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新庄剛志物語  作者: 水前寺鯉太郎
小学校編

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2/15

野球との出会い

一


 新庄剛志がサッカーを始めたのは、深い理由があったわけじゃない。小学校に上がった春、クラスの男子が「一緒にやろうぜ」と無邪気に誘ったからだ。断る理由も、熱中する理由も、そのときの彼にはなかった。


 だが、三ヶ月も経つと、校庭の風景は一変していた。剛志がボールを持てば、誰も彼から奪うことはできなかった。抜かれた子は「ずるい」と悔しがり、抜けなかった子は「人間じゃない」と呆然とした。


 剛志本人は、その賞賛も罵倒も、どちらもどこか遠い国の出来事のように感じていた。速く走るのが、風を切り裂くような感覚が気持ちいい。それだけだった。サッカーという競技そのものよりも、己の肉体を限界まで駆動させることの悦び。ボールは、そのための単なる口実に過ぎなかった。


二


 小川誠は、体育教師になって十一年目の男だった。

 地元福岡の出身で、かつては社会人野球でショートを守っていた。しかし肘の故障により二十六歳でその道を絶たれ、教壇に立った過去がある。子供たちの身体能力を見抜く眼力だけは、誰にも負けないという自負があった。


 その小川が、新庄剛志という「異物」を初めて捉えたのは、五月の体育授業でのことだ。五十メートル走。ストップウォッチの針が示す数字を見て、小川は電池が切れたように硬直した。


 6秒1。


 計測ミスを疑い、半ば意地になって再度走らせる。結果は、6秒0。

 小川は手元のメモに震える手でタイムを書き込み、二重丸を、さらにもう一つ、念を押すように丸を重ねた。小学二年生の数値ではない。それは、暴力的なまでの身体能力の証明だった。


三


 その後の授業で、小川は意識的に剛志を観察し続けた。

 ボールを投げさせてみれば、フォームは滅茶苦茶だった。肘は下がり、足腰の連動性もなく、踏み込みもバラバラ。野球の教科書に照らせば、直すべき欠点ばかりが目につく。


 にもかかわらず、手放されたボールは弾丸のように宙を裂く。キャッチボールの相手をさせられた六年生は、手のひらを激しく振りながら、痛みに顔を歪めた。「痛い、痛いよ」と彼は言った。


 ――この素材を、整えたらどうなる。


 小川は授業が終わったあとも、グラウンドの端でその思考から抜け出せなかった。技術という鎧を着せたとき、この少年は一体、どんな怪物に化けるのか。


四


「新庄」 


 放課後の昇降口で声をかけると、剛志は振り返り、不思議そうに首を傾げた。


「なんすか」

「お前、野球やってみんか」


 一秒、いや、零コンマ数秒の沈黙があった。剛志はランドセルの肩紐を両手でギュッと掴み、少しだけ考えるような仕草をしてから、あっさりと答えた。


「……ちょっとだけなら」


 小川は、こみ上げる笑いを必死に堪えた。少しだけ。その言葉の奥に潜む、底知れぬ無関心と、それゆえの恐ろしさを感じていた。


五


 翌週の木曜日、剛志は体験入部へと向かった。

 校舎の裏にあるグラウンドは、土が剥き出しで、ホームベースは長年の酷使で歪んでいた。部員は十五人ほど。彼らは、ふらりと現れた剛志を珍しそうに眺めている。


「新庄くん、グローブ持ってきた?」


 主将の六年生が問う。剛志が首を横に振ると、主将は少し困った顔をして、倉庫から古いグローブを取り出し、彼に手渡した。右利き用で、皮はひどく馴染んでいる。

 剛志はそれを左手にはめ、キャッチボールの列に並んだ。最初の一球。彼は何のためらいもなく、対面の六年生に向けて投げた。

 バシィン、と乾いた衝撃音が、グラウンドの空気を震わせた。


 ボールを受けた六年生が、あまりの衝撃にその場にしゃがみ込む。グローブの芯で受けたはずなのに、手のひらが痺れて感覚がないという。

 その瞬間、グラウンドから騒がしさが消えた。小川は遠くのフェンス際で腕を組み、静かに笑みを浮かべていた。


六


 その日の帰り道、剛志は一人で夕闇の路地を歩きながら考えていた。

 野球という遊びは、想像していたよりも悪くなかった。ボールを放った瞬間、空気の層が自分を中心に割れるような感触があった。バットを振れば、風がうなり声を上げる。自分の中の、まだ誰も触れたことのない深淵が、わずかに揺れたような気がした。


 家に戻ると、正雄がユニフォームのまま、無言で夕飯を食べていた。二軍の練習試合から直帰してきたのだろう。


「今日、野球の体験入部に行った」


 正雄の箸が、ぴたりと止まる。

 剛志は座りながら、靴下を脱ぎながら、まるで天気の話をするかのように続けた。


「まあ、そんな面白くはなかったけど」


 正雄は何も言い返さなかった。ただ、その伏せられた瞳が微かに揺れたのを、リナだけが見逃さなかった。彼女は台所で密やかに微笑み、温かい味噌汁をもう一杯、そっとよそった。


 ── 第2話・了 ──


 

才能は、自分では気づかない。誰かの目が、その輪郭を初めて照らす。

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