第二百六十八話「ヘルヴィウス」
間が空いてしまい申し訳ありません!
僕は貴族だ。
――ある日、急にそうなった。
それまでは、ただの平民だった。
母はウェルナーリス子爵家の使用人だった。柔らかな金髪をした、綺麗な人だ。いつも控えめに笑っていて、声も小さくて、けれど僕に向ける目はとても優しかった。
父親が誰なのか、僕は知らなかった。いないことが当たり前だったし、母は教えてくれなかったし、僕も深くは聞かなかった。
僕は母と二人で、小さな部屋で慎ましく暮らしていた。
屋敷の裏手にある使用人用の棟。その一角。
朝は母が早くから働きに出る。僕は簡単な手伝いをして、それから文字の練習をすることが日課だった。
子爵家の使用人の子どもだったから、普通の平民よりは恵まれていたと思う。読み書きも教えてもらえたし、古くなった本を回してもらえることもあった。
食事も、質素だけど温かかった。
「ヘルヴィ、今日はパンに少しだけ蜂蜜をつけましょうか」
母がそう言って笑うと、それだけで一日が特別になる。
夜は同じ寝台に並んで、母の話を聞いた。
領地の緑の話。収穫祭の話。子どものころに見た星空の話。勇者や魔王の物語。
僕は自分が平民だと知っていたし、それで不満はなかった。
母がいてくれれば、それだけでよかった。
それが変わったのは、十歳の春のことだった。
教会で行われる魔法適性検査。
その年に十歳になる子どもたちが集められ、機械に手をかざす。
僕も列に並んだ。
魔法の適性があるのかは子供たちにとってはとてもわくわくすることだ。
僕もそうだった。もし魔法の適性があれば、魔法学校に行って、魔法を覚えて、いっぱいお金を稼げると思っていたから。
それで母を楽にしてあげられると思っていたから。
でも、本当はそんなに期待していなかった。
だって、魔法の適性がある人はあまり多くないってことは知っていたから。
貴族の人だって、魔法の適性がない人がいるって知ってる。平民のほうがもっと少ないことはわかってた。
ところが。
僕が機械に手をかざすと、前の子とは違って、機械が眩しく輝いた。
白く、神聖な光。
ざわめきが起こった。
「光属性……?」
「まさか……」
神父様が僕を見つめる目が変わった。
そして、その報せはすぐに屋敷へ届いた。
その日のうちに、僕は呼び出された。
初めて入る本館の応接室。
高い天井、重たい絨毯、壁一面の肖像画。
重たそうな木の机と、椅子。
そこにいたのが――ガゼットロム・ウェルナーリス。
貴族様だ。
「お前が、ヘルヴィウスか」
低く、重たい声。怖い顔で、僕を睨んでいた。
そして初めて、僕は知った。
自分がこの人の子供であることを。
それからは、あっという間だった。
僕は屋敷に迎えられた。
母は使用人から第三婦人になった。
周囲は言っていた。
幸運だ、って。
平民の子が貴族になったのだから。
でも、全然違った。僕には、何もなかった。何も無くなってしまった。
暖かな朝、優しく静かな夜。母との温かいあの日々が。
ウェルナーリス家。
十代続く家柄。王国の穀倉地を任されてきた、堅実な家。
……らしい。
僕は領地を知らない。
緑の丘も、広い畑も、見たことがない。
知っているのは、王都の貴族街の端にある屋敷の中だけ。
冷たい石壁と無数の肖像画。
どの目も、僕を睨んでいるように見えた。
第一婦人、フリソンカ。
豪奢なドレスに身を包み、宝石をこれ見よがしに揺らす浪費家。
第二婦人、リュドミラ。
高い鼻をさらに高くするような、誇り高い貴族。
その子どもたち。
長男ダロミール。
次男ディルジャン。
長女スヴェトラーナ。
次女ジャスミナ。
三女ヴィヴィアナ。
彼らにとって、僕は何だったのだろう。
邪魔者。
汚点。
父の過ちの証。
自分たちの地位を脅かす異物。
少なくとも、家族ではなかった。
母とは会えなくなった。
「身分が変わったのだ。軽々しく会うな」
父にそう言われた。
母は第三婦人になったはずなのに、僕にとってはとても遠い存在になった。
手紙すらも送ることはできない。
与えられた部屋は広かった。
衣服も、食事も、平民時代よりずっと豪華だった。
でも。
一人で朝起きて。
一人で支度して。
一人で食事して。
勉強をして。勉強をして。勉強をして。
そして一人で眠る。
それが、僕の毎日だった。
でも僕は勉強を頑張って、皆が認めてくれるような貴族になれば母に会えるんだと、必死に頑張った。
それは今でも同じだ。
父はある日、はっきりと言った。
「お前はウェルナーリス家のために神学校へ行け」
机越しに、冷たい目で。
「司祭となり、教会との繋がりを強くしろ。便宜を図れる立場になれ」
そして、続けた。
「そのために、お前は存在している」
そのときに思った。僕は、この人にとって、道具なんだって。
光魔法の適性。
それは神様からの贈り物だと神父様は言っていた。
人が笑って暮らすための、未来を明るくする力だと。
でも違った。
それは父にとって“利用価値”だった。
僕にとっては、むしろ災いだったのに。
最低限の貴族としての礼節や知識を、僕は叩き込まれた。
朝はまだ日が昇りきらぬうちから起きて、支度をする。
食事をしてからはすぐに姿勢、歩き方、食器の持ち方、言葉遣い。昼は歴史と法と領地経営の基礎。夜は教会から招かれた助祭による光魔法の講義。
泣いても折檻されるだけだった。
喚いても食事が抜かれるだけだった。
僕は学習した。
いや、躾けられたのだ。
幸いにも、僕はそこそこ頭が良かったらしい。覚えろと言われたことは覚え、失敗すれば理由を考え、次は同じ過ちを繰り返さない。感情を押し殺し、笑顔を貼り付けることも覚えた。
神学校への入学は、十一歳の春。
ウェルナーリスの名を名乗る以上、最低限の礼節と知識が必要だと父は言った。そのための時間が、僕には与えられた。
僕の目標はひとつだけだった。
神学校に行って、偉くなる。そうすれば母に会える。胸を張って母を守れる。そう信じていたから。
母はよく僕にこう言っていた。
「ヘルヴィ、辛いときはね、笑うのよ。辛いときに暗い顔をしていたら、悪い精霊が集まってきていつまでも幸運は訪れないの。だけどね、笑うといい精霊が寄ってきて、幸運を引き寄せてくれるの」
母は僕が泣いているときはいつもそう言って、僕を慰めてくれた。
だから僕は笑った。
柔らかく。
あどけなく。
貴族の子らしく。
でも心の奥では、ずっと思っていた。
あの小さな部屋で、母と蜂蜜つきのパンを食べていた日々のほうが、よほど幸せだったと。
僕は貴族だ。
けれど、僕の居場所は、どこにもなかった。
第一婦人の子どもたちは屋敷の中で大きな顔をしていた。
僕は隅を歩いた。
廊下ですれ違えば、視線が刺さる。使用人たちは助けてはくれない。
それでも僕は、耐えた。笑顔を浮かべた。
母は人質だったから。
もし僕が逆らえば、母の立場が悪くなる。
それだけは、絶対に嫌だった。
兄妹たちのいじめにも耐えられた。
長男ダロミール・ウェルナーリスは、土魔法の適性を持つ優秀な跡取り。
次男ディルジャン・ウェルナーリスは要領が良く、僕を見下すのが好きだった。
長女スヴェトラーナ・ウェルナーリスは無関心を装い、次女ジャスミナ・ウェルナーリスは露骨に侮蔑の目を向ける。
まだ幼いヴィヴィアナ・ウェルナーリスでさえ、周囲の空気を察して僕を避けた。
義母たち――第一婦人フリソンカ・ウェルナーリスと第二婦人リュドミラ・ウェルナーリスは、僕を「余計な芽」と見ていた。
父の目のあるところでは何も起きない。
殴られる。蹴られる。無様に転べば笑い声が背中に向けられる。少しでも泣けばもっとそれがひどくなった。
けれど、廊下の曲がり角で肩を強く押されることは日常茶飯事だった。階段から突き落とされかけたこともある。食事にごみを混ぜられ、笑われたこともある。
怪我は増えた。
だから、僕は治癒魔法を必死に練習した。
助祭の教えを思い出しながら、詠唱して光を手に集める。温かな輝きが傷口を包み、痛みを和らげていく感覚。最初はかすかな光だったそれも、何度も何度も繰り返すうちに、はっきりと形を成すようになった。
こちらでもそれなりの才能があったのだろう。僕は二つの魔法を習得した。基礎的な照明と、治癒。
特に治癒は、必要に迫られていた分、上達が早かった。
習得したことを父に報告すると、彼は腕を組んで言った。
「まだ二つなのか? もっと使える魔法を増やせ」
褒め言葉はなかった。
「はい、父上」
僕は頭を下げた。
もっと頑張ろうと思った。けれど、魔法を体系的に教えてくれる者はいない。助祭は基礎までしか見てくれない。だから僕は、覚えている魔法をひたすら磨き続けた。
だけど、魔法を使う姿を見られれば「生意気だ」と殴られる。
光で傷を塞げば、「気味が悪い」と蹴られる。
それでも、そんな程度で済んでいた。
転機は、父の何気ない一言だった。
「もし司祭にでもなったら、家督を譲ってやってもいいかもな」
冗談のような声音だった。
けれど、その言葉は屋敷の空気を一変させた。
それまでのいじめは、まだ子供じみた悪意だった。だけど、その日を境に変わった。
明確な敵意と殺意を伴った、排除という選択肢。
テラスで背後に立つ気配。
階段の上からの囁き。
食事の匂いのわずかな違和感。
僕は学習していた。
いじめられた日々が、警戒心を植え付けていた。
背後の足音に敏感になり、壁際を歩くようになった。テラスでは必ず柱を背に立つ。食事はまず匂いを確かめ、少しだけ口に含んで様子を見る。
小さな嫌がらせは日に日に増えていった。
けれど、僕は無事だった。
治癒魔法も、ますます上達した。打撲も切り傷も、自分で癒せる。誰にも頼らず、証拠も残さず。
それが、僕の生き延びる術となった。
やがて一年が過ぎ、神学校への入学手続きをするため、王都へ向かう日が来た。
僕はちゃんと貴族の子供としてふるまうことができるようになっていた。
準備は済んでいる。あとは神学校のある王都へと向かうだけ。
本来なら、子爵家の子息が王都へ赴くならば、それなりの護衛が付くはずだ。だが、義母が強く反対した。
「光魔法の適性があるとはいえ、まだ子供ですわ。大げさな護衛など不要でしょう」
そうして決まった供は、二人だけ。
使用人のエンブスと、クリス。
エンブスは三十五歳。感情をあまり表に出さない男の使用人だ。僕に特別な好意はないだろう。ただ、淡々と職務をこなす。
けれど、クリスは違った。十七歳の彼女は、僕を弟のように扱ってくれた。怪我に気づけばそっと薬を塗り、食事が減らされれば自分の分を分けてくれたりした。あくまでも、他の人の目がないところだけの話だけど。
それでもクリスの存在は僕の救いだったと思う。
「坊ちゃんは、きっと立派になります」
小さな声で、何度もそう言ってくれた。
エンブスは、そんなクリスをちらりと見ては、何も言わずに僕の荷を持つ。きっと彼は、クリスのことが好きなのだろう。だから僕にも、最低限の誠実さを向けてくれる。
王都へ向かう馬車に乗り込むとき、僕は屋敷を振り返った。
あそこに母がいる。
偉くなれば、きっと堂々と会える。
そのための第一歩だ。
「僕、頑張ります」
小さく呟くと、クリスが微笑んだ。
「ええ、ヘルヴィウス様」
僕はまだ知らなかった。
この護衛の少なさが、義母の策略だということを。
王都までの道のりに、何が待っているのかを。
それでも僕は、前を向いていた。
母に会うために。
生き延びるために。
僕は、光を握りしめていた。
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