第九十二話「デンズ村」
走って、走って、また走って――気がつけば夜が明けていた。
「そろそろ休憩しよっか!」
朝焼けの中、クェルが笑顔で振り返る。乱れたミディアムヘアの隙間から、汗がキラリと光る。全身から湯気が立っているのがわかるほど、彼女も全力で走っていたはずだ。
けれど。
「ハーッ! ハーッ! ハー……ッ!」
俺はもう、呼吸をするのもやっとだった。まともな返事すらできず、ただ地面に手をつき、必死に空気を吸う。心臓が破裂しそうなほど鼓動しているのがわかる。
『大丈夫ー? ケイスケ、顔すごいことになってるよー』
リラの念話が響くが、返事をする気力もない。ただ、何とか身体を横たえ、目を閉じた。こんなに全力で走ったのは、人生で初めてだったかもしれない。
「ちょっと休んでてもいいからね! 私も休むし!」
クェルが俺の隣に腰を下ろす。意外と気遣いはあるらしい。だがその声にもまだ余裕が感じられた。さすが銀級冒険者ってやつか。
「いやー、絶対にどこかで倒れるかすると思ってたんだけど……やるね、ケイスケ!」
「……俺が、倒れたら……どうするつもり……だったんだ?」
息が少しずつ整ってきた俺は、かすれた声でそう問いかける。
「そのときはあんたを担いで行こうかなって思ってただけよ?」
事も無げに、当たり前のように言い切る。
人ひとりって、かなりの重量だぞ? それをこんな小柄な女性が? そう思うも、彼女はこともなげにそうするのだろう。
「でもケイスケが走り切ってくれたから、かなり楽になったわ!」
「……そう、か」
褒められてるのかどうなのか、よくわからない。が、少なくともこの女が悪意で俺を走らせたわけじゃないのはわかった。
そのまま30分ほど目を閉じて休む。朝露に濡れた草が、熱を帯びた身体を心地よく冷やしてくれた。意識が遠のく寸前まで、リラの「がんばったねー」という声が、どこかくすぐったかった。
「さて、そろそろ出発するよ!」
「了解」
立ち上がって屈伸してみる。脚はまだ少し重いが、思ったよりは回復していた。
息はもう整っている。多少の眠気を感じるが、それだけだ。
これもチートの恩恵だろうか?
「ほら、見てみなよ」
クェルが前方を顎で指し示す。
「……おお」
朝日を背に、雄大な山脈の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。あれがターランス山地。
なだらかな稜線が連なり、まるで地平に横たわる大きな獣の背のようにも見える。険しさとは無縁のその姿は、むしろ人々を包み込むような穏やかさを湛えていた。
そこから視線を下ろすと、小さな村が見える。
山の麓にひっそりと家屋が立ち並ぶ集落。あれがデンズ村なんだろう。
「もう目的地は目と鼻の先、だよ!」
「……馬車で二日の距離を、一晩で走り切ったのか……俺たち」
改めて思えば、それは異常な距離だった。なんでこんなに急いで来なきゃならなかったんだ? 何か理由が?
俺がそんな疑問を込めてクェルを見ると、彼女は無邪気に首を傾げた。
「ん? なに? いい運動になったでしょ?」
……いや、この女には深い理由なんてないのかもしれない。
「なんでもない。……行くか」
「よし! じゃあこれからが本番だよ! 待ってなよ、まだらちゃん!」
そして、また走り出すクェル。
「……また走るのかよ」
思わずそう呟いて、俺も後を追う。
流石に目的地はもうすぐだ。もう長時間走ることはないだろう。
夜通し走ったことに比べれば一瞬のような時間で、漸く目的地に到着した。
デンズ村。
ターレンス山地の豊富な森林資源を活かした木材や木工製品で生計を立てていた、小さな村。畑はあくまで自給自足の範囲。食料は山菜、茸、そして狩猟によってまかなっていた。
だが、今は――。
村の入口を踏んだ瞬間に、どこまでも重く、沈んだ空気が肌を刺した。
静かだった。ありえないほどに。
時折見かける村人たちの表情には、生気というものがなかった。疲れ切り、希望を失い、ただ生きているだけの顔。その目には、諦めの色すら滲んでいる。
『うわ……ここ、すっごく空気重たいねー。なんか、泣きたくなるかもー』
リラの声も、どこか沈みがちだった。
俺たちは村長の家を訪ね、挨拶を済ませた。老いた男――だが、その背中は異様に小さく見えた。何度も深いため息を吐きながら、現状を語ってくれた。
――まだら熊の魔獣。
デンズ村で、まだら熊の魔獣が出現したと知れ渡ったのは、たった三日前のことだった。
だが、その兆候はもっと前からあったらしい。
最初、山菜採りに出かけた夫婦が戻らなかったのが、約一ヶ月前。
普通なら迷ったか、事故かと思われただろうが、その後、自警団五人が捜索に入り、彼らはそのまま戻らなかった。
天候は悪くなかった。自警団の面々は、幼いころからこの山を遊び場に、そして大人になり仕事場として、山のことを知っている人物たちだった。
この時点で、何かが起こっているのだと皆が考えた。しかし、わからない。
何しろ、誰も戻らず、なにもわからず、皆が行方不明になってしまったのだから。
それでも村の男たちは生活のために山へ入った。木材を切り出すために。結果、更に十人が行方不明になった。
ギルドに助けを求めて派遣された冒険者五人も、うち三人が帰らぬ人となり、一人は両腕と片脚を失う大怪我。そして最後の一人が、片目を失いながらも「まだら熊の魔獣」だったと報告し、ようやく事態は明確になった。
山に突如として現れ、狩人たちを次々と襲い、仕留めた獲物もすべて奪っていく。そればかりか、今は村の近くの畑や家畜にも被害を出し始めたという。
まるでじわじわと追い詰め、その反応を楽しんでいるようだと、村長は語った。
「姿が見えない。けれど突然襲ってくるんだ……。腕利きの若者はみんな、誰も戻ってこなかったんだ……」
村長のその言葉が、何より状況の深刻さを物語っていた。
なるほどな――だから、クェルは急いでここに来たのか。彼女なりに、村を救うために最速で動いたわけだ。
……けど、走る距離ぐらいは教えてくれよ、ほんと。
最後までお読みいただきありがとうございます!
あなたの貴重なお時間を物語に使っていただけたこと、とても嬉しく思っています。
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!




