第二百二十二話「一日目の終わり」
「さあ、次は礼拝堂を見に行こう」
先生がそう言って歩き出す。
生徒たちは名残惜しそうに扉を振り返りながらも、その後に続いた。
それからも案内は続いた。
校内はとにかく広く、そして複雑だ。
どこをどう歩いたのか、正直もう自信がない。
長い歴史の中で増築に増築を重ねた結果、建物の構造はまるで迷宮だ。
部屋の中に階段だけがある部屋、廊下の途中に行き止まりがある通路、ドアを開けたら反対側の棟に出るという謎構造まであるらしい。
俺が知ってるどんな学校よりも複雑だ。
まるでダンジョンだな、ここ。
ジェベルコーサ先生によれば、神学校の隣には「神学研究院」――通称『神研』の建物が併設されていて、廊下一本で繋がっているという。
そこでは神職者や学者たちが研究を行っているらしく、学生の立ち入りは制限されている。
俺たちがその廊下へ向かうと、雰囲気が一変した。
古めかしい木製の廊下で、歩くたびにギシギシと音が鳴る。
天井は低く、窓もなく、昼間なのに薄暗い。
『わぁ……いい感じの陰だねー』
『リラ、こういうところ好きですわよね』
『だって落ち着くもん。静かで、ちょっと不気味で、なんか秘密が隠れてそうでさー』
『褒め言葉の方向性が間違ってる気がしますわ』
影の中で二人の精霊がこそこそ話しているのが聞こえてくる。
俺も正直、わずかに背筋が寒くなっていた。
廊下の両脇には燭台型の魔道具が等間隔に設置されていて、ぼんやりと青白い光を放っている。
どうやら自動点滅式らしく、人が通るとふっと灯り、離れると消える。
こういう仕組み、俺のいた世界でもセンサーライトって言うんだよな。
でも、魔法でそれをやってるあたり、なんか面白い。
廊下を抜けた先には、またしても重厚な木の扉があった。
古びているが、造りはしっかりしている。
取っ手を握って押してみたが、びくともしない。
「ここは……?」
俺が尋ねると、先生が振り返って言った。
「神研の保管庫だ。学生は立ち入り禁止になっている。許可がないと入れないぞ」
ためしに少し力を込めてみたが、本当に動かない。
鍵穴らしいものも見当たらない。
『魔法的なロックがかかってるねー。多分、魔力を読み取るのかなー』
『なるほど。指紋認証みたいなもんか』
この学校、どこを見ても魔道具だらけだ。
扉、照明、清掃用のゴーレムまであるという。
それだけ技術が発展している証拠でもあるが――。
「やっぱり都会って感じだな」
俺がぽつりと呟くと、トルトが後ろで「んだな」と短く返した。
ティマは無言のまま、廊下の明かりを見つめている。
青白い光が彼女の白い髪を淡く照らして、まるで本当に光の精霊みたいに見えた。
その後も案内は続いたが、俺の頭の中は半分『神研』とその保管庫のことでいっぱいだった。
あの建物の中にはどんな知識が眠っているのだろう。
きっと、長い歴史の中で積み重なった、膨大な歴史が詰まっているのだろう。
たぶん、ここにいる生徒の中で一番そのことを気にしてるのは俺だろう。
でも、今ここで無理に探るわけにもいかない。
『夜になったら行くー? 私たちなら、入れるかもよー』
リラがいたずらっぽく囁く。
『……行かないぞ』
『ふふ、そう言う人に限って中まで入っちゃうんだよね〜』
『俺を何だと思ってるんだ』
『ふふふー。秘密ー』
ふと振り返ると、暗い廊下の奥に光が一瞬、揺らめいた。
青白い燭台の光とは違う、もっと柔らかい、金色の――。
『ケイスケ?』
『……いや、なんでもない』
見間違いだろうか。
そんな不思議な感覚を胸に抱えながら、俺たちは再び明るい廊下へと歩き出した。
「よし、では今日のところはこれで終わりだ。明日からしっかりと勉強に励むように」
教室に戻り、ジェベルコーサ先生の穏やかな声が響いた。
俺たち一年生の初日は、こうしてあっけなく終わった。
「はいっ!」
生徒たちの明るい返事が重なり、教室の空気が一気に緩む。緊張していた顔、眠そうな顔、どこか達成感のある顔――みんな一様にほっとしているようだった。
それもそのはずだ。長い入学式と校内案内を経て、ようやく最初の一日が終わったのだから。
教師が去ると、生徒たちはざわざわと立ち上がり、何人かは話しながら寮へと帰っていく。
俺たちもそれに倣って席を立った。ティマは俺の隣、トルトはいつものように後ろだ。
なんとなく、もうこの並びが定位置になりそうな気がしている。
初日ということで授業は早く終わったが、明日からはどうなるのだろう。
神学に魔法、教理、祈りの作法――聞くだけでも盛りだくさんだ。
ジェベルコーサ先生たち教師は授業の準備に加えて聖職者としての務めもある。
そう考えると、教師って案外ブラック職なんじゃないかと思う。
……ああ、こういう考え方、社会人時代のクセが抜けないな。
日本でサラリーマンをしていた頃、学生の「先生」なんてお気楽だと思ってたけど、実際はそうでもない。
教師もまた、神に仕える一つの職業ってわけか。
「ティマ、同室の人はいい人そうか?」
俺がそう尋ねると、ティマは小さく首をかしげ、少し考えるようにしてから答えた。
「……うん……良い人、だったよ」
どうやら女子寮では相部屋らしい。
ティマのルームメイトは、昼間見かけた眼鏡の女の子だった。
利発そうで、控えめに自己主張するタイプ。
確か名前は――。
「ミルカ……だよ」
「そうそう、ミルカだっけか」
ティマが小さくうなずく。
ミルカ・ノーツ。暗い茶色の髪に、深い紺色の瞳。今の俺の髪と目の色と同じだ。
背中までのまっすぐな髪をリボンで軽くまとめ、整った印象を受ける。年は十三。
年齢だけ見れば俺と同じだが、落ち着き方はまるで違う。
真面目で筋の通った子――そんな印象だった。
「ティマ!」
名前を呼ぶ声に振り向くと、そのミルカ本人が教室の入口に立っていた。
眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。
「あっ……ミルカ」
ティマが小さく笑う。
どうやら、もうすっかり打ち解けたようだ。
「一緒に帰るわよ!」
その言葉は、まるで当然のように明るく響いた。
ティマの小さな肩がわずかに揺れる。
友達と呼べる相手ができたことが、彼女にとってどれだけ貴重なことか、俺は知っている。
――ほんと、よかったな。
「あら? あなたたちは……」
ミルカの視線が俺とトルトに向けられた。
少し首をかしげてから、俺が口を開く。
「ケイスケだ」
「トルトだあ」
名乗ると、ミルカは小さく笑って、すっと右手を差し出してきた。
「ああ、なんだかあなたたち仲が良さそうね。私はミルカよ。よろしく」
「ああ、よろしく」
「よ、よろしく、だあ」
握手を交わす。
柔らかい手のひらだが、意志の強さを感じた。
「貴方たちも寮へ帰るんでしょ? 一緒に行きましょうよ」
「ああ、いいのか?」
「……? 当然じゃない。さ、行くわよ」
言葉に裏も遠慮もなく、あっさりしている。
嫌味がなく、気持ちいいくらい真っ直ぐな性格だ。
廊下に出ると、夕方の光が斜めに差し込み、長い影を伸ばしていた。
神学校の建物はどこも白く、ほんのり金色に染まって見える。
どこか神聖で、同時に人の温かみも感じる光景だ。
「ティマとは、知り合いなのよね? なんだか今日も一緒にいたし」
「ああ。ティマとはハンシュークの教会で知り合ったんだ」
「う、うん。ケイスケ、とは……友達、だよ」
ティマの声が小さく震える。
でも「友達」という言葉をちゃんと口にしてくれた。
俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。
ティマが他人に心を開くのは、そう簡単なことじゃない。
ヘズンさんに聞いたが、虐待されて育った彼女にとって、人と関わることは恐怖でもある。
それでも彼女が「友達」と言ってくれた。
――それだけで十分だ。
「友達、ね」
ミルカは小さく笑って、ティマの肩を軽く叩いた。
「うん、そうだね。じゃあ、私も友達ってことで」
「……うん」
ティマの表情がわずかに和らぐ。
その笑顔を見て、ミルカもつられて笑った。
なんというか、見ていて安心する組み合わせだ。
ミルカの真面目さとティマの静けさは、意外と相性が良さそうだった。
「ミルカは王都出身なんだよな?」
「ええ。壁の中よ」
さらっと言うが、王都の中の居住権は庶民には簡単に得られない。
彼女の家は裕福な家庭なのだろう。
貴族ではないが、生活には困らない階層――中流以上というやつだ。
「父は建築士なの。母は料理人。だから、建物とか食べ物の話なら、ちょっと詳しいわよ」
「へえ、すごいじゃん」
「王都のことは何でも聞いてね!」
ミルカは胸を張って笑う。
その明るさが、どこか懐かしい。
日本の中学で、クラス委員長をしてたようなタイプだ。
「じゃあ、また、ね」
女子寮と男子寮の分かれ道で、ミルカとティマが立ち止まった。
寮の建物は二つの塔のように並んでおり、片方が男子、もう片方が女子。
中央には小さな噴水があり、夕陽に照らされて水が金色に輝いている。
「ああ、また明日」
「また、なあ」
手を軽く振って、それぞれの寮へ。
ミルカとティマの後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていく。
並んで歩く姿が、なんだか微笑ましかった。
『ティマと一緒にいた子、良い子そうだねー。光もキラキラしてたー』
リラの声が影の中から響いた。
姿は見えないけど、俺の足元でふわふわ漂っているのがわかる。
『ああ、良かったよ。ティマが孤立するかもと思ってたからな』
『あの子、正直者だねー。ああいう子は好きだよー』
リラが楽しそうに笑う。
精霊に「光がきれい」と評される相手に悪い人間はいないだろう。
ミルカ・ノーツ、見た目どおりのいい子らしい。
寮の玄関をくぐると、広いホールには長椅子と掲示板があり、壁には神の教えを記したプレートが並んでいる。
天井には魔道具の灯りが浮かび、やわらかい光を放っていた。
……一日が、ようやく終わった。
いろんなことがあった。貴族たちの自己紹介、校内見学、「試しの扉」。
どれも興味深くて、どこか落ち着かない一日だったけど――
こうして一日の終わりに仲間と笑い合えた。それだけで十分だ。
部屋に戻ると、トルトがベッドに腰を下ろしながら大きく伸びをした。
「ふあぁー……けっこう疲れたなあ」
「だな。見て回るだけで迷宮探索並みだった」
思わず笑って、ベッドに倒れ込む。
ふかふかの布団が背中を包み、目を閉じると今日の出来事が頭の中を巡る。
ティマの笑顔。
ミルカの明るい声。
ジェベルコーサ先生の穏やかな表情。
――ああ、悪くない一日だったな。
こうして、俺の聖ソフ・パンタイレス神学校での最初の一日は、静かに終わりを迎えた。
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