嗅覚女とダージリン
仙台市内の古いラブホテルの一室。キングサイズのベッドの上に夕実は横たわっていた。黒いアイマスクを付けた状態で、左右の手首を一つにまとめられ縄で縛られている。その縄はそのままベッドの枕元に伸び、木製のバーに頑丈に括り付けられていた。まるで天から地へと吊るされているかのような格好で夕実の体がベッドの中央に縦線を描いている。夕実は黒いアイマスクの内側で目を開き冷静に時が過ぎていくのを待っていた。視覚が使えなくなると、体は無意識に聴覚に集中してしまうのだということを夕実は感じていた。
ピピッ、パシャ。
十分ほど前から何度も聞こえる機械音。男は相変わらずシャッターをきっている。息遣いの荒い声で「凄く綺麗だ」とか「最高だよ」といった言葉が何度も夕実の耳に飛び込んできた。
それから間もなくして、ゴトッというカメラをテーブルに置くような音が聞こえたかと思うと、男が夕実の右側に上がってきた。真暗な視界の中で男が次にどのような動きを取るのか、それを察知することに夕実は神経を向けた。男の顔が近づいてくる。目で見ていなくてもわかる気がした。男の唇が夕実との距離をどんどん縮めていく。キスをされるのかと思ったが、男の顔は夕実の唇をかわし、耳元に近づいて来た。夕実の耳の中に男の吐息が流れ込んでくる。
「夕実ちゃん、どう、興奮するでしょ?」
耳から脳にその声が届き、夕実は背中がゾクっとした。
「うん、興奮するよ、おじさん。」
極力幼く、そして甘い声で夕実は応えた。
そこからの記憶はほとんどない、体のいたるところを舐め回され、器具を使って弄ばれて、結局夕実の中で男は果てた。夕実は行為の最中、男を喜ばせるような声を出した。アイマスクを外されると、男の方を見つめ、いやらしい表情をすることに努めた。
「夕実ちゃん、本当に五千円でいいの?困っているならもっと出してあげるよ。」
終わった後に男はそう言ってきた。
「いいの、本当は一円ももらわなくてもいいんだ。」
夕実は男を見て微笑んだ。
「え…それ、どういうこと。」
男は明らかに高揚した表情になった。夕実は男の目を見つめてから少し照れるように目を逸らした。
「おじさんカッコ良いから、別にお金もらわなくてもいいかなーって思って。」
内心では微塵も思っていない言葉が、次々に夕実の口から飛び出していく。
「そっか、嬉しいな、そうだ。」
そう言って男はテーブルの上に置いてあった携帯電話を持ってきた。
「よかったらまた会えないかな、もちろん食事もおごるし今日みたいにお小遣いも出すからさ。」
「ほんと?じゃあ番号教えて、会いたいときに掛けるね。」
「そういえば言ってなかったね、僕は野口って言うんだ。」
夕実は野口の番号を聞いた後、すぐに服を着た。
「おうちの近くまで送る?」
「ううん、大丈夫、これから友達と会うんだ。」
「こんな時間から?若いってのはいいね。」
野口もネクタイを締めて、スーツのジャケットを羽織った。
「ちょっとトイレしてくるね、ホテルの出口までは一緒行きたいから待ってて。」
夕実はそう言うと、携帯電話を持ったままトイレに入り、鍵をかけた。それから洗面台の前に立ち、携帯電話の着信履歴を開くと一番上に残っていた「黒田」に電話を掛けた。
プルルルル…「はい。」
数回の呼び出し音の後、低い声の男が出た。夕実は内緒話をするように、小声で話した。
「あの、黒田さん…もういますか。」
「当たり前でしょ、入って行った時からずっといるよ、いつでもいいぞ。」
「わかりました、あと、カメラをまたお願いしたいんですけど。」
「またカメラかよ。」
そう言ってから黒田は大声で笑い出した。夕実は慌てて電話のスピーカの部分を手で押さえた。
「おーけー、分かった、カメラな、じゃあ下で。」
黒田は夕実の返答を待たずに電話を切った。
夕実が水を流してからトイレを出ると、野口は煙草を吸って待っていた。
「行こうか。」
煙草の火を消した野口に向かって夕実は黙ってうなずいた。
部屋を出た後、楽しそうに話す野口の隣りを歩く。夕実はこの時間にまだ慣れずにいた。相手が楽しそうにすればするほど、エレベーターに乗っている時間が苦痛だった。自分が相手を喜ばせた分だけ、自分の罪が重くなっていく、そんな気がした。
エレベーターが動いている、古くて暗い箱に乗って、どんどん下に堕ちていく。いつからか闇の中に落ちてしまった、抜け出したい気持ちはあるのにまた罪を重ねてしまう。そしてまた一歩、理想の自分から遠のき、黒い闇に沈んでいく。黒い闇…黒…。夕実の頭に黒田の顔が浮かぶと同時にエレベーターの扉が開いた。歩き出す野口の後ろについて行き、薄暗いロビーを抜け、自動ドアをくぐる。
「ごめんね、野口さん。」
外に出る瞬間、夕実はいつも小声で謝る、相手に聞こえないほどの声で。
「あれ、夕実じゃねえか、お前ここで何してんだよ。」
ホテルの外には黒田ともう一人の男が待っていた。二人とも身長が高く、体格もいい、おまけに強面だった。
「おっさん、人の女と何してんの。」
黒田が電話の時と同じ、低い声でそう言った。そこから夕実がすることは何もなかった、ただ野口が脅されて金を取られるのを見ているだけだった。黒田は野口から小銭まで取りあげた後「そのカメラもよこせ。」そう言って野口のカメラを奪った。
「夕実ちゃん…。」
黒田とともにその場を立ち去る時、背後から聞こえた野口の声は夕実に様々な感情を覚えさせた。悲観、後悔、憎悪、軽蔑、そして哀れみ。言葉は違うが、毎回騙された後の男たちの言葉にはそれ特有の雰囲気があった。力の入らなくなった声帯から絞り出される、錆びついたような声。腐った果実にむけて「これは酷い。」と蔑むように放たれたその声を、夕実は何度も背中に受けてきた。口から血を吐き、ホテルの入り口脇にごみのように捨てられた野口を、夕実は一度も振り返らずにその場を立ち去った。
「一、二、三…。」
車で移動した後、レストランで黒田は野口から奪い取った現金を数え始めた。
「財布自体を取ると、カードや免許証なども失って困るから現金だけ取って返してやるんだ。」野口は美人局をするたびに夕実にこう説明した。しかし、それは表面上の理由で、カードや免許証さえ残っていれば被害者も泣き寝入りしやすいのと、何より、自分は相手を思いやっているのだという安堵感により、自分の中の罪悪感を減らしている、いわば黒田の理不尽な自己防衛だと言うことを、夕実は見抜いていた。
「夕実おつかれ、ほい、これな。」
黒田は財布から新しく金を取りだし、野口から奪った金と合わせて夕実の前に投げ置いた。
「え、こんなに。」
これまでもらったのはせいぜい五、六万だったが、今夕実の目の前には十五万円程が散らばっていた。
「いいよ、お前がいなきゃ成立しないんだし。この前カモった藤尾って男からまだ吸い取ってるからな、まぁ、これからも頼むわ。」
黒田は女を飼うのが上手かった。食事代も出してくれるし、たまに高価な服やバッグも買ってくれる、実際、美人局によって黒田にどれほどの金が入っているのか、夕実は全く知らなかったが、夕実に使っている金から逆算しても、相当な額を脅し取っているのが分かった。
黒田の言う藤尾という男を、夕実ははっきりと覚えていた。三週間前に騙した男だった。
小雨の降る中、夕実がいつもターゲットを探す歓楽街の路地裏を歩いていると、そこに三十過ぎくらいの男が座り込んでいた。それが藤尾だった。傘も刺さずに酒の臭いを漂わせる藤尾を見つけ、夕実は迷わずに狙いをつけた。夕実が藤尾の前で足を止めると、藤尾はそれに気付いて顔を上げた。
「あの、大丈夫ですか。」
夕実はそれとなく藤尾を傘に入れる。
「あら、お姉さん優しいね、僕は少し飲み過ぎたみたいで。」
はははと笑う藤尾の目は虚ろだった。
「こんなとこにいたら死んじゃいますよ、私もちょっと…行くとこなくて困ってて、おじさん、お金ある?」
夕実の言った一言で藤尾は全てを理解した様に座り直した。
「金はあるよ、君が驚くくらい僕は金持ちなんだ。」
藤尾は自信満々にそう答えた。夕実もそれが嘘だとは思わなかった。藤尾が身につけるスーツも時計も、そこらのサラリーマンでは手の届かない物だということを分かっていた。
(よくやったなー夕実、いつもよりも高級なカモじゃねーか、これがのフォアグラ味だ。)
黒田が言いそうな台詞か頭をよぎる。
「確かに…よく見たら高そうな時計ですね、雨に濡らすのもったいないよ。」
夕実は藤尾の前にしゃがみ込んで続けた。
「おじさん、どこか連れてってよ。」
「おじさんじゃないよ、僕は藤尾って言うんだ。」
「藤尾さんね、分かった。あたしはアカリです。」
その後、夕実は藤尾とホテルに行ったが、藤尾はかなり酔っていて、セックスはしなかった。それでもホテルを出た所で黒田に捕まり、藤尾は金を取られたのだった。
「あのお金持ちの藤尾さんか…まだあの人からお金取ってるんですね。」
夕実はストローで野菜ジュースを飲み干した。氷の隙間からズズズッという音が鳴る。
「おい夕実、その何々さんってのやめられねーのか?少しでも情を挟むな、カモだ、鳥だ、ただの。」
黒田が夕実を睨む。
(ほら、やっぱり思いやりなんかないじゃん。)
夕実は喉奥で毒付いたが、口から出る前にその言葉を変換した。
「ごめんなさい。」
黒田は不服そうな表情で夕実を見つめたが、すぐに不気味な笑顔に変わった。
「夕実、今日ももう一人行くぞ。」
「えっ…でも今日は一人でいいって。」
「それはお前がいいフォアグラを拾ってきたらって話だ、さっきの奴は明らかにダメだろ、家族と会社使って脅す気にもならねえよ。」
「そっか…ごめんなさい。」
「いや謝んなくていいよ、高級フォアグラなんかいないことの方が多いんだしょうがない、だから今日はもう一回頑張ってくれ。」
黒田は夕実に頼むような言い方をするが、夕実にとっては断ることのできない命令だった。
「…はい、分かりました。」
夕実は刃向かうことはなかった。自分の意見など通らないのが当たり前だし、それ以前に単純に黒田が怖かった。金が入る喜びと、被害者への罪悪感、捕まるかもしれないという不安、そして黒田への恐怖心が常に頭の中で複雑に絡まり、夕実の心のバランスを崩していた。
歓楽街から少し離れたところまで戻り、黒田の車を降りる。
「ゆっくりでいいから、なるべく金取れそうな奴な。」
「了解です。」
黒田に愛想良く返事をして、またいつもの路地裏に向かった。時計は二十一時を指していた。週末の歓楽街はまだまだ眠りそうもない。人の波を抜け、細い道に入る。
「お姉さん可愛いね、時給高い仕事いっぱいあるよ。」
途中、スカウトやナンパの類に何度も話しかけられた。高い時給などという誘い文句は夕実には通用しなかった、常識的な額の金では夕実には足りなかった。夕実は全てを無視して裏路地に向かった。
人目のつかない所までくると、酔いつぶれた数人の中年の男がベンチや地べたに座り込んでいた。夕実は黒田の期待に沿う様な相手を探した。そんなに都合よく毎回金持ちが酔い潰れている訳が無いと、夕実は最初から半分諦めていた。そもそも金持ちというのは、どんなに酔いつぶれた所で、周りの人間がどうにか家に送り届けるものだ、裏通りで一人になることなど滅多にあることではない。だが、そんな夕実の推測とは裏腹にあっさりとターゲットは見つかった。通りの中央に並ぶ細長い花壇の淵に男が座っていた。グレーのギンガムチェックのジャケットに淡いスカイブルーのスラックス、光沢からしてシルクのネクタイ、何よりロレックスの時計が金の匂いを撒き散らしていた。歳は四十台後半か、もしかすると五十代に入っているかというところだ。
「分かりやすいくらいの金持ちだ…」
夕実は自分の引き運の強さに半ば唖然とした。
男は花壇から生えている木に背を預けて、目を瞑りながら首を前後に揺らしている。夕実はその様子を見ながら、少しの間男へのアプローチの方法を考えた。それから男に近づき、隣に座った。男が気づく様に音を立てて座ったが、相変わらず男は目を瞑り揺れている。
(これだったらこのまま財布盗めるんじゃないかな…。)夕実は冗談半分で自問した。しかし、それでは意味がない、黒田が狙うのは財布の中よりも口座の中の金だ。夕実は一度男から目を離し、周りにこちらを見ている人間がいないか確かめた。それから、ゆらゆらと体を揺らす男を見つめ直し、耳元に口を近付けた。
「おじさん。」
最初の一声は特に柔らかい口調を心掛ける。
「うわっ、びっくりした。」
夕実の声に男は体を飛び上がらせた。
「ははは、びっくりし過ぎ。」
その男の反応が夕実は素直に面白かった。
男は状況を飲み込めていない表情で夕実を見た。
「おじさん、高そうな時計してるね、それロレックスでしょ?」
「…は?」
男は目を丸くしている。確かに見ず知らずの女に急に耳元で話されたらそうなるかと、夕実は思った。
「なんか今にも頭から倒れそうだったから起こしてあげようと思ったの。」
男を見て笑顔を作る、男を落とす顔の作り方は熟知していた。
「そ、そうか、ありがとうね。」
「おじさん一人でお酒飲んでたの?」
「うん、まあね。」
「そっかー、あたしは未成年だからお酒飲んだことないんだ。」
「え、未成年なの?こんな時間にこんな所にいたら駄目じゃないか。」
「うん、そうだね、もし今警察に見つかったらおじさん犯罪者だね。」
夕実は悪戯に笑ってみせた。
「参ったな、君とは他人だろ。」
「でも助けてあげた仲だよ。」
そう言って男の顔を覗き込む。
「助けたって…。」
男は夕実と目が合うと慌てて反対側に逸らした。夕実は仕掛けるタイミングをここに決めて、男の太腿に両手を置いた。
「ねぇおじさん、実はね…あたし家出中なの、何でもするから助けて、お願い。」
隣に座る知らない女の唐突な頼みに、男は少しの間、眉間に皺を寄せながら足元を見ていた。しばらく考えた様子だったが、それから顔を上げて夕実を凝視した。
「何でもするってさ…。」
「いいよ、本当に何でもするよ、少しだけお金くれたら。」
ホテルに着くまでに男はだいぶ夕実に打ち解けていた、見た目の割に口調は若かった。話が上手く、男の話で何度も夕実は大笑いした。期待通り、男は金持ちだった。男に連れていかれたホテルは、歓楽街周辺で一番高級なラブホテルだった。
「いい部屋が空いてたよ。」
受付を済ませてきた男がそう言った。
「時間かかったね。」
夕実はロビーの壁に掛けられた高そうな絵画を見つめ、理解に苦しんでいた。
「ちょっと管理人と知り合いでさ、話込んじゃって。」
そう言ってから、男も壁の芸術を見つめて、眉間に皺を寄せた。
エレベーターに乗り込み最上階にあがった。男に連れられて部屋に入ると、長くて薄暗い通路が伸びていた。床はガラス張りになっていて、その下に無数の熱帯魚が泳いでいる。両脇の壁には点々と照明が灯り、一つ一つが様々な色に変化し続けていた。
「わ、凄い。」
夕実はしゃがみ込んで床下の水槽を覗いた。いつも行くホテルとは明らかに格が違う演出に夕実は楽しくなってきた。
「まぁ、ゆっくりしてよ。」
部屋に入るなり男は上着を脱ぎ、二つ折りにしてテーブルに寝かせた。夕実も持っていたバッグを同じところに置いた。部屋の中心には円形のベッドがあり、その正面の壁に七十インチを越える程のテレビが掛かっていた。風呂は内と露天の二つあり、照明の色も細かく選べるようになっていた。
「こっち来てみな、綺麗だよ。」男は窓の外にあるバルコニーにいた。外に出ると、冷たい風が夕美の頬を撫でた。バルコニーからは歓楽街が一望できた。
「このホテルってすごく高いんですよね、実はあたし来てみたかったんです。」
今まで多くのホテルに入ったことがあったが、なかなか来れない高級なホテルに夕実ははしゃいでいた。柵から身を乗り出し、街を見下ろすと、大通りにはまだ多くの車が走っていた。
「お金もだけど、地上からも結構高いですね、ここ。」
「一番上だからね、間違って落ちないでよ。」
多くの人間の人生が交差しあう歓楽街も高いところから見下ろすと小さく見える。夕実はホテルから見下ろす夜景が嫌いではなかった。自分が生きる世界はあんなに小さいのかと思う。だから、自分の犯す罪など、あの小さな世界の中の、更に小さな出来事なのだと思えた。視線を上げると、空には月が見えた。今日もまた一人ぼっちで寂しそうだと夕実は思った。それから夕実は隣にいる男を見た。男も空に浮かぶ月を見ていたが、夕実の視線に気付くと、少し具合の悪そうな顔をした。
「ちょっと、まだ酔ってるな。」
そう言うと男は部屋の中に戻り、テーブルにある電話を指差して言った。
「とりあえず何か食べない?俺、腹減っちゃって。」
男は電話の脇にあるルームサービスのメニューを広げた。
「あ…うん。」
夕実は意表を突かれた。てっきりすぐにシャワーを浴びてベッドに入るものだと思っていた。夕実は今までラブホテルに来て食事をしたことがなかった。これまでのどの男も部屋に入るなり、待ってましたとばかりにセックスを始めた。
「なにぼーっとしてるの、ほら選びなよ。」
男はメニューの向きを逆さにすると、夕実が見えるように差し出した。
「うわ、なんか全部美味しそう。」
メニューを見て、夕実はレストランで黒田と食事したことを後悔した。
「好きなの食べていいよ、俺はもう決めた。」
「え、開いたばかりでもう決めたんですか、早すぎますよ。」
写真で載っている美味そうな肉料理やサラダを食べたい気持ちはあったが、夕実は腹がいっぱいだった。
「あたし、このバニラパフェがいいかな。」
「いやいや、遠慮しないでいっぱい食べなよ、育ち盛りってやつだろ。」
「うーん、遠慮じゃなくて、実はさっき食べてきちゃって、後悔してます。」
「そうなの、なんだ、もったいないな、じゃあバニラパフェね。」
男はフロントに電話すると、魚介風醤油ラーメンとバニラパフェを注文した。
「この部屋にラーメンって似合わなくないですか。」
「え、うーん、まぁでも、なんか他の料理おしゃれすぎてさ、だいたいそういうのは見かけ倒しで不味いんだよ。」
「そんなことないと思うけど。」
「コンビニの弁当も見た目はいいけど味が合成的でしかも薄いだろ?それと同じだよ。」
「ああ、確かに。」
男の妙な説得力に夕実は笑った。
「あっ」と男は言った。
「そういえばお互い名前を知らないね。」
「あっ、そうですね。」名前などいつもは夕実にとってどうでもいいことだったが、この男の名前は何となく知りたい気がした。
「あたしは、サオリっていいます。」使う名前は毎回変えるように黒田に言われていた。
「俺は阿部史郎、なんか、ザ・日本人って感じの名前でしょ。」男は苦笑いしながら言った。
「アベシロウかぁ、いい名前じゃないですか。」
「どこがよ、良くも悪くもない、普通すぎる名前だよ。」
そう言われるとそうだなと夕実は思った。
「サオリちゃんはいくつなの?」
「十九です。」夕実はまだ十七だった、実際の歳よりも二つ上にしている、これも黒田に言われたことだ。
「十九か。」阿部は何かを考える様に自分の顎を撫でた。
「阿部さんはおいくつですか?」
「俺は四十七だよ、いやー良かったギリギリセーフだ。」
「セーフ?」
阿部は三本指を立てた。
「だって三十個も違かったら流石に気が引けるでしょ、セーフだ。」
「あはは、良かったセーフで。」
本当はアウトですよ。夕実は内心そう思って一人で笑いそうになった。
「サオリちゃんはさ…」阿部は少し真顔に戻った。
「こういうことは良くするの?」
「こういうことって?」
「まぁ、直球で言っちゃうと援交だよ。」
自分が援助交際をしていて「援交」という言葉を口にするのは意外と勇気がいる、歯に衣着せずに言う阿部の様な男は珍しかった。
「ううん、そんな、一回もしたことないですよ、でも今は本当にお金なくて困ってたんです。」
夕実は何となく気まずくなって立ち上がり、壁際のウッドラックの前に行き、そこに置かれたいくつかの飾り物を見まわしながら続けた
「でも良かった、阿部さんみたいないい人に出会えて。」
飾り物の中から真っ黒な犬の置物を見つけ手に取った。足が長く、首が細いドーベルマンだった。
「全然いい人じゃないよ、そう見えるだけだ。」
「えー、そうなの?でもお金持ってるし、おしゃれだし、余裕ある大人って感じで素敵ですよ。」
いつもは相手の褒める場所を探すのに手間取るが、阿部に関してはあまり考えずに褒める部分が見つかった。阿部は、歳はそれなりに取っているが、女にはもてそうだなと夕実は思っていた。
「いやいや褒めすぎだって、俺の事全然分かっちゃいないよ、羊の皮を被ったドーベルマンってよく言われるんだから、意外とベッドの上では牙を剥くかもよ。」
阿部は夕実の手に持たれた置物を見ながら、くんくんと鼻を動かし、犬の真似をした。
「あはは、確かに、こうやって女の子をホテルに連れ込んでますしね。」
「いや、それはサオリちゃんから誘って来たんじゃん。」
チーン、ドアのベルが鳴った。
「おっ、ルームサービス来たね、ごめん、俺今のうちに妻に帰りが遅くなるって連絡するから、サオリちゃん取ってきてくれないか。」阿部はスラックスのポケットから携帯電話を取り出した。
「分かりました、当然って言えば当然だけど阿部さん結婚してるんですね。」
夕実は冗談で残念そうな顔を作った。
「おいおい、まさか俺と結婚してくれるわけでもないだろ。」
「あたしは結構好きなタイプですよ、阿部さんみたいな人。」
言ってから夕実はそんな台詞を自然に言う自分に驚いた。これまで何人も騙してきて、いつの間にか相手が喜ぶようなことを無意識に言えるようになってしまったなと自分自身に感心した。
「からかわれてると分かってるのに嬉しいもんだな。」
「嘘じゃないですよ、じゃあ、あたし取って来ますね。」
ベッドルームから出てドアに向かう。部屋の外に出ると、ドアの横にあるテーブルにスープたっぷりのラーメンとバニラパフェが置いてあった。
「こんなにスープ入れたら運びにくいじゃん…。」
一人文句を言いながら、料理を乗せたトレーを慎重に持ち上げる、丼の中で並々のスープが揺れてトレーに少しこぼれた。バランスに気をつけながら部屋のドアを開けなおし中に入る。ガラス床の通路を歩きベッドルームの扉まで戻ると、ドアノブを肘で開けようとした。しかし、上手くいかずに、一度トレーを床に置いてからドアを開けた。
「頼むから裏口は開けといてよね、それじゃ…。」
夕実が慎重な足取りで室内に戻ると、阿部が丁度電話を終えたところだった。
「奥さんには上手く言えたんですか?」
トレーをテーブルに置くと夕実は安心して小さくため息をついた。
「俺が家の鍵持ってきてないこと知った上で鍵閉めとくって言われたよ。」
阿部は片目だけを細めて申し訳なさそうに笑い、それから続けた。
「おっ美味そう、食べようか。」
阿部は椅子に座りなおすと箸を持った。
「いただきます。」
そう言って、冷ますことなく勢いよくラーメンをすする。
「熱くないんですか?」
「職業柄、急いで食べるのに慣れてるんだ。」
「へぇ、そういえば阿部さんってどんな仕事してるんですか?」
「えっと…まぁなんて言うか、簡単に言えば貿易関係だよ。」
「なんか凄そう、あたし阿部さんて社長さんだと思ってたけど、食べるの早いって事は違いますか?」
「うーん、まぁ、違くはないな、よく分かったね。」
「やっぱり、なんかそんな感じがします、自由そうだけど、どこかちゃんとしてる感じ。」
夕実はもともと人を見る目に自信があった。幼い頃から多くの大人と会うことが多い環境にいた為か、軽く会話をしただけで何となく相手の人間性が見えることがあった。それに加えて夕実は、阿部の様な社長クラスの人間に何人も知り合いがいた。人の上に立つ人間は、必ずと言っていい程、嘘が上手い。表面では何も考えていない様に見えても、深いところに太い芯を持っている。夕実は阿部にもそんな臭いを感じていた。そして、もっと阿部の深い部分を知りたくなってきていた。
「あたしも、いただきます。」
夕実が顔の前で手を合わせると、阿部が「召し上がれ。」と言った。
口に入れたバニラパフェは冷たく、舌の上に広がる様に溶けていった。
「ねぇ、阿部さんの奥さんってどんな人?」
阿部には何か雲のように掴めない雰囲気がある。阿部の周りにはどんな人がいるのか、夕実はそんな事が気になってきていた。
「俺の奥さん?サオリちゃんよりは可愛くないかな。」
「いや顔とかじゃなくて、性格とか趣味とか…。」
「俺の奥さんの趣味が気になるの?変な子だなぁ。」
阿部は麺と具を混ぜながら笑う。
「なんとなく気になるの、どんな人?」
「うーん…普通だよ、家事はちゃんとするし料理も上手いかな、性格は穏やかな方だと思う。」
阿部の話を聞いて、夕実は自分よりも遥かに綺麗な女を想像した。
「いい奥さんなんだね。」
「そうだね、悪い奥さんではないね、俺は悪い夫だけど。」
阿部は残念そうに肩をすくめた。
想像の中の綺麗な女から阿部を寝取るという優越感が夕実の中に広がり始めていた。前々から自分自身に独占欲が強いことろがあると、夕実は理解していた。
「奥さんだって一度くらい浮気してるかもしれないよ、女だってそういう気持ちあるし。」
「そうなの?そうだったら、それはそれでショックだけどな。」
「自分はしてるくせに。」
「そうなんだよね、良くないって分かってるのにな。」
阿部はまたラーメンをすすった。
十分もしないうちに食事は終わった。
「そろそろシャワー浴びます?」空いた食器をトレーに乗せながら夕実は言った。
「じゃあお先にどうぞ。」
「一緒に入ったりしないんですか?」
夕実は男からシャワーを一緒に浴びたいと言われる事が多かった。
「いやいやそんな、一人でゆっくりしてきなよ、湯船に浸かってきたっていいよ。」
椅子に深く座る阿部を見て、本当にこの人はセックスをしたいと思っているのだろうか、と夕実は思った。十代の女を目の前にしながら、早く服を脱がせたいという様な焦りが阿部からは全く感じられなかった。
夕実は脱衣所に入り、服を脱ぐと鏡に映る裸の自分を見た。今までの経験からすると、大抵の男はホテルに入るとシャワーを早く済ませてことに至る。もしくは、一緒に風呂に入り、その場で始める。決まってこのどちらかだった。夕実は自分のことを早く抱きたいと焦る中年の男を見て、いつも心のどこかに満足感を感じていた。自分の裸を見て興奮し、我を忘れていく男達の表情に軽蔑もあるが、同時に幾分かのエロチシズムも感じていた。しかし、阿部という男はこれまでの男達とは明らかに違った。阿部はここに来てまず食事を取り、それから風呂もゆっくり入っていいと言った。ホテルにいられる時間が限られる中で、自分をベッドに引きずり込もうとする欲望がまるで見えてこない。阿部の余裕がある態度に夕実は悔しさすら覚えていた。阿部を本気にさせたい。そんな一種のプライドが夕実の中に芽生えていた。
夕実はシャワーを浴び終えると、下着姿のまま阿部の前に行った。その姿を見た阿部は驚いたように両手を上げた。
「サオリちゃん、脱ぐと結構セクシーなんだね。」
阿部は夕実を直視しずらそうにした。
「ありがとうございます。」
「俺もシャワー浴びてくるかな。」
阿部は急にそわそわしだした。うろたえる阿部の表情は、夕実に十分な勝利感を与えた。
「阿部さん、もうシャワーなんていいよ。」夕実はベッドの上に乗り、阿部を誘った。
「いやでも、今日は汗もかいたし…。」
「大丈夫、臭っても平気、来てよ。」
夕実がそう言うと、阿部は思い出したように自分の鞄をあさりだした。鞄から出てきた手に掴まれていたのは手錠だった。
「これ使ってもいいかな。」
阿部は恥ずかしそうに夕実に言った。今までも手錠を使いたがる男は多かった、初めての時は手を繋がれる事に恐怖心と抵抗があったが、それももう無くなっていた。だが、阿部がそれを使いたいと言い出した事は少し意外に思えた。
「阿部さん、意外とエロいんだね。」
不思議と夕実は少し嬉しかった。阿部の性欲が自分に対して向けられている事に安心を覚えた。
「でも最初はつけなくてもいい?」
夕実がそう聞くと、阿部は小さく頷き、手錠の片方の輪をベッドの金具に掛け、もう片方は開いたままにした。それから阿部は夕実に呼ばれるがままにベッドに上がった。夕実は阿部のネクタイを外して、ワイシャツの第一ボタンに手を掛け、外した。阿部の首元に顔を近づけると、ほのかにダージリンティーの香りがした。「阿部さん、いい匂い。」夕実が視線を上げると、阿部の戸惑うような表情が目に入る。夕実は自分が阿部を支配している状況に激しい陶酔を覚えた。阿部の鎖骨にキスをし、ワイシャツの第二ボタンに手を下ろしていく。それとは反対に夕実の唇は阿部の唇を目がけて、首筋を這うようにして登り始めた。その瞬間、夕実の手首が阿部に強く掴まれた。
「サオリちゃん、ちょっと待って。」
阿部の顎まで来ていた唇を離して、夕実は阿部の顔を見た。
「どうしたの?」
阿部は掴んだ夕実の手をベッドに下ろさせた。
「やっぱりやめよう。」阿部の息は少し上がっていた。
数秒間、夕実には阿部の言葉が理解できなかった。やめるというのはセックスのことなのか、この状況で男がやめると言い出すことなど、夕実の中ではあり得るはずがない展開だった。
「やめる?」
「うん、良くないと思うんだ、俺は良くてもサオリちゃんには。」
「どうゆう意味?」
「そのままの意味だ、サオリちゃんみたいに若くて可愛い子が、こんなことするのは、なんていうか…もったいないっていうかさ。」
夕実は驚いた。男が、しかも中年の男がセックスを中断するなど、今まで夕実は見たことがなかった。これまで何人もの中年の男を目にしてきたが、どの男も夕実の体を見るなり、動物のように目の色を変えて覆いかぶさってきた。
「ここまで来て、ホテルのお金払って、それでエッチしないってこと?」
阿部は黙って頷いた。夕実は信じられなかった。それは、たとえば、線路の上に置き去りにされた子供見て、電車の前に飛び込み、子供を助け出すドラマの主人公のようなものだ。阿部の行動は夕実にとって、そんなフィクションの世界にのみ位置付けられたもので、現実の世界ではまず起こりえないと決めつけていた出来事だった。
「阿部さん、それ本気?」
夕実はどうすればいいのか分からなかった。
「うん、でもちゃんとお金はあげるよ。」
阿部は夕実から目を逸らして、開いたワイシャツのボタンを留めなおした。
「あたしに魅力がなかったの?」
それが、夕実が導き出した答えだった。それならば阿部が手を止めたことに理由がつく。夕実の脳は崩れかける自分の中にある常識の辻褄を合わせようと必死に動いていた。しかし、阿部は首を横に振った。
「そんなわけないだろ、サオリちゃんは本当に魅力的だと思う。」
「嘘だ、だったらここまで来て、男の人がやめるはずないじゃん、もったいないなんてそんな理由絶対おかしいよ。」
夕実の口調は無意識に強くなっていた。滲む阿部の姿、自分でも理由の分からない涙が、目に溜まっていた。
「絶対何か理由があるはずじゃん。」
潤んだ夕実の目は阿部を真っ直ぐに見ていた。夕実の口調に驚いて顔を上げた阿部は、何かを言おうとしたが、夕実の涙に気付いて口を閉じた。夕実も涙を堪えるのに必死で、阿部を見つめたままそれ以上何も言えなかった。
沈黙が二人をつつむ。
先に話したのは阿部だった。
「あのさ、実はさ。」阿部はベッドの上に胡坐を掻いて夕実を見た。
「娘がいたんだ、もし今生きていたら十九歳だ。」
唐突な告白だった。
「…え?」
「娘とダブらせちゃったんだよサオリちゃんを。」
言いながら阿部は自分のうなじをさすった。
「それって、亡くなったってこと?」
「そうなの、事故でね。」阿部は寂しそうに視線を外した。
状況の変化に混乱しながらも、夕実の思考は絶えず波打っていた。そう言われてみると、これまでの阿部の一挙手一投足にも、どこか寂しさのようなものが漂っていたような気がしてきた。何をしても何を見ていても、どこかで心が満たされていないような、目が霞がかっていて、視線が常に物事の少し向こう側を見ているような感じがしていた。そしてその事を他人や自分に気付かせないために、無理に明るく振る舞っているような、何かが空っぽの気配が、夕実の記憶の中の阿部には見えていた。
「それって、いつの話?」
「二年前だね。」
「十七歳の時ってこと?」自分の歳と同じ。夕実は運命と言うものとは違うが、何か、形のない力が自分と阿部を引き合わせたような気がしてきた。
「うん、それからこうして一人で酒を飲むことが多くなったよ。」
はははと阿部は空っぽに笑う。
「じゃあなんで…あたしとこんなところに来たの?」
「そこが、本当にサオリちゃんが魅力的だと思ったっていう証拠だろ、キスされそうになるまでは、女として見ていたんだよ。」
夕実は嬉しかった。その言葉に不謹慎にも喜びを感じた。
「娘を亡くしてから何度も…」阿部はベッドから足を下ろすように座りなおした、ベッドの下の間接照明に阿部の横顔が仄かに照らされた。
「こうして妻以外の女性と寝たよ。」
「そうなんだ。」
「娘が生きていた頃から妻と寝ることなんてほとんど無かったけど、浮気は一度もしたことなかった、俺が女に走ったのは娘がいなくなってからだった。」
夕実は黙って聞いていた、気付くと阿部の隣に同じようにして座っていた。
「もちろん、サオリちゃん位若い女の子はいなかったけど、二十代の子はたくさんいた、興奮して夢中でセックスするけど、終わるとその度に大きな罪悪感があってさ、それが苦しくてまた次の女と寝て…今日までその繰り返しだった。」
「阿部さん…」
横から見る阿部の目も心なしか潤んで見えた。
「娘が死んで自分は女に走った、そう思う度に自分を殺したくなったよ、自分が妻以外の女と寝る、その原因が娘の死にあるなんて…俺は最低な人間だって、でも妻以外とのセックスが快感すぎてやめられなかったんだ、最低だろ。」
夕実は今まで寝た男を思い出していた。あの中にも阿部の様な思いで自分と寝た人物がいたのだろうか。自分が蔑んできた男達の中に、こんなに重い運命を背負っていた人は一人でもいたのだろうか。自分の犯してきた罪は、果たして阿部がしてしまったことより軽いのかそれとも重いのか。寂しそうに話す阿部の姿が、夕実の心を強く揺らした。阿部に架せられた娘を失うという理不尽な悲しみと、それを何かにぶつけなければならなかった辛さが、夕実にも手に取るように感じられた。
「阿部さんは最低なんかじゃないよ。」
気付くと夕実は叫んでいた。
阿部は驚いたように夕実を見つめ、それから優しく微笑んだ。
「ありがとう。」
阿部は一度目を押さえると、不意に夕実に深く頭を下げた。
「サオリちゃんに出会わなかったら、俺は変わらなかったと思う、今日俺に声をかけてくれてありがとう、おかげで目が覚めたよ。」
「そんな…お礼言われても。」
「いや、きっと娘がこうしてサオリちゃんと出会わせてくれたんだと思う、もう一度やり直すから、母さんを愛すから、俺を許してくれ、加奈子。」
阿部は何度も何度も夕実に頭を下げ、ありがとうとすまなかったという言葉を繰り返した。
今までこんなに真っ直ぐな人の姿を見た事があっただろうかと夕実は思った。夕実の心の奥、細い針の様な精神の上で、自己防衛が罪悪感を押さえつけ、辛うじて保っていたバランスが、音を立てて崩れ始めていた。人から感謝されることが久しぶりだった。自分自身を一人の人間として自覚することも忘れていた気がした。夕実は阿部を見つめ、この人を騙す事などできないと心から思った。
夕実は幼い頃に両親を亡くし、親戚に育てられた。裕福な家庭ではなく、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。義理の両親も不仲で、夕実にはどちらも優しくしてくれていたが、家庭自体は冷え切っていた。中学を卒業と同時に家を出て、一人で生活を始めた。高校には行かなかった。育ての親は学費を出すと言ってくれたが、夕実はこれ以上迷惑を掛けられないと言い、甘えることができなかった。夢の為に金を貯めようと考え、夜の街で働きだした。知り合いが増え、そのうちドラッグを覚えた。そして、気付いた時には借金に埋れていた。そんな時、黒田と出会った。ドラッグの売人からの紹介だった。借金を背負わされた事も全て、きっと最初から仕組まれていた事だったのだと夕実はここにきて初めて気づかされた。
夜の街で、多くの汚い人間を見た。あれだけ多くの人がいる街で、誰もが自分の事だけに目を向けていた。自分が生き延びる為に容赦無く他人を蹴落とし、蹴落とされた人間が弱者だと罵られる。人の社会とはそういうものであると夕実に教育するかの様に、残酷な光景がいくつも夕実のすぐ側を通り過ぎて行った。夕実はその世界を見て見ぬ振りをしていた。汚い人間とは関わりを持ちたくなかった。やりたい事は未来にある、今は辛いが決して道は踏み外さない。そう心にいつも強く決めているつもりだった。
だが現実は違った、夕実は既にその黒い世界の住人だった。闇に育てられた夕実は、もう光の探し方さえも分からなくなっていた。最早、選択の余地はなかった。借金を返す為に金が欲しかった。自分が生き残る為に他人を蹴落とす方法しか夕実は知らなかった。身体を汚し、心を汚し、たくさんの男から金を奪った。奪われる方が悪い、そう自分に言い聞かせ、相手に罪を被せ、か弱い少女を演じ、被害者顔で自分を正当化していた。醜く歪んでいく自分の未来に目を伏せて、今はこれでいいと思い込もうとしていた。
気付くと夕実は泣いていた。大粒の涙が目から次々と零れていた。阿部と言う人間は、たとえ一時の過ちを犯していたとしてもなお、誠実で、純白な人間だと夕実の目には映っていた。その綺麗な人間を目の前にして、今まで見ないようにしていた、汚い自分が浮き彫りになっていく。阿部を騙そうとしていた自分、純粋な人間を蹴落とし自分の利益だけに囚われていた自分。黒田と自分にどれ程の違いがあるのだろう。積み重ねて来た罪は、どう償うべきなのだろう。
「ごめんなさい、阿部さん。」
夕実は声にならない声で言った。
阿部は下げていた頭を上げ、くしゃくしゃに崩れた夕実の顔をじっと見つめた。
涙の量はどんどん増えていった。夕実は両手で顔を抑え、声を上げて泣き始めた。泣き止もうとしたが止めることはできなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
今度は夕実が、何度も何度も謝り続けた。四角く広い部屋の中、薄暗く照らされた壁に、夕実の泣き声が吸い込まれていく。
夕実の頭の中は空っぽだった。ただ声を上げ、力任せに謝罪を繰り返していた。何に謝ればいいのかさえ、もう分からない。阿部に、騙してきた多くの人に、親に、自分に、今自分が上げている声は、誰に対して飛んでいくのか、夕実自身にも分からなかった。この二年間鍵をかけて隠していた、自分自身でさえ忘れかけていた、紛れも無く等身大の十七歳の自分が声を上げていた。
阿部は椅子に座り直すと、謝り続ける夕実を優しい表情で黙って見つめていた。それから立ち上がり、脱いでいた上着を羽織り、自分と夕実の荷物をまとめた。
ピリリリリ…
急に阿部の携帯電話が鳴り出した。阿部は電話には出ずに腕時計に目をやった。
「あちゃー、もう、こんな時間か。」
そう呟くと脱衣所へ行き、夕実の服を持ってきて、夕実の横にそっと置いた。それから、バルコニーに出る窓の所まで行き、静かに窓を全開にした。
「サオリちゃんがいい子で良かったわ。」
さっきよりも高いところに上った月を見て、阿部は言った。
夕実は泣き止めないまま服を着た。
「出ようか。」
袖で涙を拭い続ける夕実に阿部が言った。
「待って、阿部さん…あたし、言わなきゃいけないことがあるの。」
二人分の荷物を持ち、部屋を出ようとする阿部を夕実は止めた。
「あのね、実は…」
「待ってよ、サオリちゃん。」
今度は阿部が夕実を止めた。
「ごめん、これ以上話をする時間が無いんだ。」
そう言ってドアを開ける。
「時間がないってどういうこと。」
阿部の言葉の意味が夕実には分からなかった。ホテルにいられる時間はまだ残っている。
「説明してる時間もないな、ちょっと急ぐよ。」
阿部は優しい笑顔を見せ、それから夕実の腕を掴み、強引にベッドルームから連れ出した。
「大事な話なの、すぐ済むから、阿部さん腕離して。」
夕実はもう一つの手で阿部の手を掴んだ。
「痛いってば。」
夕実が叫ぶと、阿部は慌てて手を離した。
「あ、ごめん。」
そう言うと阿部は、夕実の手を握り直し、また早足で歩き始めた。
「ここは十三階なんだけど…」阿部が言った。
「君にはここから階段で降りてもらう。」
そう言うと阿部はエレベーターの前を通り過ぎて、非常階段へと向かった。
「ちょっと待って阿部さん、急に何言ってるの?」
長い廊下を阿部に引っ張られて歩く。壁には他にドアがなかった。来た時には気づかなかったが、この階には一部屋しか無かった。
歩いている間、阿部が黒田達に捕まってしまうという焦りと、阿部の意味不明な行動との両方に脳が対処できず、夕実は何をどう話せばいいのか分からなくなっていた。
阿部は夕実に考える暇も与えず、夕実を非常階段の扉まで連れてきた。そして立ち止まり非常口を背にするように夕実の方に振り返ると、また優しく微笑んだ。
「いいか、サオリちゃん、君はまだ若い、俺からしたら幼いと言った方がいいくらいの歳だ。」
阿部は夕実の頭に、撫でるようにして手を乗せた。
「人は常に、自分が置かれた状況を上からでも下からでも見れるんだ、決して今の自分に失望はするな、自分を嫌いになるな、君はいい子だよ、俺が保証する。」
「ねぇ阿部さん、さっきから一体何を言ってるの?」
阿部は戸惑う夕実の両肩を強く抑えて、目を合わせた。
その目は、さっきまでの阿部とは別人のような、強く鋭い目になっていた。それから早口で言った。
「いいかい、よく聞いて。この扉を出たら急いで階段を降りなさい、疲れると思うけどなるべく早くね、下まで降りたらすぐ側にこの敷地から出られる裏口のドアがあるから、そこから出て。」
言い終えると阿部は、焦るように非常口のドアノブを掴んで回した。何年も使われていなかったのか、阿部が扉を押し開けると、錆びついた鉄が擦れ合う音がした。
阿部は夕実に持っていた荷物を渡した。
「阿部さん、あたしの話聞いて、あたし阿部さんを騙そうとしてたの。」
夕実はバッグを肩にかけて言う。
「分かってる、ただそれを聞くわけにはいかないんだよね、俺は。」
阿部はふっと鼻で笑った。
「分かってるって何を…」
夕実が言い終えるのを遮るように、ピンポーンという音が夕実の背後から聞こえてきた。エレベーターがこの階に着いたことを知らせる音だった。エレベーターの扉が開く音、誰かが降りてくるようだ。
「おっと来ちゃった、ごめんな時間ないわ、じゃ元気で。」
そう言うと阿部は、夕実の背中に手を回し、夕実を強引に階段へと押し出すと、急いで扉を引き始めた。
阿部に押され非常口をくぐった瞬間、夕実はもう阿部とは一生会えない気がした。
夕実は阿部といた時間の中で、もう二度と道を踏み外さないと決心していた。黒田との関係もどうにか切ろうと考えていた。阿部は自分を黒の世界から引き戻してくれた人だった。たとえ阿部がそのことを知らなくても、意識してやったわけではなくても、夕実は阿部に感謝していた。背中の方から錆びの擦れる音が聞こえる。扉が閉まり始め、中から漏れ出る光が細くなっていく。夕実は急いで振り返った。
「ありがと。」
夕実が叫んだと同時に鉄のドアは閉まった。阿部にその言葉が届いたかどうかは分からない。どうしても伝えたくて非常口を開けようとしたが、既に鍵が閉まっていた。
「阿部さん、いろいろありがとう、いつかお礼する。」
夕実はもう一度扉に向かって大声で叫んだ。返事は無かった。振り向くと、くたびれた階段が下へと続いている。阿部の指示通り、夕実は急いで階段を降り始めた。何故そうしなければいけないのかは分からない。だが、阿部の言う事に従わなければ何か良くない事が起こると言う事は分かった。
息を切らしながら一階まで来ると、阿部の言ったとおり裏口があった。夕実は迷わず裏口を開け外に出た。
その瞬間「お姉さん。」と言う低い男の声が聞こえた。
驚いて叫びそうになるのを抑え、声の主を見ると、そこに三十過ぎくらいで黒の短髪に黒のスーツを着た男が立っていた。
「なんですか?」
夕実はなるべく平然を装って、冷静に答えた。
「今日はサオリさんと呼べばいいのかな、僕の時はアカリちゃんだったね、で、僕の事は覚えてるかな?」
その言葉に夕実は愕然とした、そして絶望した。身体が震え出すのを感じた。逃げようかと迷ったが、そんなことはできないことが明白だった。顔に痣が残るその男は、黒田が未だに金を脅し取っているあの男だった。
「…覚えてます、藤尾さんですよね。」
藤尾は夕実が裏口から出てくるのを知っていたかのように、そこで待っていた。この男は間違いなく阿部の知り合いだ。夕実はすぐにそのことに気づいた。サオリという名前は今日初めて、阿部に対してのみ使った名前だった。阿部とこの男は繋がっていた。阿部は騙されたふりをして、黒田のいない裏口に自分を誘導したのだ。言い逃れできる状況ではなかった。
「正解です。すまないが、一緒に来てもらうよ。」
そう言うと藤尾は夕実の手を引き歩き出した。夕実の頭の中は真っ白だった、ただ逃げられないということだけははっきりしている。夕実は黙って藤尾の後に着いて行った。ホテルの裏側から路地を抜けて、人通りの多い道へと出た。
「ここまでくれば大丈夫かな。」
黒田に見つかるのを気にしてか、藤尾は常に辺りを見回していた。
「もう少し遠くまで歩くよ。」
夕実は逃げる機会を伺っていたが、藤尾に隙はなかった。藤尾は夕実の手をずっと掴んでいた。それから藤尾は歓楽街の入り口へと向かった。入り口に立つネオンに包まれたゲートを抜けて、大通りを渡る。夕実は歩いている間、阿部の事を考えていた。あんなに優しくしてくれたのが全部、藤尾に復讐させる為の演技だったのかと、軽蔑していた。騙されるとはこんなに辛いものなのかと思っていた。自分を黒の世界から救ってくれたと信じた人は、最初から自分を陥れる為だけに、優しい笑顔で話していたのか。これが、人を騙してきた自分への神様からの罰なのか。そう思い、夕実は泣いた。これから自分が、目の前の男にどんなことをされるのかなど想像もしたくなかった。犯されるのだろうか、それだけならまだましかもしれない、犯された後に殺されてもおかしくない。恐怖の中で静かに泣く夕実に目もくれず、藤尾は足を止めず歩き続けた。そして二人は最終的にホテルからかなり離れた人気のない公園に辿り着いた。
「気分はどう?」
藤尾は夕実をベンチに座らせると顔を覗き込む様にして聞いた。
「別に、大丈夫です。」
夕実は顔を逸らし端的に答えた。最早、絶望を通り越し諦めていた。この後、自分がどうなろうが、どうでもよくなっていた。
「そっか。」
藤尾はそう言うと、辺りを見回し、小さく溜息をついてから続けた。
「じゃあ僕は何か飲むものを買って来るよ、このままここにいてもいいし、いなくなってもいいよ。」
意味不明な言葉だった。藤尾はそのまま、公園のそばにあるコンビニに向かって歩き出した。ここで逃げてもいいということなのだろうかと夕実は考えた。何かがおかしい。ここまで自分の手を強く握って離さなかった藤尾が、ここにきてあっさり自分を解放しようとしている。夕実は辺りを見回した。 他に誰かいるのか、もし逃げようとしたらそれを捕まえる仲間がいるのだろうか、いや、いるとしか考えられない。と不安になった。夕実は結局、男が戻るのを待つしかなかった。逃げようとすれば、もっと大きな復讐が待っているかもしれない。絶対に何かある。夕実は、監禁された人間がなぜ逃げ出せないのか分かった。見えない恐怖をあれこれ自分で考え出し、現状を維持することに努めてしまうのだ。
「あれ、待ってたんですね。」
戻ると藤尾は意外そうな顔をして、買ってきた暖かいお茶を夕実に差し出した。
「あの、結構です。」
夕実は丁寧に断った。自分の膝が震えていることに気付いて膝を手で抑えた。
藤尾はそれを見て少し考えた後、急に慌てた様に言った。
「あっ、そっか、そうですよね、もしかして僕が仕返しにきたとか思ってますね?」
それは夕実には予想だにしない言葉だった。
言いながら藤尾は自分の缶コーヒーの蓋を開けた。
「違うんですか?」
夕実の声はか細かった。
「違いますよ。」
藤尾は笑いながら、ジャケットの内ポケットに手を入れた。それから中のものを取り出し夕実に見せた。警察手帳だった。
「警察…。」
思考の整理がつかなかったが、少なくとも、藤尾が自分に暴行を加えないだろうということだけは分かった。
「サオリさんから何か聞かれたら、なるべく答える様に、と阿部さんから言われてます。」
藤尾は夕実に初めて笑顔を見せた。
夕実は黙った、状況を把握するのに少し時間がかかった。これまでの出来事を思い出し、一つ一つ辻褄を合わせていく。聞きたい事は多く残らなかった。
「阿部さんも警察?」
「ええ、僕の直属の先輩です。」
藤尾は手帳をしまいながら続けた。
「結構前から、黒田を追ってたんです、僕たち。」
「じゃあ黒田は?」
「今頃、パトカーの中ですよ、三週間も警察相手に金を脅し取ってたんですからね。」
藤尾は手帳と入れ替えにタバコを取り出し火をつけた。
「警察って、勤務中にタバコ吸ってもいいんですか?」
「それは秘密です。」
藤尾は飄々と答えた。
「で、あたしはこれからどうなるんですか?」
「どーにも。」
藤尾の吐く煙が黒い空の中へと分離していく。
「どーにもって、捕まったりとかは?」
「阿部さんからは、あなたが逃げられる様に手伝えと言われてます。」
「どーして?」
「いやー、分からないです。」
藤尾はポケットから携帯灰皿を取り出し、タバコの灰を入れてからふっと笑って続けた。
「あの人の行動はいつも分からないです、きっとホテルの中であなたと話して逃がしてあげようと判断したんでしょう。もともとはあなたも捕まえる予定でしたから。」
夕実はホテルでの会話を思い出したが、どこでそう判断されたのかは分からなかった。
「あなたは私を捕まえないの?」
「そうですね…」
藤尾は少しの間、夕実を見つめ、それから夕実の隣に座った。
「阿部さんの判断が間違いだと思った事が今のところ一度もないんですよ。」
藤尾は目を細めた。阿部についてこれまで見てきた事を思い出しているのかもしれない。
「じゃあ、あたしは逃げてもいい人間ってことか。」
夕実は冗談っぽく言った。
「そうですね、まぁ十七歳だし、捕まえちゃうと後々の処理もいろいろ面倒だったりするから、とも言ってましたけどね。」
「そうなんだ。」
と言ってから夕実ははっとした。
「十七歳って?」
といって藤尾を見る。藤尾はにやけながら夕実を見ていた。
「もう分かってますよ、保険証か何か、持ってるんじゃないですか?」
夕実は慌ててバッグから財布を取り出し中を見た。確かに中のものが、一度出された形跡があった。シャワーを浴びてた時だ。とすぐに分かった。
「ばれてたんだ。歳も、本名も。」
夕実は途端に恥ずかしくなった。
「あと、お金に困ってるはずなのに、ご飯は食べて来たって言っちゃったらしいですね。財布の中にもお金を入れたままだし、人を騙す事にまだ慣れていない子だ、とも言ってましたよ。」
藤尾は半ばからかうように夕実に言った。
夕実は顔から火が出そうな思いで俯いたまま返す言葉も無く黙っていたが、しばらくするとそんな自分に笑えてきた。
「すごい恥ずかしいですね、これ。」
「そうですね、かなり。」
藤尾の顔は相変わらずにやけていた。
ビービービー
突然、藤尾の携帯電話のバイブが鳴った。取り出した電話を見て、藤尾はすぐに通話ボタンを押した。
「お疲れ様っす、はい、あっ、はい。わかりました。あっ、こっちは大丈夫です、無事連れ出しました。」
話の流れで相手が阿部だという事が夕実にも分かった。もう一度阿部の声が聞きたいと夕実は思ったが、藤尾が電話を切るまで代わって欲しいとは言えなかった。
「じゃあ、呼ばれたので僕は戻りますね。夜なので変質者と、あと、警察にも見つからない様に気をつけて下さい、補導されちゃいますから。」
藤尾は夕実に軽く敬礼をしてから背を向け走り出した。
「あの。」
夕実は最後にもう一つだけ聞こうと思った。藤尾が立ち止まり振り返る。
「なんです?」
「あの、阿部さんの奥さんって綺麗ですか?」
藤尾は不意を突かれた様な表情で固まった。
「え、まさかサオリさん、阿部さんのこと好きになっちゃったんですか?結構おっさんですよ?」
藤尾の口が半開きになっている。
「いや、単純にそういう話が出たから、気になっただけです。」
阿部に恋をしても叶わないと夕実は分かっていた。夕実の頭の中には阿部の綺麗な奥さんが描かれていた。
「まぁ、ホテルで阿部さんに何言われたかは知らないですけど、一応サオリさんに聞かれた事は極力答えろと言われてるので、言っちゃいますと…」
藤尾は煩わしそうに自分の頭を掻いた後、悪戯っぽく笑いながら言った。
「阿部さん、独身ですよ。」
「え、じゃあ娘さんは?」
「奥さんもいないのに、娘がいるわけないじゃないですか。」
藤尾は早口で言い終えると「それでは失礼します。」と軽く一礼し、あっという間に走って行った。
夕実は、阿部が家族の話をしていた時の辛そうな顔を思い出し、「あのやろう。」と小声で毒付いてから静かに笑った。
「お疲れ様です、阿部さん。」
エレベーターから降りてきたのは新米の二人だった。
「おう遅いぞ、下はどうだ、片付いたか?」
「ええ、首尾よく、黒田と連れの男を確保しました…で、阿部さん、そんな所で何してるんです?」
非常口の前に立つ阿部に新米が聞く。
「いや、ここから逃げたりされないかチェックしてたんだ、でもここはちゃんと専用の鍵が掛かってるから大丈夫だな。」
「流石です、抜かりないですね、阿部さん。」
「当たり前だ。」
阿部が浮かべた笑みは、苦笑いにも見えた。
「女は部屋の中ですか?」
「そうだ、ベッドにいる、一応は女だからな、丁重に扱えよ。」
阿部が言うと、新米二人は背筋を伸ばし敬礼をして「了解しました。」と言い部屋に入って行った。
阿部はその場でぼーっと天井を見上げた。夕実という少女がこれからどう生きていくのか、目を瞑り、少しだけ想像してみた。
「阿部さん、大変です。」
三十秒もしないうちに、騒がしい叫び声が部屋から聞こえたと思うと、新米の一人が飛び出してきた。
「どうした?」
阿部は大袈裟に声を上げる。
「逃げられてます。」
新米は顔面蒼白だった。
「なんだと。」
阿部は叫ぶと同時に走り出し、部屋に入っていく。新米も後を追った。
ベッドの側にもう一人の新米が座っていた。片方の輪が空いている手錠を注意深く見つめている。
「阿部さん、この手錠、片方が壊れてます。」
「なんだと、ふざけんじゃねーぞ、壊れ安い手錠よこしやがって。また署長に文句言ってやる。くそっ。」
阿部は足元のゴミ箱を勢いよく蹴飛ばした。
「その女まさかあそこから…。」新米は全開になった窓と、その向こうのバルコニーを見つめた。
「飛び降りたんでしょうか?」
新米が言う。
「いや流石に飛び降りてはいないだろう。だが、かなり身長が高くて筋肉質な、運動神経が良さそうな女だった。」
「じゃあ、壁をつたって逃げたとか…?」
「ありえるな。」
「隣のビルに飛び移ったとか…?」
「それも、ありえるな。」
新米達は慌てた。
「落ち着け。」阿部は言う。
「女の身元はすぐ割り出せる、そっちは俺に任せろ、お前達は下に戻ってホテルの管理人に礼でも言って来い、いろいろご迷惑をおかけしました。あと、裏口は閉めといてくれ。ってな。」
「裏口…ってなんですか?」
新米達は阿部越しに非常口の方を覗き見た。
「いーからそれだけ言やぁわかるんだよ!さっさと行け!」
新米は背筋を伸ばし、再度阿部に敬礼した。
「了解しました!」
新米二人がエレベーターに乗り込み、ドアが閉まったのを見届けると、阿部は「馬鹿で良かった。」とエレベーターに向かって言い放った。それから部屋に戻り、バルコニーに出て、ジャケットからタバコを取り出し、火をつける。空を見上げると月は、かなり高い所まで登っていた。タバコの煙を大きく吸い込むと、月に雲をかける様にそれを吐いた。ふと、夕実の顔を思い出した。あの子はこれから、強くていい女に成長していくだろうなと思った。
「久しぶりに、いい女に出会ったな。」
そう呟いたが、どこからも返事はなかった。月がいつもより明るい。
「一人ぼっちも悪くねーよな。」
やはりどこからも返事はなかった。阿部は眉間に皺を寄せ、そっとタバコの火を消した。