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悠久の放浪者  作者: 神田哲也(鉄骨)
第四章

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第二百五十二話「レガスと空へ」

 安息日の朝。

 王都の鐘が鳴るよりもずっと早く、俺は寮を抜け出した。

 まだ空気は冷たく、朝靄が低く漂っている。寝ている連中を起こさないよう、そっと靴を履いて出たときには、空の東端がようやく薄く明るくなり始めたところだった。


 今日は冒険者活動はしない。

 というか、したくない。

 あれこれあったこの一週間――訓練場に連行され、聖騎士団の連中に囲まれ、勇者候補になってしまったあの地獄の流れ。

 そのあとも胸の奥の怒りと疲れがずっと冷えずに燻っていて、正直、気を抜かないと爆発しそうだ。


 だから今日は、完全にオフ。

 レガスを呼んで、思い切り飛んで、叫んで、暴れて、ストレスを全部どこかに吹き飛ばしてやるつもりだった。


『レガス、明日の朝、俺のところに来れるか?』


 昨日の夜、そう念話しておいた。

 返ってきた返事は相変わらずの勢い。


『イク! ケイスケ、オレ、イク!』


 ……かわいいやつである。


 王都の郊外まで来た俺は、草原の端に立ち、朝焼けに染まりつつある空を見上げていた。

 レガスはまだ来ない。

 この静けさは久しぶりだ。

 風が草を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声しか聞こえない。


 ゆっくりと空が赤く、橙に変わっていく。

 その光の中――ふいに、大きな影が差した。


『ケイスケ、オレ、キタ!』


 空から勢いよく声が降ってきた。

 巨大な翼が影をつくり、レガスは風を巻き上げながら着陸した。

 相変わらず迫力ある登場だ。


「おう。お疲れ……って、あれ?」


 レガスの姿を見て、俺は思わず首を傾げた。


 なんだろう。

 色が……違う?


「……お前、少し変わった?」


 以前のレガスは灰色の鱗というか、そんな感じの色だったはずだ。

 だが今目の前にいるレガスは、どこか緑がかっている。

 光のせいじゃなく、本当に色が変わってる。


 レガスは嬉しそうに胸を張った。


『ケイスケ、オレ、ツヨクナッタ!』


 言うやいなや、レガスは翼を一振り――いや、振っていない。

 翼を広げただけで、強い風が俺の髪をばさっと押し返した。


「うお……!? これは、まさか魔法か?」

『ソウ、マホウ! オレ、マホウ、ツカエルヨウニナッタ!』

「マジか」


 言葉が勝手に出る。

 レガスが……魔法。

 いや、飛竜って魔法使えないわけじゃないんだろうけど、レガスがこんなに簡単に?


 とにかくスマホだ。

 俺は画面を呼び出し、レガスのステータスを確認した。


「あ、同期率が二十パーセント超えてる……」


 ああ、なるほど。そういうことか。


 俺の自動スワップ機能をレガスの風素に設定していたのだ。だからそれが順調に上がったのだろう。

 同期率二十パーセント。

 それはつまり、もうそこそこ魔法を扱えていい数値だ。

 俺はもっと高いが、それでも詠唱なしには使えないのに。


『無礼なトカゲも、風を操れるようになったのですね。私からすればまだまだですが』


 アイレの声が、相変わらずの上品な毒を吐いた。

 レガスとの初コンタクトの際、俺が攫われたことをまだ根に持っているらしい。


「いやまあ、そりゃ風の精霊からしたらまだまだだろうけど……」

『当然ですわ。ですが、努力は認めますわよ。ええ、ほんの少しだけ』


 ……ほんの少しだけなんだな。


 レガスは嬉しそうにしっぽをばたばたと振り、


『オレ、モットマホウ、ツカエルヨウナル!』


 と張り切っている。


 しかし、気になる点がひとつあった。


「なあレガス、お前今、詠唱してないよな? なんで感覚的に魔法使えるんだ?」


 レガスは首を傾げる。


『……? フツウ、ツカエル』


 そこへ、カエリがひょいと姿を見せた。


『人間は言葉を持ってるからなー』

「言葉?」

『詠唱があるってことさ。あれって定型文なんだよ。便利な分、言葉に頼って、感覚で魔法を発現させる術を忘れたってわけ』


 なるほど……そういうことか。


 カエリが続ける。


『魔法使える人間自体が少ないだろ? 感覚的に魔法を扱う方法なんて教えられるわけがない。詠唱覚えたほうが誰でも一定の効果になるから、そりゃ広まるわ』


 言われてみれば、妙に納得だ。

 ロシオリ―先生も授業でそんなこと言っていた気がする。


「あれ? でも、詠唱の文言は全然解明されてないらしいけど?」

『それは今の人間たちが忘れてるだけだろ? もともとは人間が作ったんだから、そういうことだぞ、主』

「……ふむ」


 つまりは、今はその歴史が失われているが、魔法の詠唱はその昔普通に内容を理解できてたってことか。

 まあそれにしたって、詠唱がなんで日本語なのかは謎だが。


 レガスが無詠唱ができるのは、魔力との同期感覚が動物のほうが純粋だから、というわけか。

 ゴブリンのメイコも確かに詠唱なんてしていなかった。


 レガスは得意げに胸を張り続ける。


『オレ、カゼノマホウデ、ハヤクトベル! タカクトベル! ミテホシイ!』

「はいはい、分かった。よし……でも、今日は別の目的があるんだ」


 レガスは首を傾げる。


『モクテキ?』


 俺はぐっと拳を握った。


「あれこれありすぎて、ストレスが溜まってるんだよ。だからお前と飛んで、暴れて発散する」


 あの訓練場での無理矢理な手合わせ。

 総長相手に光弾ぶっ放した怒り。

 勇者候補にされた絶望。


 全部、まだ胸の奥でぐつぐつ煮えてる。


 飛んで暴れて吹き飛ばさなきゃやってられない。


「レガス、東のほうに向かってくれ。どこか人のいない場所だ」

『ワカッタ!』


 レガスは俺を背に乗せると、翼を大きく広げた。


 驚くほど滑らかに空へ浮き上がる。

 まるで重力が軽くなったような感覚だ。


「速いな……!」

『オレ、ツヨクナッタカラ!』


 風の魔法を覚えた影響なのか、レガスの飛行は前よりも安定していて速い。

 俺を乗せているのが嬉しいのか、あるいは成長した姿を見せたいのか、いつも以上に全力だ。


 高度はどんどん上がり、やがて雲を突き抜ける。

 視界が一気に広がった。


 遠くに見えるのは――海だ。


「お、おおぉ……!」


 思わず声が漏れる。

 ビサワに行ったときはラプトワ大河を渡ったが、これは桁が違う。

 地平線の向こうまで続く、果てのない青。


 雲の上を飛ぶレガスの足元で、陽の光が海に反射してきらきら輝いている。

 まるで巨大な鏡のように、朝日を跳ね返していた。


 空気は澄んでいて、雲の切れ間から吹き上げる風が服をたなびかせる。

 少し冷たいが、それがまた心地よい。


「すげえ……」


 下を見ると、雲海の切れ目から深い群青色の水面が見え、その上を風が走って波紋を作っている。

 レガスの影が雲に映り、俺たちを追いかけていた。


 レガスが振り返り、嬉しそうに叫ぶ。


『ケイスケ、タノシイカ?』

「……ああ。めちゃくちゃ気持ちいいよ」


 ストレスが確かに、風に削られていくような気がした。

 胸の中のもやもやが、少しずつ晴れていく。


 空は広い。

 海はでかい。

 こんな景色を見たら、勇者候補だの訓練場だの悩んでることが、小さく感じる。


 ……まあ、小さく感じるだけで、問題は山積みなんだが。


 それでも今は、風に身を任せていたかった。


 レガスは大きく旋回し、さらに高度を上げる。

 朝日が雲の上に出て、世界が一気に黄金色に染まった。


 俺は思わず目を細める。


「……よし、レガス。今日はとことん飛ぶぞ」

『オウ!』


 レガスの返事は力強く、空気を震わせた。


 こうして俺は、誰もいない空の上で、ようやく心の底から息をついたのだった。


 何も考えずに、ただ流れる雲と海を眺める。

 風の唸りと足元の広大すぎる青を眺めていると、きらりと反射するものがちらほら見えた。最初は海藻か何かが浮いているのかと思ったが、形がおかしい。


「なんだ、あれ。葉っぱみたいだけど」

『主、あれは人間の船ですわ』

「……なるほど。そういうことか」


 上空からだと距離感が狂う。小さな漂流物にしか見えなかったものが、よく見ると船体の輪郭を持っていた。

 漁船なのか、それとも商船か。帆も見えるには見えるが、遠すぎて判別がつかない。ただ、人の営みが確かにそこにある。


 視線を前に戻すと、海の向こうに陸が見えてきた。


「……早くないか?」


 まだ飛び始めて一時間も経っていない。

 レガスの移動速度が尋常じゃないのは理解していたつもりだが、まさか海を越えるのにこんなに早いとは。


 それとも、単に海が狭いのかもしれない。


「もしかしてあの大陸って、ビリガス共和国とかナダーツ帝国のある大陸か?」

『さあ? でも人間の気配がありますわ』とアイレ。


 それを聞いて、俺は顔をしかめた。

 下手に他国に入り込んで、面倒なことになったら困る。特に、俺はいま茶髪に藍色の目という偽装状態だ。無害アピールはしているつもりだが、捕まるのはごめんだ。


「レガス、進路変更しよう。北へ向かってくれ」

『ワカッタ!』


 レガスの返事とともに、大きな体が滑らかに旋回する。

 すると数分もしないうちに、さらに別の陸地が見えてきた。


「はえぇ……」


 どれだけ近いんだこの海域。

 俺はてっきり太平洋クラスの広大な海だと思っていたけど、どうやらそうじゃないらしい。

 南がビサワ、東がビリガス共和国とナダーツ帝国。なら北は?

 そういえばあまり世界地図みたいなものを気にして見たことが無かった。サンフラン王国から東といえば東のエリアだから、ビリガス共和国とナダーツ帝国のどちらかなのだろうか。

 それにしてもこうして見ると、まるで大きめの内海みたいな構造になっている。


『マタリクアル。コノママムカウカ?』

「ひとまずこのまま直進で。人気のない森とかあったら降りてくれ」

『ワカッタ!』


 そのまま高度を保ちながら進むと、アイレの声が響く。


『……主、あの半島。争いの気配がしますわ』

「半島か……」


 下を見るが、正直なところ俺の目では何もわからない。

 ただ、アイレの感知能力は確実だ。風の精霊である彼女が「争いの残滓」を感じるのなら、それは本物だ。


「高度上げたほうがいいか?」

『別にいいよー。私が姿を隠すからさ』とリラ。


 次の瞬間、周囲の空気がゆらぎ、レガスごと俺たちが光学的に消えた。

 これでただでさえ高度を飛行している俺たちを見つけるのはかなり困難だろう。


 俺たちはやや高度を落として飛行を続けた。

 沿岸部が見える。そこには港町らしき街があり、大小さまざまな船が並んでいる。


「あれ、軍船か? かなりでかいな」


 俺は思わず見惚れた。

 映画でしか見たことがないような巨大な帆船。

 木造の船体が陽光を反射し、帆が大きく膨らんでいる。

 形状から見て、商船ではなく軍船だろう。艦砲は……さすがにないか。


 レガスは高速で通り過ぎてしまい、ゆっくり観察できないのが残念だった。


 都市を越え、さらに北へ。

 しばらく飛ぶと、遠くの地平線に黒い煙が上がっているのが見えた。


「……煙?」

『ですわ。トカゲ、もっと上昇なさい』

『ワカッタ!』


 アイレの直接の指示で、レガスが上昇する。

 高度が上がるにつれ、視界が開け、煙の正体がさらに明確になる。


 焼け焦げた大地。

 崩れた建物。

 そして――黒煙が複数、空へと伸びていた。


 争いのあとだ。


 高度は何百メートルもあるため、人影は確認できない。それでも、空気に混じる“何か”が理解できた。


「……瘴気だ」


 大地の上に薄く、紫がかった靄のようなものが広がっている。

 ビサワで見た、あの濃密で吐き気を催すような瘴気とは違う。

 ただ、それでも、魔素と人の残留思念が結びついた、重い気配であることは変わらなかった。


 怨念の塊が、大地の呼吸そのものを汚染しているような、そんな景色だった。


『主、どうしますか?』


 アイレの問いに俺は息を吐いた。


「……何もしない。局所的なら浄化できるけど、これだけ広いと無理だ」


 本音を言えば、ただ見ているだけというのは胸が痛む。

 けれど、俺は万能じゃない。

 何もかも救えるほど強くもないし、俺の立場はまだまだ不安定だ。


 視線を逸らしながら、俺は空の青だけを見た。


 この世界の地図を、俺はまだ知らない。

 だけど、こうして空を飛んでわかることもある。

 戦争の火種が、そこかしこに転がっていること。

 人が死ねば瘴気が生まれ、大地に居座り続けること。

 そして、その連鎖が止まる気配を見せないこと。


「……はぁ、マジかよ」


 思わず口癖が漏れた。


 瘴気の薄紫が、空気を侵すようにゆらいでいた。

 その真上を飛ぶ俺たちの影だけが、やけにくっきりと地表に落ちていた。


 この大地に、どれだけの悲しみが積み重なっているんだろう。

 今の俺には、その重さを受け止めるだけの器はない。


 ただ――知ってしまった以上、どこかに引っかかる。

 いつか、避けては通れない場所なのだろう、と。


「……行こう、レガス。ここに長居しても仕方ない」

『ワカッタ!』


 レガスの巨大な翼が風を掴み、俺たちはさらに高く、さらに北へと飛び出した。

 薄紫の瘴気が遠ざかるたび、胸の奥に残るざらついた感情だけが、消えずに残ったままだった。


最後までお読みいただきありがとうございます!

ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!


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