『冥界の使者』たちもわがクロイツェン様と張り合おうなどと言う野望は捨てるだろう。相手がハシリウス一人に戻っただけでもいいとしよう」
そう言って笑う。
確かに、ハシリウスはナディアを倒した後、『日月の乙女たち』や星将シリウス、デネブ、ベテルギウス、アークトゥルスと共に冥界を訪れ、女神デーメーテールと
『天界、人界、冥界それぞれの統括を尊重する』ことを確約させていた。
「ハシリウスが人間の分際でそう言うことができたのも、奴が大君主、つまり大宇宙に愛された存在だからだ。私はもう一度、クロイツェン様にハシリウスとの話し合いを提案する。少なくとも、四天王や夜叉大将、36部衆を編成し直さねば、奴に勝てる当てはないからな」
「しかし、その間に奴がもっと強くなるかもしれないぞ」
デイモンが言うと、クリスタルはあながち冗談でもなさそうな口調で言う。
「その時は、私たちは白旗を掲げるしかないだろうな」
「しかし、クロイツェン様は、ハシリウスと話し合いはしても、折れはしないだろう」
デイモンの言葉にクリスタルはうなずいて、
「その時には、どうするかな……」
クリスタルはそう言って、鋭い目で虚空を睨みつけていた。
★ ★ ★ ★ ★
『……さま、……じょ様……』
――誰、私を呼ぶのは?
椅子に腰かけたまま、眠ったようにぐったりとしていたソフィアが、いやいやをするようにゆっくりと顔を振る。
『……様、王女様、しっかりしてください』
ソフィアは、自分の名を呼ぶ優しい声で、ゆっくりと意識の淵に浮かび上がった。
「……あ……私、気を失っていたんですね」
ソフィアは、ずり落ちていた身体をしっかりと持ち上げて、椅子の背にもたれかかって言う。今回も、腰が立たなくなるほどの快感がソフィアの身体中を貫いていた。そんなソフィアを、『月の乙女』が優しい声でねぎらった。
『今回もお疲れさまでした。あんなに隙間もなくハシリウス様と一体になれるなんて、なんて素晴らしい気持ちのつながりでしょう、と女神アンナ・プルナ様が褒めておられましたよ?……どうしました、王女様?』
ソフィアは、ルナの話を聞いているうちに、ハシリウスと一つになれた時のえも言えぬ快感を思い出して顔を真っ赤にした。男女の秘め事のことには全然経験がないソフィアだったが、あの感覚こそそうではないかしら、と考えると、自然に顔がほてる。
「い、いえ。何でもありません」
ソフィアは、ルナが自分を心配そうに見ていることに気付き、慌ててそう言う。しかしルナは意地悪く笑って言った。
『そのとおりですよ?』
「えっ?」
ソフィアは、一瞬何のことか分からずにそう訊き返す。ルナはニッコリと笑って、ソフィアにとってとっても恥ずかしいことを言った。
『あの快感の質は、王女様がご想像されているとおりですよって言ったんです。これからも感覚を磨いて、ハシリウス様をもっと高みに連れて行って差し上げてくださいね、王女様?』
そしてルナはさっさと天界に帰って行く。
ソフィアは耳まで真っ赤にして、顔を覆いながら叫んだ。
「もう、それ以上言わないでくださ~い!」
そして、汗でしとどに濡れた服に気づいてつぶやいた。
「……お着替え、しなきゃ」
そして立ち上がった時、ソフィアは初めてナディアのことを思い出した。ナディアもひたむきにハシリウスのことを愛していたように思う。そして、最も気になったのがナディアのあの一言だった。
『ソフィアもそうだと思うけれど、私は自分が好きになった人が他の女をその目に映すのすら許せないの』
私の心の中にも、そんな部分があるのかしら。いや、私はハシリウスとジョゼのことは認めた。だから私はナディアほど心が狭い女じゃない……と思いたい。
けれど、『繋ぐ者』としての経験を踏むたびに、その自信がなくなっていく。私はいつかハシリウスを独り占めしたくなり、ジョゼの存在を疎ましく思うようになるのだろうか……。
「今は、そんなこと気にしていても仕方ない。ハシリウスをちゃんと守ってあげなくちゃいけないから」
ソフィアは自分に言い聞かせるようにそう言って首を振ると、政務の続きを見るためにドアの鍵を開け、侍女を呼び立てた。
決の章 『究極結界魔法』
「ねえ、ハシリウス。キミってホントに素敵になったよね。ボクにはもったいないぐらいだ……」
ジョゼがハシリウスの顔を見ながら言う。ハシリウスは、隣に座っているジョゼのキラキラした目をまぶしそうに見て、照れて言う。
「な、何だよ。いつものジョゼらしくないぞ」
「だって、本当のことだもん。えへへ」
そう言ってハシリウスにしがみつくジョゼを見て、後ろからティアラとアンナが静かに突っ込む。
「あの~、ここに彼氏なし歴=年齢って言う乙女がいるの、忘れていませんか? ジョゼ」
「まったく、どこかの世界で流行った『リア充死ね』って気持ちが分かるわ。『リア充』の意味は知らないけれど」
新暦824年火の月10日、ハシリウスたちは恒例の『風の谷』の春祭りを楽しんでいた。以前にも書いたが、この手の祭りでは『魔導士』以上の資格を持つ魔法使いは、ある程度の出し物はただで観覧できる。
ハシリウスはもともと『魔導士』で、『王宮魔術師補』の官職を持っていたが、火の月1日をもって『上級魔導士』に昇級し、『王宮魔術師特命主幹』に任じられていた。
また、ジョゼとティアラとアンナも『魔導士補』の位を授けられていた。この日四人は、自分たちの昇級祝いとしてこの祭りを楽しんでいるのである。
「そう言えば、ハシリウスくんは叙任の件はどうなったのかしら?」
アンナが気がついたように言う。ハシリウスはギムナジウム在学中、『風の谷』に封じられていた火竜が復活した際、その封印に成功し『風の谷』を救った。その功績に対して貴族に列せられ『準男爵』の称号を得ることになった。しかしハシリウスは在学中は不要だとして叙任の延期を申し出ていたのである。
「あれ? うん、仕方ないから叙任していただいたよ」
ハシリウスが答えると、アンナが
「そう、おめでとうハシリウスくん。あ、これからはハシリウス準男爵様、かしらね?」
そう言う。ところがジョゼが顔の前で人差し指を振って言った。
「ちっちっちっ、アンナ、実はハシリウス、その後もいろいろこの国の危機を救ったってことで、利子がついて『辺境伯』に叙任されたんだよ?」
「えっ? 『男爵』を飛び越して?」
アンナがびっくりした顔で言う。そして、急にしおらしくハシリウスにしなだれかかって、艶めいた声で言う。
「あン、さすがは私が見込んだ男性だわ。ハシリウスくん、もう私たちも卒業したから、あなたが私にしたかったこと、してもいいのよ?」
「こらっ! 他人の恋人に彼女の目の前でモーションかけんじゃないわよ」
「アンナさんがハシリウス様にモーションかけるのでしたら、私も真似させていただきまーす!」
そう言ってティアラも、喉を鳴らしてハシリウスにすり寄る。
「あっ、こら! ティアラまでどさくさにまぎれて何やってんのさ? 離れろ~!」
「ちょっ、待て待て。みんなのメーワクになる!」
ハシリウスがそう言うと、三人ともピタッと静かになった。周囲の人々の視線が痛い。
「で、出ようか?」
ハシリウスが言うと、三人とも赤くなってうなずいた。
「ん~☆ やっぱりヘルヴェティアンって美味しいわよね~。ティアラさんこのお菓子がこの世で一番スキかも? 首都にいればこれがいつでも食べられるなんて、ティアラさんシアワセです」
ティアラが巨大なロールケーキであるヘルヴェティアンにかぶりつきながら言う。
「そう言えば、最初にここでお菓子食べた時も、ティアラは感激していたね? やっぱり女の子は甘いものが好きなのかな?」
ハシリウスが言うと、ティアラはしっぽをピンと立てて
「そりゃあ、美味しいものは何でもスキですよ? ねえジョゼ、アンナさん」
そう訊くと、ジョゼとアンナもうなずく。
「美味しいもの食べると、幸せになれるじゃんか。お菓子って幸せの呪文が詰まっているカプセルだと思うよ?」
「人間って、ただ食べるだけじゃダメなのよね。三大欲求って人間の欲望の基本だけれど、やっぱりそれぞれ上質なものが良いに決まっているわ」
三人の話を聞きながら、ハシリウスはしみじみと言う。
「けれど、こんなふうに勉強したり、訓練したり、お菓子を食べたり遊んだりできるのって、本当にいいよな。ここしばらく『闇の使徒』たちもおとなしくしているし」
「そうだね、考えてみればギムナジウム2年生の途中から、いろんな事件に首を突っ込まざるを得なくなって、タイヘンだったよね」
ジョゼもしみじみと言う。
「うぅ……その『事件』の中に私のことも含まれているのが済まないです」
ティアラが耳をだらんとさせてしょげる。
「あ、それは気にしなくていいよ。ティアラはとってもいい仲間だもん」
ジョゼがそう言ってニコッと笑う。
「私も何回か巻き込まれたけれど、今ではいい思い出よ。もちろん、『いい思い出よ』って言えるのもハシリウスくんのおかげだけれどね? だからジョゼやソフィア姫に飽きたら、いつでも私に乗り換えてね? ハシリウスくん」
アンナが再びハシリウスにモーションをかけると、ジョゼがまた
「だーかーらー、ボクのハシリウスに目の前でモーションかけるなって言ってるのに。アンナ、わざとでしょ?」
そうふくれると、アンナはくすりと笑って言う。
「ふふっ、否定はしないわ」
ハシリウスは苦笑するしかなかった。
★ ★ ★ ★ ★
ヘルヴェティア王国からはるか北、夏には太陽が沈まず、冬には太陽が顔を出さない地域。大地は凍り、根雪は白く、そして吹きすさぶ風は肌を突き通すほど冷たい……『闇の帝王』と自称するクロイツェン・ゾロヴェスターの『黒魔術師の国』は、そんな地域にあった。
クロイツェンは、ブリザードのような声で、居並ぶ臣下に言う。
「グローリウス、カレイジウス、セントリウス……余が力を取り戻すたびに、星読師ペンドラゴンの一族が余の邪魔をしてきた。セントリウスも老い、その子のエンドリウスはさしたる功績もなく、今度こそは余の念願である『闇を基調とした魔術師の国』がこの世界を席巻するだろうと期待していたが……」
クロイツェンはそこで言葉を切り、臣下を端々まで見渡して
「……期待していたが、ハシリウス・ペンドラゴンという小僧が現れおった。すでにハシリウスとその与党によってわが臣下たちも半減している。これは由々しき事態だ」
そう言ってため息をつく。
「そこで、その方たちに訊きたい。余自らその方たちを率い、ヘルヴェティア王国の中核に突進して、ハシリウスたちと乾坤一擲の決戦を行うか、軍団を再編成するためにしばらくハシリウスたちを放っておくか、余自身がハシリウスと話し合い、お互いの妥協点を探るか……いかようにも意見を述べよ」
クロイツェンがそう言うと、臣下たちに動揺のざわめきが広がる。その中で、サッと手を挙げた者がいた。四天王筆頭のティターンだ。
「前回、セントリウスの攻撃を受けた時、こちらは四天王、12夜叉大将、36部衆の揃い踏みでした。我らは善戦したといっても、最終的にはクロイツェン様を封じられてしまいました。今、南の天王シュールはなく、12夜叉大将も半分に、そして36部衆に至っては三分の一になっています。相手はセントリウスを凌ぐ『大君主』、ここは再編成をすべきかと思います」
すると、猛将である12夜叉大将の一人タナトスが手を挙げて言う。
「私とマルスル、イーク、リングでヘルヴェティア王国を滅ぼして見せます。出陣のご命令を」
すると、くすくす笑いながら厩将クリスタルが手を挙げて言った。
「今は再編成の時期です。ハシリウスには元星将で別格夜叉大将のカノープスも敗れました。また、『冥界の大賢人』たるナディアも消滅させています。ナディアに至っては女神デーメーテールの力を使っていたのに、ハシリウスに敗れました。それが『大君主』の実力です。甘く見ない方がいい」
「他の夜叉大将たちの意見はどうだ? 今ハシリウスと戦って勝算があるものは挙手してみよ」
『闇の知恵の賢者』バルバロッサが訊くと、タナトス以外には誰も手を挙げる者がいなかった。バルバロッサはうなずいて言う。
「私もクリスタルと同意見だ。ただ、黙って手を拱いていてもつまらない。そこで、シュビーツを魔物の大軍に襲わせようと思う。その中で力あるものは36部衆や12夜叉大将に取り上げればいい」
バルバロッサの意見を聞いて、クロイツェンはうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
『闇の軍団』は再び動き始めた。しかしそれは、決戦を意図したものではなく、あくまでヘルヴェティア王国を攪乱するためだった。
まず、タナトスとリングの軍団6万が、ヘルヴェティア王国の北西にある『イスの国』に駐屯した。ここは、20年ほど前からクロイツェンの支配下にある国だ。
そして、ヘルヴェティア王国の入口に当たるゲルマニアン地方に、マルスル、イーク、デイモンそしてクリスタルが12万の軍団を展開させた。
この配置をヘルヴェティア王国の側から見ると、『闇の軍団』の本格的侵攻が今にも起こるような状況だった。当然、ゲルマニアン地域に近い『下の谷』と『ウーリの谷』は緊張した。それぞれの領主であるネストル・アカイアクスとベレロフォン・イオニアクスは急遽所領に戻り、それぞれ地方軍を最大限の3万まで動員して、もしもの事態に備えた。
さらに、『下の谷』にはペリクレス、テミストクレス、アイネイアス、レオニダス、ヒッパルコスを、『ウーリの谷』にはアキレウス・オストラコン、イカロス、ウルバヌス、エパミノンダス、オデュッセウスを、それぞれ1万の正規軍を率いさせて派遣した。
当然、摂政ソフィアもこの緊急事態への対応に大わらわで、大賢人ゼイウス、大元帥カイザリオンは常に政務棟に寝起きし、事態の急変に備えていた。
「おじい様、緊急の呼び出しは何事でしょう」
ハシリウスは、久しぶりに『蒼の湖』の辺にあるセントリウスの隠棲小屋を訪ねた。
「おお、よく来たなハシリウス。ジョゼ嬢ちゃんもティアラ姫も、ゆっくり座りなさい」
「はい」「お邪魔します」「失礼いたします」
三人は、セントリウスに促されるままに椅子に腰かける。セントリウスはそれを見ると笑って戸棚からコップと木の実のジュースを取り出す。ジョゼとティアラはすぐに席を立って、セントリウスを手伝った。
「お手伝いします」「私も」
「おお、それではせっかくだからお嬢さん方にお願いするとしようか。ハシリウス、これからお前は辺境に行くのだから、お嬢さん方のお世話がなくても何でもできるようになっておかないといかんぞ」
セントリウスは笑ってそう言いながら、ハシリウスの前に腰かける。
やがて飲み物が配られ、ジョゼとティアラが席に着くと、セントリウスは愛用のパイプを取り出して煙草を詰め、火をつけた。ゆっくりと紫煙が立ち上る中、セントリウスはそれをしばらく見つめていたが、やがてハシリウスに訊いた。
「今、『イスの国』とゲルマニアン地方に展開した『闇の軍団』を何と見る?」
ハシリウスはうなずいて答える。
「十中八九、陽動です。クロイツェンが乾坤一擲の勝負を狙っているのなら、残る夜叉大将の7人をすべてゲルマニアン地方に展開させると思います」
「うむ、わしも同意見じゃ。特に主将であるヤヌスルや、闘将リングと狂戦士タナトスを外しているのがその証拠じゃ。わしがクロイツェンの立場なら、タナトスを先鋒にイークとマルスルを両翼として、その後ろにリング、ヤヌスル、クリスタル、デイモンと言う布陣で突っ込ませるはずだからのう」
セントリウスはうなずいて言うと、さらに
「……じゃから、今の状況はさして心配するには及ばぬ。クロイツェンとて、ナディアを消滅させたそなたの力を見誤るはずはないからのう。とすれば、奴は何を考えているのかじゃ」
そう、パイプをふかしながら言う。ハシリウスは少し考えていたが、
「僕と話をする下準備かも知れませんね」
ハシリウスは、クリスタルと名乗った夜叉大将のことを思い出して言う。あの夜叉大将は、他の者と違って誠意というものを感じさせた。
セントリウスは笑ってうなずくという。
「うむ、わしも半分はそう思う」
「あとの半分は、何でしょうか?」
ハシリウスが訊くと、セントリウスは真剣な顔に戻って、ハシリウスに教えるように
「ハシリウス、何事も最悪のことを考えるとよい。正規軍のほとんどが首都にいない現在で最悪のことは何か?」
「……この『風の谷』に何かを起こすことでしょうか?」
話を聞きながら考えていたティアラが、耳を立てて言う。セントリウスは笑って言った。
「さすが、大君主の知恵を補佐する月の乙女じゃ。軍団が国境近くに張り付いている今、この『風の谷』で何かを起こせばよい。国境の軍団がそれに応じてここに戻れば、マルスルたちの軍団は時を置かず『下の谷』と『ウーリの谷』を襲うじゃろう。ハシリウス、そなたももうすぐ辺境に旅立つ身、今後出会う者がすべてお前と同じ善人でお人好しで曲がったことが嫌いだとは思わないことじゃな」
「肝に銘じておきます」
ハシリウスが答える。それに満足そうにうなずくと、セントリウスは言った。
「おそらく、奴らは『風の谷』に魔物の大軍を送り込もうと考えているのじゃろう。その数がどのくらいかは分からぬが、もし10万を超える数であれば、ハシリウス、そなたの出番じゃ」
「じゅ、10万ですか?」
ハシリウスが驚く。しかしセントリウスは涼しい顔で言った。
「『ウーリの谷』では2万の軍勢を消滅させたと聞くぞ? そなたなら大丈夫じゃ。そなたの力なら、一人で『究極結界魔法』を張れるじゃろう」
「えっ! 僕一人で『究極結界魔法』をですか?」
驚くハシリウスに、当然のような顔をしてセントリウスは言う。
「当たり前じゃ。魔物自体をやっつけてもキリがない。魔物はどこから送り込まれてくるか分からん。当然、その『次元の穴』を見つけて一つ一つ潰していくよりも、『究極結界魔法』で一度に、そして半永久的に締め出す方が理に適っている」
★ ★ ★ ★ ★
「ヘルヴェティア王国の正義軍は、そのほとんどが『下の谷』と『ウーリの谷』に集結しました」
厩将クリスタルは、その報告を聞くとニコリと笑って言った。
「では、作戦を開始しましょうか。けれど、ハシリウスはこれくらいの策には引っかからないと思いますが」
そのころ、ソフィアは執務室の椅子にぐったりと座り込んでいた。ここ数日、来る日も来る日も前線からの報告と会議でほとんど寝ていない。国境付近に展開している『闇の軍団』がいつ攻め入ってくるかと考えると、夜も寝られないのだ。ソフィアは初めて、女王たる母の苦悩と、責任の重さを全身で感じていた。
そう言えば、ハシリウスとも会っていない。大君主たるハシリウスならば、今回の事態についても何かいい意見を出してくれるかもしれないと思うと同時に、ハシリウスその人に会いたいという気持ちも、もはや我慢しきれそうになかった。
「ハシリウスに会いたい……」
ソフィアは椅子からずり落ちそうになりながら、そうつぶやいた。その時、ドアがノックされた。ソフィアはすぐに姿勢を正し、
「入りなさい」
そう言う。その声は疲れ切っていた。
「ソフィア、ちょっと話があるんだ」
そこに、会いたくてたまらなかったハシリウスの顔が見えた。ソフィアは疲れも忘れて立ち上がり、何を考える間もなくハシリウスに抱き着いてしまう。
「ハシリウス! よく来てくださいました」
「わっ! ソフィア。どうしたんだい、君らしくないぞ?」
ハシリウスは小さなソフィアの身体をしっかりと受け止めた。ソフィアは銀の瞳を持つ目に涙を浮かべて言う。ソフィアは少し取り乱しているようだった。
「私、怖いんです。臣下の前では毅然としていないとって気を張っているんですが、一人になると今にも『闇の軍団』が攻め込んできそうで……ハシリウス・ペンドラゴン様、何とかしてください」
その時ハシリウスは、ソフィアの小さな身体は抱えきれないほどの責任と不安と苦悩で押しつぶされそうになっていることを知った。
「そうか、怖かったんだね。頑張ったねソフィア」
「うん、うん……ひっく、うええん……」
ハシリウスは、しばらくそのままソフィアの髪を優しくなで続けた。ハシリウスに抱き留めてもらい、髪をなでてもらって、ソフィアは少し落ち着いてきた。
ハシリウスは優しくソフィアの髪をなでながら、うなずいて言った。
「落ち着いたかい? 僕はおじい様と今後の方策を話し合ってきた。だから心配しなくていいよ、ソフィア」
すると、ソフィアは真っ赤な顔でゆっくりと身体を離して言った。
「ありがとうハシリウス。座って話を聞かせて?」
「あの……ボクたちも入っていいかな?」
そこに、ジョゼとティアラが顔を出す。ソフィアは顔を真っ赤にして言った。
「えっ、えっ? ジョゼ、ティアラさん、いつからそこにいたんです?」
するとジョゼはニコリとして言った。
「最初からだよ。でも、ソフィアの大変さに免じて、ボクのハシリウスに抱き着いたことは見逃してあげるよ」
「……ありがとうございます。ジョゼ」
「え? 『究極結界魔法』を?」
ソフィアが驚いた顔をして言う。この魔法は超々S級魔法の一つで、今までヘルヴェティア王国の危機に際し何度か発動された記録はある。しかし、ここ百年ほどは発動されておらず、『幻の魔法』の一つであった。
その方式は、六芒星魔法陣の頂点に賢者級の魔法使い六人が位置しないと発動しないと言われている。それをハシリウスが自分一人で発動させるというのだ。
「うん、魔物の大軍には正規軍と12星将で当たってもらう。この魔法はかなりの魔力と時間がかかるらしいから、日月の乙女たちは僕の護衛だね」
ハシリウスはこともなげに言うと、ソフィアに笑いかけて言った。
「こいつを張れば、僕が生きているうちは、ソフィアはもう外敵には心配しなくて済むようになる。だから、ぜひやらせてくれ」
ソフィアは、喜びを顔に表してうなずいた。
摂政ソフィアの指示は、その日のうちに国境近くの軍団まで届いた。
「王都に何があっても、正規軍は地方軍と協力してヘルヴェティア王国の国境を守り抜きなさい」
また、王都に残った第5軍団長オルフェウスと、第10軍団長アガメムノンは、
「王都にどのようなモンスターが、どれほど現れようと、正規軍はその武勇にかけて市民を守り抜きなさい。私たちには大君主ハシリウス卿がついています。大君主の力を信じて戦い抜きなさい」
というソフィアの強い意志を受けて、
「よし、いついかなる時でも出撃できるように手はずを整えよう。アガメムノン、どちらの軍団がより多く敵を倒すか、競争だ!」
「おお、望むところだ。わが軍団こそ最精鋭であることを、国中のみんなに知らしめてやるぜ」
と、指揮官から兵士まで、腕を撫していた。
そのころ、王宮では
「よし、これで準備ができた」
ハシリウスは、執務室の床に六芒星魔法陣を描き上げると、真剣な表情でソフィアたちに言った。
「この魔法は、おじい様から魔法体系図を見せてもらったばかりで、僕自身一度も練習したことがない。だからどれだけ時間がかかるか分からないし、その間は当然、僕は動けない」
そこでハシリウスは、星将シリウス、デネブ、ベテルギウス、アークトゥルス、トゥバンらを見て言った。
「星将シリウスたちは、正規軍とともに、モンスターたちを蹴散らしてほしい」
「任された。心配するな大君主よ。俺たち5人で50万は軽い」
星将シリウスは蛇矛を担いでニヤリと笑うとその場を離れる。他の星将たちも口々に
「さーて、どれだけやってくるか楽しみだね」
「久しぶりに私の剣も活躍できそうだな」
「できる限り効果的に倒す方法を考えよう」
「シリウスはん、わても手伝いますから」
そう言いながら持ち場につく。
「ジョゼとティアラは、この部屋を守ってくれ。何人たりとも中に入れるなよ?」
ハシリウスがそう言うと、ジョゼやティアラはそれぞれ『太陽の乙女』と『月の乙女』に変身し、
「任せて。それよりハシリウスも無理しないでね?」
「では、ルナも頑張ります!」
そう言って部屋の外に出た。
「あの、ハシリウス。私は何をすればいいのでしょうか?」
ソフィアが訊いてくる。ハシリウスは笑って言った。
「私の魔力が足りない場合は、王女よ、そなたの魔力を借りることになるだろう。だからここにいてもらった。私から離れるなよ?」
そう言うと、ハシリウスは魔法陣の上に立ち、神剣『ガイアス』を抜いて呪文を唱え始めた。
「よし、皆の者、ヘルヴェティア王国の首都を恐怖のどん底に叩き落とせ!」
厩将クリスタルは、『風の谷』のほぼ中心にある首都シュビーツを取り囲むように『次元の穴』を100カ所も開けると、そこから次々とモンスターたちを『風の谷』に送り込み始めた。その種類は、グリズリをはじめとしてヴォルフ、キマイラ、ゴートなど様々で、その数も第一陣だけで100万を数えた。
「来たぞ! アガメムノン、シュビーツ河の西側は任せたぞ!」
第5軍団を率いてオルフェウスが叫ぶと、
「おうっ、そちらこそ東側を抜かれるなよ?」
第10軍団を進発させながらアガメムノンが笑う。
ここで出撃したのはこの2個軍団だけではない。
「いいか、我々が首都の最後の楯だ。一匹たりとも町の城壁を越えさせるな!」
全身を赤の軍装で固めた“緋色の悪魔”クリムゾンは、御林軍の中から選抜した200人を率いて、東の城門前で隊列を組んでいた。
同じように、
「ここは絶対に守り切るわよ!」
王宮騎士団員養成所長となっていたエレクトラ・エレクシスも、御林軍300人を率いて西門前で隊列を敷いていた。
「くそっ、数が多すぎる!」
前線では、星将たちがモンスターの海の中で奮戦していた。特に星将シリウスとデネブは当たるを幸いなで斬りにし、4闘将の名に恥じない戦いぶりを見せていた。
しかし、モンスターは倒しても倒しても、雲霞のように湧いてくる。それでもシリウスは、
「ハシリウスと約束した。俺は絶対にここを引かん!」
と、周りをモンスターに囲まれても、蛇矛を振り回し、『煉獄の業火』を振りまきながら奮戦していた。
「シリウス、シリウス! ここはもう破られるよ。早く少し下がって!」
星将デネブがそう叫ぶが、シリウスはその声も聞こえないように獅子奮迅の戦いを続けている。
と、敵の一隊が、不意にシリウスの後ろから攻撃を始めた。
「危ない!」
デネブが悲痛な叫びを上げた時、
「まったく、聞き分けのない奴は困ったもんだな」
「それが闘将筆頭と来た日にゃ、さらに困るな」
「敵に討たせるわけにはいかんからな」
と、巨大な青龍偃月刀を抱えた星将アンタレス、長大な穂を持つ槍を構えた星将アルタイル、そしてアイアンナックルを両の拳にはめた星将レグルスが現れ、シリウスの後ろを取った敵の部隊に突っ込んで行った。
「どけどけ! 道を開けろ! 『紅炎偃月』!」
星将アンタレスがその偉大な青龍偃月刀を振り回すと、モンスターの首や手足が宙を舞う。
「雑魚は引っ込んでろ! 『風の通い路』!」
星将アルタイルの槍で、敵陣にはぽっかりと穴が開く。そこに星将レグルスが飛び込んで、
「命が惜しくないか! 『王者の牙』!」
と、その卓越した体技でモンスターたちを吹き飛ばす。
「よかった……あとはハシリウス、アンタに頼むよ」
星将デネブはそう言うと、自分もシリウスを助けに双刀を回して突っ込んで行った。
『風の谷』は、首都シュビーツを中心にモンスターに囲まれてしまっていた。
しかし、軍団や星将たちの活躍により、まだ町の中に突入できたモンスターはいない。この時点でモンスターの数は800万を超えていたにもかかわらず、である。
「女神アンナ・プルナよ、大君主の祈りを聞き届け、我にすべての災厄と害悪を払う力を与えたまえ……キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ……」
ハシリウスが祈り始めてもう2時間近くになる。ハシリウスの身体からは青白い魔力が噴き出て、それが六芒星魔法陣に吸い込まれて行く。魔法陣は少しずつ光を放ち始めているが、まだその力を開放するまでには至っていない。
「ハシリウス……」
ソフィアはハシリウスの腕の中で、恐るべきハシリウスの魔力のほとばしりを感じていた。けれど、いかにハシリウスが大君主であろうと、その魔力には限りがある。ソフィアは、額から汗を流して一身に祈り続けているハシリウスを見て、急に胸が締め付けられるような思いに捉われた。
「ハシリウス、私にも協力させてください」
ソフィアが言うと、ハシリウスはチラッとソフィアを見てうなずいた。途端にソフィアはパッと顔を輝かせて、ハシリウスと共に祈り始めた。
「女神アンナ・プルナよ、大君主の祈りを聞き届け、彼にすべての災厄と害悪を払う力を与えたまえ……キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ……」
すると、明らかに六芒星魔法陣に流れ込む魔力の量が増え、魔法陣は急速に輝きを増していく。
――もうすぐ、もうすぐ『究極結界魔法』が発動する……?
ソフィアはそう思うと同時に、ぐらりと身体が揺れるのを感じた。いけない、こんな時にこんな所で気を失うわけには……。
“ソフィア王女よ、もうよい”
心の中に大君主ハシリウスの声が響く。するとソフィアは、急に身体が浮くのを感じた。そしてそのまま椅子へと運ばれ、そこにゆっくりと座らされる。ハシリウスの遠隔魔法であった。
ハシリウスは、ソフィアを魔法陣から出すと、光り輝く円陣の中
「女神アンナ・プルナよ、大君主の祈りを聞き届け、我にすべての災厄と害悪を払う力を与えたまえ……キリキチャ、ロキニ、ヒリギャシラ、アンダラ、ブノウバソ、ビジャヤ、アシャレイシャ、マギャ、ホラハ・ハラグ、ウッタラ・ハラログ、カシュタ、シッタラ、ソバテイ、ソシャキャ、アドラダ、セイシュッタ、ボウラ、フルバアシャダ、ウッタラアシヤダ、アビシャ、シラマナ、ダニシュタ、シャタビシャ、ホラバ・バツダラヤチ、ウタノウ・バッダラバ、リハチ、アシンビ、バラニ……」
そう、最後の呪文を唱えた。その途端、魔法陣から昼をも欺くような青白い光とともに、大きな炎が燃え上がった。
「……悪しき者よ、女神の御稜威の前にひれ伏せ! ノウキシャタラ・ニリソダニエイ、閉じよ!『究極結界魔法』!」
ハシリウスはそう叫んで、魔法陣の真ん中に神剣『ガイアス』をドスンと突き立てた。
「ああっ!」
ソフィアは思わずそう叫んだ。それほどの圧力が一瞬にして身体を突き抜けたのだ。魔法陣から放たれた光は、一瞬にして国境へと届き、その途中にいるモンスターたちすべてを一撃で薙ぎ払った。
「これは……」
衝撃でよろめいたクリムゾンは、地面から無数の金色の光の球が湧き上がるのを見て、言葉を失くした。それはアンナも、アマデウスも、そして国中の人々がそうだった。
その光は、暖かで、清浄で、そして厳かだった。大地や空や、そして風や木々がその光に震え、さらにその響きを増大してゆく。やがて国中が『命の光と響き』に包まれた。
「これが、『究極結界魔法』……」
ソフィアも、ジョゼも、ティアラも言葉を失っていた。
『蒼の湖』の辺に建つ小屋の中では、セントリウスと賢者キケロが向かい合って座っていた。ここは二人の大賢者がいるので、モンスターなどは半径1キロ以内にも入って来られなかった。
「おう! 『究極結界魔法』」
賢者キケロは、大地から湧き上がる光の球の群れを見て、感嘆した。そのキケロを見つめて、セントリウスは静かに笑って言った。
「ハシリウスも、立派になったものじゃ」
どこか寂しそうな笑いだった。キケロは自分の師匠であるセントリウスの翳に気付き、痛ましそうな眼を師匠に当てて訊く。
「猊下、もう逝かれますか?」
するとセントリウスは笑って答えた。
「人間の宿命じゃ。12星将たちはもう、ハシリウスの下におる。後のことは、キケロ、お主に任せる」
賢者キケロは、笑いながら消えてゆく自分の師匠に、涙を流しながら頭を下げた。
エピローグ 旅立ちの歌を口ずさめ
「いよいよ出発しますか?」
新暦824年土の月1日、ソフィアはヘルヴェティカ城の正門で、旅姿の三人を見送りに出ていた。
『究極結界魔法』が張られたあの日、ハシリウスは一時、魔力の枯渇で人事不省に陥った。ソフィアが驚いてジョゼとティアラを呼んだが、二人にも手の施しようがなかった。
取り乱すソフィアを救ったのは……
『ふふっ、いい眺めですこと』
そう言って現れたのはナディアだった。思わず三人とも身構える。
「ナディア、今ハシリウスを渡すわけには参りません」
ソフィアがそう言うと、ジョゼとティアラがハシリウスをかばうようにして立つ。それを見たナディアは、くすりと笑って言った。
『私はハシリウス様を助けに来たのです。ソフィア姉さまとハシリウス様の間に、私が生まれ変わることになっていますからね』
そう言うと、ナディアは手のひらを広げ、『生命力の結晶』を取り出し、ハシリウスの胸の上においた。
『これでハシリウス様は息を吹き返します。ソフィア姉さま、ハシリウスに伝えてください。『特異点』は旅の中で見つかるだろうと』
そう言うと、ナディアは消えていった。穏やかな微笑みを残したまま。
「ハシリウス、くれぐれも気をつけてください」
ソフィアは最後にハシリウスにしっかりと抱きつき、そう言った。ハシリウスは笑ってソフィアに言う。
「君は、いつも僕のことを守ってくれているんじゃなかったのか? 君こそしっかりするんだ。僕たちが『大いなる災い』を食い止めて、クロイツェンを封じるまで。僕はきっと帰ってくる」
「はい、信じています。ハシリウス・ペンドラゴン様」
ソフィアの言葉を聞いて、ハシリウスは最後にとびきりの笑顔を見せ、ジョゼとティアラを振り返って言った。
「行こう、僕たちの未来を切り開くんだ」
ジョゼとティアラは、ニコニコしてうなずいた。
(星読師ハシリウス[王都編]完)
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました! 感謝感激です。
途中、3年もの間、私事により筆を絶たざるを得なかったのですが、ハシリウスくんの物語は「完結させなきゃ」と心の何処かにいつも引っかかっていました。
もしかしたら、最初の段階からずっと読んでくださっていた方がいらっしゃるかもしれませんが、そんな方々には「お待たせしました」の言葉と、読んでいただいたすべての皆様に「ありがとうございました」を伝えたいと思います。
ハシリウスくんの物語は、エピローグのとおり、終わったわけではありません。むしろ今までの「王都編」は、壮大なプロローグだったといえるでしょう。
ですから、そのうちに『星読師ハシリウス[辺境編]』を書いていきたいと思います。
その時まで、いったんさようなら。