第二百三十三話「魔法の授業を終えて」
光球を出したまま集中を維持して。どのくらいだろう――感覚的には一分ほど経ったころ。
「……消えた」
俺の斜め前、ヘルヴィウスの光がその呟きと共にふっと消えた。
同時に彼が小さく息をつく。
今まで、光を維持できていたのは三人――俺、ティマ、そしてヘルヴィウス。
だが、そのヘルヴィウスも今、力尽きた。
残っているのは俺とティマだけ。
ティマの顔には疲労が滲んでいる。
それでも、光を消そうとしない。
細い指先がわずかに震えているけど、その光はまだ生きている。
『ケイスケ、集中できてないよー』
『そうですわ。周りを気にしすぎですわ』
リラとアイレの声が重なった。
どちらも小言っぽい。
『仕方ないだろ。人が多いと、どうにも集中しきれないんだよ』
何かを掴んだような気がした。でもそれはちょっとでも集中を切らすと容易く逃げて行ってしまった。
ため息交じりに返すと、リラがくすくす笑った。
『はいはい。まあ、焦らないことだね。夜にまた練習すればいいじゃん』
『……そうだな』
そう思った瞬間、肩の力が抜けた。
光はまだ消えていないけど、集中の糸が緩んだ。
ティマの方を見る。
まだ、頑張っている。
頬にうっすら汗が浮かんで、唇がかすかに震えている。
それでも――光は揺れない。
彼女の光は、まるで生きているみたいに穏やかだった。
エステレルの気配がその中にあるのだろう。
俺には見えないけど、ティマの中ではきっと、精霊と息を合わせているんだ。
「……ティマ、すごいな」
思わず口の中で呟いた。
俺が諦めて軽く観察に回ろうとしている中で、彼女は最後まで諦めていない。
教室の中に漂う空気は、熱を含んだまましんと静まり返っていた。
光球を維持しているのは、もう俺とティマだけ。
全員の視線が、並んで座っている俺たち二人に集まっているのがわかる。
それは好奇の目なのか、羨望なのか。あるいは疲労のあまりぼんやりとした瞳なのか──。
どれも正確には分からなかったけど、息を詰めるようなその空気がやけに居心地が悪くて、俺は頃合いを見て光球を消した。
ティマと張り合うつもりもないし、そもそも集中力が続くような状況じゃなかった。
光の幕がふっと消え、視界が少し暗くなる。
ほとんど同時に、ティマの光球も揺らぎ、ふっと消えた。
──ぱち、ぱち、と。
乾いた拍手が、教室の前方から響いた。
ロシオリー先生だった。
「流石は聖女候補だ」
言葉と同時に、わざとらしい笑みを浮かべる。
あからさまだな……と、思わず心の中で呟く。
その拍手につられるように、生徒たちもぽつぽつと手を叩き始めたが、それはすぐに途切れた。
疲れ切っているのだ。誰の目にもわかるほどに。
『みんな、疲れてるねー。たぶん全員ヘロヘロだよー』
リラの声が影の中から聞こえてくる。
『魔力を消費したんだろう。でも残念ながら俺はその感覚がわからないんだよな』
『うわっ、嫌味ー?』
『違うって。これでも俺も少しは困ってるんだぞ』
普通の感覚がわからないというのは、実際困ることもあるのだ。
この世界に来て、この世界の常識があって、その常識が俺には理解できない。
この世界に馴染みたいのに馴染めないような、そんな気さえしてくるのだ。
勿論普段はそんなことは考えないが、ふとしたときに顔を出してくる。
ちらと周囲を見回すと、机に突っ伏している生徒、額に汗を浮かべて息を荒げている生徒、目を閉じて肩で呼吸している生徒──。
この教室で、まだ平然としているのは多分、俺だけだ。
ティマですら、わずかに肩を上下させている。小さな息遣いが、静寂の中に混ざって聞こえるほどだ。
「諸君、わかったと思うが──」
ロシオリー先生の声が響いた。その鋭さに、一瞬だけ皆の背筋が伸びる。
「魔力操作ができない光球の魔法では、維持はせいぜいその程度が限界だ。今の聖女候補くらい維持できないようでは、話にならんぞ」
なるほど、と俺は小さくうなずいた。
体感でおよそ三分。
そのくらいが、いわゆる最低ラインということらしい。
……にしても、言い方ってあるだろうに。
「聖女候補くらい」って、完全にティマを基準にしてるじゃないか。
そりゃあ聖女候補っていう肩書はあるけど、あんな公然と比較されたら、他の生徒は面白くないだろう。
実際、後ろの方からため息や、小さな舌打ちが聞こえた気がした。
「まずは持続時間を増やす方法を伝授していく故、覚悟するように。では今日の授業は終わりだ」
そう告げて、ロシオリー先生は光球を完全に消し去り、教壇から離れた。
そのまま無言で教室を出ていく。
扉が閉まる音が、妙に乾いて響いた。
──残された教室には、静寂と、疲労の気配だけが残る。
生徒たちは誰も動かない。
いや、正確には動けないのだろう。
光球の維持ってのは、思っていたよりも魔力と集中力を使う。
俺はといえば、まだ余裕がある。
たぶんこの中で一番元気なのは俺だ。
だからこそ、沈み込んだ空気が少し気になって、声を出した。
「みんな、大丈夫か?」
反応は鈍い。
机のあちこちから「うー」とか「あー」とか、魂が抜けたような声だけが返ってくる。
『大丈夫じゃなさそー。少し休ませてあげなよー』
『そうだな……』
リラの言葉に同意して、俺はそれ以上声をかけず、少し様子を見ることにした。
数分ほど、重たい沈黙が流れた後──。
ぽつりと、トルトの低い声が教室の空気を揺らした。
「……ケイスケはあ、元気だなあ……」
彼は椅子にだらんともたれかかり、手足をだらんと伸ばしている。
息は荒く、まるで全力で畑を耕した後みたいだった。
「おう、大丈夫か? トルト」
「ようやく、だなあ……。腹、減っただよ」
その言葉に、俺は思わず吹き出しそうになった。
魔力を使い切って、腹が減る──そういう理屈なのか。
次に声を出したのはミルカだった。
眼鏡の奥の目はまだ少しぼやけているが、彼女らしい理性的な声が戻ってきた。
「……私も……。今度からこの授業の前には、食料を買い込んでおくわ……」
「……俺も、だあ……」
トルトが同意するように頷く。
どうやら本気で腹が減っているらしい。
俺はふと思い出して口を開いた。
「そういえば、上級生たちは結構買い込んでたよな。購買で見たとき、パンとか干し肉とか山ほど抱えてたけど……あれ、魔法の授業のせいだったのかもな」
「……きっとそうね。持久系の授業なら、エネルギー補給は必須だもの」
ミルカが真面目な顔で言う。
その表情はもう、いつもの冷静なミルカに戻っていた。
頭の回転も早い。さすがだ。
「まあ、魔力の消費ってエネルギーの代謝にも関係してるのかもしれないしな。理屈はわかるけど、トルトが食いしん坊みたいに言うと、なんかのどかに聞こえるな」
「そ、そんなこと、ねえだあ……」
トルトが照れ臭そうに鼻を掻く。
リラの声が、くすくすと笑いながら響く。
『この子、かわいいねー。お腹減ってる熊さんみたいー』
「……若いなあ」
思わず口に出して笑ってしまった俺を見て、ミルカが小さくため息をついた。
そして少し眉を寄せながらも、どこか呆れたような口調で言った。
「……あなただって、若いじゃない……」
そう言って、ミルカはくすっと笑った。
その笑い方が少し柔らかくて、疲れた教室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
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