第二十七話「絵本」
食事が終わり、談笑の余韻が残る中、リームさんが俺に声をかけた。
「ケイスケ、少しいいか?」
俺は頷き、彼の後について村長宅を出る。夜の空気はひんやりとしていて、日中の暖かさが嘘のようだった。
「ほら」
リームさんが手渡してくれたのは、湯気の立つ麦茶だった。両手で包むように持つと、じんわりとした温もりが手のひらに染みる。
近くにあった手ごろな丸太に腰を下ろす。リームさんも隣に座り、しばらくは黙って夜空を見上げていた。
「私は、もしケイスケがいいのなら、私たちと同行しないかと提案するつもりだった」
リームさんは麦茶を口に運びながら静かに言った。
「俺と?」
「そうだ。お前を見つけたときから気になっていたんだよ。記憶がない、言葉も最初はままならなかった。そんな子供をこのまま放っておくわけにはいかないと思ったんだ」
俺は少し考える。リームさんから見れば、俺は子供だ。小柄なゴブリンたちと一緒だったから気づかなかったが、実際、ここでは俺の年齢はかなり若く見えるらしい。
「この村に腰を落ち着けるのも悪くない。だが、もし本当に冒険者になりたいのなら、まずは領都に行って登録をしなければならない」
「冒険者……」
「まだ早いと思うがな」
リームさんは少し眉を寄せた。俺くらいの年齢の冒険者はいないのかと聞こうとしたが、彼の表情を見て答えは察した。いないことはないのだろうが、少数派なのだ。
「私とイテルは、このまま南へ向かい、それからまたこのミネラ村に戻ってくる予定だ」
「いつ頃ですか?」
「明後日の朝に出発し、一か月後に戻る。その後、領都に向かうつもりだ」
つまり、それまでの一か月間はミネラ村で過ごし、その間にどうするか決めろということか。
「明日の夜までに考えておいてくれ」
「わかりました」
俺は頷き、残りの麦茶を飲み干した。
その夜は村長宅に泊まることになった。体はすでに清潔になっていたし、遠慮するのもかえって失礼になるだろう。
宛がわれた部屋に向かおうとしたところで、ロビンに呼び止められた。
「ケイスケ、私たちと一緒に寝ましょうよ!」
「えっ?」
誘われたのは子供部屋。ロビンと弟のリエトの寝室らしい。
「いや、さすがにそれは……」
「何が?」
「えっと……」
女の子と一緒に寝るというのは、さすがに抵抗がある。だが、周囲の大人たちも特に反対する様子はない。
「僕もお話したいです!」
そう言ったのはリエト君。まだ六歳だという彼は、クリっとした目を輝かせて俺を見ていた。くせっ毛の茶髪に日に焼けた肌。姉とそっくりな顔つきで、幼さが際立っている。
「本もあるよ!」
ロビンがそう言いながら、数冊の本を見せてくる。
「絵本だけどね」
俺はその言葉に、思わず絵本へ視線を向けた。異世界の絵本。一体どんな内容なのか、興味が湧いてきた。
気になる……。異世界の絵本。文字だって見ることができるかもしれない。
「……少しだけなら」
結局、俺はその誘惑に乗ることにした。
子供部屋に入り、ベッドの上に腰を下ろす。ロビンとリエトは嬉しそうに本を開き、俺に見せてくれる。
「これはね、勇者アレクシスのお話!」
「また勇者の話か」
「だって、アレクシス様はすごいんだよ! 悪い魔王を倒して、世界を救ったんだから!」
リエト君は目を輝かせて話す。どうやらこの世界には、勇者の伝説がしっかりとあるようだ。
「ケイスケも冒険者になるなら、勇者アレクシス様みたいに強くならないとね!」
ロビンが楽しげに言う。
俺が勇者になれるかどうかはわからないが、冒険者になるためには、まずはこの村での時間を有効に使うことが大切だ。
そう思いながら、俺はロビンとリエトが読み上げる勇者アレクシスの物語に耳を傾けることにした。
絵本は、厚紙でできたしっかりした作りのものだった。表紙には勇ましい騎士らしき人物が剣を掲げ、彼の後ろには何やら怪物のような影が描かれている。挿絵も多く、簡単な絵ではあるが、情景がよく伝わってくる。
手に取ってページをめくってみたものの、やはり文字は読めなかった。アルファベットに似ているような気もするが、完全に同じではない。単語は複数の文字で構成されているらしいが、右から読むのか左から読むのか、それとも縦書きなのか、それすらもわからない。
「やっぱり、文字も忘れちゃったの?」
ロビンが覗き込んできた。リエトも興味津々といった様子でこちらを見ている。
「そうみたいだ。やっぱり読めない……。これはなんて書いてあるんだ?」
「それは『勇者』よ」
「じゃあこれは?」
「これは『旅』だよ!」
ロビンとリエトに教えてもらいながら、絵本を読み進めていく。
内容はシンプルで、あるダンジョンに魔王が住み着き、悪さをするので、それを勇者が仲間とともに旅をして倒すというものだった。
はじめ勇者は一人で旅立ち、道中で仲間と出会い、様々な冒険を経てダンジョンの奥へ。そして、最後には魔王を打ち倒す――まさに、俺がイメージする王道の冒険譚そのものだ。
しかし、その中で気になる記述があった。
「この精霊っていうのは、本当にいるものなのか?」
勇者は「精霊」と契約し、魔王に負けない力を得たと書かれている。子供向けの本だからか、何の精霊かまでは書かれていなかったが、それでも興味深い内容だった。
「精霊はいるわよ」
「勇者は雷の精霊と契約したんだよ!」
魔法が存在する異世界ならば、精霊のような存在がいるのも当然かもしれない。
「雷の精霊か……」
思わず呟く。もし本当に精霊と契約できるなら、それこそ俺のような何も持たない人間でも、強くなる手段があるのかもしれない。
勇者アレクシスの冒険は史実に基づいているらしく、小説なども存在するとロビンが教えてくれた。それなら、もう少し詳しく調べることもできるかもしれない。
そうこうしているうちに、話は識字率の話題へと移った。
「この村の人たちは、どれくらい文字を読めるんだ?」
「半分くらいの人は読めるし、書くこともできるよ」
「でも、数字をちゃんと使えるのはその半分くらいかな。計算ができるのは四分の一くらい?」
ロビンの説明によると、文字を読める人は村の半数ほどで、その中でも四則演算をできる人はさらに半分くらい、つまり全体の四分の一ほどらしい。この村は周辺に比べて特に識字率が高いとのこと。
他の村や、この国全体では文字を読めるのは大体四分の一ほど。計算ができるのは一割くらいとのこと。
「ロビンたちは計算もできるのか?」
「もちろん!」
リエトが誇らしげに胸を張る。
彼らに数字の書き方を教えてもらうと、どうやら計算は10進法のようだった。人間の指の数が同じだから、十進法なのだろう。しかし、古代メソポタミアでは「指の関節の数」を使って12進法を用いていたとも聞いたことがある。もしかすると、この世界でも異なる地域では別の進法を使っている可能性もあるのかもしれない。
とりあえず、数字についてはそこまで苦労せずに理解できそうだ。
「雷の精霊か……」
再び呟く。俺のスマホのステータスには、「雷素」や「電素」といった表記はなかったはずだ。だが、精霊が実在し、それと契約することで力を得られるのなら、何か手がかりがあるかもしれない。
……この世界にはまだまだ知らないことが多すぎる。
俺はロビンとリエトが持っている本をもう一度見つめた。この小さな絵本の中にも、何か重要なヒントが隠されているような気がしてならなかった。
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