第二百二十七話「昼の光景」
午前中の授業が終わると、鐘が高く鳴り響いた。
神学校の広い中庭には、次第にざわめきが広がっていく。木造の校舎を出る生徒たちの足音がいくつも重なり、昼の光に溶けていくようだった。
「昼休憩は一刻半だ。食堂を利用するなら混むから早めになー」
教壇の前でジェベルコーサ先生が軽く手を振る。
「外出は禁止だぞー」と冗談めかして言っていたが、こっそり抜け出す生徒もやはりいるらしい。
神学校の生徒といえど、普通の子供たちというわけだ。
立ち上がって移動する生徒の波に乗って、俺達も移動する。
ティマが小さく俺を見上げる。
昼の光が彼女の白い髪に反射して、柔らかく輝いていた。午前中よりも表情が和らいでいる。緊張していた顔に少し笑みが浮かぶのを見ると、俺の方もつられて口角が上がった。
「トルトも行くか?」
「おう、腹減っただぁ」
彼は腹をさすりながら立ち上がる。木の椅子がぎしぎしと音を立てた。
ミルカも眼鏡の奥で微笑を浮かべ、「ご一緒してもいい?」と尋ねてきた。
こうして、俺たち四人は連れ立って食堂へ向かうことにした。
食堂は想像以上に広かった。
白い石壁のホールに、長テーブルがいくつも並んでいる。
その間を、白いエプロン姿の調理係が忙しそうに動き回っていた。
パンを焼く香ばしい匂いと、スープの湯気が混じって立ちこめている。
……けれど、すでに人が多すぎた。
席という席が埋まり、列は入口の外まで伸びている。
「これは……並ぶだけで休み時間が終わるな」
思わず苦笑が漏れた。
「外で食べることもできるんだよな?」
「うん。軽食だけ買って外で食べてる人もいるみたいね」
ミルカが壁際の棚を指差す。そこには包み紙に包まれたパンや焼き菓子、果物が並んでいた。
「そっちでいいか」
「おう! 外の空気で食った方がうまいだ」
トルトの即決で、俺たちは軽食を買うことにした。
俺とトルトは肉を挟んだ分厚いパン。
ティマとミルカは焼き菓子を選んでいた。
支払いを済ませると、裏庭にあるベンチへと向かう。
裏庭は表の喧騒が嘘のように静かだった。
昼の陽が差し込む木陰の下、石造りのベンチがいくつも並んでいる。花壇には白い小花が揺れ、遠くで噴水の水音が心地よく響いていた。
俺たちは並んで腰掛けた。トルトが右、ティマが左、ミルカがその隣。
「昼に食いもん食うなんて、都会だなあ」
トルトがパンをもぐもぐしながら言った。
「お前の村じゃ昼飯はないのか?」
「んだ。朝と夜の二回だぁ。日が高いうちは畑仕事があるでよ」
なるほど。ミネラ村でもそうだった。
一日二食、昼は軽く干し肉をかじるか、飲み水だけ。
「そうなのね。私は小さい頃からずっと三食だったから……。お昼がないってあまり想像できないわ」
ミルカが少し目を見開いてそんなことを口にした。
ここ、王都では三食が当たり前。贅沢というより、余裕の象徴だろう。
俺は手にしたパンを見た。
焼き立ての香りがする。中には香草で味付けされた肉と、炒めた野菜がぎっしり。
噛むと肉汁が広がり、パンの香ばしさと混ざって、口の中に旨味が染みていく。
「うまいな、これ」
「うん。パンも重くてどっしりしてるだよ。それに、肉と野菜のバランスがちょうどいいだ」
トルトは俺よりも早く完食した。
その大きな手で包み紙を丸めると、名残惜しそうに俺の方を見る。
「……まだ腹減ってんのか?」
「ちょっとだけ、な」
「じゃあ半分やるよ」
俺がパンを半分ちぎって渡すと、彼の顔がぱっと明るくなった。
「おお、ありがとだぁ!」
嬉しそうにかぶりつくその姿は、まるで子供みたいだった。
食べるという行為一つで、こんなに幸せそうな顔をする奴を、俺は久しく見ていなかった気がする。
「こっちの、クッキーも……食べる?」
ティマが遠慮がちに小さな焼き菓子を差し出した。
「いいのか?」
「うん。……ひとつ、だけ、ね」
差し出されたそれを受け取り、口に入れる。
サクッと軽い音。小麦の香りが広がり、ほんのり甘い。
素朴な味なのに、どこか懐かしい気がした。
「美味いな」
「……よかった」
ティマが小さく微笑んだ。その笑顔は、午前中の緊張で硬かった表情が嘘みたいに柔らかい。
幸い昼は皆食事に夢中で、俺達もうまく溶け込んでいる。周りを見渡すが変に注目されているようなことはなさそうだった。
ミルカはというと、手に持った焼き菓子──しっとりとしたマドレーヌのようなもの──を上品にかじっていた。
「それも美味そうだな」
俺が言うと、ミルカはちらりとこちらを見てから、無言で首を横に振った。
「……これはあげないわ」
「だよな」
ちょっとだけ味見してみたいと思ったが貰えないなら仕方ない。
また機会があったら自分で食べてみよう。
「明日は二つ買うだよ!」とトルトが豪快に笑った。
その声にミルカもふっと笑い、「よく昼にそんなに食べれますね。見ているだけでお腹がいっぱいになりそうだわ」と呆れたように言う。
「食えることは幸せだぁ」
トルトは口いっぱいにパンを頬張りながら答える。
「……そうだね。本当に、幸せ……」
ティマの呟きはとても静かだった。
だが、その言葉には、重みがあった。
虐待されていた過去を持つティマ。
貧困と飢えの中で育ったトルト。
二人にとって、食べることは、当たり前じゃない。
パンひとつ、菓子ひとつが、生きる証のようなものなのだろう。
俺は黙って、空を見上げた。
青く晴れた空に、白い雲がゆっくり流れている。
風が頬を撫で、パンの香りがまだ指先に残っていた。
『……なんか、いいねー。こういうのー』
リラの声が影の中から聞こえた。
『平和っていいよねー』
『ああ。まさに、そうだ』
異世界だの、調律者だの、記憶がどうだの。
そういう言葉が、いっとき全部どうでもよく思える。
目の前にいるのは、温かい日差しの中でただ飯を食って笑ってる連中だ。
それだけで十分だと思った。
「ケイスケ、どうしたの?」
ティマが不思議そうに首をかしげた。
「いや、なんでもない。……いい昼だなって思っただけ」
「……うん」
彼女は小さくうなずいて、彼女の光の精霊エステレルが光の粒をふわりと散らした。
その光が、まるで昼下がりの空気に溶けるようで。
俺は一瞬だけ、時間が止まったような気がした。
トルトが笑い、ミルカが眼鏡を指で押し上げる。
ティマがその光に顔を向けて、微笑んだ。
ああ、これが「日常」ってやつなんだな。
それが壊れないように、俺はきっとここにいる。
昼の鐘が再び鳴るまで、俺たちはしばらく、
静かにその穏やかな時間を噛みしめていた。
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