カルテNO5 本編010 老人(中編)
消灯時間になり、静まり返った病棟。
時折聞こえる看護師さんが廊下を歩く足音以外は、音という音がしないので、世界にたった一人になったような感覚になる。
それは、あの日感じたそれに似ていた──
◇◆◇◆◇
雨の中、傘も差さずに家へと向かう俺。
「珠代。今行くからな!」
一時間程前のこと。
職場に掛かってきた電話はお袋からだった。
我が子に向かって崩れそうな材木に気付いた珠代は、必死で我が子を抱きしめ崩れてくる材木から守ったというのだ。
下敷きになった珠代は意識がないとのこと。
息子はかすり傷程度ですんだようで、今は眠っているらしい。
「見えた! 珠代! 珠代っ!」
足元は泥まみれ、服も頭もびしょ濡れ、息も絶え絶えたどり着いた家の中は、重く静かな空気が張りつめていた。
「……珠……代? お袋? 何で……珠代の顔に、布なんか被せてんだよ」
布を取ると、珠代の名を呼び身体を揺すってみるものの、目を開くことはなかった。
「……死んだみたいに……寝てるだけなんだろ? 珠代。俺……まだまだ珠代と一緒にしたいことがたくさんあったんだよ」
「徳次郎、あんたしっかりするんだよ。珠代をキチンとあの世へ送ってやらないと」
お袋に言われてもそんな気になれず、父が葬儀の準備を始めていた。
横を見れば、すやすやと寝息をたてている息子。
「俺や息子を置いてあの世なんて行きたくなかっただろうに。珠代、この先、俺はいったいどうしたら良いんだ? なぁ、珠代。俺を置いていくなよ」
「しっかりしなさい!」
頬への衝撃とともに、俺は倒れた。
「こんなもんじゃなかったんだろう。珠代の痛みは……こんなもんじゃ……」
「徳次郎! お前がそんなじゃ、その子はどうなる! 悲しむなとは言わない。私だって珠代は実の娘のようにかわいがっていたんだ! 珠代が命をかけて守った子供だ。あんたがあの子を立派な大人に育てないでどうするんだ!」
お袋に叱られた──
◇◆◇◆◇
数日後、葬儀の日──
俺は未だに、珠代の死を受け入れることが出来ずにいた。
息子は“眠ったまま”の珠代を不思議そうに見ている。
「まぁま〜」
珠代の身体に寄り添い、甘えたい様子でママと呼び続けている息子。
その光景に、葬儀の参列者も悲しみを堪えきれず、すすり泣く声だけが、世界を染めていった。
「……ママは、もう起きないんだ」
そう伝えるも理解できない息子。
「まぁま、ねんね」
息子の言葉が響く。
「……違うんだ。ママは……もう…………」
先の言葉を紡ぐことが出来ず、死んだという言葉を使いたくもなかった。
お袋が息子を抱き上げ何かを話している。
「ばぁば」
お袋に向かってキャッキャ笑顔を向けている。
俺は珠代の元へ歩み寄り、冷たくなった頬にそっと触れながらこう言った……。
「珠代……約束するよ。明日からは、お前のことを思い出すとき泣くのをやめる。約束する。生涯珠代のことを忘れないと。約束する。あの子を、必ず立派に育てあげることを。約束する。いつか……いつか俺も……珠代の元に行くからな」
珠代への約束を俺は胸に刻むと、生きたかったであろう珠代の意志を継ぎ、生き抜いてやると誓った。
そして、葬儀から数日後──
あの日以来俺は、息子を立派に育て上げるために必死で働き、珠代の分まで息子との時間を過ごすように努力した。