第二百二十五話「前を向く朝」
「なんか感じ悪くない?」
「折角パトリック様がお声をかけてくださったっていうのに、なに、あの態度」
歩き出した俺達に向かってわざとらしい、鼻にかかった声が聞こえてきた。
振り向かなくてもわかる。陰口だ。
しかも、それを言った女子生徒たちは、俺たちに聞かせるつもりで声を上げている。
わざわざこっちをチラチラ見ながら喋っているのが見えた。
ティマ足が止まり、顔から血の気が引いた。
あれだけ怯えていたのに、ようやく落ち着いたところだったのに、また肩が小さく震えている。
ミルカがすぐに寄り添って、背中を撫でながら声をかけた。
「ティマ、気にしてはだめよ。あんなの放っておけばいいの」
だが、ティマの唇はきゅっと結ばれたまま。
震える指が自分のローブの裾をぎゅっと握りしめていた。
「……ティマ」
「……ごめん、なさい……」
その一言に、俺の胸の奥が痛くなる。
なんでこの子が謝らなきゃいけないんだ。
「謝るなよ。悪いのは向こうだ。」
「だいじょぶだか? 怖がらせたやつ、もう行っただ」
「ティマ、気にしないで。あの人たちが悪いのよ」
俺は小声で言って、わざと大きく息を吐いた。
怒りを隠すためだ。
いま睨み返しても、余計に騒ぎになる。ティマを守るには、冷静でいないといけない。
だが、時間は待ってくれない。
ミルカが周りを見て焦った声をあげた。
「……授業が始まっちゃうわね」
確かにもうほとんど俺たちの他に生徒たちは歩いていない。
いても少し足早で、急いでいるのがわかる様子だ。
「……俺がティマについているから、二人は先に行ってくれないか? 先生に事情を説明してくれると助かる」
俺がそう提案すると、二人は一瞬迷ったものの、すぐに頷いた。
「わ、わかっただ」
「了解よ。頼むわね」
別に俺は神学校の成績についてはどうでもいいと思っているから、遅刻して印象が悪くなかろうがどうでもいい。
でも、トルトやミルカは違うだろう。
ティマを放っていけるような性格の二人でもないことは、僅かな付き合いでもわかっている。
俺が助け船を出してあげなければ、二人はいつまでも悩んだままになってしまっただろう。
「こっちこそ、頼んだ」
ミルカとトルトが頷いて、駆け足で校舎の方へ向かっていく。
その後姿を見送って、俺はティマをすぐ側の低い花壇のそばの縁に座らせた。
すると、鐘の音が鳴り響いた。
金属がぶつかり合うような、荘厳な鐘の音。
神学校の始業を告げる合図だ。
ティマが不安げに鐘の音に耳を澄ませる。
「授業が……」
「気にするな。落ち着くまでここにいよう」
俺がそう言うと、ティマは小さく頷いた。
その肩のあたりに、ふわりと光が差す。
エステレルが小さく姿を現し、ティマの肩に乗っている。
淡い金色の光が、優しく彼女を包んでいた。
余韻を残し、鐘の音が鳴り止むと、周囲は急に静かになった。
「ティマ、大丈夫か?」
俺が声をかけると、ティマは俯いたまま、か細い声で答えた。
「……うん。ごめんなさい……」
「仕方ないさ。」
ティマは小さく頷くけれど、その目はまだ怯えているようだった。
パトリックのあの堂々とした態度は確かに人当たりがいい。だが、ティマにとっては支配者と同じに見えてしまったんだろう。
優しい言葉でも、力を持つ人間の目は、彼女にとって恐怖の象徴なのだ。
そして何よりも、あの女生徒たちのあからさまな悪意。
ティマは敏感だ。生まれてからずっと、人の顔色を窺って生きてきたのだから。
『んー、困ったねー。ティマちゃん、完全に参ってるじゃん』
影の中から、リラの声がする。
姿は見えないが、俺の足元の影がわずかに揺れた。
ティマの肩を見つめて、どこか心配そうな調子だ。
「……ごめん、なさい……」
ティマがまた小さくつぶやく。
俺は首を振った。
「いいさ。今はティマのことのほうが大事だ」
「……うん。ありがとう……」
その言葉に、わずかに口元が緩んだ。
ほんの少しだけど、彼女の表情に光が戻った気がした。
授業初日から遅刻は確定だな……と心の中でぼやく。
けれど、仕方がない。
ティマの心を守る方が、よっぽど大事だ。
トルトとミルカが説明してくれていると信じよう。
二人ならきっと筋を通してくれるはずだ。
俺は座るティマの前に膝をついて、彼女の手を握り続けた。
こういうときは、人のぬくもりを感じた方がいいって、どこかで読んだような気がする。
春の日差しは温かく、じっとしてそれを浴びていると体も熱くなってくる。
時折吹く風が若干それを和らげてくれるものの、じわりと汗が肌にまとわりついているのがわかる。
だから俺はティマの手から左手だけを離して額の汗を拭う。
それを見てなのか、ティマは口を開いた。
「……もう、大丈夫。行こう、ケイスケ……」
ティマが立ち上がって、微笑もうとする。
その顔はまだ青ざめていたが、それでも前を向こうとしている。
その強さに、俺は少し驚かされた。
「本当に大丈夫か?」
「うん。ありがとう……」
「無理はするなよ」
「うん」
彼女は小さく頷いた。
儚げな笑顔が、曇った空に似ている。
晴れたようで、どこか遠くに陰りがある笑顔。
――ティマは昔、家族から虐待されていた。
そのことを、ヘズンさんから聞いたのを思い出す。
アルビノの特徴を持つ少女。銀の髪、白い肌、薄い灰色の瞳。
俺から見れば幻想的で綺麗だと思うけれど、この世界では違うようだ。
「神に選ばれた印」と見る者もいれば、「呪われた印」と恐れる者もいる。
ティマの家族は後者だった。
生まれた時から「異形」だと罵られ、家の中に閉じ込められていた。
村人も誰も助けなかった。誰も知らなかったのだ。……いや、知っていてそうしていたのか。それとも知られたらもっとひどいことになっていたのか……。
そんな彼女を救ったのは――偶然だった。
ある日、その村に腹を下した助祭が訪れた。
彼は旅の途中で体調を崩し、たまたまティマの家に転がり込んだ。
そこで偶然、部屋から出てきたティマに出会ったという。
その助祭は、ティマを一目見て「何か」を感じ取った。
話を聞くと、両親は魔法適性の検査すら受けさせていないという。
助祭は親を叱責し、ティマを教会に連れ出した。
そして検査を受けさせた結果――光魔法の適性3。
光魔法の適性があるというだけでも驚かれるというのに、それは驚異的な結果だった。
そしてそれが、ティマが教会に保護されるきっかけだった。
その助祭の名はヘズン。
ハンシュークの教会の、あの少し抜けた青年だ。
笑いながら「腹をくだしたおかげで人生が変わったよ」なんて言ってたけど、実際、彼の行動が一人の少女を救ったのだ。
まさに“神の思し召し”というやつだろう。
ちなみにヘズンさんには恋人がいて、結婚も近いらしい。
ティマはその話を聞くたび、嬉しそうに微笑む。
彼女にとってヘズンさんは恩人であり、兄のような存在でもあるのだという。
「……ティマ」
「なに?」
「もし、また何か言われたら、俺が前に出る。だから無理して笑わなくていい」
ティマは少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「……うん。でも、ケイスケが怒られちゃう」
「構わないさ。悪口くらいなら、俺が受けとめる。こういうのは慣れた人間に任せればいい」
あんな子供の悪口くらい、社会人を経験してきた俺からすれば可愛いものだ。
クレーム処理の部署にいたときは、それはまあ酷かったものだ。
在席は一年くらいだったはずだが、そのおかげで随分と鍛えられた気がする。
『ははっ、格好つけたねー、ケイスケ。けど、そういうとこ、嫌いじゃないよー』
「やかましい」
小声で返すと、リラはくすくす笑いながら影に沈んでいった。
「行こうか」
「……うん」
立ち上がり、膝のほこりを払って校舎の方へ歩き出す。
その際に自然と手を放したが、ティマは名残惜しそうにその手を見つめていた。
花壇の縁から立ち上がったティマは、少しだけ顔を上げ、朝の光を受けた。
「……でも、私も、強くなりたい……。だから……」
「ティマ……?」
「……私にその強さを、もっと教えてね……」
ティマの声は少し震えていたが、確かな意志を帯びていた。
頷いた瞬間、彼女の髪が朝日を受けて銀色に輝き、その横顔はほんの少しだけ、凛として見えた。
遅刻は確定。でも、悪くない朝だ。
ティマが少しでも前を向けたなら、それで十分だ。
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