第二百十五話「寮の部屋からの眺め」
入学手続きが済むと、次は寮の説明だった。
聖ソフ・パンタイレス教理神学校には、学生用の寮がある。男子寮と女子寮はきっちり分けられており、男子寮は神学校の裏手に建っているという。
聞けば、この寮も相当な歴史を持っているらしかった。
遠目に見ただけでも、厚みのある石造りの外壁が長い時の重みを物語っている。
淡い灰色の壁面には、細かな彫刻や装飾が施され、蔦の名残がまだ冬の枝を残して張りついていた。丁寧に手入れされているのは分かるが、どこか古い時代の空気をそのまま閉じ込めているようにも思える。
廊下に差す光の角度ひとつにまで、長い年月が染みついている。
窓越しに覗く影さえも、祈りの気配を帯びていた。
入寮の時期は自由で、今日からでも構わないとのことだった。
入学式の日までに荷物を運び入れればよいという。
俺は少し迷った末に、すぐに入寮することを伝えた。
せっかくなら、早めに環境に慣れておきたい。
「実はね、ケイスケ君。私たちはもともと、寮に向かう途中だったのですよ」
マデレイネ様が、相変わらず柔らかな声で笑う。
「え、そうだったんですか?」
「ええ。ティマの部屋を整えるつもりでしてね。まさか途中でケイスケ君に会うとは思いませんでした」
ティマが控えめに頷く。
その表情には相変わらず緊張が残っているけれど、俺と目が合うと、少しだけ唇の端を上げてくれた。
それから俺たちは神学校を出て、裏手へと続く道を歩いて行った。
途中で分かれ道に差し掛かり、そこから男子寮と女子寮は別方向に伸びている。
「ここから先が男子寮だ。女子寮はあっち。用事があれば入口までは行ってもいいが、絶対に中には入らないように」
そう言ったのは、案内役の中年の男性職員だった。
無駄のない動作、背筋の伸びた姿勢。声も抑揚が少なく、まるで規律そのものが歩いているような人だ。
「心得ました」
「よろしい」
短いやりとりの後、職員は先に立って歩き出した。
足音が石畳を規則的に叩く。
その後ろで、俺はマデレイネ様とティマに頭を下げた。
「いろいろありがとうございました。またあとで」
「いえいえ。これから同じ神の道を学ぶ仲間ですもの。困ったことがあれば、先生方に聞けば親切にしてくださるはずですよ」
「……はい。ありがとうございます」
ティマが小さく手を振る。
俺も小さく返して、男子寮の門をくぐった。
男子寮の中は、外観よりもずっと落ち着いていた。
中に入った瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
外よりも静かで、石壁に反響する靴音だけが響く。
古びた木の床はしっかり磨かれていて、足元から微かな樹脂の香りが漂ってきていた。
玄関脇には広めの靴棚が並び、奥には石造りの食堂があった。
大鍋からは湯気が上がり、ハーブの混ざったスープの匂いが鼻をくすぐる。
昼食の後片づけをしているのだろう、数人の学生が談笑しながら皿を運んでいた。
「ここが共同の食堂だ。朝と夕は全員がここで食事をとる。昼は授業後に学内の食堂を使ってもいいし、購買で買ってもいい」
「はい」
昼飯の時間はきちんとあるのか。
だとしたらさっき昼にすれ違った学生たちは食事をしに出てきたのか。
「トイレと洗面所は各階の南端。ゴミ捨て場は裏口の脇だ。夜間は寮母が見回るから、門限を破るなよ」
淡々とした説明が続く。
この寮は五階建てで、俺の部屋は最上階、五階の十二号室。
最上階には一番年少の生徒たちが住み、下の階にいくほど年長者になるらしい。
部屋替えは一年ごと。希望を出せば同じ部屋に残ることもできるそうだ。
階段を上るたびに、壁に掛けられた古い聖像が目に入る。
蝋燭立ての残り香と、ほこりの混ざった空気。
石造りの壁は分厚く、ところどころにひびがあるが、それがまた年月の深みを与えていた。
……しかし、五階は遠い。
エレベーターなど当然ない。足がじんわりと重くなる。
途中の窓から見える外の景色が、少しずつ高くなっていく。
けれど、その高さが妙に心地よかった。
外の喧騒から離れ、静かで閉じられた空間に落ち着ける。
誰にも邪魔されない、自分だけの空気がある気がした。
最後の踊り場を上がりきると、五階の廊下に柔らかな光が射していた。
古い硝子窓を透かして入る陽射しが、床に細かな模様を描く。
どこか、時がゆっくりと流れているようだった。
でも、これも悪くないかもしれない。
外の喧騒から離れ、静かな場所で落ち着ける。
自分の部屋が高い場所にあるというのは、何となく安心するものだ。
そして、五階の廊下を抜け、ようやく目的の部屋にたどり着く。
「ここだ。十二号室。鍵はこれだ」
それを受け取り、扉を押し開けると、古い木の香りがふわりと広がった。
中は思っていたより広い。
木製の机と椅子が二組、壁際にはベッドが二つ。
衣装棚が二つ並び、白い壁と少し黄ばんだカーテンが柔らかな光を反射していた。
決して新しいとは言えないけれど、どこか人の温もりが残っている。長年、学生たちが暮らしてきた場所――そんな気配がした。
「ちなみに部屋は二人部屋だ。相部屋が基本で、君の相手はまだ来ていない。入学は二週間後だから、それまでには来るだろう」
「わかりました」
「では、ゆっくり休むといい」
職員はそれだけ言い残し、踵を返して去っていった。
扉が閉じると、音が吸い込まれるように静寂が訪れる。
外の風の音と、自分の息づかいだけが部屋を満たしていた。
俺は荷物を置き、鎧の留め具を外した。
「ふう……やっと落ち着いた」
さすがに鎧のままでは目立ちすぎる。
神学校の制服はゆったりしていて、普段着の上からでも着られるようにできている。
だがこの厚手の生地、夏場は確実に暑いだろうな……。
季節ごとに衣替えとか、あるのだろうか?
制服の上着をハンガーにかけながら、ふとベッドに腰を下ろした。
スプリングはないけど、柔らかい藁の感触が心地いい。
この世界に来てから、いろんな寝床を経験したけれど、こういう普通のベッドが一番落ち着く。
窓の方に目をやると、ベージュのカーテンが風に揺れていた。
ガラスがはめ込まれた窓を開けると、ひやりとした風が頬をなでる。
そこから見える景色に、思わず息をのんだ。
眼下に広がるのは王都プロブディン。
無数の屋根の間を、陽の光が白く反射している。
遠くに見える王城の尖塔が、青い空に向かって突き出していた。
「……いい部屋だな」
『景色がいいねー』
影の中から、リラの声が弾んだ。
『いい風が吹いておりますわ』
アイレが柔らかく囁く。
『この部屋、燃えやすそうだなー』
カエリが物騒なことを言い出す。
『水っけはあまりないですー』
シュネの声はいつも通りのんびり。
『ん。土も、遠い』
ポッコがぼそりと呟く。
……やかましい。
「まあまあ、お前らも気に入ったってことでいいか」
自然と笑みがこぼれる。
今はこうして自由に会話できるけれど、同室の相手が来たら、こうはいかないだろうな。
いきなり「部屋で喋る声がする」とか言われたら面倒だ。
『でもさ、ケイスケ。これ、結構いい始まりだよー? 神学校に入学、寮生活スタート!ってやつー?』
『そうですね、学生の香りがいたしますわ』
『火の扱い、禁止されてなきゃいいけどなー』
『たぶん禁止ですー』
『土、ここに少し敷いてもいい?』
「だーめだ。床に土を出すなよ」
まったく、自由すぎる精霊たちだ。
でも、こうして賑やかに感じられるのは悪くない。
少なくとも、孤独を感じる暇はなさそうだ。
ベッドに横になり、少しだけ目を瞑る。
教会の鐘が、かすかに鳴った。
穏やかで、どこか懐かしい音。
俺はその音を聞きながら、ぼんやりと呟いた。
「どんな人が来るかな……」
カーテンがふわりと揺れて、外の風が部屋の中に入り込む。
その風が俺の言葉をさらって、どこか遠くへ運んでいった。
新しい生活の匂いが、確かにそこにあった。
それは期待と少しの不安が混ざった、春の匂いだった。
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