【最終章】遠野夏樹1
マグニチュード 9.0。震度7。
街はもうそこにはなかった。
全国の予備自衛官はおよそ一万五千人。
年に数回の訓練しかない。
普段は、ただの工場作業員だ。
そんな自分が、ここに立っている。
─救助開始前。
指定された小さな待機スペース。
煙草に火をつける。
吐いた煙が湿気を含む。
白いシートの中だけ、
現実から切り離されていた。
安全靴だけがやけに痛む。
「夏樹さーん」
呼ばれて振り返る。
片手を拝み手にして寄ってくる。
「早く帰ってビール飲みたいっすね」
吐いた煙がこちらに向かう。
シートの中で行き場を失った煙が漂った。
床に落ちていた吸殻を灰皿に押し込んだ。
「尚也…」
「緊張感どこに置いてきた?」
灰皿に同時に手を伸ばす。
手が触れそうになる。
「あっ、すんません」
尚也が譲った。
「いや…しょうがなくないですか」
「やる気出ないっすよ」
尚也が肩を落とす。
「その辺にしとこうや」
─短い沈黙。
「ホント、真面目っすね」
視線が逃げる。
集合の合図がかかる。
「もう、時間だぞ」
尚也の肩を軽く叩く。
灰皿に張られた水に、煙草が沈む。
※
灰色の空に、飲まれそうになる。
湿気が肌にまとわりつく。
鉄の匂いが、鼻を刺した。
「二班集合!」
立ち姿から違う。
学生時代の部活が頭をよぎる。
普段聞きなれない、腹の底からの声。
遠くに積まれた、瓦礫の山。
足の痛みが強くなる。
「二班、瓦礫撤去。捜索開始」
「二次災害注意」
「道具忘れんな」
喉の奥から返事をした。
※
立ち上がる埃が、目を痛める。
ラバー手袋の上からバールを握る。
冷たさと重さが腹に来る。
見渡すと残っている建物も多い。
ただ、古い木造住宅は倒壊が目立った。
人の声が届かないくらいの重機音。
それが、静寂を打ち消していた。
「夏樹さーん」
バールを引きずりながら寄ってくる。
「口ばっかじゃなくて手も─」
遮られる。
「えー、それより」
「帰ったら何食べたいですか?」
─短い沈黙。
「かつやのカツ丼松…に豚汁大」
灰色の雲から少し光が漏れる。
「かつやいいっすね」
「自分は吉牛特盛がいいっす」
目線が合う。
「卵は付けなくていいのか?」
少しだけ頬が緩む。
「自分はつゆだく、卵なしの七味大量っすね」
尚也も釣られて小さく笑った。
※
「おーい!」
瓦礫の山の向こうから、
誰かの大声が響く。
「こっち見つかったぞ!」
「手ぇかせ!」
木片、ガラス片、家電。
全て燃えた跡が残る。
─重い。
瓦礫なんてものじゃない。
これは、誰かの生きた痕跡。
「夏樹さん…」
尚也が耳元で囁く。
「多分アレっすよね」
視線は瓦礫の奥に見える黒に向く。
─長い沈黙。
誰かが率先して指揮をとる。
「この柱どけるぞー!」
「せーの!」
焼けた埃の臭いで息ができない。
─黒くなった人の形をした何か。
遠くの重機に視線を逃がす。
それは、痕跡を持ち上げて積み上げる。
何人かは、後方に下がる。
─嗚咽。
誰かの何かが溢れる。
手が大きく震える。
─息を吸う。
胸の前で小さく手を合わせる。
震えは収まらない。
※
持ち場に戻ってからも、視界の黒が消えない。
尚也は口も手も止まっている。
「おい」
「喋らんでもいいけど、手は動かせよ」
「あの後じゃ無理っすよ」
「俺の負担を増やすな」
「夏樹さんと俺の仲じゃないっすか」
猫撫で声に腹が立つ。
「どんな仲だよ」
「そもそも俺らが会ったのって…」
─短い沈黙。
「忘れるなんて酷いっすよ」
「地震の日にすぐ招集掛かって」
「その日の夜に現着して」
「晩飯一緒に食ったのが初っす」
「ってことは八日─」
「まて!」
微かに聞こえる。
右手で一本指を作って口の前に置く。
…人の声がする。
「おーい!こっちだ」
腹から声を出す。
「誰か来てくれ、重機も頼む」
※
CDプレイヤーのラジオ機能。
普段使われない、それが囁く。
「六月二日、火曜日のニュースをお伝えします」
空間を支配する熱気と埃。
「五月二十五日、月曜日発生の地震の続報です」
「本日未明、行方不明となっていた」
「杉浦健太さん」
「杉浦佳奈さん」
倒れた柱にノイズが反響する。
「が発見されました」
※
倒壊した古い木造住宅。
二階部分がそのまま下に崩れていた。
「おーい!」
銀色の手持ちライトを点ける。
光が瓦礫の隙間に差し込む。
奥の方は全く見えない。
痕跡が少しずつ片付けられる。
「っ…」
粉塵マスク越しでも、鼻を刺す。
強烈な腐敗臭。
声が近くなる。
─ラジオの声。
「なんだ、ラジオか…」
視線を少し移す。
柱の下に影。
「人…?」
視線が固まる。
右手を精一杯伸ばして、
何かを握りしめていた。
そっと手に触れる。
粘着質な何かがラバー手袋に張り付く。
古い肉が。
崩れるような感覚。
何かが剥がれ落ちる。
視界がぼんやり滲む。
この空間に残った何か。
─空気。
─時間。
─思い。
拒んでも、流れ込んでくる。
崩れないよう、必死に抗う。
「うっ…う…」
何も見えない。
「こんなの…」
体の感覚が少し戻ってくる。
右手の袖で顔を拭う。
視線を二人に戻す。
─繋いだ手が離れない。
肩の力が抜け落ちる。
人が集まってくる気配。
ただ、二人を見つめた。
誰かが叫ぶ。
「見つかったか?」
「早く収容しろよ」
拳を強く握る。
その手は、ずっと離れなかった。




