頁めくり
ネットの片隅で流行する、深夜に一人で行う遊びの数々。
都市伝説のように、それは今も密やかに行われては、時々ネットへと広がる。
多くは、用意するものの手軽さと、その後に訪れるかもしれない恐怖に興味を引かれて、試す者は後を絶たない。
そして密やかに日常の裏側へと引きずり込まれていく。
その一つである頁めくり。
用意する物は簡単に手に入るものばかり。
まずは大きな鏡。
姿見と言われるような大きな鏡の方が良い。
合わせ鏡の中で幾つもの姿が重ねられるほど良いのだ。
次に用意するのは自分が生まれるより前に出版された、古い辞書。
欠けや、書き込みがないことが条件である。
そして蝋燭一本と、火をつける道具。
時間は深夜二時。
手順もまた、一見すればただの悪趣味な自己暗示のようにも思える。
まず、部屋の明かりをすべて消し、二枚の鏡を向かい合わせに配置して合わせ鏡の空間を作る。
その鏡の間に、蝋燭を一本土台に立てて置き、火を灯す。
挑戦者は鏡の前に座り、用意した古い本を膝の上に広げる。その際、鏡に映る自分の姿が、蝋燭の炎越しに無限に続く鏡の回廊へと吸い込まれていく様子を視界の端に収めていなければならない。
時間は午前二時ちょうど。
本を開く頁はどこでも構わない。挑戦者は、その頁に書かれている文字を、一言一句間違えずに、声に出さずに心の中だけで音読する。
一頁を読み終えたら、ゆっくりと次の頁をめくる。
これを、ただひたすらに繰り返す。
儀式の目的は、無限に続く合わせ鏡の奥、その中に映る自分が、自分とは異なる速度で頁をめくり始めるのを確認すること。
もし、鏡の中の自分がこちらを無視して勝手に頁をめくり進めていたなら、それが部屋に何かが滑り込んできた合図となる。
そこからが、本当の遊びの始まりだった。
ある大学のオカルトサークルに所属していた青年、佐藤翔は、過去のネットアーカイブを漁る中で、頁めくりの記述を発見した。
佐藤は、既存の都市伝説やネット怪談をなぞるだけの活動に退屈しており、誰も検証していない、埋もれた禁忌を探し求めていた。
「ひとりかくれんぼの原型か?紫の鏡って都市伝説もあったよな」
佐藤は自室のパソコンの前で、ディスプレイの光に照らされながら鼻で笑った。
準備の容易さは、彼にとって好都合だった。
実家から送られてきた荷物の隅に、亡くなった祖父の遺品である大正時代の古い国語辞典が紛れ込んでいたのを思い出したからだ。
革表紙は手垢で黒ずみ、頁の端は茶色く変色して、古い紙特有の乾いた匂いを放っている。
確認の為にざっと中身を確認したが、条件は満たしていた。
古びた染みはあるものの、頁に欠損も無く、書き込みなどはない。
その日の深夜、佐藤は儀式の準備を始めた。
ワンルームの狭い賃貸アパート。
クローゼットの扉についている縦長の大きな姿見の前に、もう一枚、リサイクルショップで買ったスタンドミラーを向かい合わせに設置する。
その中間に、百円ショップで購入した太くて白い蝋燭を置き、ライターで火をつけた。
パチ、と小さな音を立てて炎が安定する。
部屋の蛍光灯を消すと、視界はたちまち橙色が仄かに照らし出す狭い世界へと切り替わった。
鏡と鏡が向かい合うことで、光の回廊が前後にまっすぐ伸びている。
その光の中に、自分の顔や振り向けが背中が交互に、規則正しく縮小しながら整然と並んでいた。
無限に続く自分の列。
不意にテレビ番組で有名な、鏡の中で微笑む女性の映像が頭の中で流れる。
彼女は鏡の前で髪をとかしていて、横顔では笑っていないのに、鏡の中の彼女ははっきりと意思を持ったように微笑んでいるという不気味な映像だ。
今ならAIですぐに作れるだろう映像だが、昔はそのような映像を素人が作るには無理があった。
何より、何故鏡の中のその人間がニヤリと笑うのか分からない所も不気味だったのである。
一瞬、戸惑いが生じたが、ぶるりと佐藤は首を振った。
昨日、オカルトサークルで友人達の前でこの儀式について豪語したのだ。
ただ怪異を探すだけじゃつまらない、試さなきゃ意味がない、と。
止める友人も揶揄う友人もいた。
だが、つまらないのは本心からで。
何より偶に部室に訪れる、気になる女の子が、サークルの片隅にいた事も佐藤の背中を押していた。
別に聞かせていたわけではないが、何となく後に引けない。
話のネタにも、もしかしたら武勇伝を部室で話せるかもしれないという目論見もあった。
佐藤は鏡の間に腰を下ろし、膝の上に国語辞典を広げる。
適当に開いた頁には、現代では使われない旧漢字で、いくつかの単語とその意味が並んでいた。
スマートフォンの時計が午前二時を示す。
佐藤は呼吸を整え、文字を目で追い始めた。
(……あ、い、さ、つ。……あ、い、じ、よ、う。……)
声を出してはいけない。ただ頭の中で、その言葉の響きだけを反芻する。
一頁にびっしりと詰まった文字を読み終えるのに、およそ三分くらい。
指先に少しだけ唾をつけ、カサリ、と静かな音を立てて頁をめくる。
部屋の中は静まり返っていた。
外を走る車の音も、時折聞こえる筈の遠くの犬の鳴き声も今夜は聞こえない。
聞こえるのは、自分の微かな呼吸音と、時折蝋燭の芯が爆ぜる音だけだった。
二頁目。
(……あ、き。……あ、く、し、ゅ。……)
佐藤の視線は活字に注がれていたが、意識の半分は常に、前に広がる合わせ鏡の連続へと向けられていた。
鏡の中の自分たちは、一糸乱れぬ動きで膝の上の本を見つめている。
当然だ。
鏡なのだから。
三頁目。
四頁目。
特に何も起きない。
足が少し痺れてきた。
やはり、ただの都市伝説か。
誰かがネットで創作した、雰囲気だけの怪談。
そう思い始めた時だった。
カサ。
佐藤が指を動かすより先に、ごく小さな、紙が擦れる音が耳に響いた。
佐藤の動きは止まっていた。
自分の手は、まだ頁の端に触れたままで、めくってはいない。
しかし、音は確かに聞こえた。
それも、すぐ側からではない。少し離れた、奇妙に反響するような奥行きのある場所から。
佐藤は動悸が激しくなるのを抑えながら、視線だけをゆっくりと鏡へと向けた。
カサ。
もう一度、その音が確かにした。
無限に続く、自分の鏡像。
手前から一番目、二番目、三番目の自分は、自分と同じように、確認するように驚固した表情で固まっている。
だが。
奥から五番目、あるいは六番目あたりだろうか。
あまりにも小さく、縮小されたその空間の中で、一つの影が、明らかに異なる動きをしていた。
その佐藤は、本に視線を落としたまま、左手をすっと持ち上げ、滑らかな動作で頁をめくった。
実物の佐藤がめくっていないにもかかわらず、鏡の奥の彼は、次の頁へと読み進めていた。
心臓が跳ね上がった。
全身の毛穴が瞬時に開き、冷や汗が吹き出す。
本物だ。
この儀式は、本物だった。
ネットの記述を思い出す。
『鏡の中の自分が勝手に頁をめくり始めたら、それは何かがそこに来ている証拠である。挑戦者は、決して読書を止めてはならない。鏡の中の自分が最後の頁に達する前に、自分が追いつくまで、ただひたすら正しく読み続けなければならない』
あるいは、静止して、鏡の中の自分が止まるのを待つ、という意見もあった。
つまり、同期するのが大事なのだという。
だが、もしこちらが手を止めている間に、相手が最後の頁まで辿り着いてしまったら。
彼らが違う動作をし始めて、同期出来なくなったらどうなるのか、その先は記述が無かった。
佐藤は混乱しかける頭を必死に叱咤し、開いていた頁の文字に視線を戻す。
しかし、恐怖で文字が滑って頭に中々入ってこない。
鏡像の独立。
位相のズレ。
身体の乗っ取り。
スレッドに広がっていた言葉の数々。
焦りと混乱で、どこまで読んだか分からなくなる。
(……あ、く、ま。……あ、く、め、い。……)
焦燥と不安に苛まれながら、心の中の音読を急ぐ。
一頁を読み終え、急いで頁をめくった。
カサリ。
視界の端で、さらに奥の鏡像が、こちらの速度をあざ笑うかのように、立て続けに二頁、三頁とめくっていくのが見えた。
鏡の中の彼らの動きは、次第に連鎖して乱れていく。
七番目がめくり、四番目がめくり、ついには、最も手前にいる一番目の鏡像までもが、佐藤の動きとは無関係に、カサカサと素早い手つきで頁をめくり始めた。
目の前の鏡に映る自分自身が、自分を無視して、恐ろしい速度で辞書をめくっている。
その顔は、俯いていてよく見えない。
だが、心なしか、口元が不自然に吊り上がっているように見えた。
「止めなきゃ……」
本能的な恐怖が、佐藤の理性を塗りつぶした。
こんなものは遊びではない。
暗闇の中、何人もの自分ではない自分を見ながら、本を読み続けるなど不可能だ。
これ以上この空間にいたら、自分が自分でなくなってしまう。
佐藤は、記述にあった終わらせ方を必死に思い出そうとする。
だが、元々曖昧なネットの書き込みだし、どれが正しいのか分からない。
明確な退散の方法など書かれていなかった。
あれこれと、こうすればいいのではないか?という話だけ。
それも、記憶の中で混ざってしまって、混乱して正しい答えも思い出せない。
ただ「蝋燭を消せば終わる」という、この手の怪談にありがちな一文があったような気がした。
佐藤は膝の上の辞書を床に放り出した。
パサリと頁の乱れる音が部屋に響く。
それと同時に、鏡の中の自分たちの動きが一斉に止まった。
すべての鏡像が、一斉に顔を上げ、こちらを凝視する。
何十もの、自分と同じ顔をした虚像の視線が、一方向から佐藤を刺す。
佐藤は悲鳴を上げそうになる口を手で押さえ、這いつくばるようにして中央の蝋燭へ顔を近づけた。
そして、勢いよく息を吹きかける。
フッ。
炎が消え、部屋は完全な闇に包まれた。
ハァ、ハァ、と荒い息の音だけが暗闇に響く。
終わった。
佐藤は床にへたり込み、冷たい汗を拭う。
胸の鼓動はまだ早かったが、視覚が遮断されたことで、最悪の恐怖からは脱したように思えた。
だが、暗闇は暗闇で怖い。
勇気を奮い立たせるように、自分に言い聞かせる。
「……とりあえず、電気をつけよう」
佐藤は壁にある照明のスイッチを探すため、闇の中で手を動かした。
六畳の狭い部屋だ。
少し移動すれば、すぐに壁に突き当たる。
手を伸ばして、壁を伝って立ち上がって暗闇の中スイッチを手探りで探す。
だが、無い。
おかしい、と思って気が付いた。
左側の壁にスイッチが付いている筈なのに、開けたままの扉がある。
心にひやりと刃が当てられたような、恐怖。
扉は右に開く物だったのに、左に開いているのだ。
どくどくと煩く鳴る胸を押さえながら、右側に手を伸ばす。
そこには。
探していたスイッチがあった。
パチリと押せば、明かりが灯る。
振り返れば、左右逆の配置の部屋が、あった。
合わせ鏡と、消えた蝋燭。
鏡の中を見る勇気も無く、視線を逸らしたままその鏡面を下にして伏せる。
クローゼットの扉も締めた。
視線を合わせないように目を逸らして。
もしまた違う行動をされたら、と思うと見る事すら出来ない。
震えながらスマホを手に取って、震える指でタップした。
画面を見た途端、吐き気が込み上げる。
画面に表示されたのは、逆向きの数字。
「嘘だろ……」
自分の呟きが遠くで聞こえる様な気がした。
信じられない。
信じられないが、大学に行く時に持って行く鞄を開けて、中身を出す。
床に散らばった教科書も、儀式に使った辞書も。
全て反転した鏡文字。
右から左へ書かれるはずの文字は、左から右へ。
読めないことは無い。
きっと、鏡に映せばすらすらと読めるだろう。
けれど、普通に文字を目にしただけでは読みにくい。
今まで書いていただろうノートを見れば、書いた文字も同じく。
反転された不気味な文字列だ。
日本語だし、漢字と平仮名がある。
だが、数字もアルファベットも全てが逆で、そのまま読むのは難しい。
子供が書いた出鱈目な字のようでもあり、意味の分からない異世界の文字のようでもある。
今分かるのは、自分が今までいた世界ではない、という決定的な事実だ。
「なんだよこれ……どうすんだよ……!」
床にノートを叩きつける。
ばさりと音を立てて、ノートは床上に滑った。
外を見れば、今まで見ていた世界と逆になった世界だろう。
正面にある建物は大型マンションで、明かりがいくつも並んでいる。
それだけは、いつもと変わらない景色だ。
細かく見る事も無く、ただ遠目に見ていただけだから。
「どうしよう……どうする……」
此処に馴染もうと思えば、馴染めるかもしれない。
でも違う。
違う世界だ。
ただ文字や景色だけが反転した世界というだけならまだいい。
けれど、親は、友人は。
何よりも、もし鏡文字を書く人間が現実にいたとしたら不気味だと思われるように、平凡な佐藤という人間が、この世界では異質なのだ。
今の佐藤の身体にいる魂は。
佐藤は自分の震える手を見た。
鏡の中の世界の自分と入れ替わってしまったのだろうか?という考えが頭を過る。
元に戻るには、もう一度あの儀式をやるしかないだろう。
それでも、元に戻れる保証はない。
あの延々と続く鏡の世界の数だけ、他の世界があるとしたら。
また別の世界に移動するだけだとしたら。
どうやって自分の世界だと認識する事が出来るのか。
じっとりと背中に汗が滲む。
恐怖と、不安と、焦り。
平凡な生活に飽きていた。
だから、ちょっとした冒険のつもりで手を出した遊びだった。
まさかこんな事になるとは思わなかった。
目に映る逆向きの文字は、それだけで気持ちが悪い。
激しい違和感が、眩暈を引き起こすような。
世界から切り離されて、突然大海原に放り出されたような不安と孤独。
見渡す限りの海原で、どちらが陸かも分からないのと同じだ。
此処には居たくない。
ならば、もう一度あの儀式をしなければ。
けれどまだ、佐藤は伏せた鏡を見る勇気さえ涌かなかった。
最近ちょっと忙しくてあまり書けていなかったのでリハビリを兼ねて、久々のホラー。
実際に目にすると結構やばい鏡文字。ジェネレーターとかもあるので試してみると面白いかもしれません。意外に漢字は読みやすいのです。
ひよこはこんな事怖くてできない。ブルブル。




