表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

【最終章】遠野夏樹1

マグニチュード 9.0。震度7。

街はもうそこにはなかった。


全国の予備自衛官はおよそ一万五千人。

年に数回の訓練しかない。

普段は、ただの工場作業員だ。

そんな自分が、ここに立っている。


─救助開始前。

 

指定された小さな待機スペース。

煙草に火をつける。

吐いた煙が湿気を含む。

 

白いシートの中だけ、

現実から切り離されていた。

安全靴だけがやけに痛む。


「夏樹さーん」

呼ばれて振り返る。

片手を拝み手にして寄ってくる。

 

「早く帰ってビール飲みたいっすね」

吐いた煙がこちらに向かう。

シートの中で行き場を失った煙が漂った。

床に落ちていた吸殻を灰皿に押し込んだ。

 

「尚也…」

「緊張感どこに置いてきた?」

灰皿に同時に手を伸ばす。

手が触れそうになる。

「あっ、すんません」

尚也が譲った。

 

「いや…しょうがなくないですか」

「やる気出ないっすよ」

尚也が肩を落とす。

 

「その辺にしとこうや」


─短い沈黙。

 

「ホント、真面目っすね」

視線が逃げる。

 

集合の合図がかかる。

「もう、時間だぞ」

尚也の肩を軽く叩く。

灰皿に張られた水に、煙草が沈む。

 

 

灰色の空に、飲まれそうになる。

湿気が肌にまとわりつく。

鉄の匂いが、鼻を刺した。


「二班集合!」

立ち姿から違う。

学生時代の部活が頭をよぎる。

普段聞きなれない、腹の底からの声。


遠くに積まれた、瓦礫の山。

足の痛みが強くなる。


「二班、瓦礫撤去。捜索開始」

「二次災害注意」

「道具忘れんな」


喉の奥から返事をした。



立ち上がる埃が、目を痛める。

ラバー手袋の上からバールを握る。

冷たさと重さが腹に来る。

 

見渡すと残っている建物も多い。

ただ、古い木造住宅は倒壊が目立った。

人の声が届かないくらいの重機音。

それが、静寂を打ち消していた。


「夏樹さーん」

バールを引きずりながら寄ってくる。

「口ばっかじゃなくて手も─」

遮られる。

「えー、それより」

「帰ったら何食べたいですか?」

 

─短い沈黙。

 

「かつやのカツ丼松…に豚汁大」

灰色の雲から少し光が漏れる。

「かつやいいっすね」

「自分は吉牛特盛がいいっす」

目線が合う。

「卵は付けなくていいのか?」

少しだけ頬が緩む。

「自分はつゆだく、卵なしの七味大量っすね」

尚也も釣られて小さく笑った。



「おーい!」

瓦礫の山の向こうから、

誰かの大声が響く。

「こっち見つかったぞ!」

「手ぇかせ!」

 

木片、ガラス片、家電。

全て燃えた跡が残る。


─重い。

 

瓦礫なんてものじゃない。

 

これは、誰かの生きた痕跡。

 

「夏樹さん…」

尚也が耳元で囁く。

「多分アレっすよね」

視線は瓦礫の奥に見える黒に向く。

 

─長い沈黙。


誰かが率先して指揮をとる。

「この柱どけるぞー!」

「せーの!」

 

焼けた埃の臭いで息ができない。


─黒くなった人の形をした何か。


遠くの重機に視線を逃がす。

それは、痕跡を持ち上げて積み上げる。

 

何人かは、後方に下がる。

─嗚咽。

誰かの何かが溢れる。


手が大きく震える。

─息を吸う。

胸の前で小さく手を合わせる。

震えは収まらない。



持ち場に戻ってからも、視界の黒が消えない。

尚也は口も手も止まっている。

「おい」

「喋らんでもいいけど、手は動かせよ」

「あの後じゃ無理っすよ」

「俺の負担を増やすな」

「夏樹さんと俺の仲じゃないっすか」

猫撫で声に腹が立つ。

「どんな仲だよ」

「そもそも俺らが会ったのって…」


─短い沈黙。


「忘れるなんて酷いっすよ」

「地震の日にすぐ招集掛かって」

「その日の夜に現着して」

「晩飯一緒に食ったのが初っす」


「ってことは八日─」

 

「まて!」

微かに聞こえる。

右手で一本指を作って口の前に置く。


…人の声がする。

 

「おーい!こっちだ」

腹から声を出す。

「誰か来てくれ、重機も頼む」



CDプレイヤーのラジオ機能。

普段使われない、それが囁く。


「六月二日、火曜日のニュースをお伝えします」

空間を支配する熱気と埃。

 

「五月二十五日、月曜日発生の地震の続報です」


「本日未明、行方不明となっていた」

 

「杉浦健太さん」

「杉浦佳奈さん」


倒れた柱にノイズが反響する。

 

「が発見されました」


 

倒壊した古い木造住宅。

二階部分がそのまま下に崩れていた。

 

「おーい!」

銀色の手持ちライトを点ける。

光が瓦礫の隙間に差し込む。

奥の方は全く見えない。


痕跡が少しずつ片付けられる。

 

「っ…」

粉塵マスク越しでも、鼻を刺す。

強烈な腐敗臭。

 

声が近くなる。

 

─ラジオの声。

「なんだ、ラジオか…」

 

視線を少し移す。

柱の下に影。


「人…?」

視線が固まる。

 

右手を精一杯伸ばして、

何かを握りしめていた。

 

そっと手に触れる。

 

粘着質な何かがラバー手袋に張り付く。

古い肉が。

崩れるような感覚。

 

何かが剥がれ落ちる。

 

視界がぼんやり滲む。

この空間に残った何か。

─空気。

─時間。

─思い。

拒んでも、流れ込んでくる。


崩れないよう、必死に抗う。

 

「うっ…う…」

何も見えない。

「こんなの…」

 

体の感覚が少し戻ってくる。

 

右手の袖で顔を拭う。

視線を二人に戻す。

 

─繋いだ手が離れない。


肩の力が抜け落ちる。

人が集まってくる気配。

 

ただ、二人を見つめた。

 

誰かが叫ぶ。

「見つかったか?」

「早く収容しろよ」

 

拳を強く握る。

その手は、ずっと離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ