第二百三十八話「スラム街」
神学校に入学してから、最初の日曜日。
世間的には安息日と呼ばれる日らしいが、俺にとっては少し違う。休むよりも、体を動かしていたいタイプだ。
それに、今のところ神学校の生活に慣れるだけで精一杯だったから、こういう日くらいは“自分のペース”に戻りたかった。
まだ朝靄が残る王都の通りを抜け、冒険者ギルドへと向かった。
日曜の早朝だから空いているかと思っていたが――どうやら読みが甘かった。
広いギルドのロビーには、すでに依頼書を物色する冒険者たちであふれかえっている。革鎧のきしむ音、武器を磨く金属音、そして酒場の隅で響く笑い声。
異様な活気。
まるでこの場所だけ、王都の別世界のようだった。
「お、ケイスケじゃねえか!」
聞き慣れた声がして、振り返る。
そこには、いつも通り茶髪をオールバックにしたニトがいた。鎖骨まで開いたシャツに、革の胴着。片手にはまだパンをくわえている。
どうやら、寝起きそのまま出てきたらしい。
「ああ、ニト。おはよう」
「おう。……って、お前、今日も休まねえのか? 安息日なんだろ、神学校の坊ちゃんは」
軽口を叩きながら、ニトがパンを飲み込む。
俺は苦笑して肩をすくめた。
「まあ、疲れてるわけでもないし、寝てても落ち着かない。せっかくだし、今日も依頼行こうと思って」
「はっ、真面目かよ。……まあ、いい。仕方ねえ、付き合ってやるか」
そう言って、ニトはにやりと笑う。
いや、頼んでいないんだけど……。とは思ったが、ありがたいのも事実だ。
あの軽い笑みは、どこか頼もしさもある。俺は笑って頷いた。
「ありがとう。じゃあ、今日は何にする? できれば剣を振ったりできる系の依頼がいいんだけど」
「そうだな……」
ニトは掲示板に貼られた依頼票をざっと眺める。
そして、一枚を指で弾いた。
「これだ。蛇型魔獣の駆除。場所はスラムの墓地で出たって話だ」
「スラム街……か」
聞き慣れた単語ではあったが、正直、行くのは初めてだ。
王都の北側に広がる貧民区――という程度の知識しかない。
「ニト、スラム街って詳しいのか?」
「ああ、そりゃな」
ニトは依頼票をギルドの受付に渡しながら、ぼそりと言った。
「俺はそこで育ったからな。クソみてえな場所だ。……とはいえ、あそこはすぐに変わっちまうけどな」
「変わる?」
「ああ。ある日突然、住んでる人間がいなくなったり、建物が壊されてたり、逆に新しく増えてたりな。道も塞がれたり、掘っ立て小屋が並んで迷路みてえになる」
「マジか……」
思わず口に出る。
まるで秩序がない。
王都の中の王都じゃないような、そんな場所を想像する。
「スラムにはな、それぞれ顔役がいる。地域ごとに仕切ってて、そいつに逆らえば、生きていけねえ」
「顔役……ギャングのボス、みたいなもんか?」
「そうだな。あの辺の連中は下手な貴族よりも権力があるぜ。王都の警備兵も滅多に入らねえしな。あいつらが法律みてえなもんだ」
「それって、ほぼ無法地帯じゃ……?」
「まあ、そう言えなくもねえが、完全な無法ってわけでもねえ。王国の法律も一応はある。けどな、それは最低限だ」
受付嬢から依頼許可の証書を受け取り、俺たちはギルドを出た。
王都の南西へ向かう道。ニトの足取りは慣れている。
「ギャングの連中は、王都の大物貴族とつながってる。だから完全に放置ってわけじゃねえ。裏の金の流れを考えりゃ、あそこも立派な町の一部だ」
その言葉に、俺は背筋がぞわりとした。
どこの世界でも、そういった世界はなくならないらしい。
しばらく歩き、煉瓦造りの建物が木造の掘っ立て小屋に変わりはじめるころ、ニトが振り返った。
「お前、スラム街来るの初めてだろ?」
「ああ。全くの初めてだ」
「だよな。……じゃあ、最初に一つだけ絶対に守らなきゃならねえことを言っとく。いいか、よく聞け」
ニトの声が、急に低くなった。
その眼は冗談ではない。冗談の入り込む隙間もなかった。
「絶対に、何があっても“見て見ぬふり”をしろ。たとえ人が殺されそうになってても、だ」
「……マジか」
「ああ、マジだ。スラムの中じゃ、それが唯一の掟みてえなもんだ」
俺は息を飲んだ。
「でも……もし止めようとしたら?」
「痛い目を見るか死ぬな。確実に」
即答だった。
ニトの声には、一片の迷いもない。
「死んだやつに近づくくらいなら問題ねえ。だが、揉め事には絶対に首を突っ込むな。お前が神学校の生徒だとか関係ねえ。奴らはよそ者を一番嫌う」
「……了解」
「いいか、ケイスケ。スラムの中で起きることには、全部理由がある。人が人を殺すのもな。それはギャング同士の報復だったり、裏切りだったり、粛清だったりだ。だから、どんな場面でも見ない。それが生き残るための鉄則だ」
ニトの言葉は、重く胸に沈む。
たぶん、彼自身がそれを痛感する経験をしてきたんだろう。
彼の視線の奥に、一瞬、過去を思い出すような陰が差した。
「……わかった。約束する」
「神さんに仕える予定のお前にゃ、ちっとキツいかもしれねえけどな」
「……まあ、マジできついな。でも、守るよ。命あっての話だし」
俺がそう答えると、ニトはようやく口の端を上げた。
「そうこなくちゃな。ま、あんまり構えるな。そうそう危ねえ目に遭うもんでもねえ。……が、覚えておけよ」
俺は頷く。
それ以上、何も言えなかった。
空を見上げると、朝の青がだんだんと薄れ、街の輪郭が陽に照らされはじめていた。
だが、目の前に広がるスラム街の入り口――崩れかけた石門の向こうだけは、まるで陽の光を拒むように、濁った陰が溜まっている。
足元の石畳が途切れ、舗装の甘い土の道に変わるあたりから、すでに空気が違っていた。
同じ王都のはずなのに、まるで別世界だ。
人の声がする。
どこかで子どもが泣き叫び、遠くで怒鳴り声が響く。
靴の裏に触れる地面は、土ではなく、擦り切れた灰色の泥。
ニトが短く息を吐いた。
「行くぞ。足を止めんなよ」
「ああ」
俺たちは並んで、暗い路地の奥へと足を踏み入れた。
王都の北側――スラム街。
そこは、王都の外に広がる“もうひとつの世界”だった。
「……スラムって、やっぱり壁の外にあるんだな」
「まあな。王都の外壁の内側に入りきらなかった連中が作った掃きだめみてえな街だ。もともとは処刑場だったか墓地だったかなんだったか、碌な場所じゃなかったらしいが、気づいたらこうなってたって話だ」
ニトが呟きながら、片手をポケットに突っ込んで歩く。
朝の日差しはまだ柔らかいのに、どこか空気が重たい。
生ごみの腐ったような匂いと、湿った土の臭気が入り混じって鼻を突いた。
『空気最悪ー』
『主、前のように臭いを遠ざけますか?』
『いや……いいよ。これもひとつの経験だ』
道の両脇には、木の板や石くずで作った掘っ立て小屋。
屋根の代わりにぼろ布をかけているだけのものもある。
そして、そんな小屋の隙間には、目だけがぎらりと光る子供たちがいた。
何をしているのか分からない。けれど、こちらをじっと見ている。
「気をつけろよ」
「……ああ」
ニトの声が妙に低く響いた。
俺が感じた違和感を、ニトは最初から分かっていたんだろう。
スラム――。
どこからがそうなのか、はっきりした境界線はない。一応あの崩れた石門がそうだとされているらしいが、確かではない。
けど、足を踏み入れた瞬間に分かる。
ここからは“別の法”が支配している、と。
「まずはこの辺りの顔役のとこに行くぞ」
「顔役?」
「ああ。いくら依頼があったからって、勝手に動いちゃいけねえ。縄張りの許可が要るんだ」
ニトの言葉に、思わず眉をひそめる。
この国の法律よりも、顔役の許可が優先される。
つまり、ここでは王の法より掟が上だということか。
「……了解」
「面倒とか言うなよ。命の保証があるだけマシだ」
ニトは振り返らずに笑った。
その笑いは軽いが、目の奥には緊張があった。
歩くうちに、建物の形がさらに歪んでいく。
壁が崩れた家、扉の代わりに板を打ち付けた小屋。
地面はぬかるんでいて、足を踏み出すたびにぬちゃっと音がする。
靴の裏が泥で重たくなっていく感覚が嫌でも伝わった。
『主ー。ここ、空気悪いぞ。魔素の流れがぐちゃぐちゃだ』
『人の恨みとか、怒りとかが渦巻いてる感じです。あんま長居しない方がいいですー』
『……できればそうしたいけどな』
精霊たちも警告を飛ばしてくる。
目に見えるものだけじゃなく、魔素までもおかしくなっているのか……。
俺が感じている不快感のようなものが、そういったものに由来しているのかもしれない。
そんな話をしていると、ニトが足を止めた。
そこには周囲とは少し違う――立派な塀に囲まれた建物がある。
外壁の木材は塗装されていて、ここだけ妙に整っていた。このスラムの中で、明らかに異質だ。
塀の前には、腕っぷしが強そうな男が一人。
「……なんの用だ?」
目つきが鋭い。
声に圧がある。
ニトが前に出た。
「冒険者ギルドの依頼で来た。蛇の魔獣が出たらしくてな、駆除に来た」
男は俺たちを上から下まで舐めるように見た。
そのまま無言で建物の中へ引っ込む。
「……なあ、大丈夫なのか?」
「大丈夫だろ。ちゃんと話通してる」
「話通すって……こういうの、毎回必要なのか?」
「スラムは縄張りだらけだ。勝手に歩いたら、それだけで敵だ」
理屈は分かる。
でも、納得はできない。
冒険者ってのは、もっと自由な仕事だと思ってた。
依頼を受けて、魔獣を倒して、報酬をもらう。
単純明快。
だけど、現実はこんなところにも線引きがある。
少しして、先ほどの男が戻ってきた。
「魔獣が出たのは、この先の墓地だ。藪の中に隠れていて、見つけにくい」
「なるほどな。わかった」
ニトが短く返事をし、軽く頭を下げる。
俺も黙ってそれに倣った。
余計な言葉は命取りになる――そんな空気だった。
建物を離れ、再び歩き出す。
スラムの中でも、さらに静かな方へ向かっているらしい。
通りを歩く人影も減っていく。
「ニト、墓地って……」
「この先だ。黙ってついてこい」
「……わかった」
その言い方が、妙に鋭い。
ニト自身も、この場では無駄口を叩かないようにしているのだと分かる。
歩きながら、足元の泥を見つめた。
黒ずんだ水溜まりが道の隅にいくつもあって、そこには空の瓶や布切れが浮かんでいる。
どこからか焼けた鉄のような匂いが漂ってくる。
『ケイスケ、右』
リラの声に反応してそちらを見ると、ボロ布をまとった老人がこちらを見ていた。
白く濁った目、口元は笑っているようにも見える。
だがその笑みは、何かを値踏みするようだった。
目が合った瞬間、ぞくりと背筋が冷える。俺はその不気味な老人を見ていることはできず、すぐに視界から外した。
『……リラ、ここ、嫌な気配が多いな』
『うん。歪んでる。人の怨念が染みついた場所の、魔素の乱れ方。あれも普通の人間じゃないよ。実体がなかったもん』
『……は? マジで?』
『うん。ほんとに、気を付けてね。長居は禁物だよ』
リラの声がいつもよりも硬かった。
それだけ異常で危険だということか。
スラムの墓地――。
それはつまり、誰も顧みない死者たちの場所。
俺はさっきの老人がいた場所に視線を戻すが、もうその姿は影も形もなかった。
「……マジか」
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
墓地の入り口は、木の杭を雑に立てただけの簡素なものだった。
門らしき扉はなく、開け放たれている。
草が伸び放題で、墓石の形もまちまち。
土に半分埋もれているもの、倒れたまま放置されているもの。
どれもこれも、世話をする人がいない。
「ここが……墓地か」
「そうだ。スラムで死んだやつらは、みんなここだ」
ニトの声は少し沈んでいた。
彼の視線の先、墓の一つに花が一輪だけ添えられている。
色は褪せているけど、誰かが置いたのは間違いない。
「ニト……、ここで育ったんだよな」
「ああ。ガキの頃は、この辺でよく遊んだ。――死体を見ても驚かねえようになったのは、たぶんそのせいだな」
乾いた笑い。
けれどその目は、どこか遠くを見ていた。
俺は言葉を失った。
彼にとって、スラムは故郷なんだ。
たとえ腐っていても、臭くても、そこに居場所があった。
「さて、蛇の魔獣だな」
ニトが軽く肩を回し、拳を鳴らした。
ぬかるみを踏みしめながら、俺たちは藪へと足を踏み入れた。
薄暗く、湿気がまとわりつく。
おれはどこかで見られているような感覚を覚えながら、剣を握って気合を入れるのだった。
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