第二百十九話「入学式」
入学式の朝。
講堂には新入生たちが列を作って並んでいた――いや、正確には「列を作っているような気がする」程度だった。
きちんと整列しようという意識が薄い。前の奴の背中と自分の間に空間が空こうが、誰も気にしていない。
俺だけが微妙に落ち着かない。
なんだろう、このもやもや。
「きっちり並ばないといけない」っていう感覚が骨に染みついてるのは、やっぱり日本人だからなんだろうな。
向こうの世界では、入学式といえば体育館で校長先生の話を聞き、姿勢を正して礼するものだった。
でもここは異世界だ。誰もそんなこと気にしていない。
隣の生徒なんて、欠伸を噛み殺しながら隣と雑談してる。
「なんとなくこの辺にいればいい」――どうやらそれがこの神学校流らしい。
でも、上級生たちを見ると不思議と整って見える。
あれは整列しているというより、自然に秩序ができている感じだ。
もしかしたら、こういうのもこの学び舎の中で学んでいくことなのかもしれない。
講堂の奥、壇上の扉が開いた。
ざわめきが静まる。
ゆっくりと、白いローブを纏った老人が姿を現した。
神学校の最高責任者――大司教バッシアーノ・セルムゴート。
白髪に白ひげ。
豊かにたくわえた髭が胸のあたりまで流れ落ちている。
着ているローブは質素だが、布の質は一目で上等と分かる。
その佇まいだけで、場の空気が締まる。
言葉を発する前から、生徒たちは背筋を伸ばしていた。
俺の頭の中に浮かんでいた「異世界の学長像」がまさに彼だった。
ひげを蓄えた知恵者、静かに笑みを浮かべながらも圧倒的な威厳を放つ老人。
俺は別の意味で感心していた。
いや、ほんとにいるんだな、こういう人。
壇上の中央まで歩くと、学長は杖を軽く床に突いた。
木霊のように、講堂全体に音が響く。
その瞬間、全員の視線が彼に吸い寄せられた。
「――まずは新入生の諸君、入学おめでとう」
低く、しかしよく通る声。
音の一つ一つに重みがある。
「今日の良き日を、アポロ神はきっと喜んでおられるであろう。この日までに、諸君らはそれぞれ異なる道を歩み、異なる苦難を乗り越えてきた。ある者は貧しき村から、ある者は名門の家から、ある者は己の信仰を頼りにここへ来た。だが、いまこの講堂に立つとき――諸君らは、すべて等しく“学ぶ者”である」
学長は一度、ゆっくりと講堂を見渡した。
その視線が俺の方へも流れてきた気がして、思わず背筋を伸ばす。
「神の教えを学ぶ学び舎にあって、最も大切なのは、“己の意志”である。諸君らの胸には期待もあれば、不安もあろう。だが心配することはない。神は、乗り越えられぬ試練を与えぬ。されど、乗り越えるための努力を怠る者には、試練の意味すら見えぬであろう」
杖を軽く掲げ、老人の声がさらに響く。
「聖人カザレット・ボルトエンジはこう語った。“努力は裏切らぬ。一歩を恐れぬ者のみが、神の祝福を受ける”と。彼は若き日に疫病に倒れ、神に見放されたと思いながらも、決して祈りを止めなかった。その姿を見た者たちは言う――。“彼の祈りは奇跡ではなく、努力そのものが奇跡であった”と」
講堂が静まり返る。
まるで時間が止まったように、全員がその言葉を噛みしめていた。
「諸君らにも、やがてそれぞれの試練が訪れるであろう。だが恐れることなかれ。神は諸君らの歩みを見守っておられる。祈りと努力を忘れぬ者こそ、アポロ神の光に照らされるであろう」
ゆっくりと杖を下ろし、老人は静かに微笑んだ。
「……儂からは以上じゃ」
その瞬間、講堂に拍手が響いた。
誰からともなく、自然と起こった拍手。
形式的な礼ではなく、心からの敬意がそこにあった。
信仰心などない俺にも、言葉が染み入ってくるようだった。これが、この世界の学びなのかもしれない。
知識だけじゃなく、信仰と心を育てる場。
ちょっと眩しい世界だな、と俺は思った。
その後、壇上に壮年の男女が数人ずつ上がっていった。
初等部の担任が三人、中等部と高等部の担任がそれぞれ二人。
それぞれ名前と担当学年を告げて降りていく。
どの教師も神官服を着ているが、顔つきや雰囲気はまるで違う。
厳格そうな者もいれば、柔らかい微笑みを浮かべる者もいた。
初等部一年の担任は、三十歳前後の若い男性だった。
柔らかな茶髪に穏やかな目。
第一印象は「真面目そう」よりも「優しそう」だ。
たぶん新入生の不安を受け止める役割なんだろう。
続いて、教義科と神法科の教師たちが紹介された。
教義科ではアポロ神教の根幹である白典の読み書きや、儀式、礼拝の仕方などを教わるという。
白典の原書は古い言語で書かれており、現代語訳されていない部分も多いらしい。
つまり、原典を読めるようになるだけで、立派な聖職者になれるということだ。
一方、神法科は光魔法や生命魔法の魔法理論や詠唱の正確さ、魔力制御の訓練など、より実践的な内容。
リラが俺の影の中で小声を漏らした。
『ケイスケ、こっちは結構ハードそうだねー。魔力の制御、得意じゃないと大変そー』
『詠唱はともかく、魔力制御か……。確かに苦手かもな』
『だよねー。ケイスケってば魔力は有り余るほどあるけど、その分制御が苦手だもんねー』
『ここでじっくりと学びたいところだな』
『まあ、なんとかなるでしょー』
軽い励ましが返ってくる。
さらに、普通科という言葉が壇上から聞こえて、トルトがぴくりと顔を上げた。
「普通科では、読み書きや計算ができない生徒のための授業を行います」
教師の説明に、トルトの表情が少し緩む。
「トルト、良かったな」
「……あ、ああ。読み書きも、教えてくれるだな」
トルトは大柄な体を少し縮めながら、安堵の息をついた。
彼の出身はカラフィン領の小さな開拓村、テルカ村。
畑を耕す毎日で、文字を学ぶ機会なんてなかった。
識字率の高かったミネラ村でも、きちんとした教育を受けていたのは村長の娘ロビンくらいで、他の子はせいぜい簡単な文字が読めて数字を数える程度。
読み書きができないのは、この世界では珍しいことではない。
けれど、王都の学校ともなれば話は別だ。
識字できないことに引け目を感じる生徒も多いらしい。
だからこうして普通科が設けられているのだろう。
少なくとも、トルトがここで堂々と学べるなら、それでいい。
学校で教えてくれるなんて、当たり前のことじゃないか。
そう思いかけて、ふと苦笑する。
そうだ、この世界では俺の当たり前なんてものが、どこにもないんだ。
式の終盤、再び学長が壇上に立つ。
「では、アポロ神に祈りを捧げよう」
全員が胸に手を当て、静かに頭を垂れた。
光が講堂の天井から降り注ぎ、ステンドグラスを透過して床に色を落とす。
赤、青、金――それが混ざり合い、まるで神の息吹のように揺らめいていた。
この世界に来てから何度も見てきた“光”だけど、
今日はなぜか、少しだけ心がざわついた。
――神って、何なんだろうな。
その問いの答えを、俺は知らない。
けれど、今はただ、目の前のこの世界を見つめよう。
この学び舎で、何を得ることができるのか。
式が終わり、生徒たちがざわめき始める。
さきほど紹介された担任の先生が各学年に声をかけている。
どうやらこれから教室へと移動するようだ。
人の流れに従い、はぐれないようについていく。
俺の歩く隣にはティマ。後ろにはトルト。
騒めきの中足を動かしているとティマが小声で言った。
「……ケイスケ君……頑張ろうね」
俺はうなずき、静かに答えた。
「――ああ、頑張ろうな、ティマ」
光差す講堂を出ると、太陽の光が俺達を照らした。
ティマの微笑みが、光に照らされて輝いた。
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