第二百十三話「侯爵令嬢と神学校の掟」
「あら? 貴方は?」
その声音は、まるで春の日差しのように柔らかく、聴く者の心を包み込む。だが、その奥に――不思議な威圧感が潜んでいた。
柔らかさの中に、決して逆らえない聖職者の圧。
俺は無意識に息を呑んでいた。空気が張りつめ、門前のざわめきが一瞬で静まる。
金髪ロールの少女は、その圧に気づいていないのか、あるいは気づいても引かないのか。
一歩前に出て、顎を上げ、胸を張った。
「私はソフィーリア・キュステンテル。キュステンテル侯爵家の令嬢ですのよ。ですから早くその物騒な人を立ち去らせて欲しいのですよ」
……マジか。
今、こいつ本当に「侯爵家の令嬢」って言ったか? 冗談かと思ったが、口ぶりも仕草も、嫌に堂に入っている。
確かに、見た目からして箱入りお嬢様っぽいとは思っていた。だが本物の貴族令嬢だったとは……。
マデレイネ様は頬に手を添え、少し困ったような仕草を見せた。
「あらあらあら。ここは聖ソフ・パンタイレス教理神学校ですよね? それで貴方は、ここの学生……ということでいいのかしら?」
「その通りです。見ればわかるのですよ」
ソフィーリアと名乗った少女は、唇をきゅっと引き結び、完璧な姿勢のまま言い切った。
背中は弓のように反り返り、金のカールが陽光を反射してきらめく。
その顔に宿る自信は、周囲の視線すら意識していない。
――だけど、マデレイネ様は微笑みを崩さなかった。
むしろ、その笑みの奥で空気が一段と静まった気がした。
「あらあら、そうなのですね? でしたら――」
彼女の言葉は、ゆるやかに、けれど鋭く相手の核心を突く。
「この神学校に籍を置いた時点で、身分の差は意味を持たないのですよ。例え王族であっても、この場に立つ以上は、神の名の下に平等です」
その瞬間、ソフィアの顔が固まった。目を瞬かせ、何か言いかけて、喉の奥で言葉を失う。
門の周囲で様子を伺っていた生徒たちのざわめきが、わずかに広がる。
俺は思わず心の中で感嘆の声を上げた。
おお……今の言葉、説得力エグいな……。
まるで空気ごと支配しているような圧倒的な言葉の力。
さすがは司教。俺が何を言うより百倍効果的だ。
マデレイネ様は、さらに淡々と、しかし一切の隙を与えぬまま続けた。
「それに、貴方はこの方を『物騒』とおっしゃいましたが、それは誤りです。剣を持つ人々がいるからこそ、我々は魔物や魔獣から守られているのです。兵士であれ、冒険者であれ、皆が等しく人々を守る存在。神の教えの中で、剣が穢れだと断じられたことは一度もありません」
その言葉は、教えを説くというより真理そのもののようだった。
マデレイネ様の周囲の空気が、淡い光に包まれたように感じる。
聖職者としての威厳と慈愛、そのどちらもが滲み出ていた。
ソフィーリアは、何も返せなかった。
唇をかすかに震わせ、ただマデレイネ様を見つめている。
まるで、世界の常識を否定された子供のように。
「そして――」
マデレイネ様は、ゆっくりと俺の肩に手を置いた。
その仕草は穏やかで、どこか母のような温かさがあった。
「この子は神学校に入学するために、ここに来ているのですよ。何も怪しいことはありません」
言葉とともに、彼女の指先から淡い光が広がるような錯覚があった。
光の加護にも似た安心感が、俺の胸の奥まで届いていた。
ソフィーリアはようやく息を吐き、小さく呟いた。
「……わかりましたのです」
しかし、その声色には、明確な悔しさが混じっていた。
その小さなプライドの棘が、周囲の空気を微かに震わせる。
彼女はマデレイネ様にだけ形式的な礼をして、俺には一瞥すらよこさなかった。
そのまま、くるりと踵を返す。背筋は一分の隙もなく伸びていて、歩き去る姿には「絶対に負けない」という気迫すら漂っていた。
『あれ、絶対に納得してないよねー』
影の中から、リラのくぐもった声が響く。
『……だな』
俺もため息をつきながら、去っていく背中を目で追った。
その金色の巻き髪が風に揺れ、朝日を反射してきらりと光る。
――間違いなく、あれはまた絡んでくる。
そんな予感が、背中の奥で重たく沈んでいくのを感じながら、俺はそっと頭を掻いた。
「それで、ケイスケ君は、これから手続きを?」
マデレイネ様が、まるで世間話でもするかのようにおっとりと尋ねてくる。
彼女の声は不思議だ。耳に入るたび、柔らかな波が胸の奥を撫でていくようで、どこか心を落ち着かせる響きを持っている。
「あ、はい。その通りです」
俺は慌てて背筋を正して答えた。彼女の前だと、どうにも言葉の端々まで丁寧にしなければという気分になる。
「折角だから、私もついていきましょう! ねえ、ティマ?」
「え!? ……は、はいっ」
突然の申し出に、ティマがびくりと肩を揺らす。
小動物のような反応だ。けれど、すぐに小さく頷くと、頬がほんのりと赤くなった。驚きと戸惑いが入り混じった表情――だがその奥に、ほんの少しの嬉しさが見える。
「え? いやいや、そんな……別にそこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ?」
一応、遠慮のつもりで口を開く。俺だって、いい年した男だ。入学手続きぐらい一人でできる。
だが、マデレイネ様はふわりと首を傾げた。
その仕草一つで、周囲の空気がわずかに明るくなる気がする。
「あらあら? 本当に? 入学手続きをする事務室の場所はわかりますか? それに私たちと一緒のほうが、さっきのように絡まれることもないですよ?」
「う……」
反論の言葉が出ない。確かに、事務室の場所なんて知らない。
なんとなく人に聞けばいいだろうと軽く考えていたが――あの金髪ロールの令嬢、ソフィーリアの顔を思い出した瞬間、楽観的な考えが霧散した。
もしああいうタイプが他にもいたら、面倒なことになりかねない。
「……えーと、じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「ええ、勿論ですよ!」
マデレイネ様は、春の陽だまりのように微笑んだ。
その笑顔には拒否という選択肢が存在しない。断ったら、その場の空気が崩れてしまうほどの、穏やかで、それでいて圧倒的な優しさだった。
――となれば、こちらも何かでお礼をしたい。
流石に世話になりっぱなしでは男として気が引ける。
……昼食くらいは奢ろう。
俺は心の中でそう決意する。
王都では一日三食が基本らしい。朝と晩はしっかり、昼は軽食。ここに来る途中にも、修道服姿の人々や学生たちが入っていく食堂をいくつか見た。
冒険者風の人間も混ざっていたから、俺が一緒に行っても浮かないだろう。……たぶん。
そんなことを考えているうちに、俺たちは神学校の廊下を歩いていた。
外から見たときにも感じたが、この建物は荘厳だ。
重厚な木造の梁が何本も天井を支え、廊下の床板には無数の靴跡が刻まれ、長い年月の艶を帯びている。
壁沿いには古びた棚が並び、深い彫刻が施されていた。葡萄の蔓、羽根を広げた天使、光輪を持つ聖人――どれも緻密で、ただの装飾ではなく祈りの痕跡そのものだ。
歩くたび、床がきしむ。その音すら、どこか神聖な調べに思える。
時折、壁に掛けられた絵画が目に入る。
光を背にした聖女が幼子を抱く絵、祈る修道士の背に差す一筋の金光、竜と戦う英雄の姿……どれも、見つめているだけで心を洗われるような静けさがある。
すれ違う者たちは皆、穏やかな顔をしていた。
白や淡い青、灰色の長衣をまとい、手には羊皮紙や古びた聖典を抱えている。彼らはすれ違うたびに小さく会釈を交わし、静かな声で挨拶を交わしていった。
その中に混じる俺の格好は――鎧に剣。
完全に浮いていた。
ソフィーリアが「物騒」と言ったのも、今思えば無理もない。
ここには、戦場の空気など一片もない。あるのは祈りと学問の香りだけだ。
それでも、マデレイネ様もティマも、俺の姿を特に気にしていない様子だった。
彼女たちの歩みは優雅で、誰もが自然と道を開ける。まるで、この神学校の空気そのものが彼女たちを歓迎しているようだった。
途中、学生らしき若者たちが談笑しながら廊下を横切っていく。
純白の制服に身を包み、手には分厚い神学書。彼らは俺の剣にちらりと視線を向けたが、何も言わず、穏やかに通り過ぎていった。
――そういう小さな視線が、逆に胸に刺さる。
『ねえ、ケイスケ。顔に「浮いてる」って書いてあるよー?』
影の中からリラの声がくすくすと響いた。
『……まあ、実際そうだからな』
心の中で返す。苦笑いが漏れた。
だが、すぐに表情を引き締める。
ここは、俺が新たに踏み出す場所だ。
マデレイネ様が振り返り、にこりと笑った。
「大丈夫ですか? 少し緊張していらみたいですけれど」
「……ええ、まあ。少しだけ」
「ふふ。誰だって最初はそうですよ。――でもね、ケイスケ君」
彼女は柔らかく目を細めた。
「神は、学ぶ者をいつだって歓迎します。たとえその手に剣を握っていたとしても、貴方の中に光があり、学びたいという思いがあるのなら、それだけで十分なのですよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
マデレイネ様の言葉には、嘘がない。彼女が本気でそう信じているのが、伝わってきた。
俺は小さく息を吸い、頷く。
「……はい。ありがとうございます」
廊下の先、古い扉の向こうに、入学手続きの事務室があるという。
その扉を前に、俺は改めて気を引き締めた。
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