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おしりリツコ

作者: 広の広
掲載日:2012/02/28


 ねえ、リツコって変だよね。って、唐突に、私の隣で着替えていた女の子が言う。更衣室の中がほんの一瞬静かになった後、一緒に着替えをしていた他の女の子たちは、やだあ、だとか、もう、いきなりやめてよ、だとか、困惑した声をあげる。他にも似たような言葉が室内に広がると、私は急にひとりぼっちになったような気持ちになる。やめてよ、なんて言うけれど、そう言う女の子たちは真剣な顔をしていない。みんな、ほんの少し、口元が笑ってる。


「ねえ、エザキさんも、そう思わない?」


 練習着に着替え終えた隣の女の子が、丸い瞳を私に向ける。


 線の細い髪の毛を後ろで一つに束ねているこの子は……ええと、確か、森川さん、だったかな。体育着についている名札を確認しないと、私は未だに同じ部活の人の名前さえ判別できない。誰かと誰かの名前がごちゃ混ぜになってしまったり、全く見当違いの名前で呼んでしまったりする。他の女の子たちはすでにお互いのことを可愛らしいあだ名で呼び合ったりしているのに、なんだか私だけ周りからとり残されているような気分だ。


「リツコって、仲の良い友達とかいるのかなあ」


 森川さんがまた誰に言うでもなく疑問を口にすると、他の女の子たちがさっきと同じように、ちょっとお、アキちゃん言いすぎよお、と困ったような表情を作りながら、私をちらりと見遣る。


「そういえばエザキさんって、リツコと一緒に帰っているのよね?」


 私の顔を覗き込む森川さんの両目がくりくり動く。

 私は何も答えられない。訊かれたことの答えはわかっている筈なのに、なんだか、言い淀んでしまう。


 室内には私たちの他にもたわいない会話をしている女の子たちがいたが、私は、自分の声がその人たちにも聞かれてしまいそうで怖かった。私の勘違いかもしれないけれど、他の会話をしている人たちの耳が、私に向けられている気がした。


「おーい、一年生、まだかー。ちょっと遅いぞー。早く着替えなさーい」


 赤いジャージ姿の顧問の先生が更衣室の扉から顔を覗かせる。

 はーい。と元気の良い返事が重なって響くと、女の子たちは慌てて準備を整え始めた。

 ロッカーを閉める音が響く中、私は部屋の隅でひっそりとおしりを振っているリツコを見つける。

 何やってんだろう、あれ。ストレッチじゃないよね。

 私が首を傾げていると、森川さんが、見て、ほらあれ、やっぱ変、と言って、周りの女の子たちとクスクス笑いあっているのが聞こえてきた。



     ○



 部活が終わった後は、いつも体がくたくたになる。ふくらはぎがぱんぱんに張って、足が棒のようになる。それに加えて今日はラケットを振る練習をたくさんしたので、肩も痛かった。明日は筋肉痛かもしれない。

 学校からの帰り道を、私はリツコと並んで歩いていた。夕焼けが私の影を長くしている。朝は軽かった筈の学生鞄とラケットが今は投げ出したくなるくらいに重かった。

 一つ目の信号を渡って、植え込みと柳の木が交互に続く歩道を歩く。この時間は犬の散歩をしている人が多い。


「ねえリツコ」


 私は足元に視線を落としたまま話しかける。疲れていると、私は無意識に下を向いて歩いてしまうのだ。


「なあに? どうしたの?」


 私とは違い、ぼーっと空を眺めて歩いていたリツコが私に顔を向ける。


「今日さ、部活の前に更衣室で着替えてた時、おしり振ってたでしょ?」


 リツコは少しの間、んー? と小首を傾げていたが、やがて思い出したようにああと小さく声をあげた。


「うん。あれね。そういえば振ってたね」

「どうして振ってたの? 新しいストレッチか何か?」

「ううん、違うよ。あれね、おしりから糸こんにゃくが入ってきそうだったから、避けてたの」

「……へえ。そうなんだ」


 よくわからない。更衣室の中に、糸こんにゃくなんかあったっけ。


「うん。コトミちゃんも気をつけてね。油断してると、急に近くにあったりするから。ほら、その……い、犬のウンチみたいに」


 ウンチと言ったのが恥ずかしかったらしいリツコは、照れ隠しのようにえへへと笑う。ふっくらとした丸い頬に、ぽっくりとえくぼができた。


 リツコにとって、犬の糞と糸こんにゃくは同じように避けてしかるべきものらしい。私も晩ご飯に肉じゃが出た時は糸こんにゃくを避けて食べるが、さすがにそれを犬の糞とは比喩できない。


 というか、糸こんにゃくがおしりから入ってくるって、一体どういうことだろう。気になったが、訊くのはやめておいた。質問しても、私の理解できる答えが返ってくるとは思えなかったからだ。


「じゃあね。ばいばい」


 桜の木に囲まれた公園の前で手を振ってリツコと別れる。私は公園の前の道をそのまままっすぐ進んで二つ目の信号を渡る。重い体を引きずって歩くには、この道のりは残酷なくらい長い。


 明日も学校と、部活がある。

 私はため息を吐く。私には、変わらない毎日をどうすることもできない。



     ○



 学校の休み時間は、私はいつも席を立たずにいる。次の授業の準備をして、椅子に座ってぼんやり時間が過ぎるのを待っている。みんなで一つの机を囲って楽しそうに話をしたり、連れ添ってトイレに行くのは少し憧れる。でも、人の顔を見分けるのができない私にとって、それは困難なことだと諦めている。

 私の隣の席に座る日下部くさかべさんは、いつも休み時間に読書をしている。日下部さんは切りそろえられた前髪に、桃色のふちの眼鏡をかけているのが特徴の女の子だ。眼鏡をかけているのがクラスに一人しかいないので、私はなんとか日下部さんの顔を覚えることができた。


 彼女と私は、時々会話を交わす程度の間柄だ。私たちはお互いに昨日見たテレビドラマの話をしたり、休日に遊びに行く予定を立てたりすることをしない。ただ移動教室の時に一緒に行動したり、お昼ご飯の時に机をくっつけて二人で食べたりするだけだ。私はたまに他のクラスメイトに話しかけられることはあるけど、日下部さんが他の誰かと話をしているのを見たことがない。


「何、どうかしたの?」


 お昼ご飯の時、私が給食に出たスープを啜っていると、日下部さんに話しかけられた。


「どうかって?」

「いえ、なんだか今日、元気がないように見えたから。何でもないならいいの。ごめんね」


 そう言って日下部さんは小さくちぎったパンを口に運ぶ。椅子の上に姿勢良く座って、日下部さんは口の中でしっかりとパンを噛んでいる。二人だけの食事でも、私たちの机は特に静かだ。


 私は食事をする手を休めて机の上をじっと見つめる。

 ごめんね。と日下部さんが最後に言った台詞が私の胸に引っかかっていた。

 その言葉は、私たちの会話の中では決して珍しいものではなかった。でも、なんだか今日は、それに違和感を覚えてしまう。


「ねえ、変なことかもしれないけどさ、訊いてもいい?」


 私が口を開くと、日下部さんは牛乳パックのストローから口を外し、眼鏡の奥にある二つの目を私に向ける。


「ええ。いいわよ」


 じっと私の顔を見つめてくる日下部さんに、私は思わず視線をそらせてしまう。自分の手元に目を落としながら、私はもごもごと口を動かした。


「あの、その、私たちのことなんだけど」

「何かしら?」

「私たち、ってさ、何かな、って」

「……何って?」


 日下部さんは眉をひそめて私に訊き返す。手にじっとりと汗をかいているのを感じながら、私は日下部さんの目をちらりと見た。


「だから、私たちの関係って、何なのかな」


 私が言い終えると、日下部さんは持っていた牛乳をゆっくりと机の上に置いた。


「そう……。そういうことね」


 視線を落とし、悲しげな表情で日下部さんは小さく呟く。


「わかったわ。あなたがそう言うのなら、私はもうあなたに話しかけないようにする。短い間だったけど、良くしてくれてありがとう」


 そう言った後、日下部さんは私に向かって頭を下げる。


「ああ! ち、違うの!」


 私は慌てて口を開く。大きな声を出したせいで、周りで食事をしていた何人かが私たちの方を振り向いた。


「そういう意味じゃなくて! あの、その、何て言ったらいいのかな……」

「違うの?」


 日下部さんが顔をあげる。きょとんとした表情で、日下部さんは私の目を見つめた。


「うん。だからその……私と日下部さんは、友達なのかなって」


 消え入りそうな私の声に最後までしっかり耳を傾けた後、日下部さんは大きく頷いた。


「ああ。……そうね。考えてみると、私たちって、少し奇妙な関係かもしれないわね」


 そう言って日下部さんは空中を見つめる。今まで私たちが過ごした僅かな時間を思い出しているのかもしれない。


「でも、今の私たちの様子を周りの人が見れば、少なくともそう見えるのではないかしら」

「今の私たち?」


 私は日下部さんの顔を見る。

 そう。と息を吐くように返事をして、彼女は手でパンをちぎる。


「私たち、今向かい合って食事をしているじゃない」

「うーん……。確かにそうかもしれないけど」


 彼女の言ったことの意味はわかる。でも、私はなんだか、釈然としない気持ちだった。

 他人の目から見たら友達。でも、私たち本人は、お互いにそれを認めているのだろうか。周りから見ただけの判断では、たとえ相手がそれを望んでいなくても、誰かと無理やり友達にさせられてしまうことだって、あるかもしれない。


「じゃあ、今度遊びに行きましょう」


 私が考え込んでいると、唐突に日下部さんが切り出した。


「ええっ、遊びに!?」


 驚いて、私はまた大きな声を出してしまう。

 ええ、と小さく頷いて返事をする日下部さんは、私の反応とは逆に、静かに牛乳を啜っていた。


「……嫌なら別にいいわ」


 少しの沈黙の後、日下部さんが呟くように付け足す。


「い、嫌じゃないよ! ごめん、ちょっと驚いちゃって。その、ここに入学してから、初めて遊びに誘われたから」

「そう。私も誘ったのは初めてよ」


 彼女はスープを飲み干すと、食器を片付けに席を立った。


 私はしばらくぼんやりしていた。私の皿の上には、まだ少しずつ食べ物が残っている。

 私はパンにかぶりつくと、それを牛乳で一気に流し込んだ。


 食器を片し終えた日下部さんが私の前に戻ってくる。


「日下部さん、あと一つ話があるんだけど……」


 席についた日下部さんに私は再びおずおずと話しかける。


「何かしら」

「あの……、私、日下部さんのこと名前で呼んでもいいかな」


 私の問いかけに、日下部さんは少しの間目を丸くしていたが、やがてゆっくりと頷いた。


「ええ。いいわよ。でも、その代わり、私もあなたの名前を呼び捨てにしてしまうけれど、いいわよね?」


 そう言って日下部さんは薄く微笑む。

 彼女の笑っている顔を、私は初めて見た気がした。



     ○



 リツコは今日もおしりを振っている。

 本人が言うには、更衣室の中は『危ない』のだそうだ。具体的に何が危ないのかはわからない。でも、一週間前にリツコから聞いた糸こんにゃく話のようなものだろう。おしりから何かが入ってくるのを考えると、私は背筋が冷たくなる。きっとリツコもそれが嫌で、目に見えない危険を回避しているのだろう。


「リツコ、部活の人の名前、もう覚えた?」


 五月の連休はほとんど部活漬けだった。明日は連休最終日で、部活はお休みだ。部活の後の帰り道でいつも通り体は疲れ切っていたけど、私の足取りは軽かった。


「うん。もう大体覚えたよ」

「ええー、ウソ。じゃあさ、今日赤いゴムで髪を結っていたのは誰かわかる?」


 私が訊くと、んー、と首を傾げてリツコは考える。

 今日髪を纏めるのに一人だけ赤色のゴムを使っていたのは関口さんだ。赤い色は目立つので、彼女はそのことを他の部員にからかわれていた。


「うーん、わかんない」


 リツコが少し悔しそうな顔をして降参した。

 私が関口さんの名前を教えてあげると、リツコは思い出したようにあっと声をあげる。


「あのおしりがキュッとしてる人だね」

「じゃあさ、今日部長との試合中にコートの中で転んじゃった人は?」


 今度もリツコはしばらく考え込んでいたが、しばらくしてギブアップした。


「正解は村井先輩でした」


 私が答えを告げると、リツコはまた気がついたようにあっと声を出す。


「あのおしりが大きな先輩だね」


 その後も何問か繰り返したが、結局リツコは一つも正解しなかった。でも、私が答えを言うと、リツコは決まって思い出したようにその人のおしりの特徴をあげた。


「おしりのヒントをくれればわかるのになあ」


 連続不正解を重ねていくと、リツコはしょげたようにそう呟いた。


「……じゃあ、左右でおしりの形が違う人は?」

「コトミちゃん!」


 間髪入れずにリツコが私の名前を叫ぶ。突然大きな声をあげたので、通りの反対側を散歩していた犬が噛みつくように私たちに向かって吠えた。


「答えるの早すぎ!」


 私はわざと怒ったように言う。

 リツコは照れたようにえへへと笑う。誉めてないんだけどな。


「……それにしても、よく気がついたね」


 左右でおしりの形が違うということは、私がよくお母さんから言われていたことだった。何でも赤ちゃんの時からそうだったという。ぱっと見た限りではわからないのだが、よく観察してみると微妙に違っているらしいのだ。


「うん。私、コトミちゃんみたいなおしり、初めて見たよ」


 リツコはうっとりした表情を浮かべる。

 リツコはもしかしておしりで人を判別しているんじゃないだろうか。そんなことを冗談として思いついたが、案外合っているかもしれない。

 私たちは一つ目の信号を渡る。


「明日は部活、休みだねえ」


 ふと、リツコがのんびりとした口調で言った。


「そうだねえ」


 私も同じように返事をする。

 夕差しを受けて、柳の木が地面に濃い影を落としていた。そういえば今日は暑かったな、と私はぼんやりそんなことを思い出した。どこからか魚の焼ける匂いが漂ってくる。


「ああ、お腹が空いた」

「うん。魚のいい匂いがそそるねえ」

「そそるねえ、って、リツコ、オヤジみたい」


 リツコの言い方がおかしくて、私は笑いがとまらなくなる。空っぽのお腹が痙攣して、呼吸が苦しい。私が長く笑っていると、リツコは口元ではにかんだように笑いながら、「笑いすぎだよう」とぷりぷり怒って私に抗議してくる。


「あーおもしろい」


 私は目の縁に溜まった涙を拭う。

 笑っていると、いつの間にか桜の木の公園の前まで来ていた。もうお別れだ。なんだかもったいない。こうしてリツコと話をする時間は、嫌なことを思い出さずに、私を幸福な気持ちにさせてくれるから。


「じゃあまた学校でね」

「うん。ばいばい」


 しばらくその場でリツコの後ろ姿を見送ってから私は歩き出す。

 弱い風が吹く。春の夜風は、まだ少し冷たい。



     ○



「えー、では、先ほど説明した通り、一年生は来週までに自分のペアを決めておくように。最初は各自希望する者とペアの申請をできるようにするが、あんまり揉める場合ならこちらで勝手に決めるからな。問題が生じた場合でも不満の残らないようによく話し合うこと。その際は他の部員もできる限り協力すること。どうしても解決できない場合は先輩や私に頼ること。それでも無理な場合は――まあ、あみだくじだな」


 顧問の先生からあみだくじ、という言葉が出た瞬間、それまで静かだった部員からぶうぶう不満の声があがる。


 赤いジャージ姿の顧問の先生はまあまあと手で部員たちを制すると、


「それが嫌だったら、自分らでしっかり自主性を持って行動しなさい。他人ごとだと思って問題をほったらかしにしておくと、思わぬところで自分に跳ね返ってくるぞ。それに私たちは同じ部の仲間なんだから、些細なことでも問題解決に向けて協力し合うように。わかったな?」


 そう言って、ロッカールームにいる一年生全員をぐるりと見回した。

 はーい。

 みんなが声を揃えて返事をすると、顧問の先生は満足したように大きくうんと頷いた。


「よし、じゃあ話は終わりだ。この後はいつも通り着替えてから練習な。なるべく早く準備を済ませるように」


 そう告げて顧問の先生が更衣室から出て行くと、室内はたちまち部員の声で溢れかえった。


 ねえみーちゃん、私とペアになろうよ。

 ――うん、もちろん。

 チカ、うちとペアになろ。

 ――え、あ、……うん! いいよ。

 じゃあせっきーは私ね。

 ――えーなんでずるーい。私もせっきーとペアになりたいのに。ねね、せっきーは私とユウと、どっちがいい?

 ――え、ううん、そう言われてもなあ……。


 その人と組むことが当たり前というふうに、半ば懇願するように、――中にはじゃんけんをする人もいて、部員たちは早くもペアを組む人を決めている。

 そんな中、私はふだん通り一人で着替えを済ませようとしていた。どうせ私にペアの話を持ちかけてくる人はいないとわかっていたし、それに、かえって誰からもそれを申し出されない方がよいという気持ちがあった。

 騒がしい室内の隅っこには、私の他にもう一人、静かにいそいそと着替えをしている人物がいたからだ。

 もちろんその人物とはリツコのことだ。私がなんとなくそちらの方を見ていると、ふいに目が合った。私の視線に気がついたリツコは、ぽっくりえくぼをつくる。つられるように私も少しだけ微笑んで、ロッカーに向き直った。


「ねえ、エザキさん」


 急に後ろから声がかかって、少しびっくりして振り返ると、森川さんがいた。


「なに?」

「あなた、私とペアにならない?」

「……え?」


 ペアに? ペアって……私と?

 あまりに唐突で意外な申し込みに、私は応えあぐねてしまう。


「もしかして、もう誰かとペア組んじゃったの?」

「いや、まだだけど……」

「じゃあいいじゃない。それとも、私とペアを組むの、嫌?」


 言いながら、ずい、と森川さんは一歩前に踏み出す。彼女の大きな目がくりくり動いて私を射すくめる。


「いやじゃない――けど」

「だったらいいじゃない。それじゃあ、そういうことでよろしくね」


 まだうまく自分の状況が飲み込めていない私を残して、森川さんは他の部員たちの輪の中に戻っていった。


 アミちゃん、エザキさんと組むの?

 ――ええ。そうよ。

 なんで? アミちゃん、エザキさんと仲よかったっけ?

 ――まあいいじゃない別に。でも、しいて言うのなら、エザキさん、結構巧いからかしら。

 確かにね。この前シングルに選ばれた人に勝ってたもんね。

 ――でしょ?

 あれ、でもエザキさんって、練習の時はいつもリツコと……


 この時、私の中には焦りと、罪悪感にも似た感情が渦巻いていた。どうしよう。私。

 ちらりとリツコの方を見る。リツコは背中を向けていた。心なしか、リツコはわざと私の方を向いていないような気がした。

 結局、その日は部活が終わるまで、一言もリツコと言葉を交わすことはなかった。森川さんの申し出を断ることができなかったことをひきずって、私の方も無意識のうちにリツコを避けていたのかもしれない。いつもはリツコとしている練習メニューも、この日は他の人と行った。

 帰り道の上でも、私たちは無言だった。別々に帰ることも思いついたが、それは私たちが二人で校門をくぐった後だった。特に示し合わせなくとも、すでに私たちは学校の帰りは肩を並べて歩くことが習慣となっていることに、私はこの時気がついた。 

 一つ目の信号を渡って、静かな住宅街の中を歩いていく。私の顔は前を向いている筈なのに、私の瞳には何の景色も映り込んでこなかった。だから、もう目の前に桜の木の公園があることに私は全く気づかなかった。


「ばいばい」


 空間を僅かに震わせるような声だった。リツコが背中を向けて遠ざかっていくのを、私はただ見つめることしかできない。

 ――呼び止めなくちゃ。

 ふいに、そんな義務感に襲われた。

 今すぐ駆け出して、リツコの名前を呼んで、肩を掴んで、それから、それから――。

 あっという間にリツコの後ろ姿は小さくなって、夕闇に沈む住宅街の中に消えていった。



     ○



「それで、それから一度も話をしてないと?」

「……うん」

「最近特に元気がないなと思っていたら、そういうわけね」


 ノゾミちゃんは納得したように言った。

 お昼休み、いつものように机を向かい合わせて、私たちは話をしていた。食事はすでに終えて、食器も片付けていた。

 すでにあの日から四日が経っていて、気づけば週末だった。この期間、私たちは一言も言葉を交わしていない。部活の帰り道も、今は別々になっている。

 部活のペアの申請は今日だ。もう後数時間も経てば、ロッカールームの中で顧問が話をするだろう。各々ペアの人と登録用紙に名前を書けば、それだけで、少なくとも今年一年間は取り消せなくなってしまう。

 私は手元に視線を落とす。ここ数日、ずっとそうしてきた気がする。


「話はわかったわ。それで、どうするの?」


 ノゾミちゃんがずれた眼鏡を直しながら言った。眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐ私を見つめている。


「どうって?」

「あなたはそれでいいのかって言ってるのよ。だって、本当はあなた、彼女のペアになりたかったのでしょ?」

「うん。でも、もう遅いし。それに、私がここでわがまま言っちゃったら、迷惑になるかもしれないから……」

「でも今の状況は嫌なのでしょう?」


 私は黙り込んでしまう。それは彼女の言う通りだからだ。

 私は今の状況がものすごく辛い。仲の良い友達と話をすることができずに、幽霊みたいに部活をしている。一緒に練習メニューをこなす人も、歩幅を合わせて帰り道を歩く人もいない。

 どうすればいいのだろう。またあの桜の木に囲まれた公園までのささやかな会話を楽しみたい。夕焼けの中に漂う焼き魚やカレーの匂いにお腹を鳴らせながら一緒に笑い合いたい。そのために、私は何をすればいいのだろう。


「わかってるわよね」


 私がじっと考え込んでいると、ノゾミちゃんがそう言った。優しくて、どこかくすぐったくなるような声だった。


「本当は。自分が今、どうしたらいいのかくらい」 はっとして顔を上げた。彼女の瞳の中も、彼女の声と同じ色をしていた。

 私は唇をぎゅっと結ぶ。そうしてないと、余計な言葉が漏れてきそうだったからだ。声を出さない代わりに、私は小さく頷いた。


「そう。だったら行ってらっしゃい」

「……今?」

「今よ」

「……うん。じゃあ、行ってくるね」


 そう言って席を立とうとする私の前に、ノゾミちゃんの腕が伸びてきた。手には水色のハンカチが握られている。


「その前に、涙は拭いていきなさい」

「……ありがと。ノゾミちゃん」

「いいえ。どういたしまして」



     ○



 お昼休み、私は騒がしい廊下を歩く。昼食を終えた生徒たちがせわしなく廊下を行き来していた。窓を透過した太陽の光が、廊下の上に温かな模様を落としている。

 目的の教室はすぐに見えてきた。一年三組。森川さんのいる教室だ。

 教室の数歩手前で何回か深呼吸。

 よし。行こう。私は前を向く。

 人の出入りが多いせいか、扉が開いたままになっていたので、そっと中を覗いて見た。彼女の姿を探す。

 ――いた。

 ……けど。あれ。何で。どうして。

 どうしてあなたもここにいるの。

 リツコ。



     ○



 リツコは違うクラスの筈だ。なのに、彼女は今この教室の中にいて、しかも森川さんと何やら話をしている。森川さんは七、八人の女の子と机をくっつけて食事をしていたらしい。教室の中央あたりには机の島が浮かんでいるように見えた。私とは比べようにならないくらい巨大な島だ。食事を終えた後も、ふだん彼女たちは騒がしいくらいに楽しく会話を弾ませているのだろう。でも今は何だかおかしな空気が漂っていた。そして、その空気の発生源がリツコであることに私は少し遅れて気がついた。


「リツコ!」


 気づくと私は口を開いていた。教室の入り口から呼ばれた自分の名前に反応して、リツコは驚いた顔をして振り返る。それと同時に、森川さんや女の子たちもこっちを向いた。


「コトミちゃん……?」


 リツコがそう言い終える前に、私は彼女のすぐ隣まで来ていた。


「どうしたの? リツコ、何でここにいるの?」

「え……ええと、その」

「その子、私とエザキさんがペアを組むのを取りやめてほしいんですって」


 横合いから口を挟んできた森川さんがぶっきらぼうにそう告げる。


「そ、そんなこと言ってないよ!」

「あら、でもあなたもエザキさんとペアになりたいってことは、つまりそういう意味でしょう?」


 森川さんの射抜くような視線にリツコが押し黙る。どうやらリツコは私を巡る部活動の問題について森川さんに直談判しに来たらしい。少し意外だった。リツコはふだんの様子からではとてもそんなことをする様に見えなかったからだ。リツコは俯いて唇を引き結んでいる。森川さん以外の女の子はとても気まずそうに顔を見合わせている。


「それで?」

「え」

「それで次は何なのって聞いてるの。あなたも私に用があって来たんじゃないの?」

「あ、うん。……ええと、あの、私もペアのことで言いに来たんだけど」


 私が言い終わるや否や、森川さんの眉が吊り上る。



     ○



 結局あれは本当に偶然が重なっただけの出来事だった。つまり、その日の前日に私が森川さんの申し出を断ることを決意したのと、その日リツコがクラスメイトの日下部ノゾミに事の成り行きを説明して彼女に自分の気持ちを気づかされたのは偶発的に起こったことだったのだ。私もリツコも相当この事で煮詰まっていて、自分の限界を迎えるタイミングが同時だったと言える。


 日下部ノゾミとは翌週の月曜日、つまり私とリツコがお互いのペアの申請書を顧問に提出した日から三日後に顔を合わせた。彼女はピンク色のふちの眼鏡をかけていて、知的で冷静そうな瞳を持つ女の子だった。初めは少し物怖じしてしまったけれど、話をしてみたらとても人当たりの良い性格であることがわかった。私たちはすぐに打ち解け、次の日曜日にはリツコと三人で遊びに行く約束もした。


 私とペアになる約束がなくなってしまった森川さんは結局他の人とペアになることになった。最初は申し訳なく思ったけれど、どうやら彼女は私と同時に他の子ともペアになる約束を取りつけていたらしい。


 部室の中では相変わらずリツコは陰でひそひそ言われている。最近では私の名前も囁かれるようになってきた。その度に私たちはこっそりお尻を振って、自分たちでおかしくなって笑い合っている。傍から見れば不気味だろう。ノゾミにこのことを話したら、彼女は冷静に「変だからやめなさい」と私たちに言及した。でもやめない。いつかリツコの言った糸こんにゃくという言葉の微妙なニュアンスを、私は少しわかった気がしないでもないからだ。

 リツコがあんまり人の顔を判別できないものだから、それから少し経って、そのことについてノゾミと話をしたことがある。


「やっぱりあの子、コトミの言った通りお尻の形で人を識別しているのではないかしら」

「どうして?」

「あの子は人と向かい合って話をすると戸惑ってしまうのだけど、話し終えて、その人の後ろ姿を見ると『ああ、あの人か』みたいな感じでほっとした表情をしていることがよくあるもの。だからきっと顔では人を識別できないのよ。それと、これは最近気づいたのだけど、リツコは誰かに話しかける時、必ずその人のお尻を確認しているわ。その場合、ちゃんとその人の名前を呼んでコミュニケーションもとれているし」

「うーん、そうかなあ。でもさ、もしそうだとしたら、私とノゾミはどうなの? いきなりリツコに話しかけても、リツコは特に戸惑っている様には見えないけど」


 私が疑問を口にすると、ノゾミは「たぶん、これよ」と言って眼鏡のフレームを親指と人差し指で挟んだ。


「眼鏡?」

「そう。おそらくリツコは眼鏡をかけているかどうかで私のことを識別しているわ」

「まさか。眼鏡くらい、かけてる人は結構いるでしょ?」

「私のクラスには私一人だけしかいないわよ。それに、ピンク色の眼鏡って特徴的でしょ?」

「……いや、でも」

「明日は試しにコンタクトで登校してみようかしら」

「……じゃあさ、私は? 私、眼鏡かけてないよ?」

「あら、でも、コトミには目のとこに十分目立つしるしがあるじゃない」

「え。……ああ。なるほどね」

「うん。つまりそういうことよ」


 ノゾミはいたずらっぽく微笑んで目の下を人差し指で押さえている。別にそれはあかんべえをしているわけではなくて、私の目の下にあるそのしるしの位地を示しているのだ。左目の下、目の端にあるほくろの位地。


「眼鏡か泣きぼくろか、かあー。そう考えるとなんかショック」

「リツコもそのうち自然に人を判別できるようになるわよ。あなたも苦手だったんでしょ?」

「うん、まあ、それはそうだけどさあ」

「大丈夫よ。きっと」


 シオリは肩を揺らせて笑う。意外なことかもしれないけど、私たち三人の中で一番笑うのはノゾミだったりする。



     ○



 夕暮れの帰り道を私たちは歩く。最近は太陽の出ている時間が長くなってきた。五時半を過ぎてもあまり暗くならないことに気がついて、私はもうすぐ夏かなあと思う。


「夏? あー夏ね。でも、夏の前には梅雨も期末テストもあるよ」


 そう言ってコトミちゃんははあ、とため息を吐く。この前の中間テストの結果で彼女は母親に叱られてしまったらしい。数学が苦手なのだそうだ。


「じゃあテスト期間になったらさ、ノゾミちゃんに勉強教えてもらおうよ」

「お。それいいねっ。ちゃんちゃんと気軽に百点をとれる方法を教えてもらおう!」

「おー!」


 桜の木で囲まれた公園でコトミちゃんと手を振って別れる。私はもう少しだけ歩いたら家だけど、彼女はあともう一つ信号を渡らないと家に着かない。


 とことこ歩いて行くコトミちゃんの後ろ姿を見送っていると、私は彼女のお尻に目が行ってしまう。あんまり人のお尻ばかり見ないように、と先日ノゾミちゃんに注意されたばかりだけど、コトミちゃんのお尻だけはつい視線を注いでしまうのだ。自分でも気をつけているつもりだが彼女のお尻だけはどうしようもない。

 それにしても、本当に、珍しい形をしているなあ。

 私は幸せな気分になって、カレーの匂いの漂う住宅街を歩き始めた。

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