第七十九話「マデレイネ司教」
朝の空気は冷たく澄んでいて、肌に触れるたびに心が引き締まるようだった。俺は、目的地である教会へと足を速める。目指すは、助祭のヘズンさんだ。
「今日は捕まえるからな……」
俺の気合は十分。
昨日、イテルさんのお腹の子どもの話を聞いてから、俺の頭にはずっと命の精霊と、回復魔法のことが引っかかっていた。命の精霊に働きかけて何かできないか。そのために、今の俺には、より深く魔法を知る必要がある。
だが――。
「いない……だと……?」
教会の扉をそっと開いて中を覗き込むと、そこにいたのは見知らぬ助祭だった。ヘズンさんの姿は、どこにもない。
「これから朝の祈りの時間ですが、ご一緒にどうですか?」
助祭の誘いに、俺は思わず反射的に頷いてしまった。断る理由もなかったし、他の礼拝者たちも集まりつつあって、ここで一人だけ抜けるのも妙に目立ちそうだった。
それにしても、来る時間、間違えたな……。
『そういえば、今日は土木作業をするんじゃなかったっけー?』
「あー。でも依頼を受けたわけじゃないからな。予定変更だよ」
『了解ー』
リラとこっそり会話しながら長椅子に腰掛けると、やがて祭壇の奥から、ひときわ目を引く女性が現れた。長い茶色の髪に艶やかな肌、垂れた目元には穏やかな光が宿り、その瞳がまっすぐ前を見据えている。
マデレイネ司教だ。
彼女の声は柔らかく、それでいてしっかりと響く。
「天にまします我らが神アポロよ、願わくばみ名をあがめさせたまえ。御世を来らせたまえ。こころの天になるごとく、地にもなさせたまえ……」
その祈りの言葉に、礼拝者たちが静かに耳を傾ける。最後の文言が印象的だった。
「……御身とわれらは生まれ出でるより前より繋がり、死してもなおも御身とともに――『ワラーモス』」
『ワラーモス』
皆が斉唱するこの一言が、なぜか耳に残った。
キリスト今日のアーメンみたいな感じだな。意味はなんだろう?
ふと、そんな考えが浮かぶ。ここではありふれた祈りの言葉かもしれないが、俺にとってはどこか懐かしさを感じる響きだった。
礼拝が終わり、周囲の人々が立ち上がる中、俺は少しだけ腰を落としたまま、祭壇の方を眺めていた。すると、見覚えのある白い髪が視界の隅に入る。ティマだ。
祭壇の片づけをしている彼女を見て、思わず声をかけた。
「ティマ!」
「……え?」
ティマが、ぱっとこちらを振り向く。その顔には一瞬だけ緊張の色が浮かんだが、俺の姿を見て、すぐにほぐれた。
「……ケイスケ?」
彼女の周囲には、今日も変わらずキラキラと光の粒が舞っていた。まるで、彼女自身が光を引き寄せているようだ。
俺はティマにヘズンさんの所在を聞くが。
「……ヘズン助祭はいない、よ」
「まじかあ……。出直すかな……」
肩を落とした俺に、ティマがそっと言葉をかけてきた。
「……何か、聞きたいことでも、ある?」
彼女が忙しくないことを確認して、俺はヘズンさんを訪ねた理由を話す。胎児の死産を防ぐために、回復魔法をもっと深く学びたいのだと。
「……そう、なんだ」
「そうなんだよ。回復魔法が、知りたいんだ」
「……私が、使えるのは、あれだけ」
しょんぼりと肩を落とすティマ。その様子がなんとも申し訳なくて、「いや、十分すごいから」と言いかけたところで――。
「どうしました?」
その声に振り向くと、さきほどのマデレイネ司教が立っていた。ティマはすかさず両手の平を胸に当てて礼をしている。思わず俺もティマの動作を真似て、両手の平を胸に当てて礼をした。
「ふふふ、その礼をとるなんて、ケイスケさんも助祭のようですよ」
あ……これ、普通の礼拝者がやる礼じゃなかったのか。確かに周囲の人はしてなかったような……。
「それで? どうしたのです?」
ティマが口を開き、拙いながらも俺の状況を一生懸命に説明してくれる。途中、マデレイネ様の相槌や、俺の補足も入りつつ、なんとか話は伝わったようだった。
「なるほど、回復魔法を知りたいんですね? それなら、私が教えてあげることができると思うわ」
「え? マデレイネ様が、ですか?」
思わずそう言ってしまった俺に、マデレイネ様が微妙に不満げな顔をする。
「……なんですか? 私ではご不満ですか?」
「いやいやいや! そんなことはありません!」
マデレイネ様は大分偉そうな人だ。だからただただ恐れ多いだけです。
「そうですか……私なら色んな回復魔法を教えてあげられるんですけどね……。昨日、お話ししましょうって約束したはずなんですけどね……。およよよよよ……」
マデレイネ様は袖で目元を隠して、泣きまねを始めた。わざとらしいにもほどがある演技だったが、見事なまでに茶目っ気たっぷりだ。
……あ、これ完全にからかわれてるな。
そう察した俺は、恥をかなぐり捨ててノってやることにした。
「あー、是非ともマデレイネ様に教えてもらいたいなー! 美人で優しそうなマデレイネ様に、回復魔法を教わりたいなー! お話したいなー!」
明後日の方向を見ながらそう言うと、今度は横でティマが慌て始めた。
「……え? ……あの!? ……あう」
「ティマもマデレイネ様に教わりたいよなー?」
「……え!?」
そして唐突のパス。ティマは予想通り、固まった。
「そうなのか……、ティマはマデレイネ様に教わりたくないのか……?」
大げさに眉尻を下げて言うと、さらにティマが狼狽える。
そして、とどめとばかりに――。
「ティマは、私には教わりたくないというのですね……。悲しいです。およよよよよ」
――また泣きまねを始めるマデレイネ様。なんだこの人、絶対楽しい人だ。
でも、こんな人が司教なんて……いや、むしろ、こんな風に人の心に近い存在だからこそ、信仰が集まるのかもしれない。
でもさすがにティマの様子がいっぱいいっぱいでやばそうなので、この辺にしておこう。
「じゃあ、お願いします。俺に回復魔法、教えてください」
「はい、喜んで」
マデレイネ様が、にこりと笑った。
その笑顔は、祈りのときの威厳ある姿とはまた違って、どこか母性すら感じさせる柔らかさだった。
こうして、俺とティマは、マデレイネ様から直接、回復魔法を学ぶことになった。
目指すのは――新しい命を守るための、希望の魔法だ。
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