第二百三十六話「普通科の授業」
――あの授業の後、昼の鐘が鳴るまで、誰もまともに口を開けなかった。
あんなもん、どこの世界の授業だよ。
生命魔法の適性を確かめるために「自分の腕を切れ」って。
いまだに、イズミト先生のあの笑顔が脳裏に焼きついて離れない。
中庭の石畳の上で、俺たちはいつも通り購買で買ったパンやスープを広げた。
だが、今日の空気はやけに重い。
「……疲れた……」
ミルカがスープを啜りながら、ため息を漏らす。
その目の下には、うっすらとクマができていた。
「……まさか、あんな授業だとは思わなかったわ」
「……んだなあ……」
トルトも眉を下げて、手にしたパンを見つめている。
彼みたいな豪胆なタイプでも、今日のアレは堪えたらしい。
俺はというと、いつもの癖でつい「マジか……」と小声で漏らしてしまった。
横でリラがクスクスと笑う声が、影の中から聞こえる。
『あの先生、ちょっとイカれてるねー。腕切るって、どう考えても実験好きの狂人ムーブじゃん?』
『同感だ……。でも、あれでいて妙に手際が良かった。慣れてるってことか?』
『うん。ああいうタイプ、昔いたよねー? 研究に没頭して寝食忘れる系の人間ー。――あ、ケイスケも似たとこあるみたいだけどー』
『俺はあんなジャ……ナイ、と思うぞ』
否定しようとして、ダンジョンで寝食を忘れてデータの海に潜った時のことを思い出す。
でもさすがにイズミト先生のような、あんな感じではないと思うのだ。
『否定しきれてませんわよ、主。ダンジョンのことは、忘れてないですわ』
そのときその場にいたアイレに言われてしまえば、何も言えない。
影の中で笑うリラに軽く返しながら、パンをかじる。
甘いクリームの味が、どこか遠く感じた。
ちなみにあのあとは普通に詠唱練習をさせられた。
腕を切らせたかと思えば、今度は「はい、治癒魔法の詠唱を教えますから、一緒に練習してくださーい」って。
急にまともな授業に戻ったもんだから、全員、逆に混乱した。
「午後は普通科の授業だっけ?」
俺がそう呟くと、ミルカが頷いた。
「ええ。文字を読み書きできない一年生は全員、履修することになってるらしいわ」
「俺たち、全員出るんだよな?」
「んだ。……俺、文字とか、ようわかんねぇけんど」
トルトが少し照れたように頬を掻く。
その隣でティマが小さく口を開いた。
「……私も、読み書き、苦手……」
そう言って、手にしたパンをちぎるティマ。
白い指が少し震えていた。
「別に俺達に付き合わなくていいだよ?」
トルトが気を遣うように言うと、俺は首を振った。
「いや、俺も改めてきちんと勉強したいと思ったから、いいんだよ」
本当のところ、言葉や文字はチートのおかげで理解できてる。
けど、それは「身に着けた」わけじゃない。
体系的に、この世界の教育を受けてみたかった。
トルトやティマのためってより、俺自身の興味だ。
「……ミルカも、私のためだっていうなら、大丈夫、だよ?」
ティマが小さく言うと、ミルカは苦笑いを浮かべた。
「何言ってるのよ。午後、授業を受けなければ奉仕活動でしょ? 私もそれより読み書きの授業には興味があるから、付き合うわよ」
ミルカのその言葉に、ティマの唇がほんの少しだけ緩む。
「……うん。楽しみ……」
その微笑みを見て、俺は少しホッとした。
「多めに食べ物買っとく必要はなさそうだなあ」
「そうね。そんなに減らないと思うわ」
昼食を終え、午後の授業が始まる。
場所は神法科の棟の隣にある普通科校舎。
石造りで、少し古びた外観をしている。
扉をくぐると、どこか懐かしいチョークと紙の匂いが鼻をくすぐった。
受講者は俺たち四人のほかに――。
タイーズ、ナイセラ、ジミー、シプス。
計八人。
タイーズは十歳の、金髪でツインテールの女の子だ。
一度話したが、とにかく明るい子という印象だ。
ナイセラは背の高い女子で、くせっ毛のもじゃっとした金髪で、少し暗めの肌をしている。
あまり口数は多いほうではない。背の高さがコンプレックスなのか、姿勢は背中が丸まっている猫背である。
ジミーは背が低く、中肉中背の男子。地味な見た目で、農村から出てきたと言っていた。俺の中では食いしん坊キャラである。
シプスは目の細い狐顔の男子。なんとなく軽い感じの話し方で誰とも話をしている。あの貴族たちとも不通に話しているのを見て、こいつはできる奴だと思った。
教壇には、一人の老婆が立っていた。
「さあ、授業を始めますよ! まずは教本を取りに来なさい。筆記用具もありますからね、一人一組ですよ!」
白髪を外はねにしたショートカット。
眼鏡の奥で光る目が、まるで獲物を見つけた猛禽みたいだ。
これがラーラパシャ・エイディネ先生。
見た目こそ細身だが、声の通り方が尋常じゃない。
「うわ、パワフルなおばあちゃんだな……」と俺が呟くと、ミルカが肘で突いてきた。
「こら、聞こえるわよ」
壇上に並べられた教本と筆記用具を受け取って席に着く。
「さあ席につきなさい。時間は有限。教本を開くのです!」
テンポが早い。
先生の言葉通り、授業は休む間もなく進んでいった。
読み書きの基礎から始まる内容だ。
俺とミルカは問題なくついていける。
だが、問題はトルトとティマだった。
「あ、ああぁ……!?」
「えーと……?」
ふたりとも、まるで知らない言語の辞書を開いたかのような表情で、教本を見つめていた。
筆記用具の扱いもおぼつかない。
トルトの文字は、地震の跡みたいに震えていた。
「トルト、落ち着け。とにかく最初は焦らず、丁寧に書くことを意識しろ」
「お、おう……。こ、こうか……?」
トルトの太い指が、紙の上でぎこちなく動く。
横でティマも、必死に文字をなぞっていた。
「ティマ、ほら、そこ間違ってるわよ。そこは横に伸ばすの」
ミルカが柔らかく声をかける。
「……こ、こう……?」
「そう、上手よ。ゆっくりでいいからね」
いつもは少しきつい口調のミルカが、まるで姉のように優しかった。
ティマの顔が、うっすらと赤く染まっている。
その光景に、なんだか胸が温かくなった。
ラーラパシャ先生はというと、教室を縦横無尽に歩き回り、的確に指導している。
「そこ! ジミー君、字が太すぎます! まるで石に彫ってるみたいですよ!」
「ひぃっ!? す、すみません先生っ!」
「シプス君、顔で笑っても手が止まってます。動かすのは手です。笑うのは後です!」
まさにスパルタ教育だった。
だが、教室の空気は決して悪くない。
むしろ、どこか懐かしい熱気があった。
『ケイスケ、なんか楽しそうだねー』
『……まあな。こういうの、久しぶりなんだよ』
地球でも、こんなふうに机を並べて授業を受けた。
ただ、あの頃は退屈で仕方なかったはずなのに、今は違う。
目の前の仲間たちが、真剣に学ぼうとしている。
その姿が、妙に眩しかった。
時間はあっという間に過ぎていった。
ひたすら文字をなぞり、読み、声に出す。
そして書く。
気づけば、窓の外は少し赤みを帯びていた。
「――はい、そこまで! 本日の授業はここまでにします!」
ラーラパシャ先生の声に、教室の空気が一気に緩む。
鉛筆の音が止まり、誰かのため息がこぼれた。
気づけば、俺とミルカ以外、全員が机に突っ伏していた。
ティマもトルトも、腕を枕にしてぐったりしている。
「……まるで昨日の再来だな」
「んだなあ……」
トルトが苦笑する。
俺は静かに教本を閉じ、天井を見上げた。
外では夕風が木々を揺らしている。
太陽が傾き、空の色が少しずつ変わり始めている。
『おつかれ、ケイスケ先生ー』
『……誰が先生だよ』
リラの声にそう返しながら、俺は小さく笑った。
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