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俺様日記~1学期~  作者: 清野詠一
44/53

喪失の日 ①



★7月12日(火)


 ピピピ……と耳障りな電子音を立てる目覚し時計を止め、俺はゆっくりとベッドから起き上がる。

カーテンの隙間からは、既に真夏を思わせるような強い陽光が射し込んでいた。


「……朝か」

俺はベッドから這い出て、パジャマを脱いで洗い立てのパリッとした半袖の制服に着替える。

そして部屋を出て階下へ赴き、まずは洗面所で顔を洗う。

鏡に映るは、思ったよりもハンサムだけどどこか不機嫌そうな自分の顔。


「ふむ…」

ブラシで軽く髪を梳きながら、俺は溜息を一つ吐いた。

「僕は一体……誰だ?」



<喪失の日/いつもと同じ日常…?>


キッチンでお湯を沸かしながら、俺は冷蔵庫の中から食パンを取り出し、それをトースターに放り込んだ。

そして壁に掛かった時計を眺め、

「7時48分。……僕ちゃん、絶賛記憶喪失中」

と呟き、独り苦笑。


いやはや……

本当に、何が何だか分からない。

自分の名前が神代洸一であると言うことと、地元の中堅高校に通う二年生で今は理由わけあって一人で暮らしていることぐらいは何とか思い出したというか、それとなく理解できたが……それ以外はサッパリだ。


「しっかしまぁ、なんちゅうかねぇ……」

普通、漫画やドラマに出てくる記憶喪失って言うのは、例えば自分の付き合ってる恋人とか……だいたいがヒロインが演じる役ではないか。

それがよもや、朝起きたら自分自身の記憶が失われているとは……これはもう、予想外だ。

これだから現実はシビアであり面白すぎる。


「更に不思議なのは、それでも全く動じていない自分だな」

俺は沸いたお湯でインスタントのコーヒーを作りながら、自嘲気味に呟いた。


我ながら、この状況で平然としているのが少し恐ろしいぐらいだ。

普通なら、驚き慌てて救急車的なものを呼んだり何だりで、のんびり朝食を摂っている暇などは無い筈だ。

なのに何故、自分はこうも落ち着いているのか……

神代洸一なる男は、常にこうも冷静沈着な男なのか?

それとも単に、何も考えていない呑気なだけの性格なのか……

記憶が消去しているので、何も分からない。


「まぁ、今日一日過ごしてみて、治らなかったら病院へ行こうかねぇ」

自分の事なのにまるで他人事のように呟きながら、俺はこんがり焼き上がったパンにバターを塗っていると、玄関先からピンポーンとチャイムの音。

「ん?誰だ?こんなに朝早く……」

俺は椅子から立ち上がろうとするがそれよりも早く、どうやって鍵を開けたのか非常に謎だが、パタパタとスリッパの音を靡かせ、

「えへへへへへへ~♪おはよう、洸一っちゃん♪」

いきなり女の子が現れた。


「あ、その……おはよう」

取り敢えず、俺も挨拶を返す。


一体この女の子は……誰だ?

目の前に突如現れた娘さんを眺め、俺は少しだけ首を傾げる。

愛らしい熊のイラストがプリントされたカチューシャを頭に付けた可愛い女の子だが……どうにも思い出せない。

同じ学校の生徒だと思うが……何故、朝早くから俺の家に上がり込んでいるのだろう?

そして何故、俺は自然に拳を固めて臨戦態勢を取ろうとしているのか……全く謎だ。


「っもう、それにしても昨日は本当に驚いたよぅ」

その女の子はプゥ~と頬を膨らませ、どこか怒ったように俺を睨み付けた。

そんな仕草がかなり可愛く、思わずドキッとしてしまう。

「二荒さん達の合コンを店ごと破壊した挙句に脳震盪で病院へ担ぎ込まれるなんて……私はもう、情けなくて涙が出てくるよ」


「す、すんません…」

取り敢えず、素直に謝る俺。

しかし……なんだ?

店ごと破壊した?

誰が?

この俺が?

おいおい……マジですか?

良く分からんけど、俺ってそんなに破天荒で無頼漢なのか?

もしかして、職業は高校生じゃなくてテロリスト?


「でもまぁ、ちゃんと反省しているみたいだから、別に良いけどね」

その女の子はそう言うと、いきなりどこか艶かしい……と言うか、心の奥の警報が鳴り響くような妖しい笑みを溢しながら、

「ねぇ洸一っちゃん。もしもさぁ、私が知らない男の子と合コンとかしたら……洸一っちゃん、怒ってぶっ潰しに来てくれる?」


……なんと答えたら良いのだろう?

そもそも、合コンを潰すなんて……意味が分からない。

常識的に考えて、かなり駄目な行動だろう。

お付き合いしていると言うのならともかく、恋愛は自由ではないか。

ってゆーか、俺ってそんなに、ヤキモチ焼きの情けない男なのか?


「え、えと……」


「ねぇ、洸一っちゅわぁぁん。答えてよぅ」


「そ、そうだな。多分……壊すんじゃないかな?」

俺は作り笑いを浮かべ、無難にそう答えるが……その瞬間、その女の子は何かキツネ的なモノでも乗り憑ったかのようにピョンと大きく跳ね、

「うひッ!!うひひひひひひひひひッ!!」

いきなり高笑い。

今すぐ保健所職員が飛んで来そうなアレな笑い方だ。

この娘はもしかして、残念な子達が集う特殊学級の生徒ではなかろうか?


「っもう、今日の洸一っちゃん、朝から大胆発言だよぅ」


……何がだ?

「そ、そうか」


「でも、そんな洸一っちゃんも偶には良いよね♪うひッ♪うひひひ♪」


「ど、どうも……」

一体全体、この女の子はさっきから何を言ってるのだろうか?

俺の理解を軽く超えている。

こんなに可愛いのに、頭の一部が不自由だなんて……本当に可哀想だ。

いやいや、それよりも……この娘は、俺の何なのだ?

家に勝手に入って来ると言う事は、それだけ親しい間柄と言うことであり……

もしかして彼女……とか?

・・・

おや?何かそんな想像するだけで、背中にブワッと鳥肌が立ったんじゃが……

何でだろうねぇ?



<喪失の日/新鮮な通学路>


俺は俺の家を朝から急襲してきた姓名不詳のその女の子と共に、突き刺すような強い日差しの下、ぶらぶらと学校へと向かって歩いていた。

周りは、同じように学校へと向かって歩く生徒の姿がちらほらと見受けられる。


しっかし、記憶っちゅうのは良く分からんもんですなぁ……

自分のこともよく思い出せないのに、こうして学校へ行く道とかはちゃんと憶えているなんて……何でだろう?


俺はそんな事をボーッと考え歩いていると、不意に背後から、

「おはよう、コーイチ♪」

いきなり肩を叩かれた。

振り返ると、そこには某国民妖怪少年ばりに片目を長い髪で隠した女の子が、笑みを浮かべ立っていた。

これまたかなり可愛い部類に入る女の子だ。

同級生だろうか?


「穂波もオハヨウ♪」

「うん、おはよう智香」

と、挨拶を交わす二人の美少女。


なるほど……

この熊カチューシャの女の子は、穂波ちゃんと言う名前で、こっちの片目隠しが智香ちゃんと言うのか……


「しっかしコーイチ。昨日は大活躍だったみたいじゃない」

智香と言う名前の女の子は、良く言えば陽気で気さくな、悪く言えば頭悪そうな笑みを浮かべ、俺の逞しい胸板を指先で突っ付いてきた。

「まさか合コンに武装して乱入するなんて……さすがコーイチね。あんたの行動は常に斜め上を行くわ」


「ど、どうも…」

と、俺は曖昧に返事をした。


そっか……

やはり俺は昨日、何かとんでもない事件を起こしてしまったのか。

それで、何かしらあって記憶が喪失したと……そう言うワケか。

しかし……なんだな、何故かこの女の子に笑われると、非常にムカつくというか首を絞めたくなって来るんだが……何でじゃろう?


「あれ?どったのコーイチ?なんか……今日はやけに大人しいじゃない?」

智香ちゃんは小首を傾げながら俺をじっと見つめて来る。


「そ、そうかな?」

と、俺は彼女の視線を外すように俯いた。

正直、可愛い女の子に見つめられると少しだけ恥ずかしいと言うか、照れてしまうではないか。


「あ、あれ?やっぱ全然いつもと調子が違う。って言うか、どっか体の具合でも悪いの?頭以外に」

「洸一っちゃんは、洸一っちゃんなりに反省してるんだよぅ」

と、穂波ちゃんと言う女の子は、智香ちゃんに向かってそう言った。


ちなみに言うが、俺は何も反省していない。

何故なら、何も憶えていないからだ。


「反省って……コーイチが?」

智香ちゃんは、髪で隠していない方の目を大きく見開き、俺の顔を覗き込む。

「ど、どうしたの一体?何か悪い物でも拾って食べたの?それとも宗教に目覚めて改心でもした?」


なんじゃそりゃ?

「いや、その……今日は一日、ゆっくりと自分を見つめ直すと言うか……リアルに自分自身を探そうと思ってな」

俺はそう言いながら、智香ちゃんに苦笑交じりの笑みを返した。

と、彼女は不意に頬を桜色に染め、

「な、何よ。変に真面目ぶっちゃって……調子狂うなぁ」

俺の視線を外し、どこか不機嫌そうに唇を尖らせる。


……なるほど。

どうやら彼女は、口は悪いけど根は純情で良い奴みたいだ。

「別に真面目ぶってるワケではないけど……それよりも、さ、一緒に学校へ行こう」


「も、もちろん行くわよぅ…」

彼女は呟き、俺の隣へと並ぶ。

そして穂波ちゃんと共に、3人で学校へと向かうのだが……

可愛い女の子に挟まれて歩いていると、妙に照れてしまう。

正直、かなり恥ずかしい。


むぅ……

いつもの俺と言うのは、こうなのか?

常に女の子を両隣にはべらせている、リア充な野郎だったのか?

どうにも、実感が沸かないと言うか、しっくりと感じない。

俺はもっと……こう、某男だけの塾の漫画に出てくるような、デカい数珠とボロボロの学ランが似合う、プライドと面子で生きている前時代的な硬派な男だったような記憶が……

・・・

ぬぅ……記憶が無い。

そんなカッチョイイ記憶が全く無いではないか。


俺は一体、何者なんだろうか?

学校へ行く途中の大きな公園を横切りながら、真っ青に広がる空を眺める。

現在の所分かっているのは、俺の思考回路及び行動がかなりウェットであると言う事と、この穂波チャンや智香チャンが気さくに話し掛けてくることから推察して、それなりに女の子に人気があるらしい……と言うことだ。

イヂメられっ子でなくて、本当に良かったと思う。

ところで……

俺に彼女って言うのは、いるのかな?

・・・

まさか……この娘達に二股掛けてるって事はないよね?

そんな事するのは最低の男だから……多分、大丈夫だよな。



<喪失の日/校門の怪>


同級生の女の子二人に挟まれ、某『学校の日々』的ゲームのバッドエンドみたいになりやしないかとヒヤヒヤドキドキしながら歩いていると、やがて学校の門が見えてくるのと比例して、学生の数も増してきた。


しっかし……分からん。

俺は唇をキュッと結び、少し難しい顔で考える。

何故、俺の周りに他の生徒は近寄ってこないのだ?


俺と穂波チャン智香チャンの周囲、半径約5メートルだけ、まるで見えないシールドでも張られているかの如く、誰も近付いて来ようとはしない。

しかもそれだけじゃなく、目すら合わせないようにしているし、時々目が合ったと思うや、女の子は脱兎の如く走り去り、男達は無言で会釈して来るではないか。

なんちゅうか……物凄く、疎外されてる感じ。

腫れ物にでも触るような扱いだ。


うぬぅ……

一体、俺の学園生活というのは……どんなモノだったんだ?

状況を鑑みるに、普通とは程遠い生活を営んで来たような、そんな気がするぞ。

「でもなぁ……俺って根は優しいタイプだと思うんだけど……」


「ん?何か言った、洸一っちゃん?」

と、穂波チャンが小首を傾げ、ニコニコ顔で俺を見やる。


「いや、別に……ちょっと独り言だよ」

彼女の笑顔に対し、俺も笑顔で応えるが、

「ちょっとコーイチ。あんた、何ニヤついてるのよ」

智香ちゃんが少し、嫌そうな顔になった。


「べ、別にニヤついてなんか…」


「コーイチほど笑顔の似合わない男はいないんだから、もう少しシャキッとした顔をしなさいよ。ただでさえ締りが無いって言うのに」


「ぬ、ぬぅ…」

何故こうも、俺はあしざまに酷い事を言われるのか……

もしかして記憶のあった頃の俺は、彼女、智香ちゃんに対して何か失礼な事を言っていたのだろうか?

だとしたら、ちゃんと謝った方が良いと思うのだが……

如何せん、何を謝ったら良いのか、まだ見当さえ付かないではないか。


うぅ~む、記憶喪失って言うのも、新鮮だけど少し難しいモンですなぁ……

・・・

って、この状況に新鮮味を感じている辺り、自分の性格にかなり疑問を覚えるんだがねぇ。


と、そんな事を考えている内にやがて俺達は学校に到着。

そして校門をくぐるや、

「あぅ、洸一しゃん♪」

少し舌足らずな声に振り返ると、そこにはちょっと背の小さな思いっきり可愛い女の子が、竹箒片手に、こちらの頬まで緩んでしまうようなニコニコ笑顔で佇んでいた。


「えへへへ~♪おはようでしゅ、洸一しゃん♪穂波しゃんも智香しゃんも、おはようでしゅ」


「おはようラピスちゃん」

「ん、おはようラピス」


ほ、ほぅ……

彼女の名前は、ラピス、と言うのか。

物凄く珍しいハイカラな名前だが……ちゃんと役所は受理してくれたのかな?


「や、やぁ……おはよう」

俺もぎこちなくではあるが、そのラピスちゃんなる女の子に挨拶を返す。

しっかし、見れば見るほど可愛い女の子じゃのぅ……

特徴的なお団子ヘアーが、また何とも……

自分で結っているのかな?

それともお母さんかな?


「はゃ?洸一しゃん、ボーッとしてどうしたんでしゅか?」

ラポスと言う不思議な名前の女の子は、首を傾げて俺を見つめてきた。

吸い込まれそうな不思議なその瞳に、俺は何処か心のトキメキを感じながら、

「な、何でもないよ」

と、思わず彼女の頭の上に手を置いてしまう。

それは殆ど条件反射的な、自然な動作だった。


あ、マズイ……

と思ったが、彼女は嫌がる様子は無く、むしろどこかウットリとした顔になっていた。

う、うぅ~む……

チラリと穂波チャンや智香ちゃんを見やるが、彼女達の様子に、何ら変化は無い。

な、なるほど。

つまり俺が、このラピスちゃんの頭を撫でると言う行為は、セクハラではなく至極当たり前な行為に入ると言うワケか。

……何が当たり前なのか、サッパリ分からんが。


俺はクリクリと優しく、ラピスちゃんの髪の感触を楽しむかのように、頭を撫でる。

むぉう……

サラサラして、何て気持ち良いの手触り……

心が何だかほっこりとして来る。

なんちゅうか、まるで犬や猫の頭を撫でている時の気分と言うのか?

こう、優しい気持ちになれると言うか……

ところで、何で猫はネコちゃんなのに、犬はワンちゃんって言うのだろう?


そんなアホな事をボンヤリと考えつつ、俺は更に、ちょっとだけ力を篭めて彼女の頭を愛しげに撫でる。

撫で回す。

ナデリンナデリンと撫でに撫でて……


――ポロリ


「……え?」

いきなり、彼女の頭が首から外れ、地に落ちた。

落ちてコロコロと地面を転がりながら、ラピスちゃんは俺の方を見て微笑む。

「はゃぁぁぁ……最近、首のジョイントが少し緩くなってるんでしゅよぅ。困ったでしゅ」


「……なるほど」

そして俺は、未だ発見されてない未知の獣のような悲鳴を上げたのだった。



<喪失の日/調子外れのシャウト>


「っもう、いきなりあんな大声を上げるんだもん。一瞬、気が狂ったとか思っちゃったよぅ」

廊下を歩きながら、穂波チャンがそう言って俺の後頭部をポコンと叩く。


「いや、その……まぁ……はははは」

俺は笑いながら誤魔化すが、それは仕方の無い事だろう、と思う。

何しろ、いきなり目の前ので可愛い女の子の頭がボロンともげて落ちたのだ。

昨日までの俺にとってはそれこそがノーマルなのかも知れないが、今の俺にはかなりアブノーマルな出来事だ。

驚いて叫ぶのも無理はなかろう。

でもまさか、あのラピスと言う可愛い女の子が最新のメイドロボだったとは……

どうやら俺の周りには、常に不思議がいっぱいのようだ。

記憶が無い分、驚きも数倍である。


しっかし……

穂波チャンに『気が狂った』とか言われると、物凄く反論したいと言うか、何故か彼女の延髄に思いっきり蹴りを入れた挙句にパロスペシャルを極めたくなってくるんだが……

何でだろうねぇ?


さて、そんなこんなで俺は自分のクラスである2Bの教室に到着。

こーゆー記憶は今のところ、ちゃんと残っているんだが……

問題はだ、

「僕の席はどこだろう?」

俺は口の中で呟いた。

何故か不思議と、その辺の記憶が曖昧なのだ。


確か、後ろの方だと言う感じがするんだが……

朧げな記憶を頼りに、並んでいる同じデザインの机を眺めながらゆっくりと移動。

判らない時は、本当は誰かに聞けば早いのだが、朝からいきなり「僕の席はどこ?」と尋ねるのは、かなり怪しい人だ。

この記憶喪失と言う危機的状況をもう少し楽しむ為にも、ここはもうちょっと慎重に行動しなければ。


……むっ!?何となく、この机に見覚えがあるような……


ゆっくりと辺りを見渡しながら移動していた俺は、とある席の一つで足を止めた。

見た目は皆と同じ、何の変哲も無い大量生産の学校専用机だが、心に何か感じるモノがある。

多分、これが俺の席なのだろう。


「さて、と」

俺は机の上に鞄を置き、よっこらせと椅子に腰掛ける。

と、その瞬間、いきなりスパコーンと後ろから頭を叩かれた。

「ぬぉうっ!?な、なんだ?」

慌てて振り返ると、そこには牛乳瓶の底のような分厚いメガネを掛け、投げやりな感じで左右非対称になっているツインお下げ髪をした少女が、腰に手を当て、眉を顰めて立っているではないか。


だ、誰だろう?

メガネを外したら、さぞ美人そうな女の子なんじゃが……


「洸一クンや。朝からしょーもないボケかますなや」

と、その少女は関西弁でそう言うと、もう一度俺の頭をスパコーンとド突いてきた。

かなり年季の入った殴り方だ。

「そこはウチの席やろーが。全く、このアホは……」

そう言って、その女の子は俺を押し退ける様にして椅子を奪い、腰掛ける。


そ、そっか。この席は、この女の子の席なのか……

俺はボーッと突っ立ったまま、何とは無しに彼女を見つめていた。

む、むぅ……なんだ、あの巨大な膨らみは?

同年代と比べても、遥かに発達した乳様を持つ女の子なんじゃが……一体、彼女は誰なんだろう?

名前で呼んでくるし、何の迷いも無く殴るって事は、それなりに親しい間柄なのかな?


「……なに見てんねん?」

その女の子は、横で突っ立てる俺をジロリと見上げながらそう言った。

そして胸を隠すように腕を組み、

「全く、洸一クンは朝から節操が無いっちゅうか……ホンマにスケベな男やなぁ」


「お、俺は別に……」

思わずカァーッと顔が熱くなり、俺は慌てて彼女の胸から視線を逸らした。


「な、なんや?なに照れてんねん?」


「いや、その……ごめん」

思わず謝ってしまう。

と、そんな俺に対し、そのメガネ+乳神様を標準装備した関西弁の女の子は戸惑いを隠そうともせず、

「な、なんや?いきなりゴメンとか言い出してからに……何か変なモンでも食うて、腹でも痛いんか?」


「い、いや、そーゆーワケじゃないんだけど……」


「じゃあどーゆーワケやねん?」

女の子の目が細まる。

「いつもの洸一君やったら、『俺は全日本豊胸監査委員会の会長だから貴重なパイパイに異常が無いか確かめる義務があるのだ。うむ、今日も見事に実ってますなぁ……がはははは』とか戯言を言う筈やろーが」


「……」

それは戯言と言うより、単なるキ○ガイのお言葉だ。

ってゆーか、俺は毎日、彼女にそんなセクシャルな事を言ってたのか……

大丈夫か、俺?


「……まぁエエわ」

その女の子はフンッと鼻を鳴らし、顎をしゃくりながら、

「それよりも、さっさと座ったらどーや」


「う、うん」

と、彼女に促され、俺は反射的に彼女の隣の席へ腰を下ろす。


むぅ……

この椅子の座り心地……何となく、しっくり且つジャストフィット。

多分ここが、俺の席なのだろう。

頭より尻の方がちゃんと記憶しているわい。


「しっかし洸一クンや。今日はお昼ぐらい、奢ってくれるんやろうなぁ?」

臨席のメガネ少女は頬杖を着きながら、キシシシと笑みを浮かべて俺を見やる。

「昨日は慌てて病院へ駆け付けてやったんや。そのお詫びに、お昼ぐらいは奢ってもらわんとなぁ」


「そ、そうだね」


「全く、馬鹿やった挙句にまどかさんにド突かれて病院送りなんて……やっぱ、洸一クンは洸一クンやな」


どーゆー意味だろう?

「その……心配掛けてごめんよ」


「……へ?」


「これからは、もう少し気を付けるよ」


「な、なんや、えらい殊勝やないけ」

と、お下げの少女は厚いメガネの奥の瞳をパチクリとさせた。

そして少しだけ頬を桜色に染めると、そっぽを向きながらブツブツと溢す様に、

「ま、全く……変に真面目な態度を取るなや。なんや、調子が狂うやないけ」


「調子が狂うと言われても……」


「アンタは黙っている分にはそれなりにエエ男なんやから……それじゃ駄目やろーが……」


「え?駄目って……何が?」


「う、うっさいわボケッ!!」


「はぅっ!?」

何故そこでキレる?


「ったく、朝から妙な技繰り出しよってからに……こっちが変に照れるやないけ」


「……はい?」


「何でもあらへんッ!!」

彼女はキッと俺を睨み付ける。

「ともかく、その真面目ぶった態度は止めーやッ!!ム、ムカつくでホンマ……」


「ムカつくって……さっきは照れるって言ってたような気が……」


「あん?」


「……何でも無いですよ」

物凄い顔で睨んで来たので、俺はそそくさと視線を外したのだった。



<喪失の日/休み時間の訪問者>


一時限目が終わり、二時限目も終わっての休み時間。

ここまで何とか大した問題もなく、過ごす事が出来た。

いやはや、意外にバレないもんである。


ってゆーか、バレないのは微妙に寂しい気もするけどなぁ……

そんな事をぼんやりとと考えていると、

「洸一っちゃん、洸一っちゃん」

と、穂波チャンが俺の席へとやって来た。

そして開口一番、

「洸一っちゃん。どっか具合、悪いの?」


「……え?」

おや?バレちゃいましたか?

「な、なんでだい?」


「何でって……」

穂波チャンはチラリと、俺の隣席のメガネ少女と視線を交わすと、

「だって洸一っちゃん、ちゃんと起きてるモン」


「……はい?」


「なに不思議そうな顔してんねん」

と、巨乳少女こと、クラス委員長の伏原美佳心さん。

「いつも朝のHRが終わった瞬間に寝ている洸一クンが、何で2時間目が終わっても起きてるねん。どっか体の具合でも悪いんとちゃうんか?」


「……むしろ体の具合が悪い時の方が寝るんじゃないかなぁ」

俺はポリポリと頭を掻く。

しかし、そっか……俺は毎日、授業をサボって寝ていた駄目人間だったのか。

道理で、授業内容がチンプンカンプンな筈だ。

てっきり記憶障害の影響かと思ったけど……違うみたいだね。


「な、何て言うのか……今日は少し、真面目に過ごしてみようと思ってな」

俺がそう言うと、美佳心さんは呆れたように、

「真面目にって……なんや?遂に生まれてからこれまでの傍若無人な所業を悔い改めようと……そう思うたワケか?」


「い、いや、そんな人生単位の大袈裟な事じゃなくて……」

ってゆーか俺、そんなに荒れた生活をしていたのかな?

物凄い不良ちゃんだったのかな?

その割には、ごく自然に女の子が近寄って来るんだけど……

「何て言うのかさ、偶にはその……少し普通になってみるのも面白いかな、と考えて」


「普通か……」

美佳心さんの目が細まる。

「洸一クンや。アンタ、今度は何を企んでいるんや?」


「……え?別に何も企んでは……」


「嘘やッ!!」


「……」

いきなり断言されてしまった。


「アンタの事や。どーせまたしょーも無い事でも企んでるんやろ?え?そやろッ!!」


「そ、そんなご無体な……」


「なに言うてんねん。そもそも洸一君に普通とか真面目とか……そないなモン、最初からバンドルされてないやろーが。スペックオ-バーもエエ所やで」


酷い言われようだ。

「そ、そうかなぁ?」


「そうだよッ!!」

と、今度はいきなり穂波チャンが吼えた。

そして瞳を爛々と輝かせ、俺の机をバンッと力強く叩くや、

「洸一っちゃん。……誰?」


「……は?」


「今度はどの女の子にちょっかい出そうと思ってるのよッ!!」


「な、何のことですかっ!?」


「洸一っチャンの考えていることぐらい、余裕で分かるよッ!!またどこかの可愛い子に気に入られようと思って、変に真面目なフリをしているだけなんだよッ!!」


「全然、僕ちゃんの事を分かってないような気もするけど……ともかく、落ち着いてくれよ」

俺はガルルルゥと唸っている穂波チャンに優しく声を掛ける。

しっかし、穂波チャンって、こんなに怖い女の子だったんだ……

恥ずかしい話だけど、少し尿意を催してしまったよ。

「え~とね、その……実はね、話せば凄く短いんだけど……」

と、俺は仕方なく、真実を打ち明けようと口を開くがその時、

「あ、洸一」

同じクラスの古河豪太郎クンが声を掛けてきた。

何故だか知らないが、彼のベビーフェイスを見ると尻の穴が無性にムズ痒くなってしまう。

実に不思議だ。


「な、なんだい?」


「いやぁ~……その……二荒さんがさ、来てるよ。洸一に話があるって」

と、古河君は苦笑交じりにそう言って、教室の扉を指差した。


「二荒……さん」

何故かその苗字に、俺の心は騒いだ。


「あ~……遂に来ちゃったな、洸一君や」

美佳心さんがキシシシシシ…と意味ありげに笑った。

「ま、なんや。ちゃんと詫びは入れた方がエエで」


「詫び、ですか?」


「そない心配そうな顔せんでもエエで。な、榊さん?」

「そうだね」

と、穂波ちゃんも不敵に笑う。

「ちゃんと、事が終わったら保健室に連れて行ってあげるから、心配はいらないよぅ♪あ、でも……成層圏まで吹っ飛んじゃったら、どうやって回収すれば良いのかなぁ?」

「その内に落ちてくるからエエんやないか?もっとも、昨日の今日や……成層圏を超えて土星の衛星軌道まで吹っ飛ばされるかも知れんなぁ……キシシシシシシ♪」


「……」

一体、何がどうなると言うのだろう?



<喪失の日/恋の女神が舞い降りて>


な、何だかなぁ……

と、俺は重い足取りで廊下へと出る。

穂波チャンや美佳心さんの言葉から察するに、どうやら俺は昨日、二荒さんと言う女の子に対して、大変な無礼を働いてしまったらしい。

そして何やら厳しい懲罰を受けて来い、と言う事みたいなのだが……


な~んにも、憶えてないんだよなぁ……

俺はトホホな溜息を吐きながら辺りを見渡し、そして思わず息を飲んでしまった。

廊下の窓際に佇む女の子。

陽光に映えるボーイッシュなショートヘアー。

切れ長の目にどこか気の強さを表しているようなやや太目の眉。

すっと通った鼻筋に強く結ばれた桃色の唇。

その端整な顔立ちに、俺の視線は釘付けだった。

目を奪われるとは、まさにこの事だ。


だ、誰だ?

もしかして……彼女が二荒さん?


俺は唾を飲み込んだ。

彼女を見つめているだけで頬は熱くなり、背中にチクチクと何やら痒みが走る。

もちろん、心臓もアクセル全開だ。


ど、どうしたんだ俺?

何て考える間でもない。

この心のトキメキ……紛れも無く、これは恋だ。

ラヴだ。

この俺様、彼女に対してラブってやがるのだ。

もっとも、こーゆートキメキは穂波チャンや美佳心さんにも感じるんだけど……

それに、なんでだろう?

腰から下が、生まれたてか?って感じでガクガク震えちゃってるんだが……


俺は自分のピュアでウブな心理状態に呆れると同時に、このどこか切ない気持ちに歯痒くも半ば楽しさを覚えていた。

これが、恋する男の気持ちなのか……

いやぁ~…なんか、すっげぇ新鮮味を感じるなぁ。

おそらく記憶のあった頃の俺は、自分の気持ちに気付かない、いや……敢えて気付かないフリをしていたのだろう。

理由は分からないが、多分……へそ曲がりだったのではなかろうか?

それとも、誰か特定の女の子に対して恋をすると死ぬ、と本能的に生命の危機を感じていたから……

なーんて事はないか。

恋愛の一つぐらいで死んじゃうなんて、有り得ないよなぁ。

・・・

有り得ないけど、妙に納得しちゃうのが不思議だなぁ。


と、俺が昨日までの自分の事について考えを巡らしていると、

「洸一…」

俺の名を呼び、窓際に佇む女の子、二荒さんがゆっくりと近付いて来た。

彼女との距離が縮まるにつれ、鼓動は破裂しそうなほど早く打ち、喉もカラカラに乾いてくる。

更には何故か尿意及び便意まで催してしまった。


二荒……さん。

脳の奥に、何かチリチリと電流が走ったような気がした。

何か思い出しそう……

今すぐ彼女をギュッと抱き締めれば、失われた記憶が蘇りそう……

なんて事を思うが、それと同時に、『今すぐ逃げ出す。もしくは土下座する』と言う選択肢も生まれて来るから摩訶不思議だ。


「洸一」

二荒さんは黒々とした双眸でジッと俺を見つめた。

そして僅かに首を傾げ、

「その……大丈夫か?」


「……へ?」

彼女の口から出たのは罵倒の言葉ではなく、予想外に俺を心配する声だった。

「だ、大丈夫って……何が?」


「ん。何がって……その……昨日のことだ」

どこかぶっきらぼうに彼女は言う。

が、それがちっとも不快ではない。


「昨日……」

二荒さんと対峙しているだけで早鐘を打つ心臓を抑えながら、俺は微かに眉間に皺を寄せ、

「き、昨日が……どうかしたのかな?」


「どうかって……その、頭を打って病院へ行ったじゃないか」

二荒さんはそう言うと、いきなり轟然と胸を張り、そして唇を少し突き出すように、

「ま、全く……お前の無茶な行動には、いつも呆れるなっ」


「す、すんませんッ!!」

と、何故か俺は脊髄反射で謝ってしまった。


「まぁ……怪我が無くて良かった」


「ははは…」

怪我は無いけど、記憶も無いんだよね。わはははは。


「それに……なんだ、まどかの奴も強がっていたが、かなり心配していたぞ。だからその……あまり無茶な行動はするな」


「は、はぁ…」

って、まどか?

まどかかぁ……

その名前に、心の中に何か切なくて甘酸っぱいモノが吹き荒れた。

なんだろう?

このチクチクする胸の痛みは?

そして鬱になりそうなほどの不安感は?


「……ん?どうした洸一?」


「え?あ、その……何でもないです」


「そっか…」

と、二荒さんは頷くと、酷く真面目な顔で俺を見やり、

「洸一。変な誤解はするなよ?」


「はい?」


「だ、だから……昨日のあれは、全部まどかが考えた事だからな」


「???」


「私は、その……知らない男と飯を食ったりするのは好きじゃないんだからな。だから、妙な心配はするな」


「う、うん」

って、何が?


「分かってくれたんなら、それで良いんだ」

と、二荒さんは安心したような笑みを溢し、

「じゃあ……また放課後にな」

そう言葉を残し、颯爽と去って行った。


俺はそんな彼女の後姿を見つめながら、溜息を一つ。

思い出せない彼女との過去に歯痒さを覚えながら振り返ると、

「あ、あれ?」

教室の入り口に、嫌な笑みを浮かべている美佳心さんと、まるで能面のような顔付きの穂波チャンが佇んでいた。

「ど、どうしたの?」

妙な不安感に囚われながら、俺は出来るだけ平静を装って尋ねる。

と、伏原美佳心さんが唇の端を歪めながら、

「なんや、何もせずにお終いなんか。二荒さんも、ヤキが回ったんとちゃうんか」


「……へ?」


「それにや、何や洸一君……妙に照れていたやないけ。見ているこっちが恥ずかしいくらい、ラヴな気配が漂っていたで」


「そ、そうかなぁ?」

って、見てたんかい。


「何か、あったんか?」

美佳心さんの目がキューと細まる。

「昨日、ウチ等の知らん所で、二荒さんと何かあったんか?」


「え?いやぁ~……どうなんだろう?その……何も無いと思うよ。ただ、何て言うのか、今は純粋に新鮮な気分を感じていたと言うか……」


「あ~~……ゴチャゴチャと言わんでええ。な、榊さん」


「殺す」

穂波チャンは表情を変えないどころか瞬き一つせずに俺を見つめ、カタカタと体を震わしながら、

「こ、殺す。すすす、須佐を殺すのだーーーーーーッ!!」

と、コアなダイ○ミックプロ・マニアにしか分からない台詞を吐いたのだった。

ちなみに俺は、少しだけパンツが濡れてしまったのだった。



<喪失の日/午後の紅茶>


お昼休み。

俺は購買で買ってきた惣菜パンとジュースを片手に、中庭へとやって来ていた。

本当は教室で食べようと思ったのだが、何故か二荒さんと話してから美佳心さんや穂波チャンやの心が不安定になっている気がするので、ここはちとスルー。

食堂で食べようにも、どうにも騒がしいのは苦手だ。

そこでブラブラと歩いている内に、この中庭へとやって来ていたのだが……

「あ、暑い…」

燦燦と降り注ぐ初夏の陽光は、容赦無く俺の肌を焦がす。

7月の最初からこの調子だと、今年は猛暑になりそうだ。


まいったなぁ……

さすがにこれだけ暑いと、気が滅入ってくる。

やっぱ、教室で食べれば良かったかな?


ガックリと肩を落とし、額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら尚も歩いていると、

「あ…」

俺は思わず声を出し、足を止めた。

そこは中庭の奥まった所にあるベンチ。

そのベンチに腰掛ける艶やかな長い髪の少女に、俺の視線は釘付けだった。

彼女の姿を見た途端に、まるで全ての思考が一瞬停止したかのような錯覚すら覚えた。

それだけ、彼女は美しかったのだ。


だ…誰だろう?

こんな人気の無い所で……


それはどこか、不思議な光景だった。

彼女の周りだけ時が止まっているような、そんな気さえする。

いや、実際……この暑いのにベンチに腰掛け、汗も掻かず微動だにしないなんて……なんかちょっと怖い。

それにだ、そんな彼女の隣には、何か得たいの知れない市松人形が置いてあるし、更に足元には、ベンチの影に蹲る様にして何故か黒猫までいるではないか。


むぅ……何か恐ろしい気配をビンビンに感じるんだけど……

しっかし、本当に綺麗な人だなぁ。

俺の心は無性に騒ぐ。

・・・

って、なんか女の子に出会う度にトキメキばかり覚えるのは、ちと節操が無さ過ぎるような気が……


と、俺が炎天下の中、独り苦笑を溢していると、その見目麗しい、まるでお人形さんのような女の子はゆっくりと此方を振り向き、口元を微かに綻ばせる様にして微笑むと、

「……洸一さん」

蚊の鳴くような小さな声で、俺の名を呟いた。


「え…」

と、俺はその場で固まる。

彼女は……俺の名を呼んだ。

苗字ではなく名前で呼んだ……

と言うことは、お知り合いなのか?

友達なのか?

お、おいおい、やるじゃねぇーか、この俺も。

こんな綺麗な女の子と顔見知りなんて……

だけど悲しいかな、今の俺はなーんにも憶えていないんだよなぁ。


俺はどうして良いか分からず、「えへへへ~」とだらしない笑顔のままその女の子を見つめていると、

「キーーーーー」(なに馬鹿面して突っ立ているのよ、洸一)

彼女の隣にちょこんと置いてあった市松人形が、ギチギチ音を立てながら俺を睨みつけ、そう言うではないか。


「……」

思わず、手にしていた昼飯の入った袋をポトリと地面に落としてしまった。


な…なんだ?

目を擦り、更に耳の穴をかっぽじってもう一度その人形を見つめる。

え、え~と……気のせい、だよね?

今、人形が動いて喋り掛けてきたような気がしたけど……気のせいだよね?


「ハ、ハハハ……暑さのせいで、少し幻覚でも見たかな」

俺は苦笑を溢し、地面に落としてしまった昼飯を拾うとするが、

「あ、あれれ?」

昼飯の入った袋に、何時の間にか黒猫が顔を突っ込み、『ナヴナヴ』と嫌な鳴き声を上げて食い漁っているではないか。

お、おいおい……


「キーキーー」(馬鹿ね。何をしてるのよ、洸一)


「何って……」

俺は顔を上げ、そしてそのままストンと腰が抜け地面に崩れ落ちる。

しゃ、喋った……

間違い無く、今、あの人形は喋った。

ど、どうしよう?

この場合、先ずは悲鳴を上げるのが普通なのか?

普通なのです。


「どひぃぃぃーーーーーーーッ!!!?」

俺は心の底から叫んだ。


「キキッ!?」(な、何よいきなり……)


「しゃしゃしゃ喋ったッ!!?また喋ったよッ!!」


「キ?」(…はぁ?)

と市松人形は首を捻り、ベンチから軽やかに飛び降りると、ヨチヨチとした足取りで腰が抜けている俺の元へ近付いて来るではないか。


「ヒィィィッ!!?」

もう、何が何だか分からない。

だけどただ一つ言えるのは、今この俺の目の前で、あなたの知らない世界が猛烈な勢いで展開していると言うことだけだ。


だ、誰か助けて……

俺、祟られて殺されちゃう……


僕ちゃん、腰が抜けたままジリジリと後退。

その時だった。

それまで黙って、と言うかボーッとそんな俺を見つめていた綺麗な女の子がスッとベンチから立ち上がると、僅かに目を細め、そして鷹揚のない口調で呟いた。

「貴方は一体……誰です?」










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